羽生雅の雑多話

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山陰寺社遠征 その1~出雲大社、松江城

 シルバーウィーク後半の3連休は二泊三日で山陰に行ってきました。以前の記事でもちらっと書きましたが、JRのデスティネーションキャンペーン(DC)というのはけっこう注目していて、青森やら宮城やら和歌山やら、毎年行ってもいいと思っている県周辺でやっていると、日程の都合がつくかぎり行くようにしています。普段は見られないところが見られたり、行きにくいところが行きやすくなったりするので。

 今回は7月から9月いっぱいまで、JR西日本が山陰DCをやっていて、イベントを調べたら、出雲大社の八足門内特別参拝やら、大山開山1300年祭の特別版で大山の大献灯の和傘祭りやらがあったので、フランスに行く前にエアー&ホテルを手配。JRのキャンペーンですが、ANAJALマイレージがたまっていたので飛行機を使うことにし、JAL出雲空港イン、ANA米子空港アウトの旅程にしました。

 よって、ホテルは出雲市駅と米子駅周辺に取って、中日は世界遺産石見銀山でも行こうかと思っていたのですが、9月に入ってさらにリサーチをすると、松江城で夜間登閣をやっていることがわかったので、急きょ松江に連泊することに。予約していたホテルをキャンセルし、もう松江駅前はあまり空いていなかったので、松江大橋近くのホテルに変更しました。松江駅から歩いて15分ぐらいかかりますが、松江城までも徒歩15分ぐらいなので、夜に城から帰ってくるのには好都合かと思ったので。

 21日の10時20分発で出雲空港に飛び、12時前に着いて、接続している出雲大社行きバスに乗車。昼食を店に入って食べている時間がなかったので、羽田空港で買ったさぼてんのカツサンドをバス内で食べて、約40分で出雲大社に到着。終点一つ手前の正門前バス停で降りて、2時半からの八足門内特別参拝ツアーの集合場所である古代出雲歴史博物館へと向かいました。

 館内の情報交流室で手続き後、リュックを預かってもらい、もらった観覧券で集合時間まで常設展を見学。この博物館に来るのは三度目ですが、何度来ても飽きません。壁一面に飾られた銅剣や銅鐸が放つ力に毎度圧倒されます。百聞は一見に如かず。出雲にはこれほどの物を造らせ、かつ遺させる権力者が存在したということですから、大和に匹敵する王朝がこの地にあったことは間違いないと、否応なしに確信させられます。
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古代出雲歴史博物館常設展示室の銅鐸

 10分前になったので集合場所の情報交流室へ行き、ガイドの引率で出雲大社に向かいました。その回の参加者は15名ぐらいで、中には北海道から来たという人も。解説を聞きながら参道をタラタラと歩いて、普通に歩けば10分もかからない八足門前に30分ぐらいかかって到着。手水のあと、服装チェックと注意事項の伝達があり、肩や脚が出ている服装、ジーパン、サンダル、帽子がNGなのはわかっていましたが、上着を腰に巻いているのもNGと言われたので、雨が降り出してきて蒸し暑くなり脱いでいたカーディガンを再び着ました。

 そこでガイドの役目は終わり、神職に案内役が引き継がれて、渡された白タスキを掛けて八足門内へ。お祓い後、楼門の前に行って本殿を眺めつつ説明を聞いていましたが、雨が強くなってきたためか、ほどなく屋根のある西回廊へと戻りました。その後はそこから動かず、30分ほど遷宮の話などを聞いて、4時前に終了。タスキを返して参加記念品をいただき、八足門の外で解散となりました。記念品は本殿大屋根の檜皮古材で、上賀茂神社でも同じようなものをいただいた覚えがあります。

