羽生雅の雑多話

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京都・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪4 その1~本能寺、梅宮社(明智祠)、八坂神社

 昨日のNHK「SONGS」の郷ひろみは凄かったですね~。64歳で12曲ノンストップ歌唱のパフォーマンス、30分間ガン見で魅入ってしまいました。私が一番好きな「若さのカタルシス」は歌ってくれませんでしたが、十分に楽しませてもらいました。105もシングル曲があるのなら、12曲に入らないのは仕方がありません(笑)。バーティ・ヒギンズの名曲をカバーした「哀愁のカサブランカ」ですら入っていなかったし。それにしても、ヒロミ・ゴーとhyde、そして高見沢俊彦は別格ですね。もはや突き抜けています、超越しています、越境者です。ブラボー! NHKといえば、少し前に放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀」の本木雅弘スペシャルもおもしろかったです。4月から2か月ほどゴールデンウィークを含めて土日祝日は家の敷地からまったく出ないステイホーム生活でしたが、見る気になるのはNHKぐらい。なんだかんだ言っても、やはり民放とは違うと思いました。テレビやネットでは再放送や無料視聴などいろいろなプログラムを放送したり配信したりしていましたが、家に籠っていても、あえて時間を割いてまで見るような暇も興味もなかったので、一切視聴することなく、ただ黙々とPCで地味な作業をする日々を送っておりました。

 

 で、ようやく5月21日に関西、続いて25日には首都圏の緊急事態宣言も解除されたので、6月から明智光秀探訪を再開しました。6月14日が光秀の命日だったので、1年以上前からの予定どおり、墓参りがてら、二泊三日でゆかりの地を訪ねてきました。直前まで出かけるか悩みましたが、まだ感染の第2波の兆しは見えず、東京アラートもとりあえずレインボーに戻り、また、緊急事態宣言解除直後の人の動きを見るに、首都圏を含めて県境移動の自粛要請が緩和される19日以降のほうが人出が多いだろうと予想されたので。一週間の差なら感染状況は変わらない可能性が高く、それならば、より人混みを避ける選択をしたほうが賢明だと判断し、決行しました。人の動きを一律で制限できない以上、自衛が大切なので。

 

 12日の午前中で仕事を終え、12時37分品川発の新幹線に乗り、14時44分に京都駅に到着。駅近くのホテルにチェックインし、荷物を部屋に置いて出たのですが、雨が降っていたので傘を開きながら歩き出したら、左足を思いきり挫きました。痛みで一瞬血の気が引き、続いて視界がメニエール病みたいに歪み、呆然。嫌な記憶が一気によみがえり、しばらくその場に立ち尽くしました。

 

 昔、新木場駅で階段を踏み外して同じ左足首を捻挫したことがあり、その時は痛みで動けないばかりか貧血を起こして座り込み、なんとか駅前の交番まで辿り着いてタクシーを呼んでもらい、最寄りの東京臨海病院の救急外来に運んでもらったという苦い経験がありました。打ってもらった痛み止めが効くまで息も絶え絶えで、3時間後ぐらいにようやく起き上がれるようになったので、松葉杖を貸してもらい、歩き方の講習を受けて、神奈川県の自宅までタクシーで帰った次第です。その時の記憶があるので、立っていられるのならまだ大丈夫かと、とりあえずホテルの部屋に戻ろうとして歩いてみたら、痛みはあるものの歩けたので、これならもつだろうと思い、予定どおり駅へ行って地下鉄に乗り、本能寺へと向かいました。その怪我以来、左足が弱く捻挫がクセになっているので、耐性を付けようと毎日の体操で足首を回しているのがよかったのかもしれません。

 

 京都市役所前駅で降りて本能寺へ行き、まずは境内に入ってすぐの宝物館へ。昨年12月にも訪れているのですが、4月から「本能寺寺宝展 信長と光秀」という特別展を開催していて、例によってコロナのせいで緊急事態宣言解除まで休館していましたが再開し、6月2日が本能寺の変織田信長の命日でもあったので、こちらも墓参を兼ねて行ってきました。特別展自体は9月いっぱいまで開催しているのですが、第2波の到来でいつまた休館するかわからないので。

本能寺宝物館正面

今や本能寺の主のようになっている「三足の蛙」がお出迎え。これはレプリカなので撮影可能でした。(注:香炉です!)

