また台風です。毎週のように大雨です。注意報や警報がスマホに頻繁に入ってきて、必要以上に不安をあおります。これ、どうにかしてほしいですね。
金曜の午後から仕事仲間の先輩方と長瀞の川下りに行ったのですが、先週の台風で荒川が増水していて、チケット売り場など川沿いのいろいろなものが破損しているため運休で、再開の見通しが立っていない状態でした。仕方がないので、その日の宿である創業102年の老舗旅館「長生館」の20畳特別室で酒盛りをし、翌朝岩畳を散歩したのち、秩父鉄道のSL「パレオエクスプレス」に乗ってきました。こんなところにまで……と思うほど乗客の外国人比率が高かったのが印象的でした。
長瀞駅から乗車して御花畑駅で下車し、昼過ぎの西武鉄道の特急レッドアロー号で3時前には都心に戻ってきたので、池袋駅で解散後、山手線で上野に出て、運慶展に行ってきました。
待ち時間はありませんでしたが、混雑はそれなりで、静かに仏像を見るような環境ではありませんでした。予想はしていたので、かまわないのですが。
運慶展は、奈良の阿修羅展とともに最初から行くつもりでした。今回の展覧会は片方だけ見ても片手落ちのような気がしたので。なので、あらかじめ前売券を買っていたのですが、実のところあまり期待はしていませんでした。史上最大とか言っていますが、何せ会場が東京国立博物館の平成館ですから。展示品の質はともかく、東博の――特に平成館の特別展はいつも物足りず、満足したことがないので。毎度毎度、なかなか見られないものが見られるということに満足するだけの展覧会です。
今回もそんな感じで、特に八大童子にはがっかりさせられました。間隔を空けて並べられ、おそらく引きで見ても視界に一つ二つしか入らない状態で、しかも一つ一つが四角いガラスケース入り……散漫で、勢ぞろいしているのに一堂に会したという感じがまったくしませんでした。そもそも人が多くて、とても引きで見ることはできませんでしたが。ひと足先にこの展覧会を観た親しい美術愛好家たちの感想が「パラパラした展示」とか「大量の客の動線を意識した展示」とか言っていましたが、まったくそのとおりで、人出を考え、大勢が入場し鑑賞できることを優先した結果なのかもしれませんが、展示品をよく見せ、展示品の世界に引き込み、その素晴らしさを伝えるという展示からはほど遠く、相変わらずキュレーターの技量が疑われる展示でした。「よく見せ」ということが表も裏も横も見せるということならば、それは実現されていましたが。
確かに360度全方向から見られることをありがたがる人もいるでしょう、仏像は立体作品ですから。けれども私は、サントリー美術館で観た高野山の名宝展の記憶がまだ鮮やかだったこともあって、その時の展示と比べるとなんとも不本意で、内心唸っていました。あちらのほうが断然よかったです。空間における見せ方が。何故サントリーにできて東博にできないのか……規模も客数も違うからと言ってしまえば、それまでですが。しかし、それが理由であれば、今後も東博の特別展にはさほど期待できないということになります。ハコを意識しない、展示環境が鑑賞に与える影響を考えない典型的な展示です。日本には多いパターンですが……。東博も、表慶館などでの展示は、まだその点が考えられていると思うのですが、平成館はなぁ……sigh
基本的にブロンズを含めて彫像作品のようなものは、ガラス越しに見るべき物ではないと思っています。小さな作品ならまだしも、そこそこの大きさがある作品はケースに入れるべきではありません。それを前提として作られていないのですから。特に四角いガラスケースは、作品を観る際の視界に四辺のガラスや角が一緒に入ってきて、ゴチャゴチャしてうるさくなります。作品の輪郭から大して離れていないところにガラスがあるのですから、避けようがありません。質感もわかりにくくなりますし。
ということで、大いなる不満とともに改めて感じさせられたのは、仏像はやはり博物館や美術館といったところで見るものではないということでした。だから興福寺のお堂で見る阿修羅展が、奈良まで足を運ばずにいられないほど好きなのでしょう。
昔、神社研究にハマる前ですが、仕事の関係で仏像を見漁っていたことがあり、如来や菩薩、明王や天部それぞれの仏像に自分のベストがあります。十二神将は室生寺、薬師如来は神護寺、不動明王は醍醐寺の快慶作等々……。なので、仏像を美術品として見るときには、どうしてもそれらを思い起こして比べてしまいます。神護寺の薬師如来は、造形の美しさというよりも、力強さに圧倒されて惹かれているのですが。
