月初めに仕事で鹿児島、柳川、博多に行ってきました。で、10年以上仕事でお世話になっている宗像出身、博多在住のK氏が先月東京に来たときに日本橋で一緒に食事をしていたら、宗像大社の元宮司の友人がいるとのことで神社の話で盛り上がり、博多に来るなら車を出して宗像周辺の神社を回ってくれるというので、仕事を終えた翌日に車で連れて行ってもらい、念願の織幡神社へと行ってきました。
織幡神社は現在は宗像大社の境外摂社の一つになっていますが、『延喜式』に記載されている式内社で、名神大社でもあります。筑前国宗像郡の式内社は織幡神社と宗像神社(現・宗像大社)の二社で、筑前国の名神大社はこの二社に加えて、八幡大菩薩筥崎宮(現・筥崎宮)、住吉神社、志加海神社(現・志賀海神社)、筑紫神社、竃門神社、美奈宜神社の計八社。つまり、今は摂社ですが、以前は宗像大社や筥崎宮、筑前一宮の住吉神社と並ぶ重要な神社だったことがわかります。
よって、この八社は外せないということで、ほとんど行っているのですが、美奈宜神社と織幡神社だけは未訪問でした。美奈宜神社は論社がいくつかあり、どこが本社なのか絞り切れていないので行っていないのですが、織幡神社はアクセスが悪くて行けていませんでした。ペーパードライバーなので。宗像大社の辺津宮と、大島にある中津宮には、世界遺産になる前に行ったのですが。
ということで、今回念願叶っての訪問だったわけですが、感動しました。大満足でした。フィールドワークの醍醐味を感じました。
まずロケーションが凄い。鐘崎という海に突き出た岬にあるのですが、佐屋形山という山の頂上にあって、一の鳥居の下から山頂がまっすぐに望めます。青森の岩木山神社と同じです。つまり、明らかに本殿ではなく、この山を拝むための祭祀場であり、すなわち佐屋形山が神奈備山であることがわかります。岩木山を拝む岩木山神社の主祭神が顕国魂神であり、岩木山が顕国魂=ウツシクニタマ=移し国魂こと、出雲を追われて津軽に国を移したオホナムチの葬地である可能性が高いことを考えると、佐屋形山も織幡神の葬地ではないかと思います。
織幡神社の鳥居。真正面に佐屋形山が見え、完全にこの山を拝む形となっています。
本殿に置かれていた「神社帳」をコピーした資料によると、当社の祭神は武内大臣、志賀大神、住吉大神、天照大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、壱岐真根子臣。さらに宗像大社発行の資料によると、主祭神の「武内大臣」こと武内宿禰は、神功皇后の三韓征伐から帰国して歴代天皇に仕えたあと、寿命が尽きるときに鐘崎に戻ってきて、この地で昇天し鎮座したとのこと。記紀によれば、彼が仕えた歴代天皇とは12代景行天皇(日本武尊の父)から16代仁徳天皇までの五代なので、現在は武内大臣が主祭神とされていますが、彼は壱岐真根子臣以外の神々よりずっと後の時代の人物なので、確実に後から祀られた神であり、元々の祭神ではないと思われます。
では、元々の祭神である織幡神の正体は誰なのかというと、おそらく天照大御神こと八代天君のアマテル=天照の12人の妃の一人であるオリハタオサコだろうと思います。その名もオリハタ=織幡なので。しかも、当社の他の祭神の顔ぶれを見ると、そうとしか考えられない節があります。
『ホツマツタヱ』によれば、オリハタオサコは宗像三女伸――オキツシマヒメ・ヱツノシマヒメ・イチキシマヒメの養母となったトヨヒメ=豊姫と同じく、ムナカタ=宗像の娘とされています。そして、ムナカタは「カナサキのエタカバネ」とあり、エタカバネ=枝姓=支姓なので、本家嫡流筋であるカナサキから見た支流ということになります。カナサキやムナカタの祖にあたるのが初代シマツヒコで、二代目がオキツヒコ、三代目がシガと続き、カナサキは七代目になります。
ということで、織幡神の正体がオリハタオサコならば、織幡神社に祀られている神々はそれぞれ次のような関係者となるわけです。
「志賀大神」=シガ→先祖
「住吉大神」=カナサキ→本家当主
「天照大神」=アマテル→夫
「宗像大神」=ムナカタ→父
……真に理に適った祭祀の形です。
残る「香椎大神」は14代仲哀天皇、「八幡大神」は仲哀天皇と神功皇后の息子である15代応神天皇、「壱岐真根子臣」は、同じ宗像大社資料によると、武内宿禰の身代わりとなって亡くなった臣下ということで、「武内大臣」の関係者なので、後世武内宿禰と同時期に祀られた神なのでしょう。摂社か末社かわかりませんが、境内には今宮神社があり、「神社帳」によれば、そちらの神社の祭神も「武内大臣」となっているので、本来武内宿禰は今宮神=新しく勧請した神として佐屋形山に祀られた神なのだと思います。