 

 ちなみに、この特別展は明智継承会との共催で、だからなのか、個人蔵の品もけっこう展示されていて、「伝光秀公兜」とか「伝光秀公短冊」とかがあり、とても興味深かったです。あくまで“伝”ではありますが、兜は吹き返しに桔梗紋があしらわれたていたので、明智家ゆかりの物ではあるのだと思います。ちなみに、慌ててメモった走り書きによれば、短冊に書かれていたのは「風に吹き寄せる氷の藻を うち出る浪がとどめる春の福である(正しくは、前風にとどめん 氷の藻に うち出る浪や 春の福)」。和歌にしては字余りなので手紙の一部なのか何なのかはわかりませんが、光秀の風流人としての片鱗を見たような気がしました。

 

 なので、それなりに展示品はおもしろかったのですが、一番見に来てよかったと思ったのは、展示解説の中に、「明智入道玄宣、光秀曽祖父」という記述を見つけたときでした。

 

 実は、引きこもり生活の2か月間はPCに向かって何をしていたかというと、光秀の血筋を明らかにしようと思い、土岐頼貞から土岐定政ぐらいまでの明智家系図を作っていました。史料不足で5月半ばには行き詰まりましたが。土岐頼清の次男である頼兼を祖とする明智嫡流の通字は土岐宗家と同じ「頼」なので、「頼」ではなく「光」の通字を名に持つ光秀は嫡流筋ではなく、頼兼の跡を継いだ頼重の弟とされる頼高の子である光高の血筋であろうというところまでは確信しているのですが、残念ながら光高から光秀までの系譜が考察しきれていません。しかし、その系譜の中に現れるのが明智玄宣なのです。歴史事実の証左としては展示解説では弱いですが、その解説を書くに至った史料があるはずなので、参考にはなります。これを基に仮説を立てて検証していくこともできるので、コロナ禍で図書館に行くこともできず頓挫していた作業が多少なりとも進みそうな気がして、小躍りしたい気分になりました。

 

 宝物館を見学したあとは、6月2日が信長忌だったので信長廟にお参りし、引き上げる前に御朱印授与所に寄ってみたのですが、そうしたらなんとその6月2日に発売されたばかりの、光秀コラボの限定朱印帳と限定朱印帳袋があったので、つい衝動買いしてしまいました。12月に来たときに御朱印をいただいた朱印帳をその日も持参してはいたのですが……。朱印帳表紙の片面は木瓜紋と「大本山本能寺」の文字、もちろん「能」は正式の異体字です。反対面には桔梗紋と光秀の歌があしらわれていて、蛇腹式なので好きなほうから使用できるというもの。書かれている歌は「心しらぬ 人は何とも 言はば言へ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」。坂本龍馬の「世の人はわれをなにともゆはばいへ わがなすことはわれのみぞ知る」はこの歌を意識したのではないかとも言われている歌で、さらに和宮の「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」にも通じる歌です。ということで、せっかく本能寺の寺号入りの朱印帳を買ったので、本能寺の御朱印もそちらにいただいてきました。

光秀コラボの限定朱印帳と限定朱印帳袋。朱印帳袋は水色桔梗をイメージしたライトブルーに御歌頭さんの墨絵と反対側には白い桔梗紋がプリントされています。

 

 京都市役所前駅に戻り、再び地下鉄に乗ると、次は東山駅で下車し、明智光秀首塚と伝わる梅宮社へと向かいました。三条通から白川沿いを南に曲がって少し歩くと、塚を長らく祀ってきたという老舗和菓子屋「餅寅」が見え、5時閉店の30分前でしたが、店先のショーケースを覗くと名物の「光秀饅頭」がまだあったので、麩饅頭とペットボトルのお茶と一緒に購入。麩饅頭は大好きなのですが、日持ちがせず、袋で買うとひたすら食べ続けなければならないため、最近はあまり食べていなかったのですが、バラで買えたので、「いったいいくつ饅頭食べる気だよ」と内心で自分に突っ込みを入れながらも、ついつい買ってしまいました。

名物「光秀饅頭」と、この店で初めて見つけた京都ブレンド茶「明智光秀」。「光秀饅頭」は黒糖生地の粒餡と抹茶生地の白味噌餡の2種類で、どちらかといえば白味噌餡が好みでしたが、粒餡も手作り感のあるしっかりとした食感で味わい深かったです。

京都ブレンド茶「明智光秀」は、光秀ゆかりの旧三か国――山城、丹波、丹後産の茶葉をブレンドしたお茶だそうで……芸が細かい!