四天王については東寺の像が好きなのですが、興福寺の像も素晴らしく、特に多聞天は東寺のそれに勝ると思います。高く掲げた宝塔を見上げる独特の姿は、他には憶えのない姿形で、その発想と造形力には感服します。とりあえずこの像をガラス越しではなく間近で見られただけでもよかったです。
それと、高山寺の湛慶作の善妙神立像と明恵上人の犬に会えたのは嬉しかったですね。東京で会えるとは思わなかったので。この犬は鎌倉時代の作品とは思えないほど可愛くて、現代の感覚に通じるデフォルメで、犬の像としては秀逸だと思っています。江戸時代ぐらいまで犬といえば狆であり、犬の像も狛犬に代表されるように、狆をモデルにしたものが多いので。
前売券は特典付きを買ったので、特典のもちもち邪鬼ポーチをもらってきました。邪鬼とは四天王に踏みつけられている気の毒な子たちのことです。「もちもち」の名前のとおり中綿がたっぷりのポーチなので、ほとんど何も入りませんが、割れ物を持ち歩くのにいい感じです。神社で買った土鈴とか。
特典限定の極彩色もちもち邪鬼ポーチ
特別展のあとはいつも常設展を観て帰るのですが、長瀞帰りで疲れていたので、今回は考古展示室にだけ寄ってきました。土偶と埴輪に会えるここだけは外せません。必ずカルコの遮光器土偶と「トーハクのプリンス」こと国宝の武人埴輪に挨拶してから帰ります。
プリンスなき展示室でやたら目立っていた「盾持人」
お気に入りの埴輪の一つ、「琴をひく男子」
うちの埴輪たち。踊る埴輪には補修の跡があります。一度落として割ってしまったのですが、一番のお気に入りの埴輪なので捨てられず、頑張って直しました。
土偶や埴輪は、もちろん単純に工芸品として魅力的なので、昔から好きでレプリカを集めたりしていたのですが、最近ではさらに、過去の日本人について語る歴史的遺物として、たいへん意義深いものだと思っています。
なのですが……残念ながら、今回プリンスには会えませんでした。係りの人に訊いたら、メンテナンス中とのこと。家に帰ってきて改めて東博のホームページを見ると、2年以上かかる大規模修理で、修理完了予定は2019年6月という情報がアップされていました。東博に行っても再来年までプリンスに会えないとは……トホホ。たとえ特別展が微妙でも、大好きな埴輪と土偶を見れば満足できたのですが……残念。
お気に入りの埴輪の一つ、「琴をひく男子」
うちの埴輪たち。踊る埴輪には補修の跡があります。一度落として割ってしまったのですが、一番のお気に入りの埴輪なので捨てられず、頑張って直しました。
土偶や埴輪は、もちろん単純に工芸品として魅力的なので、昔から好きでレプリカを集めたりしていたのですが、最近ではさらに、過去の日本人について語る歴史的遺物として、たいへん意義深いものだと思っています。
独創的で力強く、見る者に強烈なインパクトを与える造形の土偶からは人間の発想力というか限界のない想像力が感じられ、ギリギリまで簡略化された造形の埴輪からは余計なものを削ぎ落した省略の美といったものが感じられます。つまり、どちらからも卓越したデザイン力が感じられ、それによって土偶や埴輪が作られた時代が、それらのデザイン力を醸成し許容した環境であった――すなわち芸術性豊かな文明であったことがわかります。縄文・弥生史を研究している者にとって、これはとても重要なことです。芸術面を見るかぎり現代人と引けを取らない高い文化を持っていたということですから。一見子供の粘土細工のような埴輪の簡易表現も、埴輪以前に土偶があることで、技術不足がもたらしたものではないことがわかります。時代の求めにより需要が高まって、必要に応じてシンプルになったのでしょう。
彼らが教えてくれる縄文・弥生時代は、教科書で教わったものよりも数段高度な文明社会です。それを認識した上で神社を巡ると、また新たに見えてくるものがあります。
そして、博物館の役割とは、本来、鑑賞者にこのような気持ちや感覚をおぼえさせることのような気がします。そう思えば、特別展は毎回微妙なトーハクこと東京国立博物館ではありますが、役目は十分、立派に果たしていると言えます。とりあえず何回行っても飽きませんし。