羽生雅の雑多話

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京都・奈良寺社遠征 その1~宝鏡寺、白峯神宮、京都国立博物館、二条城(付・藤原公任論)

 もう1か月以上前のことになりますが、自身の備忘録を兼ねて書いておきます(笑)

 

 先月の3連休は京都&奈良に行ってきました。11月の3連休の京都など人ばかりなので避けたかったのですが、特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」の会期中で、二泊三日で行ける日がそこしかなかったので仕方ありません。

 

 当初は土曜に京都で展覧会を観たあと、名古屋まで戻って泊まり、翌日から熊野に行って那智の滝のライトアップを見るつもりだったのですが、夜間の公共交通機関のアクセス手段はないということで断念。その後どこに行くか決まっていなかったこともあって、前日の金曜は仕事仲間に誘われたので飲んで帰り、翌土曜の2時ぐらいまでに京都に入れればいいと思っていたのですが、新幹線が満席で予約の変更ができなかったため、頑張って予定どおり10時半前ののぞみに乗りました。ということで、1時前には京都に到着したのですが、その日国立博物館は夜8時まで開館していたので、まずは夕方には閉まるところから行こうと思い、宝鏡寺へと向かいました。

 

 宝鏡寺和宮ゆかりの門跡寺院なのですが、どうせ行くなら人形展が開催されている期間がいいと思い、けれどもこの寺の人形展は毎年春秋2回開催されていて、この時に見に行かなければ今度はいつ見られるかわからないというようなものではなかったので、自分の中で優先順位が低く、そのため今まで行ったことがありませんでした。今回三十六歌仙絵が目的で、あとは特にこれといった目的もなかったので行ってみると、なんと「孝明さん」という御所人形に出合いました。その名のとおり、和宮の兄である孝明天皇ゆかりの品で、崩御後に形見分けで当寺に下賜されたとのこと。それまでこの人形の存在を知らなかったのですが、こんな物があるのなら、もっと早く来ればよかったと悔みました。孝明天皇の人柄が偲ばれるような、実に味のある素敵な人形だったので……。家茂の懐中時計などもそうですが、生前大切にしていて死後遺愛の品と呼ばれるような持ち物は、所有者の為人を表し、その人がどういう人物だったかを想像する手助けをしてくれます。イギリス製の懐中時計を愛用した家茂は、未知の物に対する好奇心があり、新しいものを受け入れることができる柔軟な心の持ち主だったのだろう――とか。なので、「孝明さん」もエピソードとして取り入れたかったと思いました。実に惜しいことです。

 

 宝鏡寺を後にし、さて次にどこへ行こうかと近くの名所をスマホで調べていたら、歩いていける距離にある白峯神宮で、オリンピック仕様の限定朱印帳というのを頒布しているという情報を得たので、行ってみることにしました。

 

 白峯神宮は本来、日本第一の怨霊ともいわれる崇徳院を祭神とする怨霊鎮めの役割を持つ御霊神社なのですが、今ではすっかりスポーツの神様。この時もちょうどラグビーワールドカップの会期中だったので、拝殿前には日本代表へ向けて寄書きされた応援大絵馬が設置されていました。

 

 摂関期を中心に平安時代が好きで、時平好きの私にとって、怨霊というものはもちろん無視できない存在なので、古くは長屋王から崇徳院まで興味を持ち、怨霊化した歴史的背景や目に見えぬ形のないものである怨霊の本質などを以前から調べていたので、ここへ来るたびに「何かが違う」と思っていたのですが、今回はそれを通り越して「平和だなぁ」と脱力してしまいました。そして「崇徳院もよかったなぁ、こんなに国民に親しく拝まれる神になれて」と思いました。日本の大魔縁となり天皇と皇民に祟ると言い残したのは三大怨霊の中でも崇徳院だけですから……。同じ三大怨霊といっても、道真は死後藤原忠平によって怨霊にされた非自発的な怨霊で、崇徳院は自ら成ると宣言して成った自発的な怨霊なので、性質が全然違います。道真には民に祟るほどの恨みはなく、後世で怨霊とされたことも、きっと不本意だろうと思います。

白峯神宮の大絵馬。個人的には違和感ありまくりでしたが、これもアリで、よいのだろうとも思いました。

 

 お参り後、目的の朱印帳とともに、『百人一首で京都を歩く』という本を購入。なんといっても崇徳院といえば、「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に逢はんとぞ思ふ」の歌の作者ですから……この歌にも執念深い性格が如実に表れていると思います。

 

 白峯神宮を後にすると、上京区総合庁舎前バス停から市バスに乗って祇園バス停まで行き、乗り換えて東山七条バス停で下車。今回の旅の主目的である京都国立博物館へと向かいました。

 

 定時閉館時間の前だからか、まだ人が多かったので、先に腹ごしらえをするため、まずは館内レストランの「ザ・ミューゼス」に行き、コーヒーを飲むぐらいでは人が引きそうになかったので、夕食には早い時間でしたが、食事をすることにしました。ハイアットリージェンシー京都がやっている店なので、もともとここで食べるつもりだったので。当初の予定どおりコースメニューと、食事なので白ワインを頼み、のんびりと1時間ほどかけて食事をし、5時過ぎに店を出て特別展会場に入りました。

デザートのアイスクリーム。チョコに描かれた虎は、京博の公式キャラクターの「トラりん」。

 