宿泊したロイヤルホテル宗像から見える鐘崎の佐屋形山(右)。左の島は大島。
海に面した佐屋形山(向かって右にある緑の塊)と、地島(中央)、大島(左の薄い島影)。これだけ先が見えていれば、航海もしやすかったと思います。
鐘崎にある佐屋形山はたいへんきれいな山型をしていて、古墳のような、ある種人工的な感じがし、山の傾斜が終わるとすぐ前方に海が広がり、その先には地島、大島があって、三つを同時に視界に収めることができます。これは建造物や位置を知る手段がない時代、重要なランドマークであり、海の道――航海ルートだったと思います。ムナカタから続く宗像氏は、この航海ルートを制し代々伝えて牛耳ることで、この地で繁栄したのだ思います。見ただけでそれが想像できる特徴的な地形でした。
宿泊したロイヤルホテル宗像から見える鐘崎の佐屋形山(右)。左の島は大島。
海に面した佐屋形山(向かって右にある緑の塊)と、地島(中央)、大島(左の薄い島影)。これだけ先が見えていれば、航海もしやすかったと思います。
織幡神社を後にして、次に宗像大社の辺津宮へと向かいました。何年か前に行ったことがあるのですが、昨年世界遺産に認定されて何か変わったかと思ったので。三女神のキャラクターができていたぐらいで、特に何も変わっていませんでしたが、前回は大雨だったために断念した高宮斎場に行ってきました。本殿より高い位置にあり、明らかにここが宗像大社の原点だと思いました。神の社が建てられる前の、古代祭祀の跡地です。
当社の現祭神は宗像三女伸ですが、元々の祭神は異なり、表津綿津見神・仲津綿津見神・底津綿津見神――現在、志賀海神社の祭神とされている三神だと思います。というのも、『ホツマ』を読むと、死んだイサナミと決裂したイサナギがヨモツヒラサカ=黄泉平坂から帰ってきて禊を行ったときの記述に、「アツカワ二 ソコトナカ カミワタツミノ ミカミウム コレムナカタニ マツラシム(アツ川に底と中、上綿津見神の三神生む これ宗像に祀らしむ)」という一文があるからです。つまり、宗像がアツ川に表津綿津見神・仲津綿津見神・底津綿津見神の三神を祀ったのが当社の起源でしょう。
そして、この一文に続いて「シガウミ二 シマツヒコ ツギオキツヒコ シガノカミ コレハアヅミニ マツラシム(志賀海にシマツヒコ 次オキツヒコ シガの神 これは阿曇に祀らしむ)」とあるので、現在、表津綿津見神・仲津綿津見神・底津綿津見神の三神を祭神とする志賀海神社の起源は、ムナカタと同じくカナサキの支流にあたるアヅミが、初代シマツヒコ、二代オキツヒコ、三代シガを祀ったことであるのがわかります。
ちなみに、ムナカタについて語る文の前には、「ナカカワ二ウム ソコツツヲ ツギナカツツヲ ウハツツヲ コレカナサキ二 マツラシム(那珂川に生む 底筒男 次中筒男 表筒男 これカナサキに祀らしむ)」とあるので、これが那珂川のかつての河口付近に鎮座し、今でも底筒男・中筒男・表筒男の三神を祭神とする、博多の住吉神社の起源であることがわかります。
住吉神社とは、その名のとおり住吉神の社ですが、住吉神というのは『ホツマ』によればカナサキのことなので、住吉神社の現祭神とされている底筒男・中筒男・表筒男のことではありません。あくまでも筑前一宮の住吉神社はカナサキが“祭主”として祀った聖跡であり、大阪にある摂津一宮の住吉大社がカナサキが“祭神”として祀られた聖跡となります。
『ホツマ』によると、ハコネカミ=箱根神というのは九代天君のオシホミミのことで、よって、その息子である十代天君のニニキネが父を祀ったのが箱根神社の起源なのですが、現在は、元々は祭主であったニニキネが祭神となり、瓊瓊杵尊として祀られています。このように、祭主が祭神になったと考えられるパターンはよく見られ、おそらく杵築大社(現・出雲大社)も本来はオホナムチが父ソサノヲを祀ったのが起源であり、熊野坐神社(現・熊野大社)もソサノをがクマノカミ=熊野神である母イサナミを祀ったのが起源で、両社とも現在は祭主が祭神化しているのだと思います。神として祀った人が神上がって(=亡くなって)、祀ったほうも祀られたほうと同じく神となったあとは、祭祀を受け継いだ者たちにとって、より重要な、あるいは神威があるとされる有力な神のほうが主祭神とされたのでしょう。
左の緑が古墳群。大小40基ほどあります。
拝殿の大注連縄と花菖蒲
