副題が「明智光秀と土岐定政が従兄弟!?」という、これぞキャッチコピーの見本というような、たいそう好奇心が煽られた沼田市歴史資料館の特別展「沼田藩土岐氏と明智光秀」。ステイホームで明智家の系図を作成しているときに偶然、3月末までの会期が6月末まで延長されていることを知ったので、天啓と思い、行ってきました。常設展示室内特別展コーナーというほんの一角だったので、最初は「えー、これだけ?」と思いましたが、数少ないながらも展示品は明智光秀の史料としては第一級の素晴らしいものだったので、すぐにここまで足を運んだ甲斐があったと嬉しく思えました。
展示室に貼られていた特別展の副題についての解説
常設展示室内の一角に設けられた特別展コーナー
コーナーの左の壁に貼ってあった特別展の新聞紹介記事
明智光秀のイトコ、ないしはハトコと目される土岐定政は、沼田藩主として明治維新まで沼田を治めた土岐家の祖で、初めは菅沼藤蔵といいました。菅沼家は今川家の家臣でしたが、寡婦となっていた藤蔵の母の再嫁先である奥平家が今川家から離反したため、縁戚である菅沼家もそれに呼応し、藤蔵は同じく今川家の支配から逃がれた徳川家康に招聘されて仕えることになりました。そして姉川の戦いなど徳川家が参戦した戦で武功を立てて大名となり、父明智定明が殺されて以降絶えていた家を再興し明智姓を名乗り、のちには当主頼芸が美濃から追放されたあと没落していた土岐宗家の跡を継ぐように家康から命じられて土岐定政となり、沼田藩主土岐家の礎を築きました。
見どころはいくつもありましたが、今回の展示品で一番ドキドキしながら対面したのは「土岐頼尚譲状」です。明智家の系図を作る上で何度も活字化された文面を見返し、この文面から読み取れる事実をあれやこれやと推測した資料の直筆の現物が目の前にあるのだから、食い入るように見ました。
土岐頼尚譲状
土岐頼尚譲状の現代語訳
土岐明智氏系図。『群書類従』所収の「明智系図」を基に作成された、きわめて一般的に知られているもの。
パネル展示されていた系図にもあるとおり、頼尚は光秀の曽祖父にあたるとされる人物で、彼の次の代から光秀の血筋である頼典流と定政の血筋である頼明流に分かれ、定政が徳川家に仕えて戦国の世を生き残ったことで結果的に頼明流が土岐明智家、ひいては土岐氏の嫡流である土岐宗家となります。ただし系図を見ればわかるように、江戸時代より前においては、光秀が属する頼典流の通字は「光」で、定政が属する頼明流の通字は「定」。つまりどちらも土岐宗家の通字である「頼」ではありません。のちに定政の血筋は土岐氏の明智家ではなく宗家となるので「頼」を継いでいくようになりますが。
戦国期に頼明流が「定」を名乗ることになった理由はほぼ明らかで、定政の父である定明が菅沼“定”広の娘を娶って、おそらく定広の婿養子となり、さらに父を叔父に殺された定政が母方の叔父である菅沼“定”仙に身を寄せて、彼の養嗣子になったからです。よって当時頼明流は頼尚の嫡流ではあるが明智氏ではなく、あくまで菅沼氏であり、ならば土岐明智氏の嫡流にはなり得ないということになります。というよりも、頼明(頼尚の譲状に出てくる「実子彦九郎」のこと)は単に頼尚が安堵されていた領地を譲られたというだけで、明智城城主の地位は頼典が継ぎ、系譜上頼典の子とされる光安(光秀の父光綱の弟で、光秀の叔父)がその後を継いだのではないでしょうか。たぶん定明は、継ぐ家がなかったから、菅沼家の婿養子となったのでしょう。そして、舅定広の「定」を受け継ぎつつ、実父頼明からは「明」をもらって「定明」と名乗ったのだと思います。
一方の頼典流は、譲状にあるとおり、嫡子頼典は頼尚からは絶縁されますが、紛れもなく明智氏であり、しかし諱には「頼」に代わって「光」が入るようになります。頼典のことも別名を“光”継とする系図があります。これは、定政が菅沼定仙の養嗣子だったがゆえに「定」を継いだように、何らかの理由で「光」を継ぐようになったからで、したがって光継の別名を持つ頼典は、まさにそういう位置付けの存在だったのだと思います。定政の例のように、他氏、他家、他流の養子になったとか、他氏、他家、他流から養子を迎えたとか等々の理由があったはずです。であるならば、おそらくそこに、本能寺の展示解説で光秀の曽祖父とされていた明智玄宣がからんでくるのではないかと思っています。