 いやぁ、壮観でした。大学時代も含めて昔は平安摂関期を研究していたので、『古今集後撰集』をはじめとする勅撰集や私家集などの歌集は当時を知る資料として外せず、手あたり次第に読み漁ったので馴染み深く、そのため六歌仙三十六歌仙といわれる歌人たちはわりと身近な歴史人物だったので、佐竹本に限らず三十六歌仙絵も好んで見てきましたが、今回の展示は分断され散り散りになった佐竹本が一堂に会することの凄さを十分に伝えてくれました。はっきり言って、藤原信実と後京極良経の書画よりも軸装に感動しました。あれほど表装に注目し、作品の一部分として意識して見たのは初めてでした。

 

 絵――特に西洋画は額まで含めて一つの作品だと思っているので、額装の状態で見たくて、好きな絵は実物を見に行くようにしているのですが、掛軸に関してはそこまで表装を気にしたことはありませんでした。ですが、今回同じ作者による、いわば同じシリーズの書画を並べられて、一幅の掛軸において表具がどれだけ作品全体の印象の決め手になるか――主役である画に与える影響の大きさを実感しました。そして、何でもアリな表装の奥深い世界にも魅了されました。私が大昔に博物館実習をしたときには、天地、中廻し、一文字、風袋というスタイルが定型という感じでしたが、そんな決まりごとは無視して、風袋なし、天地に襖絵だか屏風絵だかを使ったり、一文字に主役の画よりも古い時代裂を使うなど、それぞれに深いこだわりが見られて、歴史的に貴重な歌仙絵を手に入れて所有する喜びのようなものまで伝わってきました。展示替えの関係で、私が三十六歌仙の中で一番好きな藤原敦忠(時平の息子)が見られなかったのは残念でしたが、小町が見られたので、まあよしとします。

チケットなど、あっちこっちで見かけた佐竹本三十六歌仙絵の小大君。こちらの作品も敦忠と同じく後期のみの展示だったので見られませんでした。

 

 平安貴族スキーの私が、当時の歴史人物の中でも藤原時平藤原公任藤原行成が好きなことはたびたび触れてきましたが、実は三十六歌仙とは、和歌、漢詩、管絃のすべてに秀でた「三舟の才」で知られる公任が選んだ和歌の名人36人のことです。よって当然のことながら、彼より後の時代の人はいません。しかしこれが名歌人のスタンダードとなり、後世までその認識が受け継がれて、数々の歌仙絵が生まれました。

 

 ところで、何故私が公任を好きかというと、三舟の才という稀に見る才能の持ち主だからということはありますが、単にその事実だけではなく、彼の血筋と官歴を含めた生涯を考えたとき、その心内に思いを馳せると切なくなり、人間として興味があるからです。三舟の才も、これだけは余人に劣ることがあってはならないという譲れない気持ちの結果で、そこには凄まじいプライドの高さと壮絶な努力が透けて見えます。

 

 公任は父も祖父も曽祖父も五代前まで関白太政大臣という、都一といってよい名門の長男で、母は醍醐天皇の孫、姉は円融天皇の皇后であり、皇族を除けば並ぶものなき高貴な血筋の、生まれながらの貴公子でした。ちなみに父方の祖母は時平の娘なので、醍醐天皇の曽孫であると同時に時平の曾孫でもあります。

 

 ……なのですが、天運が味方せず、円融の皇后だった姉の遵子は皇子に恵まれず、格下の女御だった詮子が皇子を生み、その子が一条天皇として即位すると、詮子が皇太后となり、母后の権限でまだ幼い息子の治世に深く介入しました。その大きな政治的発言権を持つ皇太后が同母弟である道長を引き立てたので、それまで同い年でありながら明らかに出自の差、血筋の差で出世レースにおいて公任に大きく水をあけられていた道長が次第に台頭し、姉の後ろ盾のおかげもあって、あっという間に公任の官位を抜き去り、政権を握りました。その後、摂関職は道長の息子たちに受け継がれたので、公任は摂政・関白になれず、それどころか大臣職にすら至れず、大納言を極官として人生を終えました。摂政関白太政大臣家として五代続いてきた家柄が、自分の代で大臣家より下の納言家に落ちたのです。天皇を中心とした政治の世界で位人臣を極めることがすべての時代です。その心中を想像すると、ちょっと胃が痛くなります。

 

 三十六歌仙とはそんな公任が選んだ歌人たちなのです。だから歌人としては高名であっても現実的な官職においては不遇であるというような人たちや、一見華やかで、世間では恵まれた貴人として知られていても、陰りをまとい、後年や晩年は薄幸だったと思われる人物が取り上げられています。敦忠しかり、高光しかり。宮中の華だった小町や伊勢も同じです。公任が選んだのは、栄華の世界と、それがいつまでも続く絶対的なものではなく儚いものであることを知る人々の歌であり、この世の酸いも甘いも味わい、その両方を歌で表現することのできる歌詠みを選んでいるような気がします。まるで彼らの歌を通して、この世の光と影の存在を人々に知らしめるかのように。

 

 京博を出たあとは、清水五条駅まで歩いて京阪電車に乗り、三条京阪駅で地下鉄に乗り換えて、二条城前駅で下車。世界遺産登録25周年記念でライトアップとプロジェクションマッピングのアートイベント「FLOWERS BY NAKED」をやっている二条城へと向かいました。その日は月も美しく、夜の世界遺産を存分に堪能して、その日の日程終了です。

東南隅櫓

唐門

車寄

秋の月

二の丸庭園

清流園