羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

知恵伊豆と在五中将ゆかりの禅寺~平林寺

  あけましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いします。

 

 長らく式内社巡りをしていて、近年は西国三十三所巡りもしているので、寺社にはしょっちゅう行っているため、わざわざ混んでいるときに訪れることもないと思い、その年の最初の寺社詣りを文字どおり初詣としていて、いわゆる一般的な初詣にはもともと行かない人間なので、朝から晩まで家でおとなしく過ごした元旦でした。

 

 さすがに例年よりは少ないみたいですが、テレビのニュースを見ていると、この状況下でも初詣に行く人がそれなりにいて驚いています。寺社が参拝客を受け入れているので、悪いこととは思いませんが、これでは感染は収まらないだろうな、と……。それ以上に強く思うのが、あれだけ不要不急の外出はするなと言われている中でも多くの人々に足を運ばせる初詣という習慣の不思議さで、日本人の生活に根付いた、その根深さにも驚いています。初詣に行く人にとって、初詣は不要不急の外出ではなく、必要な外出ということなのでしょうから……それほど信心深い国民性とは思えないのですが。

 

 それはさておき、昨年の句会メンバーとの春秋の集いは、春の花見は緊急事態宣言が出されるタイミングだったのでパスしましたが、秋の紅葉狩りには参加し、11月28日に新座の平林寺に行ってきました。昔はその日のうちに句や短歌を披露したのですが、近年は秋の場合、年内提出がメドとされているので、昨日は掃除をしながら、いくつか作ってあった歌を見直してノルマの三首を完成させ、メールで提出。毎度ギリギリですが、なんとか間に合いました。

 

  あかきいろ 木々のまにまに あおみどり

    点描にも似た あきの傑作

  

  知恵伊豆も 伊勢物語の中将も

    知らねど集う 野火止の秋

 

  つはものの跡を偲びて建つ社

    今では犬の散歩道なり

 

 平林寺は埼玉県の新座市にあり、メンバーは埼玉県民、東京都民、神奈川県民なので、午後1時目標で門前に集合。今回初めて訪れたのですが、思いのほか立派な寺で意外でした。拝観受付でもらったパンフレットによると、創建は永和元年(1375)で、開基は岩槻城主の太田薀沢。戦国時代に戦禍を被りましたが、天正20年(1592)に徳川家康の援助を受けて中興。やがて家康の孫である家光の時代に幕府の老中首座を勤めた松平伊豆守信綱の菩提寺となり、寛文3年(1663)に信綱の遺命により岩槻から野火止の現在地に移転――ということで、最初は臨済宗建長寺派で、現在は妙心寺派とのこと。本堂は非公開でしたが、御本尊は釈迦如来だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210101201005j:plain平林寺の紅葉。右下は受付を入ってすぐ左にあるトイレの屋根。メンバーが用を足しているあいだ暇だったので周囲を見渡したら、この付近ではここが一番きれいでした。

 

 広い境内には、信綱夫妻をはじめ、大河内松平一族代々の墓が残り、その数170基に及ぶという一大廟所でした。藩主や大名家の廟所や墓所は数多く見てきましたが、これほど規模の大きなところは記憶にありません。信綱は私の出身地である川越藩の藩主で、切れ者ゆえに「知恵伊豆」と呼ばれて、春日局柳生宗矩と共に三代江戸将軍家光を支える鼎の脚ともいわれた人物なので、もちろん知ってはいましたが、信綱時代の川越藩は6万石なので、それくらいの石高の藩の藩主一族の菩提寺がこんなに大きいとは思っていませんでした。他所は、元々は大きかったけれども現在は残っていないだけなのかもしれませんが。もしそうだとしても、十分驚きに値するもので、信綱が幕府内でどれほど重きを成していたのか――家光にとってどれだけ重要な存在だったか考えさせられる史跡でした。

f:id:hanyu_ya:20210101201257j:plain松平家廟所の手前の墓地にあった見性院宝篋印塔。見性院武田信玄の次女で、穴山梅雪正室。信綱は島原の乱を平定したことでも知られますが、こちらの墓地には島原・天草一揆の供養塔などもありました。

f:id:hanyu_ya:20210101202004j:plain信綱の墓の五輪塔の地輪背面

 

