羽生雅の雑多話

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山陰寺社遠征 その3~売布神社、大神山神社本社、揖屋神社、神魂神社、真名井神社

 三日目は、まずはじめに、どう考えても効率よく行ける方法がなくて奥宮と一緒の日に行くのは断念した大神山神社本社へと向かいました。

 
 本社は米子駅から大山寺バス停に行く途中にある尾高バス停から歩いて10分程度のところにあるのですが、駅から大山方面へ行くるーぷバスは1~2時間に1本、路線バスは1日5本ぐらいしかなく、しかも朝夕に集中していて日中はほとんどないため、奥宮と本社を同じ日にまわるには10分で参拝を済ませて30分後に来る次のバスに乗るか、2時間後の次の次のバスに乗るかしか選択肢がなく、どちらも私には不都合だったので、別々にしました。はじめて訪れる式内社は、摂末社や地形なども見るため1時間は必要です。
 
 ホテルを9時前にチェックアウトし、途中売布神社に寄ってから松江駅へ。売布神社は駅から歩いて行ける式内社なので、以前来たときに境内はひととおり見てまわっていて、御朱印もいただいているので、今回は参拝だけしました。
 
 当社の祭神は速秋津比売神で、五十猛命大屋津姫命、抓津姫命を相殿神として祀っています。境内にあった説明によると、櫛八玉神が速秋津比売神を祀ったのが由緒とのこと。速秋津比売=ハヤアキツヒメは、『ホツマ』によれば、アマテルの12人の妃の一人であるハヤアキツアキコのことで、皇后セオリツホノコと共に祓戸四神に数えられる神です。彼女は海の神である住吉神ことカナサキの娘で、水戸(湊)の神なので、かつては意宇の入海であり、のちに潟地となったこの場所に守護神として祀られたのでしょう。よって、アキコ自身がこの地とゆかりがあるというわけではないと思います。五十猛、大屋津姫、抓津姫は後から勧請されたとのことです。境内社は、本殿の向かって左側に初代祭主である櫛八玉神を祀る和田津見社、道祖社、大松荒神があり、向かって右側に常光神社、榎荒神社、恵美須社があり、本殿裏に金刀比羅社、船霊神社があります。祭神は確認していませんが、本殿裏にある船霊神社は、アキコの父で、『ホツマ』で言うところのムツフナタマ=六船霊の一人であるカナサキを祀っているのだと思います。
 
 売布神社を後にして松江駅に着くと、コインロッカーにリュックを預け、土産物屋で空港に行く前に買って帰る物を物色してから、9時28分発の各駅停車に乗って米子へ。10時5分に米子駅に到着し、駅構内の観光案内所に寄ったあとバス乗り場に行って、20分発の大山るーぷバスに乗りました。46分に大山トム・ソーヤ牧場バス停に着いて下車し、目の前の道を数百メートル戻って、路線バスの岡成バス停から55分発の米子駅行きに乗車。二つめの尾高バス停で降りて、大神山神社本社へと向かいました。11時過ぎに到着し、帰りは12時10分発のバスに乗って米子駅に戻るので、1時間弱の余裕があり、ちょうどよい塩梅でした。私はこのルートをヤフーの乗換案内で知ったのですが、米子駅に着いたあと、念のため観光案内所に寄って本社までの行き方を訊いたところ、11時20分発の路線バスを案内されました。るーぷバスは最寄りのバス停である尾高に停まらないからだと思いますが、それに乗ると尾高には11時44分に着くことになり、帰りは一番早くても14時20分発のバスになるので、さぞかし途方に暮れたことと思います。尾高バス停周辺には喫茶店の一つもなかったので。
 
 大神山神社の本社は、元々は雪で祭祀を執り行うのが困難な冬のあいだの冬宮でした。よって、もちろん祭神は奥宮と同じで、大穴牟遅命ことオホナムチです。
 
 奥宮の御朱印で持参した朱印帳がいっぱいになったので、社務所で天狗の柄の朱印帳を購入し、そちらに本社の御朱印をいただきました。朱印帳は、それを買った神社の御朱印しかない、ほぼ未使用の物がまだたくさんあるのですが、大山で開山1300年記念の朱印帳を買おうと思っていたので、予備を持ってきませんでした。ところが、記念朱印帳は例によって売り切れで買えず。昨年も大山阿夫利神社の限定ゴジラ朱印帳を買いそびれたことを思い出し、切ない気持ちになりました。
 
