羽生雅の雑多話

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京都・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪4 その2~滋賀院門跡、西教寺、神足神社、勝竜寺城

 6月14日の光秀の命日に合わせた今回の探訪は、墓参りも目的の一つだったので、13、14日の二日間で光秀の首塚がある亀岡の谷性寺と、明智家の菩提寺である坂本の西教寺を訪れることにしていました。当日までどちらから行くか悩んでいたのですが、13日の土曜は朝から雨降りで、捻挫している左足のこともあったので、何度か訪れたことがあり、多少なりとも土地勘のある坂本を選びました。

 

 坂本では現在、西教寺を中心に「びわ湖大津・光秀大博覧会」が開催されていて、この博覧会は光秀の居城だった坂本城の城下町一帯が会場となっているのですが、残念ながら今回は傘を差していても濡れずに歩くのは無理そうなくらいの本降りだったので、三つのメインパビリオンに絞り、ピンポイントで行ってきました。

 

 9時前にホテルを出て京都駅からJR線で膳所駅まで行き、京阪電車に乗り換え、終点の坂本比叡山口駅で下車。10時前に到着し、日吉大社へと続く馴染みのある道を歩いて滋賀院門跡へと向かいました。光秀大博覧会のメインパビリオン四つのうちの一つで、「比叡山坂本と光秀展」と題した企画展示が行われているからです。

 

 滋賀院門跡は比叡山の里坊で、開基は南光坊天海。天海は天台宗の大僧正で、織田信長の焼き討ちで荒廃していた延暦寺の再興に努めた人物なので、比叡山里坊の開基であっても何らおかしくはないのですが、気になったのは境内に慈眼堂があることです。

 

 慈眼堂は慈眼大師諡号を持つ天海の廟所で、全部で三つあり、滋賀県の大津滋賀院の他、栃木県の日光輪王寺と埼玉県の川越喜多院に存在します。天海は輪王寺喜多院の住職だったので、日光と川越は納得がいくのですが、比叡山では南光坊に住居し、よって東塔付近にあってよさそうなものなのに何故よりによって光秀の居城があった坂本にあるのか――と思っていました。慈恵大師良源の墓は比叡山中にあるので……。そんな疑問が生じると、同時に、やはり明智光秀天海説は根も葉もない話ではないのかもしれないとも思いました。謎の戦国武将である明智光秀光秀が築いた坂本城坂本にある滋賀院慈眼堂慈眼堂に祀られた慈眼大師天海天海諡号と同じ寺名を持つ慈眼寺慈眼寺に伝わる明智光秀坐像→慈眼寺の裏手にある光秀が築いた周山城……ということで、これだけ関連性のあるキーワードが出揃えば、何か関係はないのかと調べたくなるのが歴史オタクの性です。こうして私の明智光秀探訪は始まりました。

 

 滋賀院に到着したときはどしゃ降りで、見物客は一人もいませんでした。展示はパネル展示の他、天海や天台座主関連の物があり、僧形の鎧や、背当て、肘掛けはもちろん書見台まで付いた至れり尽くせりの駕籠などがあって、おもしろかったです。それと、天海の御遺訓というものがあり、家康の御遺訓は知っていても天海は知らなかったのですが、あまりに言い得て妙で笑ってしまいました。「気はながく 務めはかたく 色うすく 食細うして 心ひろかれ」という五七五七七の短いものなのですが、「人の一生は重き荷を負ふて遠き道を行くがごとし」の家康とどこか通じるものを感じて、似た者同士だったのではないかと思いました。二人とも明るい性格ではないな、と(笑)。

滋賀院門跡前。雨の中、明智光秀の幟がはためいていました。

滋賀院門跡についての説明

小堀遠州作の庭園

おなじみ、芭蕉翁の句碑。句は「叡慮にて賑ふ民や庭かまど」だそうです。

 