 境内には野火止塚と業平塚いう小山があり、何なのかわかりませんが、おそらく平林寺が創建される前からそこにあったもので、これらがあったところに平林寺が建てられたのだと思います。業平といえば、在五中将こと在原業平のことなので、業平塚は業平と何か関係があるのかもしれません。業平は、清和天皇に入内予定だった摂関家の娘、藤原高子との密通が露見して、高子の兄である基経に都を追われて東国を旅したとされているので、あり得ないことではないと思います。余談ですが、基経は時平の父で、時平がのちに父の異母兄である伯父国経の妻であった業平の孫娘を奪って生ませたのが敦忠です。ということで、私にとってはたいそう馴染みのある人物なので、思わぬところで業平の名を見て嬉しくなりました。

f:id:hanyu_ya:20210101201552j:plain紅葉の向こうに見る野火止塚

f:id:hanyu_ya:20210101202259j:plain業平塚と説明板

f:id:hanyu_ya:20210101202349j:plain平林寺境内林の紅葉その1。平林寺の境内林は東京ドーム9個分の広さだそうで、国の天然記念物に指定されています。寄りで撮るよりも引きで撮るほうが美しいと初めて思った紅葉でした。

f:id:hanyu_ya:20210101202445j:plain平林寺境内林の紅葉その2

f:id:hanyu_ya:20210101202532j:plain平林寺境内林の紅葉その3

f:id:hanyu_ya:20210101202616j:plain鐘楼と紅葉。赤、黄、緑、青――見事な色の競演です。

 

 のんびりと散策し、境内林をほぼ一周して墓地まで戻ってくると、2時半を過ぎたところだったので、3時に門前に来てもらうようにタクシーを呼び、10分前に寺を出ました。5時から柳瀬川の川べりの近くにある清瀬蕎麦屋で打ち上げ予定でしたが、まだ時間が早かったので、川向うにある所沢の滝の城址公園に行って、本丸跡にある城山神社にお参りし、メンバーが持参した缶チューハイを飲みながら一服しました。

 

 ソーシャルディスタンスを保ちつつ30分ほど歴史談義をして缶を空けると、蕎麦屋に向かって川沿いを歩き、10分ほどで到着。「池添」という、住宅地にある、まずふらっと立ち寄ることはない隠れ家的な店で、夜は事前に連絡を入れておかないと営業していないとのことでした。そのためか、客は私たちだけで、貸切状態。囲炉裏を模したテーブル席で、まずは蕎麦がきをつまみながら十四代を片口でもらって味わい、店の十四代の瓶が空になったあとは店主おすすめの日本酒をもらい、お任せで地物野菜の天ぷらを揚げてもらって舌鼓を打ち、十分に堪能したので、名物の十割蕎麦で締めて終了。駅まで歩いて行けるところではないので、タクシーを呼んでもらい、秋津駅で解散です。

 

 今年は春も秋もマスクなしで参加できることを、心から願っています。

明智光秀探訪 番外編~展覧会「新・明智光秀論―細川と明智 信長を支えた武将たち」in永青文庫美術館

 2020年の大晦日です。大学4年の時に育った家を離れてから昨年までのウン十年間、年越しは親元か海外のいずれかだったので(といっても、海外で年をまたいだのは1度だけですが……)、今回初めて自宅で新年を迎えることになります。外出もせず、せっかく家にいて、大掃除とまではいきませんでしたが、とりあえず普通に掃除を終えたので、短めの記事をアップすることにしました。11月と12月の遠征記がまだ残っていますが、そちらを書き出すと確実に二年越しになってしまうので(笑)。

 

 世界的には未曾有の災禍に見舞われた一年でしたが、個人的には、もちろんコロナウィルスに振り回されはしましたが、たいそう充実した、それなりによい年でした。まさしく日本再発見、ディスカバー・ジャパンの一年という感じで、坂井、京北、沼田、福知山、舞鶴、可児、瑞浪、土岐、恵那、永平寺関ケ原――と、今まで行ったことがなかった地方の町にもたくさん行けて、記憶に残る素敵な経験が数多くできましたし。これも明智光秀のおかげです。

