羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

知恵伊豆と在五中将ゆかりの禅寺~平林寺

  あけましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いします。

 

 長らく式内社巡りをしていて、近年は西国三十三所巡りもしているので、寺社にはしょっちゅう行っているため、わざわざ混んでいるときに訪れることもないと思い、その年の最初の寺社詣りを文字どおり初詣としていて、いわゆる一般的な初詣にはもともと行かない人間なので、朝から晩まで家でおとなしく過ごした元旦でした。

 

 さすがに例年よりは少ないみたいですが、テレビのニュースを見ていると、この状況下でも初詣に行く人がそれなりにいて驚いています。寺社が参拝客を受け入れているので、悪いこととは思いませんが、これでは感染は収まらないだろうな、と……。それ以上に強く思うのが、あれだけ不要不急の外出はするなと言われている中でも多くの人々に足を運ばせる初詣という習慣の不思議さで、日本人の生活に根付いた、その根深さにも驚いています。初詣に行く人にとって、初詣は不要不急の外出ではなく、必要な外出ということなのでしょうから……それほど信心深い国民性とは思えないのですが。

 

 それはさておき、昨年の句会メンバーとの春秋の集いは、春の花見は緊急事態宣言が出されるタイミングだったのでパスしましたが、秋の紅葉狩りには参加し、11月28日に新座の平林寺に行ってきました。昔はその日のうちに句や短歌を披露したのですが、近年は秋の場合、年内提出がメドとされているので、昨日は掃除をしながら、いくつか作ってあった歌を見直してノルマの三首を完成させ、メールで提出。毎度ギリギリですが、なんとか間に合いました。

 

  あかきいろ 木々のまにまに あおみどり

    点描にも似た あきの傑作

  

  知恵伊豆も 伊勢物語の中将も

    知らねど集う 野火止の秋

 

  つはものの跡を偲びて建つ社

    今では犬の散歩道なり

 

 平林寺は埼玉県の新座市にあり、メンバーは埼玉県民、東京都民、神奈川県民なので、午後1時目標で門前に集合。今回初めて訪れたのですが、思いのほか立派な寺で意外でした。拝観受付でもらったパンフレットによると、創建は永和元年(1375)で、開基は岩槻城主の太田薀沢。戦国時代に戦禍を被りましたが、天正20年(1592)に徳川家康の援助を受けて中興。やがて家康の孫である家光の時代に幕府の老中首座を勤めた松平伊豆守信綱の菩提寺となり、寛文3年(1663)に信綱の遺命により岩槻から野火止の現在地に移転――ということで、最初は臨済宗建長寺派で、現在は妙心寺派とのこと。本堂は非公開でしたが、御本尊は釈迦如来だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210101201005j:plain平林寺の紅葉。右下は受付を入ってすぐ左にあるトイレの屋根。メンバーが用を足しているあいだ暇だったので周囲を見渡したら、この付近ではここが一番きれいでした。

 

 広い境内には、信綱夫妻をはじめ、大河内松平一族代々の墓が残り、その数170基に及ぶという一大廟所でした。藩主や大名家の廟所や墓所は数多く見てきましたが、これほど規模の大きなところは記憶にありません。信綱は私の出身地である川越藩の藩主で、切れ者ゆえに「知恵伊豆」と呼ばれて、春日局柳生宗矩と共に三代江戸将軍家光を支える鼎の脚ともいわれた人物なので、もちろん知ってはいましたが、信綱時代の川越藩は6万石なので、それくらいの石高の藩の藩主一族の菩提寺がこんなに大きいとは思っていませんでした。他所は、元々は大きかったけれども現在は残っていないだけなのかもしれませんが。もしそうだとしても、十分驚きに値するもので、信綱が幕府内でどれほど重きを成していたのか――家光にとってどれだけ重要な存在だったか考えさせられる史跡でした。

f:id:hanyu_ya:20210101201257j:plain松平家廟所の手前の墓地にあった見性院宝篋印塔。見性院武田信玄の次女で、穴山梅雪正室。信綱は島原の乱を平定したことでも知られますが、こちらの墓地には島原・天草一揆の供養塔などもありました。

f:id:hanyu_ya:20210101202004j:plain信綱の墓の五輪塔の地輪背面

 

 境内には野火止塚と業平塚いう小山があり、何なのかわかりませんが、おそらく平林寺が創建される前からそこにあったもので、これらがあったところに平林寺が建てられたのだと思います。業平といえば、在五中将こと在原業平のことなので、業平塚は業平と何か関係があるのかもしれません。業平は、清和天皇に入内予定だった摂関家の娘、藤原高子との密通が露見して、高子の兄である基経に都を追われて東国を旅したとされているので、あり得ないことではないと思います。余談ですが、基経は時平の父で、時平がのちに父の異母兄である伯父国経の妻であった業平の孫娘を奪って生ませたのが敦忠です。ということで、私にとってはたいそう馴染みのある人物なので、思わぬところで業平の名を見て嬉しくなりました。

f:id:hanyu_ya:20210101201552j:plain紅葉の向こうに見る野火止塚

f:id:hanyu_ya:20210101202259j:plain業平塚と説明板

f:id:hanyu_ya:20210101202349j:plain平林寺境内林の紅葉その1。平林寺の境内林は東京ドーム9個分の広さだそうで、国の天然記念物に指定されています。寄りで撮るよりも引きで撮るほうが美しいと初めて思った紅葉でした。

f:id:hanyu_ya:20210101202445j:plain平林寺境内林の紅葉その2

f:id:hanyu_ya:20210101202532j:plain平林寺境内林の紅葉その3

f:id:hanyu_ya:20210101202616j:plain鐘楼と紅葉。赤、黄、緑、青――見事な色の競演です。

 

 のんびりと散策し、境内林をほぼ一周して墓地まで戻ってくると、2時半を過ぎたところだったので、3時に門前に来てもらうようにタクシーを呼び、10分前に寺を出ました。5時から柳瀬川の川べりの近くにある清瀬蕎麦屋で打ち上げ予定でしたが、まだ時間が早かったので、川向うにある所沢の滝の城址公園に行って、本丸跡にある城山神社にお参りし、メンバーが持参した缶チューハイを飲みながら一服しました。

 

 ソーシャルディスタンスを保ちつつ30分ほど歴史談義をして缶を空けると、蕎麦屋に向かって川沿いを歩き、10分ほどで到着。「池添」という、住宅地にある、まずふらっと立ち寄ることはない隠れ家的な店で、夜は事前に連絡を入れておかないと営業していないとのことでした。そのためか、客は私たちだけで、貸切状態。囲炉裏を模したテーブル席で、まずは蕎麦がきをつまみながら十四代を片口でもらって味わい、店の十四代の瓶が空になったあとは店主おすすめの日本酒をもらい、お任せで地物野菜の天ぷらを揚げてもらって舌鼓を打ち、十分に堪能したので、名物の十割蕎麦で締めて終了。駅まで歩いて行けるところではないので、タクシーを呼んでもらい、秋津駅で解散です。

 

 今年は春も秋もマスクなしで参加できることを、心から願っています。