遠征最終日の11月1日は、恵那に行く予定だったので名古屋駅の近くにホテルを取ったのですが、宿泊まで一週間を切った段階で前日の10月31日に恵那行きを変更したので、この日は安土に行くことにしました。帰る日なので新幹線駅へのアクセスがいいところがよかったので伊勢なども考えたのですが、今回はピンと来なくて、京都や京都駅に出やすい亀岡や大津、米原駅に近い彦根周辺を調べたら、安土城考古博物館で11月23日まで「信長と光秀の時代―戦国近江から天下統一へ―」という特別展が開催されていることを知ったので。安土は訪れたことがありましたが、西国三十三所札所の観音正寺や式内社の沙沙貴神社が目的の寺社巡りで、安土城にも行ったことがなかったので、いい機会だと思いました。
9時前にホテルをチェックアウトして名古屋駅に行くと、新幹線改札内のスタバでコーヒーを買ってから、名古屋発9時19分のひかりに乗車。47分に米原駅に着いて、59分発の加古川行き各停電車に乗り換え、10時22分に安土駅に到着しました。4年ぶりでしたが、その時とはすっかり様変わりしていて、きれいでモダンな駅になっていたので、びっくりしました。かつてはいかにも特急が停まらない地方の駅という感じで、駅前にタクシーの1台もいなかったのですが。
以前はロータリーを挟んで向かい側にあった観光案内所も駅の1階に移っていたので、いつものように最初に寄ってみると、数は少ないですがコインロッカーがあったので、キャリーバッグを預けることに。駅構内のコインロッカーの情報が得られなかったので、駅前のレンタサイクル屋に預けるつもりでいたのですが、こちらに空きがあったので助かりました。そして安土城址や博物館への行き方を訊いてマップをもらうと、主要施設で特典が受けられる「戦国ワンダーランド滋賀・びわ湖」の周遊パスと、11月1日から開始で今日が初日というスタンプラリーの台紙もくれました。
観光案内所もラリーポイントの一つだったので、スタンプを押してもらうと、まずは安土城を目指そうと思ったのですが、もらった地図を見ると、おすすめのアクセスルートを少し外れたところに活津彦根神社という文字を見つけたので、そちらから行くことにしました。何故なら、活津“彦根”は安土からそう遠くない「彦根」の地名の語源になった神だからです。つまり、彦根や安土周辺はかつて活津彦根が治めていた土地で、彼がこの地域の産土神なのだと思います。
安土駅から駅前の県道201号をまっすぐ行くと琵琶湖の内湖である西の湖に突き当たるのですが、その手前に活津彦根神社はあります。昔の地形はわかりませんが、琵琶湖から長命寺川を通って西の湖に船で入ってくると最奥に神社があるので、西の湖、ひいては琵琶湖への玄関口に建てられたことは明らかです。よって、ここに活津彦根ゆかりの宮などがあり、その跡が聖地となったのではないでしょうか。そして、この神社を中心に安土の街は形成されたように思えます。県道201号はどう考えても当社の参道なので。
県道201号沿いにある活津彦根神社の御旅所を示す石碑
県道201号から見える安土山
活津彦根は天照大御神の子で、『ホツマツタヱ』によれば、アマテルと東の典侍オオミヤヒメミチコとのあいだに生まれた子です。ミチコの父はヤソキネで、ヤソキネはアマテルの母イサナミの兄弟なので、オオヤマズミ一族のサクラウチの娘であるセオリツヒメホノコを母に持つ兄のオシホミミより天君に近い血筋でしたが、父の跡を継ぐことはなく、シマツヒコ一族のカナサキの娘であるハヤアキツヒメアキコを母に持つ異母兄弟のアマツヒコネとセットで語られ、詳しいことはわかりません。ただし、以前訪れた近江八幡市にある式内社――馬見岡神社の祭神は天津彦根命だったので、兄弟ともにこのあたりにいたのだと思います。オシホミミも多賀町にある胡宮神社の起源である多賀若宮にいて、多賀大社の起源である多賀宮にいたイサナギに養育されていたようですし。もしかしたら三兄弟とも祖父にあたるイサナギの庇護下で育てられたのかもしれません。