 

 「餅寅」を出たあと、店の脇の横道を入ると、明智祠こと梅宮社に到着。事前に調べていたので知っていましたが、住宅地の一角にある本当に小さな祠でした。けれども、小さいながらも、ちゃんと管理されていて、きちんと祀られていることがわかる佇まいでした。

祠の前にある立札

祠の中は人感センサーが働いて、近づくと自動で明かりが点きます。

 

 祠の手前にある石碑には「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と刻まれていました。慈眼寺に祀られていた位牌の戒名は「主一院殿前日州明叟玄智大居士神儀」。はたして「長存寺殿」とは? 「主一院殿」とは?……大いに気になります。ウィキペディアで調べたところ、戒名は法号の最高位が院殿号、位号の最高位が大居士とのこと。となると「主一“院殿”前日州明叟玄智“大居士”神儀」という戒名は法号位号も最高位ということになります。一方、「長存“寺殿”明窓玄智“大禅定門”」は法号が寺殿号で、位号は大禅定門……明らかに位が違うのです。これは何を意味するのか……。

 

 また、祠の横には祠内に祀られていると思われる「長存寺殿明窓玄智大禅定門」の位牌と彫像の写真が貼られていたのですが、その像は慈眼寺のくろみつ像や本徳寺の肖像とは似ていない気がしました。

位牌と一緒に祠の中に祀られているらしい像

 

 以上を併せ考えると、ここは明智光秀首塚ではなく、光秀として死んだ誰かの首塚ではないかという気がしました。つまり身代わりとか影武者です。その人物が「長存寺殿」なのではないかと思います。長存寺をネットで調べると、蒲郡市の寺がヒットしました。愛知県ですが尾張ではなく三河に属し、今川家、徳川家に仕えた鵜殿家の菩提寺――何やら徳川家康と天海の影がちらついてきたので、余裕ができたらもう少し詳しく調べたいと思います。

 

 塚を後にすると、八坂神社がわりと近いことがわかったので、歩いていくことにしました。何度もお参りしている神社ですが、疫病封じの神である蘇民将来を祀る摂社があることを思い出したので。白川沿いに南下して東山通に出たら知恩院前を通り過ぎ、10分ほどで到着。

白川にかかる一本橋と紫陽花

 

 まずはじめに目的の疫神社に行くと、鳥居に夏越の祓の茅野輪が設置されていたので、案内板にあるとおり「蘇民将来子孫也」と唱えてくぐり参拝。続いて、まだ社務所が開いていたので、疫病退散の御朱印をいただきました。その後、せっかく来たので本殿にも参拝し、本殿脇にも茅野輪が設置されていたので、作法どおりに茅野輪くぐりをしてきました。もちろん神頼みもコロナ対策の一環です。人知の及ばぬ物事に関しては、もはや神仏にすがるしかありませんから――昔も今も変わらず。

八坂神社摂社の疫神社

八坂神社本殿脇の茅野輪

八坂神社末社大国主社の前にある大国主と白兎の石像。「蘇民将来子孫也」と書かれたマスクをしてコロナ対策をアピール。

疫病退散の御朱印

 

 境内を出たところで、しばらく止んでいた雨がまた降ってきたので、祇園バス停から市バスで京都駅に戻り、JR京都伊勢丹の「松山閣」へ。思ったとおり予約なしでも入れて窓際の四人席に案内されたので、いつもの湯葉桶膳と、今回は「京の嵯峨野」という冷酒を注文。食事後、上機嫌でホテルに帰ろうとしたところ、アルコールを飲んで忘れていた左足の痛みが席を立ったとたんによみがえったので、駅構内にあるマツモトキヨシに寄り、サロンパスを買ってから戻りました。ともあれ、これにて日程終了です

 

※2021年3月8日追記

 本能寺で見た短冊に書かれていた伝光秀の歌について、コメントにて正しいものを教えていただいたので本文中に追加しました。ついでに読み直したら明智頼兼の父の名も間違っていたので、「頼貞」を「頼清」に修正しました。