羽生雅の雑多話

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京都・滋賀寺社遠征 その1~法性寺、北野天満宮、神護寺

 毎日疲れますねぇ。私のように世間一般とは価値観がズレた人間は、正直なところ、生きているだけでストレスが溜まります。大多数とは違うことに価値を見い出し、そこに重きを置いていると、社会も身辺も理解できないことが多いというか、理解はできても納得のいかないことばかりですから(笑)。
 
 そんな日々の中で我慢を重ねるとよけいにストレスが溜まり、いいことがないので、先週末にベストシーズン――ではありますが、用がなければ極力近寄りたくない激混みの京都へ行ってきました。仕方がありません、秋の非公開文化財特別公開が12日までだったので。今回の旅のキーワードは「藤原時平」「源氏物語」「元三大師」だったのですが、行ってみると「徳川家茂」「新島八重」「明智光秀」でもあったなという感じです。
 
 ANAマイレージがまだ残っていたので、特別航空券で金曜の午前中に伊丹に飛び、空港リムジンバスで京都入り。お昼過ぎに京都駅八条口に到着し、地下通路を通って、以前預けた中央口側の地下にある手荷物預かり所に向かいながら、途中のロッカーの空き状況を見ていたら、500円ロッカーの空きがあったので、荷物を預けて東福寺駅へと向かいました。
 
 紅葉シーズンだから仕方がありませんが、平日昼間なのに京都と奈良を結ぶJR奈良線は当然のことながら観光客であふれ、ひと駅だから辛抱できる混み方でした。東福寺駅からは徒歩で、まずは今回の旅の第一の目的である法性寺へ。通常は事前予約を入れないと見られないことになっている国宝の御本尊が特別公開されていたので行ってきました。

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 法性寺は、時平の末弟――人臣最初の関白である藤原基経の四男、忠平が建立したお寺です。忠平は道長の曽祖父ですから、この寺は元々は藤原摂関家の氏寺で、かつては広大な寺域を誇っていました――鎌倉時代に忠平の子孫である九条道家東福寺を建立するまでは。道家の祖父で、五摂家の一つ、九条家の祖である九条兼実は「後法性寺関白」と呼ばれていましたし、その父である藤原忠通は「法性寺関白」と呼ばれていたくらいですから。
 
 上記に挙げた彼らは一般的には馴染みの薄い人物かもしれませんが、忠通も忠平も百人一首歌人で、忠通は「法性寺入道前関白太政大臣」、忠平は「貞信公」の歌人名で歌が採られています。前者が「わたの原 漕ぎ出でてみれば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波」、後者が「小倉山 峰のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ」の歌の作者です。平安摂関史を研究していた大学時代以降は、私にとって百人一首は、撰者定家の不可解な選定理由なども含めて重要な研究課題の一つなのですが、はるか昔、歌のおもしろさも何もわからない小学生の頃に国語の授業で訳も分からず暗記をさせられたとき、初めて覚えたのが、貞信公のこの歌でした。というのも、当時みゆきちゃんという友人がいて、彼女が自分の名前が入っているから、とりあえずこの歌を覚えたいというのに付き合ったからです。みゆき=行幸なので、別に何の関連性もなかったのですが。のちに歌の意味も知り、特にどうということのない凡作だと思ったので、以後は公任の歌を一番のお気に入りにしましたが。
 
 いつものように話が逸れますが、平安時代の歴史人物で、時平に次いで好きというか興味を持っているのが、藤原公任藤原行成の二人です。公任は父、祖父、曽祖父と、遡ること五代の祖まで摂政関白という摂関家嫡流筋で、己は五男、父は三男、祖父は次男という完全な傍流筋で成り上がりの道長などより数段よい血筋でしたが、運に恵まれず、政治家としては道長の風下に立たされることになり、自分の代に至って摂政関白はおろか大臣にもなれず大納言どまりという屈辱を味わいました。そのため、かなり鬱屈とした人生を送ることになりましたが、その分、文化人としての感覚が研ぎ澄まされたのか、漢詩、音楽、和歌のいずれにも秀でていたので、その才は「三舟の誉れ」と讃えられました。『和漢朗詠集』を編纂したのもこの人です。「大納言公任」の歌人名で百人一首に採られているのは「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」という歌で、くどいほど韻を踏んでいて、やや技巧に走りすぎている感は否めませんが、その場で求められて詠んだ即興の歌としては、十分に当代随一の才人の面目躍如たるものだと思います。
 