 出雲大社の参拝は四度目で、歴史的に重要な神社なので二度目の訪問時に博物館で電動自転車を借りて摂末社もほとんど回ったのですが、八足門内には入れないので、本殿の隣にある三摂社だけは見ることができませんでした。蚶貝比売神蛤貝比売神を祭神とする天前社、須勢理毘売神を祭神とする御向社、そして多紀理比売神を祭神とする筑紫社の三摂社です。御祈祷を受ければ入れるのですが、御祈祷中に顔を上げて社殿を眺めたり境内を見回したり、ましてやうろついたりすることは到底できないので。それが今回見られるかと思って参加したのですが、楼門前と西回廊での説明だったため、見られたのは西隣にある筑紫社だけで、東隣にある天前社と御向社は見られませんでした。ということで、その点はいささか物足りなかったのですが、本殿と八雲山、筑紫社の位置関係は確認できたので、十分に来た甲斐はありました。

 今回の神職の説明でも触れられましたが、実は出雲大社の神座は西を向いています。本殿は南向きなので、よって拝殿や八足門から拝む場合、本殿の祭神を左横から拝んでいることになります。そのため、筑紫社の西の瑞垣外に、祭神と向き合って拝めるように参拝所が設けられているとのことでした。神座が西向きであることは、私は高田崇史さんの『QED出雲神伝説』で知っていたのですが、今回現地に来て確認し、やはり確信したことがあります。

 まず、出雲大社の真の祭神はソサノオだろうということ。今は摂社となっている素鵞社こそが出雲大社の奥宮というか元宮なのだと思います。その理由は、出雲大社を参拝する場合、参拝者が正面に相対するのは、西を向いている本殿の祭神である大国主大神ではなく、素鵞社の祭神である素戔嗚尊だからです。つまり出雲大社はソサノオを拝むように作られているのです。また、素鵞社は八雲山の麓にあり、その社の裏には巨石があります。これは明らかに磐座――つまり、建物を建てて祭神を祀る神社文化が始まる以前の古代祭祀の跡です。なおかつ、八雲山が禁足地とされていることからも、この山が神が坐す山――神奈備山であることは間違いなく、よって元々は素戔嗚=ソサノオを祀った八雲山を御神体とする祭祀の場なのだと思います。
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素鵞社の社殿裏の巨石

 ところで、『古事記』には次のような話が載っています。出雲大社の現祭神である大国主大神こと大穴牟遅=オホナムチは、兄弟が因幡八上比売に求婚に行く際に荷物持ちとして同行しましたが、彼女が選んだのがオホナムチだったため、兄弟から迫害を受けることになりました。命の危険にさらされ、絶体絶命になったとき、𧏛貝比売や蛤貝比売に助けられて一命を取り留めましたが、息子の身を案じた母親によって「木の国」の大屋毘古=オオヤビコのもとに逃がされました。そしてオオヤビコに「ソサノオに相談してみなさい」とアドバイスされたので、ソサノオがいる「根の堅州国」へと向かいました。そこで須勢理比売=スセリビメと出会い、彼女と両想いになって、ソサノオから与えられる数々の試練に二人で立ち向かって見事乗り越えると、その過程でソサノオから奪った太刀と弓矢を譲られて、「その武器で兄弟を退け、汝がオオクニヌシ大国主=大きな国の主)となり、スセリビメを妃とし、宇迦の山の麓に宮を造って治めよ」と言われ、国作りを始めました――という話です。『先代旧事本紀』にもほぼ同様の話が載っています。𧏛貝比売と蛤貝比売は、『ホツマ』に登場しないのでカタカナに直さず『古事記』の漢字表記のままにしましたが、『先代旧事本紀』では「黒貝姫」と「蛤貝姫」、『出雲風土記』では「支佐加比売」と「宇武賀比売」の表記で登場する天前社の祭神であり、スセリビメは御向社の祭神で、いずれも出雲大社本殿の東隣にいる神です。

