その2の記事を書きはじめたのはよかったのですが、例によって長くなり、数日間アップできなかったので、いったん切りました。以下、前回の続きになります。
盧山寺を後にし、府立医大病院前バス停から市バスに乗って出町柳駅まで行き、糺の森を南から北まで歩いて到着。特別公開で拝観した本殿は式年遷宮が終わったばかりで、たいへんきれいになっていました。正遷宮は21年に一度、よって今までの特別公開で見てきたのは古色を帯びた社殿だったので、見慣れぬ色鮮やかさに、かなり違和感をおぼえましたが。
拙い解説2回分のあいだお色直しをした本殿を味わい、その後西隣の三井神社の前を通り、久しぶりに孝明天皇の賀茂社行幸の絵巻をひととおり眺めて、天皇の御輿に騎馬で供奉する家茂の姿を確認。初めてこの絵巻を見たときは感動で打ち震えました。残念ながら『武蔵野の露と消ゆとも』を書いたあとでしたが。書く前にこの絵巻を見ていたら、行幸に随従した諸大名の順番など、こと細かく書いたと思います。
続いて現れる三井神社西の大炊殿は、斎院御所にあった建物の一つで、神饌を司るところ――神様のための食事など、神に供える供物を調えていた場所です。伊勢斎宮や賀茂斎院に関しても散々調べましたから、初めて見たときは、こちらも感動しました。
大炊殿を見たあとは、今回当社を訪れた主目的である神服殿へ。この社殿は本来夏冬の神服を仕立てる場所でしたが、のちに勅使を迎えたり、有事の際の天皇の御座所となり、和宮の兄である孝明天皇も行幸の折や御所火災の際の避難先とし、滞在したとのことです。そんなエピソードも知っていたら書いたのですが……残念。つくづくフィールドワークは大切だと思いました。やはり歴史の現場は違います。現場からしかわからないことがあります。長い年月の中で失われてしまったのなら確認しようがないので仕方がありませんが、残っているのなら自分の足で訪れて実際に自分の目で確かめることは必須です。そうすることで見えてくることが必ずあります。
神服殿。変な撮り方ですが、こういう写真を撮っておいて、遣戸と格子の位置関係や几帳の使い方などを参考にします。
賀茂建角身命は、『ホツマツタヱ』では「タケツミ」、あるいは「タケスミ」と呼ばれ、「タケツミヒコ」とか「カモタケズミ」とも呼ばれています。「ヒコ」は男子の意味、「カモ」は“カモの(=カモにいる)”という意味なので、名前ではありません。「タケツミ」と「タケスミ」も、オオヤマツミ=オオヤマヅミ=オオヤマズミ=オオヤマスミの変化と同じで、音を文字化したときに生じた転化なので、同一と考えて問題ありません。
で、このタケツミは『ホツマ』によれば「カアヒノカミ」――つまり「河合の神」なので、現在下鴨神社の第一摂社となっている鴨河合坐小社宅神社――いわば河合神社こそがタケツミを祀った本来の神社ということになります。河合神社の現祭神は玉依姫命とされていますが、彼女は本社の西本殿の祭神ですから。
では、本社のもう一方の祭神――東本殿の本来の祭神は誰なのかというと、これは間違いなく、『ホツマ』にアマテル=天照から「ミヲヤアマキミ」の名を賜られたと書かれているウガヤフキアワセズ=鵜葺草葺不合でしょう。「ミヲヤアマキミ」を漢字で表せば「“御祖”天君」で、彼こそが西本殿の祭神・玉依媛命ことタマヨリの夫ですから。ウガヤフキアワセズとタマヨリのあいだに生まれた子が、カンヤマトイハワレヒコ=神日本磐余彦――すなわち神武天皇です。ということは、下鴨神社に本来祀られていたのは親子神ではなく夫婦神で、初代天皇の両親ということになります。だからこそ天皇家は皇女を斎宮として奉仕させるほど当社を尊崇してきたのでしょう。天皇家が皇女を奉仕させたのは、賀茂社の他には伊勢の神宮があるだけです。神宮に祀られているのは八代天君であるアマテル、上賀茂神社に祀られているのは十代天君であるニニキネ、そして下鴨神社に祀られているのは十二代天君であるウガヤフキアワセズ――いずれも天皇家直系の祖先だからこそ、その子孫である天皇の娘が先祖を斎奉ってきたのです。