不動神社の横にある説明板
不動神社裏側。小山の左下に位置する場所に赤い幟とともに見えているのが神社の屋根。
ということで、宗像神社(現・宗像大社)は、ムナカタ=宗像が綿津見=ワタツミ=海神を祀ったのを起源とする神社であり、それゆえ全国的には海の守り神として信奉され、地元では最初の祭主である宗像を祖先とする宗像氏の氏神として崇められてきました。それがいつしか三女神にすり替わり、元々の祭神である三海神が持っていた海の守り神としての性質を受け継いで、彼女たちが海上保安を司る神となり奉祀されるようになりました。いつ何が理由で三女神となったのかは不明ですが、天照大御神の娘(実のところはソサノヲの娘だと思いますが……)を祭神とする必要があったのかもしれません。それに伴い、宗像の神であった三海神は、阿曇が祭祀を引き継いで、志賀海の神となったのだと思います。
宗像大社の次は、新原・奴山古墳群へと向かいました。宗像氏の古墳で、ここも世界遺産です。近くを歩けるのですが、かなり時間がかかりそうだったので、ボランティアスタッフから説明を聞いて、展望所から眺めるにとどめました。
左の緑が古墳群。大小40基ほどあります。
現祭神は息長足比売命(神功皇后)・勝村大神・勝頼大神の三神。勝村大神と勝頼大神は皇后の随従だそうです。神功皇后は日本武尊の子である14代仲哀天皇の后で、八幡神こと15代応神天皇の母ですから、縄文・弥生時代よりかなり後世の人物なので、あまり興味のない神社だったのですが、数年前にここの奥の宮八社の一つ、不動神社が古墳に作られた神社であることを知って俄然興味が湧き、今回行ってきました。
また、宮地嶽神社には、大注連縄、大太鼓、大鈴という三つの日本一があるので、それも見たかったのですが、拝殿にお参りすれば見られる大注連縄以外は見られず。けれども、ちょうど菖蒲まつりをやっていたので、花菖蒲と大注連縄の組み合わせがなんともいい感じでした。
拝殿の大注連縄と花菖蒲
目的の不動神社は、完全に残っている横穴式石室で、実に見事なものでした。後ろから見たら神社部分が小山になっていたので、カンペキ古墳です。石室自体は六世紀から七世紀はじめのものといわれていて、隣にあった立て看板の説明によると、寛保元年(1741)の地震で入口が開いて発見され、修験者たちが不動明王を祀って神社としたそうです。石室を構成する巨石は宗像氏の古墳群とは異なる石材で、相ノ島産と思われる玄武岩なので、被葬者は阿曇氏ではないかとのこと。宗像氏と阿曇氏は、ともにシマツヒコを祖とする住吉神ことカナサキの支流というルーツを持つ海人族ですが、宗像は沖ノ島、大島、地島、鐘崎に通じる海上ルートを支配し、阿曇は志賀島、相ノ島を拠点としたと思われます。
不動神社の横にある説明板
不動神社裏側。小山の左下に位置する場所に赤い幟とともに見えているのが神社の屋根。
福岡市内に戻ってくると、飛行機の時間までまだ時間があったので、博多の手前で車から下ろしてもらい、K氏と別れて筥崎宮へ。ここも以前に行ったことがあるのですが、ちょうどあじさい祭りをやっていたことと、K氏に紹介された「筥崎宮おはじき」が気になったので、寄ってきました。
筥崎宮には、どんたく、祇園山笠と並んで博多三大祭りに数えられる放生会という祭りがあるのですが、そこで毎年祭りの初日に「放生会おはじき」というのが限定販売されていて、「厄をはじく」という縁起物でもあり、大人気だったそうです。ところが、博多人形師が一点一点博多人形と同じ素材や技法で作るため数が少なく、購入のための徹夜組が増えて神事に差し支えたり、しまいにはネットで高く転売されるなどの由々しき事態が生じたため、販売が中止となりました。代わって、放生会限定ではないおはじきが作られ、今年から御守り授与所で売られるようになりました。それが「筥崎宮おはじき」です。人形師たちが作って完成し数が揃ったら売るという形で、年数回の販売だそうで、売りはじめたころはすぐになくなっていたが、今ならあるのでは――という話でした。
御守り授与所を覗いて、おはじきがあることを確認してから、あじさい苑に行き、帰りにおはじきを購入。「敵國降伏」の扁額など筥崎宮ゆかりのおはじきは可愛く、箱には、それぞれ誰が何を作ったかを記した紙が入っていたのですが、その中には昔から仕事で馴染み深い博多人形師の名もあったので、手に入れることができてよかったです。
空港到着後、まだフライトまで時間があったので、スパークリングワインを飲みつつ食事をしてからセキュリティチェックへ。これにて日程終了です。