 そんなわけで、しばらくはこの公任の歌を百人一首で一番のお気に入りにしていたのですが、数年前、まさしく雷に打たれたようなショックを受けて、「花の色は移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」の歌に変わってしまいました(笑)。
 
 読んだ本などに影響されてヒントを得ると、普段はしまい込んでいる大石天狗堂が復刻した光琳かるた(普及版)を取り出して、百人一首の謎解きに挑戦したりするのですが、そんなことをしていた数年前のある日、この歌がストンと心に落ちてきて、三十一文字(字余りなので厳密には三十二文字ですが……)に凝縮された思いと、それを表す的確な表現があまりに凄すぎて、小野小町の偉大さに身が震えました。女性でただひとり六歌仙に数えられている歌人ですが、ようやくその才能に納得できました。『古今集』『後撰集』などの勅撰集はもちろん公卿たちの私家集も、資料として歌集類は読み漁ったので、好きな歌はたくさんありますが、この歌ほど深い共感を覚えた歌はありません。それから何年か経ちますが、今でもこの歌から受けた衝撃を凌ぐものには出合えていない、特別な歌です。若い頃はなんとも思わなかったのですけどね。不思議なものです。これが詩歌のおもしろさでしょう。
 
 さて法性寺の御本尊ですが、これは創建者の忠平が建立時に仏師春日に作らせたもので、二十七面という珍しい形の千手観音立像です。いつ誰が誰に作らせたか判っている、1100年前の仏像という意味でもたいへん貴重なものですが、兄時平の早世を機に、菅原道真の怨霊を最大限に利用して、兄の息子たちを追い落とし、権勢を手にして一の人の座に上りつめた忠平が作らせた仏像ですからね。二十七面という特異な姿に、いったいどんな意味が込められているのか……思いやるとワクワクしました。多面であっても、普通は十一面ですから。
 
 そして、黒ずんだ桜の一木造の平安仏を拝んだあと隣に目を向けると、まだ新しい檜の寄木造の丈六の仏像が二体並んでいました。こちらは40年ほど前に制作された像で、作者は松久宗琳師。大阪四天王寺延暦寺東塔、成田山新勝寺の仏像を手がけた仏師で、1992年に66歳で亡くなられ、昭和の大仏師とも称された方です。昔私は、美術工芸品専門の通販カタログのコピーなどを書く仕事もしていて、この宗琳師が原型を手がけた高岡銅器のブロンズ像の広告コピーも書いたことがあったので、「なんと、このようなところで宗琳師の実作品にまみえるとは」と、偶然の出会いに深い感慨を覚えました。宗琳師らしいふっくらとした御顔で、やさしい印象の薬師如来不動明王――新しくはありましたが、こちらも一見の価値ある素晴らしい仏像でした。
 
 思わぬ巡り会いに少々得した気分になって東福寺駅に戻り、今度は京阪電車京阪三条駅まで行き、市バスに乗って北野天満宮に向かいました。天満宮の神宝で、国宝にもなっている北野天神縁起絵巻が宝物殿で特別公開されていたからです。原本は15年ぶりの公開となります。
 
 北野天神縁起絵巻は、その名のとおり、北野天満宮の縁起を物語る絵巻で、天神こと菅原道真藤原氏の全盛期に菅原氏でありながら右大臣にまで至って栄達するも恨みや妬みを買って太宰府に流され、結局その地で死去し、のちに雷神となって宮中に現れ、生前自分を貶めた人々を襲い、その祟りを鎮めるために天神として祀られることになり、北野天満宮が創建されたというようなことが描かれています。なので、この絵巻には、主人公の道真はもちろんですが、時平も描かれているのです。浮世絵以外に彼が絵姿で描かれた唯一の史料といってよいでしょう。道真は神になったので、この絵巻以外にも御尊像がたくさん描かれていますが。
 
