羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

京都・滋賀寺社遠征 その3~比叡山、西教寺

 三日目は、ホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらい、浜大津駅から京阪電車に乗って坂本駅で下車、駅から坂本ケーブルの乗り場まで歩き、ケーブルカーで比叡山に登りました。


 麓の坂本駅の案内板では、山の上の気温は4度ほど低く、9度の表示。それを見て覚悟はしましたが、比叡山駅に着いたとたん空気が違い、たいそうしばれました。というのも、この旅の一日目の最高気温が20度ぐらいだったため、その日着ていたのがコットンのコートだったので。なのに、東塔のバス停まで歩いて時刻表を見たら、次のバスは20分後。しかも来たバスは満員で、椅子にも座らず並んで一番前にいたので乗れましたが、あとは横から入られても誰も文句が言えない年配のご婦人が乗れただけでした。

 西塔のバス停で降りて、33年ぶりの御開帳と初の内陣公開中の釈迦堂へ。次回が同じく33年後なら絶対に見られないから行ったのですが、相応和尚1100年御遠忌記念ということも今回足を運んだ大きな理由です。

イメージ 1

 相応和尚は一般的には馴染みがないと思いますが、『群書類従』所収の相応和尚伝』を時平関連資料としてデスクの傍らに置いていた私には無視できない人物であります。遠忌に特別公開が企画されるほど凄い人だとは思っていませんでしたが……。慈覚大師円仁の弟子で、藤原摂関家との関係も深く、法名である相応の「相」は西三条右大臣こと藤原良相からもらっています。良相は、時平の祖父、藤原長良の弟。良相にとって甥の息子にあたる時平も相応和尚とは懇意にしていて、相応和尚伝によれば、妹の穏子(醍醐天皇女御、朱雀・村上天皇母)が物の怪に悩まされた時に悪霊の調伏を頼んでいます。

 余談ですが、その記事中の時平の呼称が「堀河左大臣」となっていて、時平は死後「本院左大臣」と号されますが、相応和尚伝』が書かれた時代には「堀河左大臣」と呼ばれていたことがわかり、つまり父基経が建てた堀河邸を受け継いで、そこを主邸としていたらしいことがうかがわれるのです。このような情報の存在が、私が漢文の原典を重要視する理由です。

 釈迦堂に、天台宗典編纂所監修の『回峰行の祖 相応さん』という本が売っていたので買って読んだら、千日回峰行は相応和尚が創始したとのこと。それを知って、よりいっそう身近に感じました。というのも、松久宗琳師原型のブロンズ像と同様に、昔、酒井雄哉大阿闍梨の真筆掛軸頒布のカタログのコピーなども書いていて、その際に千日回峰行についてもずいぶん調べたので。酒井大阿闍梨は、千日回峰行を2回満行した名僧で、4年前の2013年に87歳で亡くなられました。千日回峰行はもっとも苛酷と言われる荒行で、2回満行を達成したのは比叡山一千年の歴史の中でも酒井阿闍梨を含めて3人しかいません。

 また、その本によると、師である円仁と宗祖である最澄諡号の下賜を天皇に奏請したのも相応和尚だそうで、すなわち彼が頼んだから「伝教大師」や「慈覚大師」といった大師号が彼らに与えられたのです。私は相応和尚のことを知っているほうだと思っていましたが、自分が知るよりも大層な人物であることを改めて知り、驚きました。

 釈迦堂は、はっきり言って御本尊の印象は薄かったのですが、初公開された内陣がとにかく素晴らしかったです。特に、御本尊の向かって左側の一番端に、私の好きな深沙大将がいまして、高野山霊宝館にある重要文化財の像が好きで深沙大将が好きなのですが、内陣に安置された状態――本来あるべき状態でお目にかかるのは初めてだったので、感動しました。赤い体躯の深沙大将像で、その反対側――御本尊の向かって右側の一番端には三蔵法師がいたので、なるほどと納得。立体曼荼羅的な考え方ですね。