 なので、ここに登場する「宇迦の山」というのが八雲山で、ソサノオの言葉に従ってその山の麓に宮を建てたオホナムチが、そこに住みつつ、ソサノオを祀って祭祀を行ったのが出雲大社の起源なのだと思います。祭神→ソサノオ、祭主→オホナムチという関係です。その後、出雲は大きな国になりすぎたため、タケミカヅチ率いる天君の朝廷軍に攻め入れられ、オホナムチは出雲から津軽に国替えとなりました。いわゆる国譲りです。そしてオホナムチが出雲を去ったあと、彼が執り行っていた祭祀と国土経営を引き継いだのが天君アマテルの長男であるホヒ=穂日であり、以後ホヒこと天穂日命の子孫(出雲国造家。現在の千家家と北島家)が今日まで脈々と祭祀を受け継ぎ、古くは磐座を作り、仏教文化が伝来したあとは社を建てて、現代に至っているわけです。どこかの段階で、最初の祭主であるオホナムチも出雲の大国主神として祀られたのだと思います。おそらく、ソサノオが母イサナミを熊野神として祀った熊野大社主祭神が、イサナミからイサナミとイサナギの「真名子」である櫛御気野命こと初代祭主のソサノオに変わったときに、出雲大社主祭神もソサノオから初代祭主であるオホナムチに変更されたのではないでしょうか。

 以前、高田さんの本を読んで、出雲大社本殿の神座が西向きであり、祭神である大国主大神を左横から拝んでいることを知ったとき、天啓のように感じました。というのも、『先代旧事本紀』には「建素戔烏尊坐出雲國熊野築杵神宮」という記述があり、つまりソサノオは熊野と築杵の神宮に坐すと書かれているからです。「熊野の神宮」が熊野大社で、「築杵の神宮」が杵築大社――すなわち出雲大社です。そして、本殿裏には拝殿と向かい合う南向きの素鵞社があり、その社の裏には巨石があります。以上のことから、出雲大社の祭祀の対象はどう考えてもソサノオとしか思えませんでした。もう長らくのあいだ、大国主大神ことオホナムチが主祭神なのだとしても――。そもそもの起源から二千年以上も年月が経っていると、途中で祭神が代わったりすることは、よくあることなので。

 話は飛びますが、和歌山にあり、今や世界遺産にもなっている熊野本宮大社は、『ホツマ』でモトツミヤ=本つ宮と呼ばれるイサナギとイサナミが建てた宮の跡で、そこでソサノオは生まれました。本つ宮の跡だから熊野“本宮”大社なのだと思います。ところが彼は、「人なりは、いさち雄叫び」という難がある子供だったので、ソサノオを育てるために母のイサナミは国の隅に宮を新たに建てました。その隈の宮=クマノミヤ=熊野宮の跡が、新宮にあり、やはり世界遺産となっている熊野速玉大社で、新宮という地名は新しい宮が存在したことによるのだと思います。のちにイサナミは夫のイサナギとともに近江のタガノミヤ=多賀宮(現・多賀大社)に移ったため、熊野宮にはソサノオとその姉であるヒルコが暮らしていましたが、そこにイサナミがやってきて、滞在中に不慮の事故で亡くなると、彼女はクマノカミ=熊野神として本つ宮に祀られました。これが熊野坐神社――熊野本宮大社の起源です。同社の主祭神は家津御子大神で、その正体はソサノオとされていますが、やはりそれは祭神と祭主という関係で、イサナミを熊野神として祀った最初の祭主がソサノオだったからではないかと思います。出雲の熊野大社と同じです。同様に、熊野速玉大社は、イサナミの最後の御座所となった熊野宮にハヤタマノヲ=速玉之男が彼女を熊野神として祀ったのが起源なのだと思います。それゆえ熊野速玉大社というのでしょう。すなわち祭神→イサナミ(家津美御子大神)、祭主→ハヤタマノヲ(熊野速玉大神)です。そして、本つ宮でソサノオが始めた祭祀と、熊野宮でハヤタマノヲが始めた祭祀を受け継いだのが、『ホツマ』でナチノワカミコ=那智の若御子と呼ばれているアマテルの五男――クマノクスビ=熊野樟日です。熊野本宮大社、熊野速玉大社、そして両社と同じく世界遺産となっている熊野那智大社に祀られている、熊野夫須美大神のことです。おそらく、「クスビ」のカタカナが「フスビ」と誤って転記され、フスビ=夫須美に転化し、さらに「フスビ」では意味が解らないためか、ムスビ=結と転化して、熊野結大神とも言われているのだと思います。