 本殿にお参りしたあと、いつものように境内をひととおり見てまわりました。本殿の向かって右側に末社があり、朝宮神社でした。祭神がわからなかったので、あとでネットで調べたら、大山津見神、足名椎神、手名椎神、須勢理毘売神、天之菩卑能命品陀和気命、菅原神とのこと。普通に考えれば、菅原神は菅原道真品陀和気命は15代応神天皇で、神代の人物ではない上に天神と八幡神なので、あとから天神社と八幡宮が合祀されたのだと思います。その他の祭神については、天之菩卑能命天穂日命のことで、穂日=ホヒなので、八代天君アマテルの長男で、ソサノヲを祀るオホナムチの祭祀を引き継いだ出雲大社の二代祭主であるホヒのこと、須勢理毘売=スセリビメはオホナムチの妻、足名椎と手名椎はオホナムチの祖父母、大山津見は『古事記』によれば足名椎の親なので、この系譜が正しければオホナムチの曽祖父ということになります。
 
 ただし、大山津見という名は大山津見=オオヤマヅミ=オオヤマズミ=大山住なので、山に住んでいる神――すなわち山の管理者という意味であり、個人名ではなく複数存在するため、同じ神名であっても、相模の大山阿夫利神社の祭神である大山祇大神とは別の神だと思います。つまり、相模の大山に「大山祇大神」の祭神名で祀られているオオヤマズミの神は、アマテルの皇后セオリツホノコの兄弟であるオオヤマカグツミの子で、江島神ことヱツノシマヒメタキコを妻にしたカグヤマツミである可能性が高いですが、伯耆の大山に祀られているのは彼ではなく、また別の人物――ということです。オオヤマズミの神は、山住の神ということで山の神とされているので、この祭神名で特に誰かを祀っているわけではなく、単に神山である大山そのものが擬人化されて、山の神の名を与えられているだけ――とも考えられます。
 
 ここでおもしろいと思ったのは、奥宮には筑紫社の祭神である多紀理毘売ことオキツシマヒメタケコが祀られていて、本社には御向社の祭神であるスセリビメが祀られていたことです。どちらも主祭神であるオホナムチの妻なので、祀られていること自体は何ら不思議ではないのですが、当社の奥宮と本社は基本的に同じ神社です。先にも書きましたが、夏は大山の中腹で奉祀していましたが、冬は雪で埋もれるので麓で奉祀することになり、中腹の夏宮が現奥宮で、麓の冬宮が現本社となったわけです。だから主祭神が同じなのです。ならば、末社で奉祀する祭神も同じでなければ辻褄が合いません。
 
 実は、まだ検証はできていませんが、スセリビメ=オキツシマヒメタケコという可能性もあるのではないかと考えています。何故ならば、『古事記』でスセリビメはオホナムチの「嫡妻」と書かれていますが、オキツシマタケコは、『ホツマ』によれば、アマテルの妃であるコマスヒメハヤコが生んだ子で、すなわち天君の子です。ということは、『ホツマ』でソサノヲの子とされているスセリビメよりも身分が高いわけで、であれば「嫡妻」にふさわしいのは彼女のほうだからです――よほどの理由がなければですが……。しかしタケコにはその理由が存在しました。
 
 オキツシマヒメタケコとヱツノシマヒメタキコとイツクシマヒメタナコの三姉妹――いわゆる宗像三女神の母親であるコマスヒメハヤコは、ソサノヲと密通していて、皇后になれなかった恨みからセオリツホノコを害そうとしていた姉のマスヒメモチコと共にアマテルの宮を追われて九州の宇佐宮に謹慎させられました。ところが姉妹はそれを不服とし、のちに宇佐宮を抜け出して出身地であるネの国に帰り、天君のアマテルに反旗を翻しました。つまりタケコは謀反人の娘なのです。しかもソサノヲの子ではないかという疑いがある――。とはいえ、三姉妹に罪はなく、しかも彼女たちも母親や伯母と共に九州に下っていたのですが、母親たちは三姉妹を見捨てて逃げてしまい、宇佐宮に置き去りになっていたので、皇后セオリツヒメの命により、アマテルの妃の一人であり、九州出身でムナカタの娘であるトヨヒメが養育することになりました。それゆえ“宗像”三女神なのであり、宇佐宮を起源とする宇佐神宮に比売大神の祭神名で祀られているのです。というわけで、オキツシマヒメタケコが天君アマテルの娘であってもオホナムチの嫡妻にはなれない、それでも仕方がないと思える理由があるため、彼女が嫡妻と言われているスセリビメと同一人物であるとは、まだまだ言い切れないところがあります。大神山神社のような祭祀の実例が他にもあれば傍証になりうるのですが……。
 