三井神社中社に日吉社が合祀されていることを伝える立札。こういうものを見つけると、ここまで来た甲斐があったと嬉しくなります。
三井の名を持つ神社は下鴨神社に二つあり、西本殿の西隣の他、河合神社の向かい側にもあります。現在の祭神はいずれも伊賀古夜日売命、賀茂建角身命、玉依媛命の三柱ですが、玉依媛命は本社西本殿の祭神、賀茂建角身命は河合神社の祭神なので、三井神こと三井神社の本来の祭神は伊賀古夜日売命ということになります。彼女は賀茂建角身命の妻で玉依媛命の母、『ホツマ』では「イソヨリ」という名で登場します。
鴨社の御粥。ウンチク付き。
下鴨神社の御手洗社といえば、みたらし団子発祥の地として有名ですが、その近くにあるみたらし授与所で、リラックマが串に五つの団子が刺さった元祖みたらし団子と戯れているデザインの、下鴨神社限定のリラックマグッズを売っていたので、巾着を買ってきました。いつものことながら限定に弱いです。
御手洗川と神橋。ここだけきれいに紅葉していました。
みたらし授与所前にいるリラックマたち。……。
お粥で腹ごしらえ後、河合神社に参拝。当社の現祭神は玉依姫命ですが、本殿西隣に高龗神を祀る摂社の貴船社があることから、元々の祭神はタケツミで間違いないでしょう。『ホツマ』で「キフネノカミ」といえば、タケツミの姉で、ウガヤフキアワセズの母であるトヨタマ=豊玉のことなので。
トヨタマは、ワケイカツチノカミ=別雷神ことニニキネの息子であるヒコホオデミの后になりましたが、故あってミツハメノヤシロ=罔象女の社に籠っていました。現在の貴船神社です。そこでニニキネが「姉を養うように」と言ってタケツミに与えたのが糺の森の地で、森の南で賀茂川と高野川が出合い鴨川となることから、“河が合う国”ということで「河合の国」と呼ばれました。それゆえタケツミは河合神なのです。
タケツミの娘であるタマヨリは、当初ウガヤフキアワセズと産褥で亡くなった最初の妃のあいだに生まれた皇子(イツセ=五瀬)を育てる乳母として宮中に召し出されましたが、しばらくしてウガヤフキアワセズの皇子(イナイイ=稲飯)を生んで后となりました。そののち神日本磐余彦を生み、正妻である后の腹から生まれた子なので、彼が3人の兄を差し置いて父の跡を継ぎました。3人と言いましたが、タマヨリにはもう一人、宮中に上がる前に生んだ子(ミケイリ=御食入)がいました。当然です。子供を生んでいなければ母乳が出ず、乳母にはなれませんから。その子の父親が、おそらく『ホツマ』でいうところのワカヤマクイ=若山咋であり、現在はヤマクイ=山咋と同一化されて、「大山咋神」の祭神名で日吉大社と松尾大社に祀られています。下鴨神社では西本殿の西隣にある摂社の三井神社の中社に合祀されています。なんともおもしろいですね。
三井神社中社に日吉社が合祀されていることを伝える立札。こういうものを見つけると、ここまで来た甲斐があったと嬉しくなります。
三井の名を持つ神社は下鴨神社に二つあり、西本殿の西隣の他、河合神社の向かい側にもあります。現在の祭神はいずれも伊賀古夜日売命、賀茂建角身命、玉依媛命の三柱ですが、玉依媛命は本社西本殿の祭神、賀茂建角身命は河合神社の祭神なので、三井神こと三井神社の本来の祭神は伊賀古夜日売命ということになります。彼女は賀茂建角身命の妻で玉依媛命の母、『ホツマ』では「イソヨリ」という名で登場します。