 

 クリスマスの25日は3時で仕事を終え、4時半閉館で入館が4時までの永青文庫美術館へ行ってきました。現在、春から延期されていた展覧会「新・明智光秀論―細川と明智 信長を支えた武将たち」が開催されていて、年内の開館は27日までだったからです。年明けは9日からで、会期は1月末まであるのですが、本展覧会が春から冬になったのは緊急事態宣言によって休館したせいであり、そのとき開催中の展覧会が会期を残して終了ということが実際にあったので、第1波よりも厳しくなっている今の感染状況だと年末年始が終わってどうなるかわからなかったので、見そびれることだけは避けたいという一念で、年内に強行しました。

f:id:hanyu_ya:20201231184327j:plain神田川沿い、芭蕉庵近くから見る水神社のイチョウ

 

 建物の規模を考えたら40分ぐらいあれば十分だろうと思っていたのですが、展示内容が史料も解説も素晴らしく充実していて、見たくて仕方がなかった2014年に熊本で発見された『針薬方』もあったので、全然足りず。まあ、旧熊本藩主細川家伝来の文化財を所蔵管理する永青文庫の展覧会なので、細川家家老筋の米田家に伝来した『針薬方』が出展されていても何ら不思議ではないのですが。その他、田辺城のパネル展示で見た、本能寺の変から七日後に光秀が藤孝・忠興父子に宛てて書いた手紙もありました。

 

 書面に光秀の名が現れる藤孝宛ての信長の書状も多く展示されていて、案件は様々ですが、ほとんどが「光秀からも報告を受けている」「光秀の報告は詳細で助かる」「光秀と相談しろ」とあり、まめにホウレンソウを行う光秀の律儀な為人が伝わってきました。安土城での接待と同じく、いささかやりすぎという気もしましたが……もっと端的に言えばクドイ(笑)。つまり明智光秀という人はそういう人だったのだと思います。よく言えば生真面目で、悪く言えばクソ真面目。完璧を期するあまり傍から見ればやりすぎではないかと思うほど万事に行き届いたところを見せ、目下の人間にしてみれば気が引けるというか恐れ多く、同等の人間にしてみれば優等生すぎて鼻につき、目上の人間にしてみればソツのなさや有能ぶりを見せつけられることでコンプレックスを刺激されて少々鬱陶しく感じる、あるいは脅威をおぼえる――そんな人間だったのではないでしょうか。使えるが、真面目ゆえに洒落が通じないというか融通がきかないので、扱いが面倒くさいと思ったかもしれません。悪い人ではないし嫌いではない、それどころか良い人で好きだけど直接関わるのは苦手で敬遠しがちとか、ついていけないという人は、今の世でも変わらずいるものです。

 

 そんな真面目人間の光秀は、戦で負傷した家臣に宛てた見舞いの文など、相手の怪我や病気を気遣う文の数が他の武将に比べてずば抜けて多いことでも知られます。今回も“気配り光秀”を感じさせる展示があり、光秀の端正な心ばえに改めて感動しました。けっして厭味ではありません(笑)。細川忠興の文で、光秀の娘・玉を母に持ち、家督を継いだ息子の忠利に宛てた文があったのですが、その中でこのようなことを言っています――「その方(忠利)から文が来ると何かあったのかと案じてしまうが、文箱の上の札の書付に「無事之状」とあったので安心した。こうしてくれると先に安心できる。文箱の上に書付の札を付けるのは明智日向守がいつもしていたことで、理に適った方法だ」と。要するに、現代風に置き換えると、予期せずして文が来ると何だろうと思いますが、光秀は封筒に「~~在中」と書いて送ってきたので、内容が判り、安心して封を開けられた、ということです。相手を思いやる光秀の配慮も、舅のやり方に感心したと息子に語る忠興も、父が認める祖父の習慣を引き継いでいる忠利も、なんかとてもいい感じに思え、心が温かくなりました。

 