 そんなことを考えながら本殿を一周し、バスの時間までまだ余裕があったので、本殿の左側にある大山遙拝所の後ろの林を抜けてみました。そうしたら、ちゃんと大山が見えました。なので、本社の祭祀の起源はこの遙拝所だと思いました。何度もくり返しますが、本殿というのは建物文化が始まってから造られた物なので。

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大神山神社本社の本殿

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大山奥宮遙拝所

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遙拝所裏の林を抜けると見える大山
 
 境内に戻り、少々早かったのですが、見るべきものは見たので、尾高バス停へと向かいました。観光案内所で大神山神社と間違える人がいると言われた寺が近くにあるはずなので行ってみたのですが、神社参りをしている人間なら間違えるはずもない今時の普通の寺だったので寄らず。せめてコンビニでもないかと思い、さらに周辺を歩きましたが何も見つからないので、あきらめてバス停で待つことにしました。
 
 15分ほど待って、予定どおり12時10分発のバスに乗車。20分ぐらいで米子駅に到着し、今度は46分発の快速アクアライナーに乗車。昼食の時間が惜しかったので、電車に乗る前に駅前の土産物屋でどじょう掬い饅頭の20世紀梨餡を買って、非常食代わりに車中で食べていました。
 
 1時過ぎに揖屋駅に到着し、電車を降りて、駅から歩いて10分ほどの揖屋神社へ。ここも式内社で、御朱印をいただいたときにもらった栞によれば、祭神は伊弉冉命大己貴命少彦名命事代主命の四神。本殿隣には二つの摂社があり、向かって左側には、やはり式内社の韓國伊太氐神社があって、あとでネットで調べたら、祭神は素戔嗚命五十猛命とのことでした。右側には三穂津姫神社があり、こちらは社名のとおり三穂津姫神を祀っているのでしょう。三穂津姫=ミホツヒメは事代主=コトシロヌシの妻で、コトシロヌシは大己貴=オホナムチの子、オホナムチは素戔嗚=ソサノヲの子で、五十猛ことオオヤビコもソサノヲの子、そしてソサノヲは伊弉冉=イサナミの子です。ちなみに、少彦名=スクナヒコナはオホナムチの国作りを手伝った協力者です。
 
 ということで、現祭神は上記のとおりですが、拝殿と向かい合って荒神社、その向かって右側に恵比須神社と、向かって左側に天満宮ともう一つ恵比須神社があったので、おそらく右の恵比須神社コトシロヌシを祀り、天満宮菅原道真と祀られることの多いスクナヒコナを祀り、その隣の恵比須神社は本来大国主神社で、オホナムチを祀っていると考えられます。したがって本殿の祭神である揖屋神とはイサナミのことになります。また、摂社の社名にある韓國伊太氐神とは五十猛のことなので、こちらはあくまでもオオヤビコを祀る社であって、であるならば荒神社に祀られているのがソサノヲなのだと思います。荒神社の隣にいるオホナムチやコトシロヌシは、ソサノヲの子と孫なので。

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荒神社と天満宮。古代祭祀の名残を感じます。
 
 この荒神社は拝殿の真正面にあり、かつ向かい合っているので、まるで本殿の神を監視しているように思えました。普通は参道の先に本殿正面があることが多いのですが、神を封じ込めるために祀る場合は、神が出てこられないように、参道を直線にせず、曲げたりするという話を読んだことがあります。よって最初は、イサナミが祟らないようにソサノヲを見張りとしている祀り方なのだろうと思いましたが、本殿を一周したところ、神座は本殿の向きとは違い、三穂津姫神社のほうを向いているという注意書きとともに参拝所があったので、何が何だかわからなくなりました。ということは、拝殿から拝む人は祭神を右横から拝んでいる――ということだけはわかりましたが。

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揖屋神社の本殿と、神座に向き合える参拝所
 
 では、揖屋神社の参拝者が拝んでいるのは何なのかというと、当社から東に1.2キロほど行ったところにの黄泉比良坂の神蹟というのがあるのですが、その坂の上にある巨石――古代祭祀の跡で祀られていた神ではないかと思います。
 