 またまた余談ですが、本つ宮や熊野宮があったソサノオの生まれ故郷は当時ソサの国と呼ばれていました。のちに木の国=紀の国=紀伊国と呼ばれる国です。ソサの男だから“ソサ”ノオというのです。そして漢字伝来後、「ソサ」が「素佐」と書かれ、それが「スサ」と読まれたので、今ではスサノオという呼称が一般的になっているのでしょう。「オ」の漢字表記は男性を表す「男」だったり、英雄を表す「雄」だったり、あるいは「いさち雄叫び」という性格からきたのか「嗚」だったり――と、いろいろありますが。そのソサノオですが、『ホツマ』によると、熊野宮から兄である天君アマテルの宮に出仕していましたが、事件を起こして高天原(朝廷)を追放され、ネの国に行くことになりました。「ネ」とは当時の言葉で北のことで、したがって「ネの国」とは北の国ということで山陰・北陸地方のことなのですが、北の国=ネの国=根の国と転化して、地底の国とか冥界とか誤解されるようになったのです。ということで、ソサノオがソサの国で母イサナミを熊野神として祀ったのが熊野本宮大社であり、追放されたあと、ネの国で祀ったのが熊野大社なのだと思います。

 なお、オホナムチにアドバイスをしたオオヤビコは、『ホツマ』によればソサノオの子なので、オホナムチの兄にあたります。「木の国」にいると書かれているので、『日本書紀』で「紀伊国所坐」と書かれている五十猛と同一神と考えてよいと思います。オホナムチとは母親違いで、おそらくソサノオがソサにいるあいだに生まれた子なのでしょう。紀伊一宮の一つ、伊太祁曽神社の祭神です。「一宮の一つ」というのは、現在紀伊一宮と称する神社は三社あるからです。他二つは日前國懸神社と丹生都比売神社で、『ホツマ』を読むと、日前國懸神社の日前神社はソサノオの兄であるアマテル、國懸神社はアマテルの皇后であるセオリツヒメホノコ、そして丹生都比売神社はソサノオの姉であるヒルコを祀った神社であることがわかります。よって、いずれも由緒正しき古社であり、優劣はつけがたいので、紀伊には一宮が三つあってよいと思います。

 さて、八足門内特別参拝ツアー終了後は、本殿裏に回って素鵞社を参拝し、社殿後ろの巨石を拝んで、西側の瑞垣にある参拝所を確認。
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出雲大社本殿裏。二羽のウサギが眺めていました。前回来たときにはなかったブロンズ像なのですが……。彼らは、大国主大神ことオホナムチが兄弟のお伴で八上比売のところに行く途中で助けた因幡の白兎で、境内の至る所にいました。

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大国主大神に正面から向き合える西側瑞垣の参拝所の位置を示す図。神職の話によると、神座が西を向いていることを知っている人はここから拝み、投げ込まれた賽銭が瑞垣内に落ちているような有り様だったので、参拝所が設けられたとのことでした。

 その後歴博に戻り、4時半がオーダーストップだったので、まずはカフェに直行。カツサンドのあと何も食べていなかったので食事ができるかと訊いたら、古墳カレーならできると言うので、そのセットメニューを注文しました。ドリンクのカプチーノはラテアートが選べたので、歴博マスコットキャラクターの雲太クンをお願いしました。
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古墳カレーの案内板。味はごく普通でした。

 食事後、カフェの下にあるミュージアムショップに寄って資料を吟味し、松江の出版社が出している出雲風土記の校注書と、島根県古代文化センター編纂の『解説 出雲風土記』の2冊を購入。そのあと、ツアー参加者ということで割引料金で企画展のチケットを買って見学。企画展は「古墳は語る~古代出雲誕生」という展示で、埴輪スキーなので、これまで相当数の埴輪を見てきましたが、ここで新たに今まで見たことがないタイプの埴輪と出会い、かなり衝撃を受けました。
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はじめて見た衝撃的な力士埴輪