 廟所の慈眼堂にも寄りたかったのですが、かなり段数のある階段を上っていかなければならず、雨脚は強い上に左足を捻挫していたので、ここで無理して滑って転んだらエラいことになると思い、断念しました。今回は悪天候のため坂本城址などを訪れるのも諦め、しかもメインパビリオンの一つである大津歴史博物館の企画展は調べたら10月だったので、また秋に再訪しようと早々に決めていたので、未練はありませんでした。

 

 次の目的地である西教寺は、以前徒歩で行ったことがあり、この雨と足の状態で歩いていくのはしんどいことがわかっていたので、バスに乗ることにしました。最寄りの日吉大社前バス停に着くと、博覧会のための臨時便がけっこう設定されていることがわかったのですが、コロナの影響で運行しているのかわからなかったので、坂本に来るたびに食事をしている近くの芙蓉園本館で訊いてみることにしました。11時に開店したばかりの店に入って訊くと、バスの時刻を調べてくれ、次の時間まで20分ほどあったので、コーヒーを頼んで待つことにしました。20分では、いつもこの店で食べている近江牛の柳川御膳は食べられなかったので。

 

 コーヒーを飲み終わると、バス停まで行ってバスに乗り、西教寺バス停で下車。相変わらずどしゃ降りでしたが、総門を入って右手の拝観チケット売り場には5、6人ほどが並んでいたので、総門の下で雨宿りして待ち、購入。西教寺では2か所がパビリオンになっていて、里坊の禅明坊は光秀館という形で公開され、びわ湖大津「麒麟がくる」展と、近江の光秀ものがたり展が開催されています。展示は大河ドラマで使用された衣装や小道具と、出演者のコメントが映像で流され、大河ドラマ館のようなものでしたが、琵琶湖のまわりに存在した城についての解説はなかなかおもしろかったです。坂本城、宇佐山城、大津城、膳所城、瀬田城など西側の城だけではなく、安土城長浜城なども紹介されていました。

西教寺総門。以前来たときには見なかった横断幕が下がっていました。

禅明坊入口。展示会場は原則撮影禁止でしたが、玄関だけ許可をいただけました。衝立の右横の柱に何かいたので近寄って見ると……

戦装束のねずみ(のキャラクター)がいました。大津のねずみだから「おおちゅー」……思いきり駄洒落です(笑)。

唯一の撮影スポット。床几に腰かけて光秀夫妻と写真が撮れます。

 

 禅明坊の会場から外に出ると、隣に土産物などを販売する物産館が設けられていたので立ち寄り、坂本城の御城印と、朱印帳ならぬ御城印帳というものを発見したので購入。御城印帳なるものはそのとき初めて見たのですが、丸岡城でいただいてから、御城印があれば記念にいただくようになっていたので、ちょうどよいものを見つけたと嬉しく思いました。会計中にふとレジ横を見ると、ドリンクを冷やしている保冷庫の中に「麒麟がくる」と書かれたラベルのキリンレモンを発見したので、ついでにそちらも追加購入。ゆかりの地限定品だそうで、キリンもなかなかシャレたことをやると感心しました。

坂本城の御城印と、布貼りに金押し文字の御城印帳。裏表紙は表紙と同じ金押しの桔梗紋です。

ゆかりの地限定ラベルのキリンレモン

 

 続いて、もう一つの会場である西教寺に行き、まずは御朱印授与所へ寄ると、1日10食限定のランチの張り紙があったので、まだ残っているか訊くと、あるというので申し込んで支払いをし、朱印帳を預けて大食堂へと向かいました。西教寺では秋に菊御膳が食べられるのですが、以前来たときには時間が遅くて残っていなかったので、食べそびれてしまいました。

 

 大食堂に行くと、厨房に賄いさんたちがいるだけで客は一人もおらず、広い食堂の一席にすでに一つの膳が用意されていて、厨房に声をかけて席に座ると、温かい御飯と味噌汁が出てきました。この日のメニューは菊御膳とはかけ離れた煮込みハンバーグ……御朱印授与所でそれでもいいかと訊かれたので、わかってはいましたが。特に精進料理風ということもなく、普通の定食屋メニューといった感じでした。

西教寺大食堂でいただいた煮込みハンバーグのランチ

 