 ところで、記紀や『先代旧事本紀』には次のような話が載っています。イサナギは死んだ妻を連れ戻しに黄泉の国へ行きましたが、変わり果てた妻の醜い姿に驚いて、自分が治める生者の国に逃げ帰ろうとしました。怒ったイサナミは夫を追いかけ、黄泉比良坂=泉津平坂で決裂したという話です。死んだ妻をよみがえらせるために夫が死者の国へ赴くという話はギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケの話にも見られますが、実際にはあり得ないことなので、何らかの実話をもとにして仕立てられた創作ということになります。しかし、神話のネタとなるような確固たる事実があったからこそ、『古事記』や『先代旧事本紀』に「今出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」などという具体的な記述があるのだと思います。伊賦夜=イフヤ=イウヤ=揖屋なので、伊賦夜坂の坂上にある巨石が揖屋神社の元宮なのかもしれません。当社の本殿は立派な大社造りですが、丘の上では大きな建物が建てられなかったので、現在地に社殿が造られたのではないでしょうか。
 
 ちなみに『ホツマ』よれば、ヨモツヒラサカというのは「イキタユルマノカギリイワ(息絶ゆる間の限り岩)」とのこと。ヒラサカの「サカ」やカギリイワの「イワ」は、神域を表す磐境の磐=イワや境=サカと同じ意味だと思うので、息絶える瞬間の聖なる領域ということで、臨死体験者が見る世界のことと考えてよいかと思います。生きるか死ぬかの瀬戸際、三途の川の一歩手前、走馬灯のように過去が巡る瞬間です。
 
 社務所で黄泉比良坂にも行くことを勧められたので、14時19分発の電車に乗る予定でしたが、歩いて15分ほどとのことで、ギリギ行けそうだったので向かいました。由緒書の栞の裏に地図があったので、それに従って12、3分ほど歩くと、途中、御朱印授与所があったので、いつものように300円を払っていただきました。朱印帳には書けないというので、ハンコの文字に日付を入れてもらった紙の御朱印でしたが。あるからといって坂の御朱印までもらってどうするのかと思いましたが、突き当りまで行ってみると想像していなかった巨石があり、明らかに古代祭祀の跡で、上記に書いたように、これは確実に揖屋神社の元宮だと思いましたので、もらっておいてよかったです。

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鳥居の向こうにある黄泉比売坂の神蹟碑と巨石
 
 伊賦夜坂だという歩きのみで通れる山道を下りて舗装道路に出ると、大急ぎで揖屋駅へ。なんとか間に合って予定どおりの電車に乗り、29分に松江駅に到着し、40分発のバスで神魂神社へ。神魂神社の最寄りのバス停である、かんべの里行きのバスも本数が少なく、次は30分後なので必死です。
 
 3時過ぎに終点のかんべの里バス停に到着し、神魂神社がこの日の最後の目的地で、少々時間的に余裕があったので、とりあえず腹ごしらえしようと、まずは神社に向かう前に出雲かんべの里の茶屋に行ったのですが、残念ながらもう閉まっていました。仕方がないので、さっさと神魂神社に行って参拝。
 
 当社の本殿は現存する最古の大社造りで、国宝に指定されています。神座は揖屋神社と同じ向きで、社務所御朱印をいただいたときにもらった由緒書によると女造というそうです。出雲大社は反対向きで、こちらは男造というそうです。ということで、大社造りの神社に参拝する場合、男造は神座を左横から、女造は右横から拝むことになります。

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神魂神社の拝殿および本殿
 
 さらに同じ由緒書によると、当社は天穂日命が伊弉冊大神を祀ったのが由緒とのこと。伊弉冊大神は伊弉冊=イサナミなので、揖屋神社と同じ祭神です。そして天穂日命は穂日=ホヒで、イサナミの長男であるアマテルの長男です。つまり、祭神→イサナミ、祭主→ホヒということなので、孫が祖母を祀った祭祀の場ということになります。
 
 しかしながら、当社の社名の意味は「神魂神の社」です。なおかつ『出雲風土記』には、その名もずばり「“神魂”命」という神が登場します。神魂命は古事記』では「神産巣日神」、『日本書紀』では「神皇産霊神」の表記で登場する神で、『ホツマ』では「カンミムスビ」という名で登場します。しかも『出雲風土記』にはオホナムチの命を助けた𧏛貝比売と蛤貝比売は神魂命の子であると書かれ、またオホナムチの国作りに協力したスクナヒコナについては『古事記』や『ホツマ』に神産巣日神=カンミムスビの子であると書かれています。よって、オホナムチを陰ながら支えたといってよい神魂命はこの地に祀られていてもおかしくない神なので、実は神魂神社――「神魂神の社」の元々の祭神は神魂ことカンミムスビではないかと思っています。決め手が不十分で、まだまだ想像の域を出ませんが。
 