活津彦根神社の鳥居と社号標
活津彦根神社についての説明板
拝殿
本殿と摂社の蛭子神社
本殿についての説明板
境内社は蛭子神社と津島社で、織田信長の出身地である尾張に総本社があり、織田家が尊崇した津島神社は、岐阜の伊奈波神社にも勧請されていたので、信長が城を築いた土地の産土神の社には、必ず津島社が祀られたのではないかと思いました。もしそうならば、信長は仏は大して重視しなかったが神は比較的大事にしていたのかもしれないと思い、そんなことを考えつつ蛭子神社の説明板を読むと、安土城築城の際に信長が三日三晩当社に参籠して祈願をしたと書かれていたので、その考えに太鼓判を押されたように感じて、信長ゆかりの城と津島社の関係を追ってみたいと思いました。
信長の逸話が書かれていた蛭子神社についての説明板。祭神の最後にある苔穴明神の正体が気になります。
アートな石灯籠その1
アートな石灯籠その2
活津彦根神社を出たあとは安土山を目指して歩き、橋を渡ったところで山に突き当たったので右に曲がり、山裾に沿って行くと、しばらくして大手門跡の近くにある安土城址の受付前に到着しました。受付から先の城址には売店もトイレもないので、売店と公共トイレを兼ねた城なび館という施設が近くにあり、そこもラリーポイントだったので、寄ってスタンプを押し、周遊パスの特典がコーヒー1杯サービスだったので、ホットコーヒーをもらって一服しました。
コーヒーを飲み終わると受付へ。国の特別史跡である安土城址は現在城内にあった摠見寺の管理下にあるため、受付で寺の御朱印がいただけるので、朱印帳を預けてから城址見学に行きました。御朱印希望者は拝観料を払うときに朱印帳を預けて帰りに引き取ることになっていたので。持参の朱印帳の場合、いただけるのは摠見寺の御朱印だけで、安土城の御城印はあるにはあるのですが、受付で販売している摠見寺オリジナルの朱印帳に書かれたもののみで、したがって朱印帳を買わないと手に入らないようになっていました。
安土山に突き当たって右に曲がると左手に見える摠見寺の参道と安土城址の石碑
受付に向かう途中に見える安土城の遺跡
安土城址についての説明板
受付を入って最初に現れる遺跡――羽柴秀吉邸跡
秀吉邸についての説明板
秀吉邸主殿についての説明板
秀吉邸の前を通る大手道の石段には石仏が使われていて、それも一つや二つではなかったので、信長にとっていかに仏が取るに足らない存在だったかが知れました。光秀が築城した福知山城のように石垣の転用石であれば果敢な侵入者しか足蹴にすることはないかもしれませんが、大手道の石段ともなれば誰でも、それこそ自邸の前に石段がある秀吉も気にせず容赦なく踏んだと思います。信長は仏そのものというよりも偶像に対して価値を見出していなかったのかもしれませんが。まあ、織田家の祖は剣神社の神官なので、仏教はどうでもいいのかもしれません。
大手道の石段にされた石仏その1
大手道の石段にされた石仏その2
秀吉邸からしばらく登ると、森蘭丸と織田信澄の邸宅跡を示す石碑がありました。この二人の邸宅が隣り合っているのは実に興味深いことだと思いました。蘭丸は信長の小姓で本能寺の変で主君と運命を共にしたことで有名ですが、信澄は信長が逆心を疑って殺した弟信行の子で、つまり甥です。ということは、信長にとって蘭丸は甥と同じぐらいの存在だったとも考えられます。さらにおもしろいのが、信澄は信長の甥で、かつ光秀の娘婿でもあったことです。信長の命で光秀の婿となった信長の甥が秀吉よりも本丸に近いところに邸宅を構えていた――この事実が何を意味するのか、大いに気になりますね。