 一応駆け足で全部見てきましたが、図録はなく、唯一の関連資料は本展覧会を特集した『季刊永青文庫』だけで、載っていない展示解説も多く、書き留める時間がなかったので、来月も問題なく開館していたら、もう一度時間に余裕を持って来ようと思いました。

 

 4時半になったので美術館を出ると、永青文庫の近くに椿山荘があるので、シャンパーニュを飲んで帰ることにしました。ロビーラウンジの「ル・ジャルダン」に入り、マムをグラスで注文。マムはランスに行ったときにも訪れたお気に入りの老舗メゾンなのですが、最近は飲食店で出合うことがなかったので、ちょっと嬉しくなりました。しかも口開けだったので、「これは2杯飲むでしょ」と思い、サンドウィッチも注文。サンドウィッチはキューカンバーサンドが一番好きで、肉はあまり得意ではなく(ハンバーガーは好きですが)、ハムサンドぐらいしか食べないのですが、単品メニューはパテやローストビーフ系しかなかったので、フルーツや野菜なども入った盛り合わせを頼み、チキンを抜いてもらって、野菜とフルーツでまとめてもらうことにしました。通された席は奥まった端の席だったので、『季刊永青文庫』の明智光秀特集を落ち着いて熟読することができました。

f:id:hanyu_ya:20201231185405j:plainホテル椿山荘東京のロビーラウンジ「ル・ジャルダン」のマムと『季刊永青文庫』。私が疲れて1杯飲みたいときや、やることを終えて後はのんびりというときに飲みたいのはシャンパーニュなので、シャンパーニュを置いてある確率が高く、落ち着いた雰囲気で飲める環境ということで、近くにホテルがあれば、迷わずホテルのラウンジかバーに行きます。

f:id:hanyu_ya:20201231185506j:plain帝国ホテルのロビーラウンジ「ランデブー」のアンリオ。今年は海外に行けず、ベートーヴェンのアニバーサリーイヤーということで何年も前から予定していたウィーン旅行ができなかったので、気分だけでも味わおうと思い、23日の夜にドイツ大使館やザクセン観光局が後援している日比谷公園の東京クリスマスマーケットに行ってみたのですが、あまりに人が多くてビックリ。入場待ちの行列がとんでもない長さで、会場内より密ではないかと思うほどだったので、早々に断念したのですが、忙しい中、仕事を無理やり切り上げてせっかく来たので、シャンパーニュを飲んで帰りました。

f:id:hanyu_ya:20201231185607j:plainホテルニューグランドのコーヒーハウス「ザ・カフェ」のスパークリングワイン(銘柄不明)。クリスマス前に友人と横浜中華街で食事をした日、中華料理屋では好みのアルコールが飲めそうになかったので、食前酒代わりのつもりで食事の前にシャンパーニュを飲みに行ったのですが、土曜だったためか混んでいて、ロビーラウンジは満席。ラウンジのスタッフにこちらの店を紹介されましたが、店内はやはり混んでいたので、密を避けてテラスで飲むことにしました。シャンパーニュはなくてスパークリングワインでしたが、メニューにはないオリーブの盛り合わせを希望したら快く受けてもらえ、美味しかったので、さすがクラシックホテルだと思いました。オリーブはお代わりしてしまいました。

 

 「ル・ジャルダン」に入店したときにはまだ5時前だったので、客層はアフタヌーンティを楽しむファミリーや女性二人連れが目立ったのですが、すっかり日が暮れて6時を過ぎると、ディナー予約客がやってきて、近くのテーブルの話し声が耳につくようになったので、6時半過ぎに店を出ました。

 