 摂末社は貴布禰社、稲荷社、外山社、荒神社、蛭子社、武勇社、杵築社、伊勢社、熊野社、秋葉社。祭神は確認できませんでしたが、荒神社はソサノヲ、蛭子社はコトシロヌシ、杵築社はオホナムチ、伊勢社はアマテル、熊野社はイサナミ、貴布禰社はミズハノメ、稲荷社はウカノミタマといったところでしょうか。いささか怪しいですが、武勇社は五十猛の別名を持つソサノヲの子のオオヤビコで、少し離れたところにあった秋葉社はイサナミの死のきっかけとなったカグツチのような気がします。貴布禰社の祭神と思われるミズハノメの兄弟です。外山社は情報が少なすぎて想像がつきません。ということで、摂末社に熊野社があるので、イサナミはこちらの祭神であり、神魂神社の元々の祭神はやはりカンミムスビではないかと思います。『ホツマ』によれば、カンミムスビの諱はヤソキネ。イサナギの姉妹であるココリヒメ=菊理姫の夫で、イサナミ――すなわち現祭神の兄にあたる神です。
 
 ひととおり境内を見てまわったあと、いい加減お腹が空いていたので、松江駅前の観光案内所でもらった地図に載っているカフェを目的に歩きましたが、わからず。もはや疲れていて探し回る気にもならなかったので、時間があったら寄ろうと思っていた六所神社へと向かいました。しかし、ここもわからなかったので、早々にあきらめて、近くに見える真名井神社を目指しました。足もそろそろ限界にきていた上に、六所神社律令政治下の出雲国司庁にあった総社で古代祭祀の跡ではないため、正直どうでもよかったので。真名井神社は、どう見ても神名備山である茶臼山の麓にある式内社なので、どんなに疲れていても、ここまできてこの神社を無視することはできませんでした。
 
 時間は4時を回っていましたが、無人であることは予想していたので、社務所が開いている時間に間に合うようにと焦ることもなかったので、最後の力を振り絞って歩き、到着。立て看板によれば、祭神は伊弉諾尊天津彦根命。天津彦根アマツヒコネ売布神社の祭神であるハヤアキツヒメアキコが生んだアマテルの三男なので、伊弉諾イサナギの孫になります。境内社は末那為神社と児守神社で、宍道若宮社、山代神社、荒神社が合祀してあるとのこと。境内社の祭神まではわかりませんでしたが、荒神社はソサノヲ、児守神社はコトシロヌシとミホツヒメの子であるコモリことミホヒコ、山代神社は『出雲風土記』でオホナムチの子といわれる山代日子命、末那為神社は末那為=真名井なので、本殿に祀られているイサナギアマツヒコネのどちらかはこちらの祭神なのだと思います。宍道若宮社は情報がないため、想像がつきません。

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真名井神社の本殿
 
 参拝後、真名井神社を後にして、最寄りの大庭十字路バス停に行きましたが、手持ちが一万円札しかなかったので、近くのコンビニでドリンクを買い、ちょうどバスが来る時間に戻りましたが、5分待っても現れず。目の前の道路は渋滞するような道ではなかったので、さては行かれたかと思い、次のバスまで20分あったので、隣の山代町バス停まで歩くことにしました。山代町バス停の前には大庭鶏塚という古墳があり、まだ10分ほどあったので、登って見学。いかにも神奈備山という美しい形で茶臼山が見えました。

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大庭鶏塚から見る茶臼山
 
 今度は乗り遅れないよう、3分前にはバス停に戻り、17時3分発のバスに無事乗車。15分ほどで松江駅に着き、米子空港行きのバスが18時55分発なので、食事をすることに。ホテルで出た弁当タイプの朝食後、どじょう掬い饅頭を1個食べただけだったので、がっつり食べることにしました。とはいっても、疲れていて遠くには行きたくなかったので、駅ビルに入っている飲食店を覗いてメニューを見ていたら、ラーメン屋で白湯しじみラーメンというのを発見したので、その店に決めて、レモンサワーとおつまみセット、餃子、ラーメンを注文。カウンターでしたが、各席に電源があったので、あと3%しか電池が残っていなかったスマホを充電。あとは帰るだけとはいえ、助かりました。
 
 レサワを2杯飲んで店を出たあと、土産物屋でしじみの佃煮と、朝方物色したしまねっこグッズを買い、ロッカーから預けたリュックを取り出して、バス乗り場へ。20時25分米子発、21時55分羽田着のANA最終便で東京に戻り、今回も全日程無事に終了です。