大手道の石段。左手に森蘭丸邸跡と織田信澄邸跡の石碑があります。
森蘭丸邸跡と織田信澄邸跡の石碑
森蘭丸と織田信澄の邸宅跡を過ぎると曲がり角が多く見通しが悪い道になっていて、明らかに防御を意識した作りになっています。
黒金門跡についての説明板
仏足石
天主台西下の二の丸跡にある信長公廟所
柵の向こうはこんなカンジ
天主台に続く石段と石垣
天主台跡。礎石がきれいに残っています。
天主台跡についての説明板
西の湖が見える天主台跡からの眺め。現在は干拓によって四方いずれも陸地になっていますが、往時の安土城は南以外の三方が琵琶湖の内湖に囲まれていたそうです。
天主台跡から見える信長廟所(左)
ソセキとススキ
本丸跡についての説明板
織田信雄公四代供養塔。信雄は信長の次男です。
信雄四代についての立札
摠見寺跡。天主台よりも近くに西の湖が見えます。
摠見寺跡についての説明板
三重塔。パンフレットによると、信長が甲賀の長寿寺から移築したもので、享徳3年(1454)の建立。重要文化財。
仁王門に続く参道。仁王門も甲賀から移築したもので、元亀2年(1571)建立。重要文化財。この傾斜のある石段を下りるのが帰りの正規ルートです。
帰りのルートの途中にあった巨石。安土山も古代祭祀が行われた聖地だったのかもしれません。県道201号から見た山の姿は十分に神奈備山の条件を満たしていましたし。
正味70分ほどの見学を終えて、受付で朱印帳を引き取って安土山を後にすると、次に安土城考古博物館へと向かいました。
安土城址近くから見る繖山。山の手前の中央付近に見える丸い呼鈴のような形をした屋根が安土城考古博物館。
近寄ると呼鈴はこんなカンジ
安土城考古博物館入口
徒歩15分ほどで着くと、入ってすぐ右手にミュージアムショップ兼レストランがあり、覗いてみると近江牛の文字が目に飛び込んできたので、特別展を見る前に先に昼食を摂ろうと思い、入店。「近江牛の肉うどん」というメニューがあり、肉が2倍の「近江牛のうつけうどん」と4倍の「近江牛の大うつけうどん」があったので、うつけうどんを注文しました。
食事を終えると、今回安土を訪れた一番の目的である特別展を見学。こちらも見ごたえのある素晴らしい展覧会でした。旧近江国ならではの展示で、光秀の近江出身説の根拠となっている『江侍聞伝禄』や『淡海温故録』、光秀の他、近江の小谷城の城主だった浅井長政や近江守護だった六角氏の文書、古地図は安土城はもちろん、地元の自治会が所有する繖山の古地図までありました。特に印象的だったのは、安土にある二つの寺――摠見寺と浄厳院が所蔵する信長の肖像画で、その顔がよく似ていたことです。どちらも実物の特徴をうまく捉えているのかもしれないと思いました。
特別展見学後、別室で琵琶湖周辺の遺跡から発掘された資料を展示していたので、そちらも見てから、特別展の図録を購入し、スタンプを押して博物館を出ると、隣接する「安土城天主 信長の館」へと向かいました。どういう施設か知らなかったのですが、パンフレットによると、1992年のセビリア万博の日本館のメイン展示として原寸大で復元された安土城天主の最上部5階6階部分を万博終了後に旧安土町が譲り受けて解体移築したものだそうです。キンキラ金で、まったく落ち着かない空間でしたが、それは私が根っからの庶民だからかもしれません。
復元天主の他にはVRシアターなどがありましたが、中でも嬉しかったのは「天正十年 安土御献立」の復元レプリカがあったことでした。明智光秀が饗応役として徳川家康を接待した時のメニューです。当時家康の陪臣であった土岐定政が光秀に土岐氏ゆかりの品々をもらった時でもあります。武田攻めのあと、家康は天正10年(1982)5月15日から六日間安土城に滞在したそうですが、十五日おちつき膳、十五日晩御膳、十六日御あさめし膳、十六日之夕膳が展示されていました。「将軍の御成りのようで支度が行き過ぎている」と信長が怒ったというのが嘘か真かはわかりませんが、行き過ぎているのは確かで、客観的に見てもやりすぎと思えるほど盛り沢山の料理内容でした。