 食事を終えて御朱印授与所に戻ったときには、雨がいささか小降りになっていたので、朱印状を受け取ると外に出て、先に墓参りをすることにしました。

明智一族の墓

明智一族の墓につての説明。西教寺塔頭過去帳にあった戒名「秀岳宗光大禅定門」が明智光秀であるとされています。

光秀の妻、妻木熙子の墓

熙子の墓についての説明

 

 墓参りのあと再び屋内に入って、本坊、書院、客殿、本堂を順に拝観。明智光秀公資料室では光秀直筆の寄進状を見ることができました。これは堅田の戦いで犠牲になった家臣を供養するため西教寺に米を奉納したときの書状で、犠牲者の中には家名がない身分の低い中間の名もあり、その中間の分も他の武士と同じ量の米が寄進されていることから、家臣思いで、なおかつ身分の隔てなく扱った光秀の人柄が偲ばれるといわれている史料です。

 

 建物内をひととおり見たあと、物産館で買い物をしたときに「西教寺の唐門には麒麟がいるので探してみてください」と言われたので、最後に唐門を見に行くことに。そんなことは知らなかったので、以前訪れたときにも唐門は見ましたが、麒麟はわかりませんでした。唐門の向こうには、天気が良ければ琵琶湖が見えるのですが、この日はまったく見えず。再び激しさを増した降りしきる雨の中、なんとか門を見上げて麒麟を探しました。麒麟がくる世を望むのは昔も今も変わりませんから(笑)。

西教寺唐門

唐門に彫られた麒麟らしきもの

 

 唐門を後にし、総門前のバス停に向かうべく参道を下る途中、物産館で売り切れていた博覧会オリジナルの「桔梗之華」という和菓子が午後にはまた入荷すると言っていたことを思い出したので、2時前でしたが念のため寄ってみると、ラッキーなことに補充されていたので買いました。

びわ湖大津・光秀大博覧会オリジナルの「桔梗之華」。きれいな桔梗の花の形をしたお菓子です。一つ一つ手で形作っているそうです。

井筒八つ橋本舗の商品なので八つ橋みたいなものだろうと思っていたら、ずばり生八つ橋でした!

 

 帰りは14時2分発のバスで比叡山坂本駅まで行き、JR線に乗車。大津市歴史博物館見学にあてていた時間が余り、3時までに長岡京駅に着けそうだったので、当初予定にはなかったのですが、勝竜寺城公園に行くことにしました。

 

 勝竜寺城細川藤孝(幽斎)の居城で、藤孝の嫡男・忠興の妻となった、光秀の娘・玉(ガラシャ)が輿入れした城であり、さらに山崎の合戦では光秀が本陣を構えた城でもあります。城址は現在公園として整備されていて、櫓を模した資料館で光秀、ガラシャ、藤孝、忠興4人を取り上げた期間限定の企画展示が行われていました。

 

 長岡京駅に着くと、コロナの影響で3時までの時短営業になっている観光案内所へ行き、勝竜寺城の御城印を購入。勝竜寺住職の手蹟である通常版の他、藤孝の書状から「勝竜寺城」の文字を抜き取ったという限定版があったので、限定版を選びました。そして地図をもらい、まずは近くにある式内社の神足神社を目指すことに。ただいまは光秀探訪に夢中ですが、神社巡りはライフワークなので。

勝竜寺城の御城印。「勝竜寺城」の文字を抜き取った細川藤孝の書状についての説明が書かれた栞がもらえます。

神足神社の社号標

 

 神足神社の祭神は天神立命。置いてあった由緒書きには、祭神は舎人親王の子といわれていると書かれていましたが、神立=カンタチで、『ホツマツタヱ』によれば、三代大物主ミホヒコの長男で、事代主ツミハの兄――つまり、ソサノヲ=素佐嗚の玄孫であり、オホナムチ=大己貴の曽孫であり、ヲコヌシ=大国主の孫であり、カンヤマトイハワレヒコ=神日本磐余彦こと神武天皇の伯父という、たいへん由緒正しき神です。