 ということで、私は時平に会いに北野天満宮に行ったのです。雷神と化した道真が宮中を襲い、みながこけつまろびつする中で、ただひとり刀を抜いて雷神に立ち向かい啖呵を切る時平に――。その描写自体はあまり美男という感じではありませんが、やっていることは男気があり、すこぶるカッコいいです。平安時代の貴族が軟弱だったというイメージが一新されます。道真が神になったせいで、後世とんでもない悪人にされてしまいましたが、そういう気概がある人物だったのです、時平という人は。まあ、道真が神になったのは道真本人のせいではなく、十中八九道真の怨霊を政治的に必要とした忠平のせいなので、道真だけを恨むこともできないのですが。四男の立場で、氏長者の兄の正式な後継者である時平の嫡男も、同母の次兄も押し退けて、宗家嫡流筋を継いで権勢を握るためには、常套手段や生半可な策ではとても無理だったでしょうから。ただ、うまく忠平に利用されたとはいえ、道真も、藤原氏全盛期に政治家としてしゃしゃり出るようなことをせず、学問の家の菅原氏らしく歴代当主のように学者のままでいてくれれば、時平との軋轢は生じなかったはずなので、その点は道真に非があると思っています。一番悪いのは、そういった政治環境や時代性を無視して道真を取り立てた宇多天皇なのですが。
 
 宝物殿には、目的の絵巻に加えて、行くまでそこにあるとは知らなかったのですが、鬼切丸も展示されていたので驚きました。大江山の鬼退治で有名な渡辺綱茨木童子の腕を切ったという、源家相伝の刀です。その他、加賀前田家の歴代藩主から奉納された刀なども展示されていて、いずれも素晴らしく、目の保養になりました。これら数々の神宝を見て、神格化のきっかけはともかく、天神は人々に篤く信仰されてきたのだなと改めて思いました。前田家による夥しい奉納は、彼らが菅原氏を名乗っていたからだと思いますが。

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鬼切丸。絵巻は撮影禁止でしたが、その他は許されていました。
 
 残念ながら、北野天神縁起絵巻の関連グッズはなかったのですが、鬼切丸の特別朱印があったので、記念にいただいてきました。6月に建勲神社に行ったときにも、祭神である織田信長の刀である、へし切長谷部の特別朱印があったので頂戴してきたのですが、最近こういうものが用意されているのは、ゲームやアニメで人気の「刀剣乱舞」の影響でしょうか。最近、行く先々でよく見かけるんですよね、「刀剣乱舞」と「鉄道むすめ」。時代ですね。

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加藤清正が奉納した、日本地図絵の鏡。
 
 宝物殿を見たあと、ここまで来て道真に挨拶しないで済ますのもどうかと思い、本殿にお参り。基本的に、道真や家康に神頼みすることはないので、天満宮東照宮などの、新しい祭神にお参りするときは、本当にご挨拶という感じです。むしろ、こういうところは、本社より摂末社が重要だと思っています。今回も興味深いものに出合いましたし。
 
 中門である三光門の手前に、火雷神を祭神とする火之御子社という摂社があるのですが、立札の説明書きによれば、天満宮鎮座の天暦元年(947年)以前に、この地に「北野雷公」と称えて祀られていたとのことで、古い記録によれば、元慶年間(880年頃)に基経が祀ったとのことです。つまり、基経が雷神を祀った場所に道真が祀られたということになります。

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意味深な火之御子社の立札
 
 そして、基経は時平と忠平の父親です。基経の娘婿にあたる醍醐天皇の時に御座所である清涼殿に雷が落ち、それが道真の祟りとされ、以後祟り神として恐れられるようになった道真ですが、その彼が雷神として祀られ、鎮座所として摂関家ゆかりの祭祀の場所が提供されたということは、すなわち、道真を雷神に仕立てたのは摂関家で、すでに指摘されているとおり、当時の当主である忠平ということになります。
 
 ということで、忠平によって新たに雷神として祭り上げられた道真がこの地に祀られたのは、忠平の父・基経が祀った雷神――北野雷公の鎮座地だったからですが、では何故基経はこの地に火難・雷避けの神を祀ったのか……。
 