「天正十年 安土御献立」についての解説
光秀が家康の接待役を務めたこと、その時に信長が腹を立てたという話があることは知っていましたが、復元されたメニューを見て新たに疑問をおぼえたことがあります。いったい光秀はこれほどの物を揃えてみせる知識をいつ貯えたのでしょうか? 自分で差配したわけではないのかもしれませんが、それなら誰を頼ったのか? 誰に教わったのか? その伝手はどこで得たのか? 果たしてそれは国を追われた貧乏な浪人や幕府奉公衆に仕える中間ぐらいの小物から成りあがった人間に可能なことなのか? このあたりも光秀の出自に迫るカギの一つではないかと思っているので、いい勉強をさせてもらいました。
14時40分からのVRシアターを見て2階の展示室に行くと、信長の子孫が藩主として治めた天童藩に伝わった信長の肖像画がありました。信長と同時代の宣教師が描いたものとのことで、もっとも似ていると伝えられているそうです。洋画と日本画の違いはありますが、考古博物館で見た掛軸の肖像画と顔の輪郭などは相通じるところがあったので、信長はおそらくこういう顔をしていたのだと思います。今回安土で見た三つの信長画像の類似性からわかるように、平面的な日本画と立体感があり写実的な洋画で画法の差はあれども印象にさして差がないのなら、本徳寺所蔵の光秀の肖像画もまた実物とそれほど乖離したものではないのかもしれません。
館内はほとんど撮影禁止だったので資料としてポストカードを買うために売店に寄ったら「信長のえびしょっぱい」という気になる菓子があったので、併せて購入。そして出入り口にあったスタンプを押して信長の館を出ると、最後の目的地である安土城郭資料館へと向かいました。歩いて15分ほどで到着し、そこでは570円の家紋カプチーノが300円で飲めるというのが周遊パスの特典だったので、そちらを注文してひと息入れることに。時刻は3時半を過ぎたところで、予約してある米原発17時57分のひかりより1本早い新幹線に乗れそうだったので、スマホで1時間早い16時57分発に変更しました。
安土城図。摠見寺の三重塔も描かれています。
安土城ひな型1/20
安土城ひな型1/20の内側。喫茶コーナーにいたスタッフが機械を操作して中を開けて見せてくれました。
安土城郭資料館のチケットには墨絵師の御歌頭さんが描いた信長の絵が使われていて、その縁ゆえにか売店では御歌頭さんの武将絵のポストカードを販売していて、本能寺で見たものとは違う明智光秀の絵と、安土城の御城印風のものがあったので購入。
最後のスタンプを押し、資料館を出て、駅の自由通路を通り、観光案内所に戻ってコンプリートした台紙を見せると、記念品としてロッテのトッポをくれました。
トッポとともに渡されたスタンプラリーの台紙。ラリーポイントごとに違う色のスタンプが置いてあり、5か所まわると5色の絵が完成されます。
コインロッカーからキャリーバッグを取り出して、16時22分発の米原行き各停電車に乗り、45分に米原駅に着くと、乗り換えに10分ほどしかありませんでしたが、新幹線改札内の売店で駅弁を調達。唯一残っていた井筒屋の「湖北のおはなし」という駅弁と、タカラ缶チューハイがなかったので、「オオサカハイボール」という「名古屋サイダー」に続いてナゾな缶入りアルコールがあったのでそちらを購入し、新幹線に乗車。これにて遠征終了です。
「湖北のおはなし」と「オオサカハイボール」
弁当の中身はこんなカンジ。普通の幕の内弁当でした。