イメージ 2
 
 御朱印を頂戴して釈迦堂を後にし、西塔バス停から再びシャトルバスに乗って、長年心に掛かっていた念願の横川へ。源氏物語スキーなので、その時代の比叡山といえば横川だとずっと思っていたのですが、奥比叡なので、京都から行くと何しろ遠く、今まで行けずにいました。しかし元三大師ゆかりの寺巡りを始めた今、比叡山まで来て横川に行かないのはないと思い、満を持して足を運びました。

 横川のバス停でシャトルバスを降りたら、もみじ祭りで屋台が出ていて、無料で福引をしていたのでチャレンジしましたが、例によってスカ。時間を見るとお昼を回っていたので、あとでまともなものを食べるつもりで、とりあえず屋台で売っていた赤飯まんじゅうで軽く腹ごなしをして、横川中堂へと向かいました。

 慈覚大師の作と伝わる聖観音菩薩にお参りをして御朱印をいただき、次は恵心院へ。ここは『源氏物語』に登場する「横川のなにがしの僧都」のモデルである恵心僧都源信の旧跡で、元々は藤原道長の父である兼家が元三大師のために建立した寺だそうです。残念ながら非公開で、お堂の中には入れませんでしたが。

イメージ 3

 続いて、元三大師の住居跡で、四季講堂と呼ばれる元三大師堂へ。角大師の印が押された御朱印をいただき、さらに角大師の姿を見比べようと思い、魔除けの御札と御守りを購入。

イメージ 4

 その後、元三大師の御廟にお参り。慈恵大師良源サンを追っかけ始めて幾年、ついにここまで来たと思い、感慨深いものがありました。

イメージ 5
御廟までの道。他に誰も歩いていませんでした。

イメージ 6
元三大師御廟前のお堂

 横川からケーブル比叡山駅に戻る途中、時間があったので、比叡山バスセンターでシャトルバスを降りて、修復中の根本中堂に寄って参拝。バスと同じく、お店もどこもかしこも大混雑だったので、坂本でひと息入れることにし、ケーブルカーで下山。

イメージ 7
ケーブル比叡山駅より琵琶湖。沖島が見えます。

 おなじみの芙蓉園で何か軽く食べようと思いましたが、お店に行ったら、玄関に予約客で満席の張り紙があったので断念。お昼の営業時間を確認するために行く前に見たホームページにもそんなことが書いてあったのですが、もう3時ぐらいだったので、入れるかと思ったのですけどね。

 仕方がないのであきらめて、時間があったら行こうと思っていた西教寺へと向かいました。芙蓉園から歩くこと約20分で到着。

 西教寺天台真盛宗の総本山で、聖徳太子が創建、その後荒廃していたのを元三大師が復興したという、元三大師ゆかりのお寺です。

イメージ 8

 そしてここには、明智光秀と、その妻・煕子をはじめとする明智一族のお墓と供養塔もありました。御朱印をいただくために社務所へ行ったときに説明してくれた僧職の話を聞いて思い出したのですが、そういえば光秀は坂本城主ですから。

 それと、「あ~、今回はここでしたか」という感じで松尾芭蕉の句碑を見つけたのですが、これまた僧職の話によると、芭蕉の句で女性のことを詠んだものは三つしかなく、その内の一つが歌碑にあった「月さびよ 明智が妻の咄せむ」という句で、煕子のことを詠んだ句だそうです。

イメージ 9
西教寺唐門より琵琶湖

 1時間に1本のバスの時間になったので、慌てて門前のバス停へ。本堂の奥に資料館もあり、僧職からおもしろい話も聞けたので、ゆうに1時間ぐらいは滞在していました。

 バスで坂本駅まで行き、京阪電車に乗って浜大津駅で下車。ホテルに寄って荷物を引き取り、再び京阪電車に乗って膳所駅でJR線に乗り換え、京都駅へ。

 帰りは新幹線なので、京都駅構内にある551蓬莱で豚まんを買おうとしたら、ものすごい行列だったので、さっさと断念し、タカラ缶チューハイと京風出し巻き卵を買って乗車。9時前に無事帰京しました。

 以下、今回の寺社遠征の関係性。


藤原時平相応和尚→比叡山→元三大師良源→西教寺明智光秀廬山寺→紫式部源氏物語→横川僧都→恵心僧都源信黒本尊→金戒光明寺京都守護職松平容保会津藩新島八重