珍しく二日続けて興味のある番組が放送され、何時間かテレビの前に陣取ることになったので、横目に見ながら福井遠征記の続きを書きました。時間がもったいなくてテレビだけ見るということができない人間なので。たいてい食事をしたり新聞を読んだり(拾い読み)メールやネット情報をチェックしたりしています。――なのですが、昨日の長谷川博己さんの「ファミリーヒストリー」も照ノ富士関の「逆転人生」も、今日の吉田都さんの「プロフェッショナル」も文句なしにおもしろくて、時折手が止まっていました。さすがNHK。ドラマ以外も見甲斐があります。
さて、遠征最終日の15日は一乗谷に行くだけだったので、9時40分にホテルをチェックアウト。それからフロントで荷物を預かってもらおうとしたのですが、「お預かりしていません」と断られたので、駅に行ってコインロッカーを探して入れました。感染予防対策の一環なのかもしれませんが、こんなことは初めてで、たとえコロナのせいであったとしても、チェックイン前チェックアウト後の荷物の預かりは基本的なサービスで、ないとたいそう不便なので、以後福井でこのホテルを利用することはないと思いました。全国チェーンなので他の地方にもあり、以前金沢や名古屋で泊まったときには、そんなことはなかったと記憶しているのですが。
福井で発見された恐竜――フクイラプトルとフクイサウルスのトリックアート。なんと福井駅の駅ビルの壁に描かれています。駅の正面にあたる西口には恐竜がいっぱいいて、時折吠えているものもいます。
――ということで、朝からやや不快な気分で観光案内所へ行き、900円で一乗谷朝倉氏遺跡資料館から一乗谷遺跡内が乗り放題になる朝倉氏遺跡フリーバスチケットを購入。前日に永平寺までのバスチケットと一緒に買おうと思ったのですが、使用する当日しか販売できないと言われて買えなかったので。フリーパスは日付印を押してもらったり、ビンゴのように窓の形になっている数字を折り込んだり、スクラッチになっていて日付の数字を削ったりするものが多く、当日しか買えないというのも初めてだったので、その時にも少々イラっとしましたが、渡されたチケットを見たらレシートのような印字の紙だったので、支払いをするときにしか有効年月日の日付が入れられないのだろうと思いました。
永平寺行きのバスは特急で、途中一乗谷の中にあるバス停に何か所か停まると永平寺まで停まらないのですが、前日永平寺に行く途中で見た一乗谷が思っていた以上の人出で、特急バスは混むような予感がしたため、それより20分早い10時発の浄教寺行きの路線バスで行くことにしました。一乗谷までの所要時間は特急と5分ほどしか変わらないので。特急バスの乗り場は福井駅東口の2番乗り場でしたが、浄教寺行きのバスは西口の5番乗り場。駅を越えた反対側で、バス停に5分前にいても間違えていたら確実に乗り遅れるので、観光案内所で事前に訊いておいてよかったと思いました。
問題なく座れる混み具合のバスに乗り、28分には復元町並バス停に到着。一乗谷城の御城印は復元町並南口の入場券売り場の隣にある窓口で販売していることをネットでチェック済みだったので、まずはそれを買いに行きました。購入後、復元町並の見学は後回しにし、十五代室町将軍足利義昭の御所があった安養寺跡に行くためバス停に戻り、42分発の「朝倉ゆめまる号」に乗車。遺跡と周辺を往復する無料シャトルバスで、安養寺跡バス停にはこのバスしか行かなかったので。バス停は復元町並がある西側にしかないため、そちらで待っていたのですが、安養寺跡方面行きの「ゆめまる号」が停まるのは車線の向こうの東側なので、事前に反対側にいて、バス停も何もないので、バスが来たら乗車の意思表示をする必要があります。まるでギリシャのようです。まあ、ここも遺跡ですし。
一乗谷城の御城印。アマビエバージョンもあったので、2枚買いました。
御城印を販売する窓口の横にもあった「明智光秀 雌伏の地」の看板。一乗谷が❺で、明智神社が❸、称念寺が❷でした。❶と❹はどこなのかわかりません(笑)。調べたら美濃街道、岡太神社・大瀧神社、三田村氏庭園とのことでした。場所も、光秀とどんなゆかりがあるのかも知らないところですが。
「ゆめまる号」のドライバーに「安養寺に行くの? 誰もいないよ」と言われ、無料シャトルバスなのに自分の他に誰も乗らず、また誰も乗っていなかったので、なかばそうかもしれないと思いつつ「まあ一応、足利将軍の御所跡なので……」と応じると、次のバス停なので2分ほどで到着。遺跡に着いてみると一人の先客がいて、すぐに慌ててバス停に小走りで行き、ここが終点のため同じ道を戻っていく「ゆめまる号」に乗っていきました。