 火之御子社という社名は、長野の古社である戸隠五社の一つと同じなのですが、こちらは火之御子=ヒノミコ=日之御子で、元々の祭神は日の神ことアマテル=天照の息子であるオシホミミ=天忍穂耳だと思っています。現在の主祭神はウズメ=天鈿女で、天忍穂耳は配祀神となっていますが。よって、北野天満宮の「火之御子」も元々は「日之御子」で、この地に祀られていたのは天忍穂耳だったのだと思います。彼は山城国の開拓神である賀茂別雷神(ニニキネ)の父親ですから。ところが、時代が下るにつれてヒノミコが「日之御子」ではなく「火之御子」と認識されるようになり、火災の原因となる雷を司る神を祀るのにふさわしい地と思い、道真こと雷神の鎮座地に選んだのではないでしょうか。
 
 北野天満宮の境内には、北野で大茶会を催した豊臣秀吉ゆかりの史跡もあり、彼が洛中洛外の境として築いた土塁――御土居の一部が今でも残っているのですが、ちょうどそちらがもみじ苑として公開されていたので、せっかくなので入園してきました。紅葉の色づきはまだそれほどでもなかったので、紅葉狩りとしてはイマイチでしたが、正面からは見えない本殿が眺められたのがよかったです。それと、やはり土塁が見事でした。やっぱ、秀吉サンはただ者ではありません。やることのスケールがデカいです。

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御土居のもみじ苑の紅葉。まだこんな感じでした。

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もみじ苑から見る本殿
 
 苑内を巡ったあと、入園券に秀吉の茶会ゆかりの茶菓子である「北野大茶湯」とお茶が付いていたので、出口近くの茶屋に寄ったのですが、そこが和菓子の老舗「老松」がやっている茶屋だったので、追加で甘酒と七軒だんごも注文。黒蜜ときな粉で食べる七軒だんごは、北野をどり・寿会の期間と梅苑・もみじ苑の開苑期間中のみの限定販売ということだったので、思わず手が出ました。相変わらず限定に弱いです。羽田空港で買ったおこわをリムジンバスで食べたのが最後の食事で、お腹も減っていたので。
 
 もみじ苑から出てくると、近くの絵馬所に三十六歌仙絵が掛かっていたのですが、その中に、時平の三男である敦忠の札絵を見つけて、なんだか複雑な気分になりました。彼も道真の祟りを恐れて、「自分は長生きできない家系だから」などと言ってビクビクしながら生きて、結局38歳の若さで死んでしまいましたから。己の肖像画が己の命を縮めた道真を神として祀る神社に掛かっていると知ったら、どう思うのでしょうね。三十六歌仙に選ばれているくらいですから、彼も世に聞こえた歌人で、百人一首における歌人名は「権中納言敦忠」。「あひ見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり」の歌の作者です。

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時平の三男、敦忠。若い上に、わりと美男に描かれています。まあ、なんといっても、風流男の代名詞である、在原業平のひ孫ですから。

 十分に堪能して北野天満宮を出たときは、そろそろ4時になるかという時刻で、普通ならあと30分ほどで社務所も閉まる時間なので、寺社拝観はここで終わりとなるのですが、この時期はあちこちのお寺でライトアップをしているので、まだまだまわれます。
 
 ということで、洛北にいたので、北にある神護寺を目指すことに。北野天満宮前のバス停から市バスに乗り、福王子のバス停で乗り換えて、高雄へと向かいました。
 
 神護寺には何度も行っていて、紅葉の季節に友人と行ったこともあり、夜間拝観も初めてではなかったのですが、とにかくここの薬師如来立像が大好きなので、久しぶりに見てきました。お堂の外からなので、遠かったですが。
 
 高雄は北野より山なので、紅葉の色もより濃くて、ライトアップされた境内もたいへんきれいでした。金堂を背にして見る境内は、完全に闇に包まれた夜よりも陽が沈んだ直後の、空がまだ藍色ぐらいのほうがきれいなのだと、改めて感じるような美しさでしたね。

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 6時ぐらいには引き上げたのですが、帰る頃にはすっかり暗くなり、秋の日は釣瓶落としだと、しみじみ思いました。
 
 帰りのバスは高雄発京都駅行で、降りるのが終点で、かつ1時間はかかるので、バスで爆睡。気が付いたら二条駅あたりでした。京都駅到着後、ロッカーから荷物を引き上げ、JR線でひと駅の山科駅へ行き、京阪電車に乗り換え、京津線の終点である浜大津駅で下りて、ホテルにチェックイン。京都市内のホテルはもう高いところしか空いていなかったので。
 
 これにて日程終了です。