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力士埴輪と仲間たち。出土した今城塚古墳は継体天皇の真の陵ではないかと言われているそうですが、完成度の高いこの埴輪たちを見ると、大いに有力な説のような気がしました。

 ホテルが松江で、夜には松江城に行くため、5時前には博物館を出て17時13分出雲大社前駅発の一畑電車に乗るつもりでしたが、すごい埴輪たちにノックアウトされて、これらが発見された今城塚古墳の発掘現場のVTRを見ていたら間に合わないタイミングになってしまい、結局予定より1本遅い17時58分発に乗車。途中、川跡駅大社線から松江線に乗り換えたのですが、いつのまにかドシャ降りでした。19時に松江しんじ湖温泉駅に着いて、雨の中15分ほど歩いて松江大橋北詰近くのホテルまで行き、チェックイン。夜間登閣が9時までなので、部屋に荷物を置いて、すぐに松江城へと向かいました。
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一畑電車の車両には島根県観光キャラクターのしまねっこがいました。頭が大社造りなので、猫型の神棚みたいです。ちなみに、手に持っている緑の物は勾玉です。

 8時前に到着し、ライトアップされた松江城天守へ。観光の時に雨というのは面倒くさいものですが、そのせいで人がいなかったので、その点はとてもラッキーで、雨の夜の国宝天守を堪能しました。
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ライトアップされた松江城

 日本の城で現存する天守は12ありますが、そのうち国宝指定を受けているのは、姫路城、彦根城松本城犬山城松江城の五つになります。松江城は長らく築城年が確定できなかったため国宝に指定されず、私がはじめて訪れたときにはまだ国宝ではありませんでした。しかし、6年前に松江神社で大山寺の祈祷札が見つかったことにより築城時期が1611年以前と特定され、2015年に国宝に指定されました。国宝天守の中でも唯一の正統天守と言われています。まあ、五つの城の中でも、徳川将軍家ゆかりの親藩大名である松平氏の居城は松江城だけなので、それも然りという感じですが。

 天守の中は各階に一人か二人しかいなくて、ほとんど貸切状態でした。時々すれ違う客は一人客が多く、あとは歴女っぽい二人連れがちらほら。「確かに、こんな雨の中、物好きしか来ないよなぁ」と思いながら、少し待てば人がいなくなるので、写真を撮りまくりました。
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地階の穴蔵の間にある鯱鉾と、国宝指定のきっかけとなった祈祷札。模擬札を使って、打ち付け位置が再現されています。札の実物は松江歴史館に収蔵されているそうです。

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鉄砲狭間から攻撃するときのイメージを表現したらしい顔出しパネル

 最上階に上がると、正座をしていた人が立ち上がって、階下に降りて行きました。天守内を照らすわずかなライトの明かりと外に広がる街のネオン、聞こえるのは雨の音だけ――「いや、これは瞑想もしたくなるわ」と共感しつつ、素敵な時間を邪魔してしまって、いささか申し訳ない気持ちになりました。
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四重五階天守の最上階

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天守最上階より、雨に煙る松江市街を望む。

 人が来るまで私も静寂の空間を味わい、二組の客が来たところで、階下に降りて、各階をもう一度一周しながら下っていき、40分ぐらいで天守を出ました。
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階段を下りる途中から見た天守

 ホテルに戻る途中、旧日本銀行松江支店の建物を利用したカラコロ工房というのがあって、そこに入っている「びいどろ」という店で、ホテルのチェックイン時にフロントでもらったサービスチケットが使えたので、食事をすることに。ドリンク1杯サービスでしたが、スパークリングワインは適用外だったので、まずは有料のスパークリングのオペラを頼んで、後から無料サービスの赤ワインをもらいました。食事はエスカルゴと宍道湖しじみボンゴレを注文。

 食べ終わっても雨は相変わらず降っていましたが、疲れたけど有意義な一日に満足し、10時前にホテルに帰着。これにて日程終了です。