安養寺跡。はためく幟旗には「明智光秀 雌伏の地」と書かれています。
前の写真の向かって左にある木。なんの木かわかりませんが、とてもきれいでした。
安養寺跡の説明板
いま行ったばかりで、次の「ゆめまる号」は11時16分発だったので、遺跡を見たあとは歩いて復元町並まで戻ることにしました。車で走って距離感はつかめ、15分も歩けば着くと思ったので。木々が色づいた道中の風景がとてもきれいで、これはこれでよいと思いました。
安養寺跡から復元町並に向かう途中の風景
上城戸を越えたあたりで遭遇した見事な一本イチョウ
脇の小道を通り過ぎるときに下からパシャリ。
復元町並まで戻ると、天気がよくて風景がきれいで、たいそう気持ちがよかったので、先に遺跡巡りをすることにしました。一乗谷の東側の遺跡には国の特別名勝に指定されている四つの庭園跡があります。現在特別名勝は36件ありますが、一乗谷は四つで1件の指定。ちなみに特別史跡は63件あります。
諏訪館跡に向かう途中で眺める復元町並
朝倉義景の妻、小少将が居住したと伝わる諏訪館跡庭園
諏訪館跡庭園の説明板
英林塚に向かう途中の紅葉
一乗谷初代城主、朝倉家七代当主孝景の墓。孝景の法名「英林宗雄大居士」にちなんで英林塚と呼ばれています。
南陽寺跡庭園。南陽寺は朝倉氏の子女が入る禅宗の尼寺だったそうです。
南陽寺跡庭園の説明板
朝倉館跡に向かう途中の木
朝倉館の唐門
一乗谷朝倉氏庭園の説明板
朝倉館跡
朝倉館跡の説明板
湯殿跡庭園に行く途中にあったビューポイントから眺める朝倉館跡と説明板
湯殿跡庭園
湯殿跡庭園の説明板
四つの特別名勝を見て復元町並の南口に戻ってくると、時刻は11時50分で、昼食は一乗谷レストラントに行こうと思っていたのですが、復元町並バス停を13時11分に出発するバスに乗らないと資料館の講座に間に合わないため、そこまで行っている時間もゆっくり食べる時間もありませんでした。ならば12時を過ぎて混んでくる前に食事をしてしまおうと思い、無料休憩所の一角にある「越前朝倉そば」へ。かけ、ざる、おろし、山菜おろしの蕎麦とうどんしかなかったので、山菜おろしそばを注文し、食事後、復元町並を見学。
「越前朝倉そば」の山菜おろしそば。「朝倉」が付いても越前そばに変わりはないので、ぶっかけです。
復元町並スペース内にある武家屋敷跡その1
復元町並スペース内にある武家屋敷跡その2
武家屋敷についての説明板
復元町並
武家屋敷跡の紅葉
復元された武家屋敷内の展示。一番展示物が多い建物で、他はこんなにありません。
1時前には北口から出て、遺跡を左手に見ながら、復元町並バス停の一つ手前の一乗谷レストラント前バス停まで歩き、13時13分発のバスに乗車。
復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その1
復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その2。左に見える四角いものは井戸跡。朝倉遺跡は井戸跡が多く、復元された家も一つ一つに井戸があった想定で作られていました。
復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その3
復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その4
紅葉ズームバージョン
朝倉資料館前バス停で降りて、1時20分には一乗谷朝倉氏遺跡資料館に到着しました。2時から始まる講座の会場を確認したあと、時間まで「麒麟がくる」展と特別公開展「本能寺の変と朝倉将棋」を見学。
「麒麟がくる」展で展示されていた、ドラマで使用された明智光秀の衣装。実際に使用されたものではなく、同等品だと思いますが。
同じく朝倉義景の衣装。なんといっても朝倉氏遺跡資料館の展示ですから。
本展覧会は将棋、闘茶、セイソ散という三つのテーマで構成され、本能寺外では初公開となる本能寺宛ての朝倉義景書状や、朝倉遺跡から発掘された将棋の駒が特別公開されていました。遺跡から出土している駒は182枚に及び、そのうち121枚が国の重要文化財に指定されています。その中には現在の駒種には見られない「酔象」という駒もあり、そちらも展示されていました。ちなみに、朝倉遺跡からの出土品は2343点が重要文化財に指定されているそうで、まさに日本のポンペイといってよいと思います。
