羽生雅の雑多話

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ユヅとイチローが語る、命の終わりとは異なる“死”

 先ほどNHKスペシャルイチロー 最後の闘い」の再放送を見ていたら、番組の中でイチロー元選手が「現役引退は死」だと言っているのを聞いて、ふとある人の言葉を思い出しました。

 
「負けは死も同然」by羽生結弦
 
 ユヅの発言に対しては「“死”という言葉を軽々しく使うな」などという批判的な意見もあるようですが、私はこういう高い意識と、それを保つだけのプライドがないと、世界で認められるような偉業は成し得ない、世界でも認められるようなレジェンドにはなれないと思っています。
 
 けれども、彼らにしてみれば、別に認められたくてやっているわけではなく、譲れなくて、あきらめられなくて、それゆえやらずにいられなくてやってきた結果として認められているだけなのだと思います。おそらく、他人はどうでもよく――関係ないという意味ではなく、どうであってもよくて、どう思うか気にすることはあっても、気にして自分の何かを変えることはないのでしょう。スケールは二人の足元にも及びませんが、私もそういう人間なので、よくわかります。だから、自分がこうでありたいと思う自分でいられない、自分が望む自分でいられなくなる状態を“死”と表現しているのだと思います。いうなれば、生命体としての死ではなく、意識体としての死――自己の死です。私にとっても後者のほうがはるかに重要です。意識――個々の心の持ちようや精神のあり方こそ千差万別で唯一無二のものであり、自分を自分たらしめているものですから。
 
 かつてイチローは同番組のインタビューで「笑って死にたい」と言い、大リーガーイチローとしての死を迎えた直後の記者会見では「後悔などあろうはずがありません」と断言していました。私もそういう死を迎えたい、死にあたってそんな言葉が口にできる心境でありたいと思って毎日を生きています。したがって今のところ後悔はありません。何度やり直しても、私が私であるかぎり、同じ選択をするだろうと思っているので、過去に戻りたいとも思いません。そして、これまで後悔がないからこそ、今後も後悔がないと言える人生を続けられるのかと不安になります。成長期は疾く過ぎ、これからは年を加えれば加えるほど確実に身は衰えていき、その影響で心も左右されることは日々痛感しているので……。いつまで自分が望むことができるだろう、悔いがない人生を送れるだろうと、私ですら恐怖感がありますから、体が資本のアスリートであるイチローはここ数年の己の変化をもっともっと恐ろしく感じていたでしょう。今まで問題なく出来ていたことが出来なくなるのはショックで恐ろしいことです。でも、その恐怖から逃れるためには、さらなる精進を重ねて走り続けるしかありません。本当に孤独な闘いです。自分のあるべき理想を掲げて28年間その高みを目指して生きてきたプロ野球選手イチロー・スズキの“死”を受け入れたときにようやく解放されたのだと思います。本当にお疲れ様でした。スポーツ選手としての活躍だけでなく、人間として素晴らしい生きざまを見せてくれました。ありがとう。今後は鈴木一朗として、最期まで悔いのない人生を送れることを願っています。そのときにも「後悔などあろうはずがありません」と言ってほしいですね。