その他、『土岐定政伝』や『定政伝記』などの土岐家文書の展示があり、それらによると、天正10年(1982)5月に安土城で光秀が徳川家康の饗応役を務めた際に、随臣として家康に従っていたと思われる定政に光秀から贈り物があったことがわかります。文書には、光秀が「自分は土岐一族で定政の従兄弟である」と言って定政に通好みの品を贈ったとあり、今回展示されていた「血吸銘の槍」の他、備前兼光作の剣、土岐氏の烏絲綴織の甲冑、佐々木高綱の馬の轡などを贈っています。これらの品々のことは沼田藩土岐家の家伝秘蔵品目録に記載されているのですが、それによると甲冑も轡も土岐氏伝来の宝であり、したがって土岐一族でなければ真の価値がわからないものなので、わざわざ「通好み」といった表現が使われたのではないでしょうか。
『土岐定政伝』に見られる光秀に関する記述
『定政伝記』に見られる光秀に関する記述
明智光秀が土岐定政(当時は明智定政)に贈ったという「血吸」という銘の槍
図録が売ってなかったので写真を撮りまくりましたが、それでも物足りなかったので、何か持ち帰ることができる資料がないかスタッフの人に訊くと、記念講演会のレジュメのコピーなら渡せるというので、有料でコピーを取ってもらうことにしました。必要な部分とカラーかモノクロか指示してくれというので、原本を借りて見たところ、とても抜粋できなかったので、全部カラーコピーしてもらうことにしました。「千円以上になるけどいいか」と訊かれましたが、図録を買ったと思えばよい金額なので、お願いしました。
コピーしてもらった資料によると、今回展示されたのは昭和54年に土岐家から沼田市に寄贈された土岐家資料の一部と個人蔵のものだそうです。土岐家からの寄贈品は700以上にも及ぶそうで、先に言及した家伝秘蔵品目録もその一つですが、そこには明智光秀から譲られた佐々木高綱の轡について「土岐家代々嫡長伝来の品」という注記があるとのこと。つまりその意味は、単に土岐家伝来の品ではなく、嫡子長子に伝えられた品であるということです。ということは、光秀の生前はやはり光秀が頼典(光継)→光安と続いた土岐明智家の当主であり、それゆえ「土岐家代々嫡長伝来の品」を所持していたのかもしれません。あるいは、そうではなく、単に、土岐宗家の土岐頼芸が美濃を追放されたのち、または明智城の落城後に散逸したものを、出世した光秀が買い戻しただけかもしれませんが。
安土城での饗応のとき、定政は家康の陪臣ではありましたが、武田攻めでの功により、武田家旧領の甲斐国巨摩郡に一万石を与えられて大名となり、これを機に、菅沼姓から明智姓に改名しました。『定政伝記』には「光秀、其の家声墜とさず嘉しめ贈遺する」という一文があります。つまり光秀は、新たに大名家となり、自分と同じ明智姓を名乗ることになった定政の家を土岐明智家の別家と認めて祝し(どちらが嫡流筋かはともかくとして)、清和源氏の名門として聞こえが高い土岐明智家にふさわしいものを贈った――ということなのかもしれません。いずれにしろ気になるのは、この「贈遺」が本能寺の変の約1か月前に行われたことです。もし光秀がその時点ですでに謀反を計画していたのなら、土岐家ゆかりの宝物が失われないように定政に託したとも想像され、であるならば、光秀は自分の身や家が滅びる可能性があることを想定していたと考えられます。
土岐家文書の成り立ちがわかる年表
土岐家文書の成り立ちがわかる地図
以上のような考察が頭の中を駆け巡るくらい触発された有意義な展示だったので、本当に行ってよかったです。明智光秀と土岐定政はイトコなのかハトコなのか、頼尚と玄宣という二人の曽祖父とされる人物は光秀とどう繋がるのか、「光」の通字はどこから来ているのか……このあたりが見えてくれば明智光秀の謎はかなり明らかになると思うので(それが正しいと証明されることはまずないと思いますが……)、引き続き謎解きに励みたいと思います。