特別公開展で展示されていた遺跡出土品の将棋の駒
5分前に講座の会場に入り、受付をしてレジュメをもらい、指定されたパイプ椅子に座って受講開始。講師は石川美咲氏で、当資料館の学芸員ですが、『針薬方』に「越州朝倉家之薬也」と書かれている「セヰソ散」――すなわち朝倉家の薬であるセイソ散を通して医者としての明智光秀を調べている研究者で、新聞や雑誌記事、テレビ番組でも見かける方でした。それゆえ話を聴いてみたいと思い、受講を申し込みました。ちなみに『針薬方』は、先日の記事でも書きましたが、熊本藩主細川家の家老筋である米田家伝来の文書で、永禄9年(1566)に米田貞能が明智光秀の口伝を書写したと記されているので、光秀関連の古文書で現在一番古いとされている史料です。
講座はオープニングだけ撮影が許可されました。
前半は特別公開展の展示解説、後半がレジュメに基づいた講義で、セイソ散の原料についてと、一乗谷で原料を揃えることができたのか――を含めて、朝倉氏の城下で実際に作れるものかなどの考察を講義してくれました。特別公開展でも展示されていましたが、朝倉遺跡からは薬研なども出土しているので、医者がいたことは確かであり、また孝景の時代に日本第二の印刷医書が出版されるなど、医学書の書写――つまり医術の伝授もさかんだったので、作れるだけの素地はあっただろうとのこと。その他、光秀との交流が認められる医者についてや、「傷を医者に見せろ」「薬を送る」といった内容が記された光秀の書状が紹介され、それらは光秀が医術に通じていた傍証の一端となるのではないかとのことでした。石川氏は、どこでどうやって誰から光秀は医術を学んだのかと疑問を投げかけていましたが、まさにおっしゃるとおりで、医術に限らず、光秀の高い教養のルーツは謎としかいいようがありません。医術伝授がさかんとはいえ、生国を追われて家財もなくほぼ身一つで家族とやってきたよそ者で、門前の寺子屋で食い扶持を稼いでいるような一介の浪人が、その機会を簡単に得られるものでしょうか。個人的にはよほど幸運でないと無理だと思うので、連歌や茶の湯とはまた別の、医者関係のネットワークを探れば、そこからも光秀の出自に辿り着くヒントが得られるような気がしました。
3時半に講座が終わり、館内に福井新聞で連載していた石川氏の明智光秀に関するコラムがパネル展示されていたので、バス待ちのあいだ読み、4時5分前に資料館を出て、15時59分発のバスに乗車。16時15分に福井駅に着くと、社務所が開いている時間に間に合いそうだったので、北ノ庄城本丸跡に松平春嶽と旧福井藩士らが築城主の柴田勝家を祀った柴田神社へと向かいました。福井駅から近いので、何年も前、式内社の足羽神社を訪れたときにも寄ったのですが、ブームの今なら御朱印だけでなく御城印があるのではないかと思い、行ってみました。
10分ほどで到着し、お参り後に社務所を覗くと、思ったとおり勝家の絵が描かれた通常の2倍サイズの紙の立派な御城印があったので購入。その後城址公園を見学し、南側の城の橋通りに出ようとすると、以前にはなかった資料館があったので、見てみることに。資料館というよりも、参拝者や見学者のためのトイレもある無料休憩所という感じでした。
柴田神社と北の庄城址公園。繁華街の中にあります。
北ノ庄城の御城印。柴田勝家というと、一般的にはこういうイメージだと思います。
柴田神社を後にすると福井駅に戻り、5時15分前だったので、前日と同じ「福福茶屋」に行って、早めの夕食を摂ることにしました。帰りの新幹線は金沢発19時18分のかがやきで、JR東日本のえきねっとのトクだ値で買った切符で、エクスプレス予約と違って変更ができなかったため、18時47分に金沢駅に到着する特急電車をe5489で予約していて、出発時刻まで1時間以上あったので。前日食べた越前せいこがに丼はそれだけで満腹になり、他の物が食べられなかったので、二度目は身だしを注文。それと、あとは寝て帰ってもよかったので、いくつかの酒肴と、越前の地酒――北の庄の純米吟醸を頼みました。
越前せいこがにの身だしと北の庄
永平寺ごま豆腐
九頭竜サクラマスとふくいサーモンの食べくらべ
むつの照り焼き
5時45には店を出て駅に行き、券売機で特急券を発券後、ロッカーから荷物を取り出して、18時発の特急しらさぎ11号に乗車。47分に金沢駅に到着し、今回は駅弁もタカラ缶チューハイもいらなかったので、エヴィアンと、いつも買って帰る北陸限定のアルフォート五郎島金時と白えびビーバーを買って、新幹線に乗車。これにて遠征終了です。