そして、三井神社の末社である小杜社の祭神、水分神がイソヨリの父親になります。『ホツマ』によれば、彼の名は「ミホヒコ」。国譲りによって武御雷(鹿島神宮祭神)に出雲を追われて岩木山の神となった顕国魂こと大己貴(岩木山神社祭神)の孫――すなわち大己貴の息子で、一般的には事代主として知られる、大和の三輪山に洞穴を掘って神上がった大国主(大神神社祭神)の子です。ミホヒコは36人の子に恵まれたことから「コモリカミ」の神名を賜りました。子守=コモリ=小杜なので、彼を祀る神社は子守神社や小杜神社という社名が多くあります。また、「子守」の丁寧語である「御子守」がミコモリ=ミクマリ=水分と変化したので、子守神のほか水分神とも呼ばれるようになりました。よって、吉野水分神社の祭神もミホヒコということになります。
見るべきものは見たので、次に移動する前に、茶屋に入って一服。2時近かったので遅めの昼食を摂ることにし、鴨社の御粥というものを食べました――それしか御飯もののメニューがなかったので。正月の御粥神事にならった小豆粥で、献上米を使い、末社の御手洗社の湧き水を用いて作っているとのこと。香の物などの薬味で食べるシンプルなお粥でしたが、美味しかったです。
鴨社の御粥。ウンチク付き。
下鴨神社の御手洗社といえば、みたらし団子発祥の地として有名ですが、その近くにあるみたらし授与所で、リラックマが串に五つの団子が刺さった元祖みたらし団子と戯れているデザインの、下鴨神社限定のリラックマグッズを売っていたので、巾着を買ってきました。いつものことながら限定に弱いです。
御手洗川と神橋。ここだけきれいに紅葉していました。
みたらし授与所前にいるリラックマたち。……。
お粥で腹ごしらえ後、河合神社に参拝。当社の現祭神は玉依姫命ですが、本殿西隣に高龗神を祀る摂社の貴船社があることから、元々の祭神はタケツミで間違いないでしょう。『ホツマ』で「キフネノカミ」といえば、タケツミの姉で、ウガヤフキアワセズの母であるトヨタマ=豊玉のことなので。
トヨタマは、ワケイカツチノカミ=別雷神ことニニキネの息子であるヒコホオデミの后になりましたが、故あってミツハメノヤシロ=罔象女の社に籠っていました。現在の貴船神社です。そこでニニキネが「姉を養うように」と言ってタケツミに与えたのが糺の森の地で、森の南で賀茂川と高野川が出合い鴨川となることから、“河が合う国”ということで「河合の国」と呼ばれました。それゆえタケツミは河合神なのです。
ということで、河合神社では、河合神ことタケツミの隣に彼の姉である貴船神ことトヨタマが祀られていて、向かい側に彼の妻である三井神ことイソヨリが祀られているのです。そして、本社の賀茂御祖神社では、タマヨリの東隣に御祖神ことウガヤフキアワセズ、西隣に現在は三井神社中社の名を借りて日吉神ことヤマクイという新旧の二人の夫が祀られているのです。実に納得のいく構図というか人間関係の縮図ではありませんか。上記のような説が公式に認められることはないと思いますが、『ホツマ』の記述を基にしたこちらのほうがしっくりくるのは、真実に近いからだと思います。
河合神社で現祭神である玉依姫命にあやかったカリン美人水を飲んだあと、新葵橋バス停から市バスに乗って、河原町丸太町バス停で乗り換え、岡崎道バス停で下車。京都非公開文化財特別公開とは異なりますが、大政奉還150年記念の特別公開をやっている黒谷へと向かいました。
特別公開の山門に上がって京都市中を見渡したあと、御影堂を拝観。運慶作と伝わる文殊菩薩像や吉備真備ゆかりの千手観音像、伊藤若冲の群鶏図屏風等々――全部間近で見ることができ、ため息が出ました。加えて今回は、幕末関連の資料も公開され、京都守護職松平容保や新島八重の和歌の掛軸をはじめとする会津藩ゆかりの品々の他、金戒光明寺宛ての家茂の朱印状などもあり、内心小躍り。容保の歌は白虎隊隊士の親心を思いやったもので、確かに隊士の親たちも辛かったと思いますが、この歌を詠まずにいられなかった容保の心中を思うと切なくなりましたね。