 

 ……なのですが、初代神武天皇の祖父であり、事代主として各地に祀られている弟のツミハに比べると地味な神ではあることは否めません。けれども、あまり主祭神として見ることのないカンタチが祀られているということは、どこかから勧請されたのではなく、はじめからこの地に祀られたのだと思います。『先代旧事本紀』によると、天神立命は山背国久我直の祖なので、山城国に根付いた久我直が祖先を祀ったのかもしれません。よって社名も元々は「コウタリ」ではなく「カンタリ」で、「カンタチ」が訛って「カンタリ」となり、のちに「神足」の漢字で表されたので、いつしか「コウタリ」と読まれるようになったと考えられます。

天神立命舎人親王が祭神とされています。つまり、天神立命舎人親王ではないということです。

神足神社拝殿。参拝客は誰もおらず、社務所も開いていませんでしたが、提灯が点いていてきれいでした。

神足神社本殿

拝殿横にあった説明書き

 

 とはいえ、舎人親王の名が出てくるからには、何か関係があるのだろうとは思います。長岡京は50代桓武天皇平安京の前に建てた都で、舎人親王は47代淳仁天皇の父。舎人親王淳仁天皇など天武天皇系だった皇統が桓武天皇の即位によって天智天皇系に移ったわけですから、桓武は遷都にあたり、夢の話をきっかけにして、この地の守護神である天神立命の聖域に、天智系の自分に恨みを持ち新しい都に害をなしそうな舎人親王親子を祀って封じ込めようとしたのかもしれません。淳仁天皇は帝位を廃されて淡路に流され、そのまま現地で亡くなり、暗殺だったともいわれているので、祟ってもおかしくありませんから。要するに怨霊封じです。これぞ政です。おそらく桓武にとって、長岡京の地主神である天神立命を祀る社に舎人親王を祀ることは新都における政治の一環だったはずです。古くからこの地を治めてきた久我氏を押さえるという意味でも――。なので、夢の話は桓武の意図的なでっちあげだと思います。

 

 神足神社のそばには勝竜寺城の土塁や空堀の跡があるのですが、雨降りの上に足場が悪かったので、残念ながら素通り。神社から程近い勝竜寺城公園に到着し、資料館2階の展示室に入ると、見物客が3、4人ほどいて、あとから地元のボランティアガイドらしき人に率いられた5、6人の団体客も来ました。

勝竜寺城公園の櫓を模した資料館。明智家の桔梗紋と細川家の九曜紋の幟旗がはためいていました。

 

 展示と映像資料は細川家寄りの視点で制作されていて、これはこれでおもしろいと思いました。光秀の思いもあれば、藤孝や忠興にもそれぞれの思いがある――それが絡み合って生じたことが歴史です。たとえ闇に葬られて不明ではあっても「真実は一つ」ですが、解釈の仕方はどちらが正しいわけでも間違っているわけでもない、立場が違えば同じ事実に対しての見方も違い、評価も変わります。それは今も昔も変わりません。

明智玉と細川忠興夫妻の像

 

 資料館を出て公園内を一周すると、4時になろうかという時刻だったので、これにて切り上げ、京都駅に戻るため、徒歩で長岡京駅へと向かいました。京都駅に着くと4時半ぐらいだったので、いったんホテルに戻り、改めて夕飯を食べに出かけようかと思いましたが、足も疲れていて痛かったので面倒くさくなり、この時間なら空いているだろうと思い、西口改札前にあるJR京都伊勢丹の別棟であるスバコに入っている「はしたて」に行ってみることにしました。和久傳がやっている人気の店なので、昼食や夕食の時間帯は混んでいるため行ったことがなかったので。案の定、観光客が激減している上に時間もずれていたせいか誰もいませんでした。食事後、ホテルに戻り、日程終了です。

「はしたて」の金目鯛丼セット。15~17時のあいだに食べられる軽食扱いのメニューでしたが、御飯とにゅう麺でボリュームもそこそこあり、大好きな湯葉ジュンサイまで食べられたので大満足でした。