その他、絵の黒本尊像が公開されていて、ビックリしました。明智光秀の念持仏に続く「何故こんなところに、こんなものが……」という驚きです。というのも、黒本尊は徳川家康の念持仏で、徳川将軍家の菩提寺である増上寺に祀られている御本尊なので。和宮が上洛する家茂の無事を祈願したと伝わる仏像でもあるので、もちろん何年も前に参拝させていただいています。
黒本尊は恵心僧都源信の作と伝わる阿弥陀如来像で、長いあいだ香煙にさらされてきて黒ずんでいることから、そう呼ばれました。元々は源満仲の念持仏でしたが、霊験あらたかなことから、安置されていた三河の寺から家康が岡崎城に移して自分の念持仏とし、彼が武田の刺客に殺されそうになったときに夢で知らせたとか、大坂夏の陣の時に法師武者となって奮闘したとかいう言い伝えがあるそうです。
金戒光明寺の黒本尊像は、この徳川家の秘仏である黒本尊を、当寺の第五十六世定圓上人が会津家祈願のために法橋に描かせた御真影とのこと。大政奉還150年記念で特別仕様の御朱印をいただけたので、頂戴してきました。
ちなみに、黒本尊の作者と伝わる恵心僧都源信は廬山寺開基の元三大師良源の弟子であり、『源氏物語』で入水しようとした浮舟を助けた横川僧都のモデルといわれる人物、そして、その制作依頼者と伝わる源満仲は北野天満宮が所蔵する鬼切丸の所有者である源頼光の父です。鬼切丸は坂上田村麻呂が伊勢神宮に奉納し、頼光が夢の中で天照大御神から授かり、以後源家相伝の刀となったそうです。おもしろいようにすべてが繋がっています。
紫雲の庭や阿弥陀堂、熊谷直実が出家する時に鎧を掛けたと伝わる松、アフロ仏こと五劫思惟阿弥陀仏を見たら、ちょうど日も暮れましたが、せっかくなのでこの日もライトアップを見に行くことに。湯葉まんじゅうで腹ごなしをして黒谷を後にし、岡崎神社前バス停から市バスに乗車、再び出町柳駅に行き、貴船へと向かいました。
叡山電車に乗ったら運よく展望車両で(そのせいかメチャ混みではありましたが)、途中に「もみじのトンネル」というスポットがあり、車内の電灯が消えて、ライトアップされた紅葉を見る時間帯がありました。
貴船神社も重要な神社なのでもちろん訪れたことはあるのですが、もう何年も前なので、久しぶりに行ってきました。前述したとおり、祭神は高おかみ神。『ホツマ』に「ミツハメノヤシロ」とあるのが当社で、「ミツハメノヤシロ」を漢字で表せば「罔象女の社」なので、高おかみ神の正体は罔象女ということになります。奥宮の祭神も本宮と同じく高おかみ神となっていますが、社務所でいただいた略記によると、こちらは暗おかみ神とも伝わり、船玉神として信仰されたようです。『ホツマ』でムツフナタマ=六船玉と呼ばれる6人の船玉神は、シマツヒコ、オキツヒコ、シガ、カナサキ、ハデツミ、そしてトヨタマ。よって、祭神名が何であれ、奥宮の神の正体はトヨタマということになります。
トヨタマは住吉神の孫であるハデツミ(鹿児島神宮祭神)の娘で、山幸彦ことホオデミが兄の釣り針を探しに九州に来たときに彼と出会って結婚しました。しばらくして、ホオデミが父ニニキネの跡を継ぐことになって近江に帰ることになり、そのときトヨタマは妊娠していたので、後から行くことになりましたが、途中で舟が遭難し、命からがら辿り着いた遠敷の浜で出産することになりました。そこで生まれたのがウガヤフキアワセズです。長くて妙ちくりんな名は母トヨタマが付けたのですが、“産屋の茅葺きが間に合わず生まれた子”という意味で、この産屋の跡が若狭姫神社です。
貴船口駅に到着し、電車を降りたら、雨が降っていました。ビニール傘を買うのが嫌でほとんど毎日持ち歩いているので傘はありましたが、参道を歩きながらライトアップされた紅葉を楽しめるような状況ではなかったので、本殿前の列には並ばず後方からさっさとお参りし、以前いただいた御朱印は紙だったので朱印帳にいただき、今回は奥宮もパスして早々に引き上げました。