 8時過ぎには帰宅し、9時から「風の谷のナウシカ」のテレビ放映を見ようと思っていましたが、新聞を読んだついでにテレビ欄を見直すと、NHK総合の夜10時の欄に「光秀のスマホ 歳末の陣」という文字を発見。大いに気になったので、ナウシカはやめて、いつものようにニュースウォッチ9を見たあと引き続きNHKを視聴。結果、おもしろすぎて、50分間テレビ画面を覗き込んで、文字どおりガン見することになりました。ソファに座ったいつもの位置からではスマホの文字が読めなかったので(笑)。主人公光秀の顔が出ないという先進的な作りの玄人好みのドラマ自体にも感心しましたが、クリスマスの夜にこの、一般受けするかわからない、マニアックなドラマを総合で放送するNHKの姿勢にも感心しました。ナウシカを放映する日テレや全日本フィギュアを放映するフジテレビの、あからさまに視聴率を狙った番組編成は妥当で理解できるのですが……まったく意図不明。それらと同じ土壌で戦っても仕方がないということなのか、はたまた多様性を認める社会においては人の好みも千差万別なので少数派の受け皿になろうというのか……まあ、それは民放にはできませんし。ともあれ、前日のイブは年賀状書きに追われて終わりましたが、クリスマス当日はそれなりに楽しめた一日でした。

 

 次の日は全日本フィギュアの男子シングルフリーをテレビ観戦。羽生選手、凄まじい演技でした。優勝おめでとう。ついに真の頂に到達したように思えました。そしてそれは、コロナ禍という苦難があったからこそ、極められたもののような気がしました。勝利を渇望する思いやライバルへの思い、絶対王者としての矜持などが削ぎ落されて、純粋にスケートが好きで、スケートへの思いも含めたスケートをこよなく愛する自分の思いを、スケートを通して表現したい、伝えたいという心が透けて見えました。私は今までユヅの手先や足先の使い方に苦言を呈してきましたが、今回の演技は完璧なジャンプはもちろんですが、それ以上に、静止したときのポーズに見惚れました。高い技術と豊かな表現を融合させた、スポーツであり芸術でもある究極のパフォーマンス――かつて荒川静香や髙橋大輔が見せてくれた、頂点を極めた限られたスケーターにしか到達できない、頂のその先の世界を見せてくれました。今の現役選手では羽生結弦とネイサン・チェンしかできないと思います。ありがとう

 

 そんなこんなでクリスマスが終わり、日比谷のクリスマスマーケットで何か買おうと思っていたのに行けず結局何も買えなかったので、1年働いた褒美に何か欲しいと思ったら、思い出したのが古墳クッションでした。ふるさと納税のサイトで箸墓古墳のクッションを見てその存在を知り、納税金額が高かったので普通に買えないかと思い、ネットで検索したら作り手さんのホームページに辿り着いて、オンラインショップで他の古墳のクッションも売っていたので、どれにしようか迷っているうちにそのままになっていました。改めてホームページを訪れると、SOLD OUTになっているものも多かったので、慌てて注文。被葬者で選ぶか世界遺産にするか悩んでいたのですが、明智光秀の年の締めくくりということで、山崎の戦いにおける光秀の本陣跡ともいわれる恵解山古墳を選択。年内届けは難しいかと思いましたが、嬉しいことに昨日届きました。両手があるような形も可愛く、愛嬌があってとてもよい感じです。

f:id:hanyu_ya:20201231192744j:plain恵解山古墳のクッション。作り手さんは椅子職人なので、フニャフニャしたスポンジやポリわたのクッションではなく、硬めのソファクッションです。玄室がある後円部の真ん中はちゃんと盛り上がっていて、芸が細かいです。

 

 28日が仕事納めだったので、29日は今年ウィーンと富良野に一緒に行く予定だった友人と久しぶりに会って、フレンチを食べました。会うのは1月3連休の安比スキー以来で、行った恵比寿の店も1年に2~3回は行っていましたが、ほぼ1年ぶり。夜はおそらく時短営業中なので、初めてランチで行きました。感染拡大がなければ、翌30日までは富良野、31日からは親元の静岡に行く予定でしたが、深刻な現状を踏まえてどちらも中止したので、昨日から5日の仕事始めまでは巣ごもり生活です。遠征記でも書いて、おとなしく過ごそうと思っています。

 

 本日、東京の感染者が1000人を超えました。逼迫している医療現場に携わっている人たちは本当に困難な状況で、クリスマスはおろか、この一年は楽しむどころではなかったと思います。それでも、街はロックダウンしていないので、経済活動は行われていて、ホテルをはじめとする店は営業し、美術館も開館し、クリスマスマーケットも開催されました。開いている以上、人が行かなければ、その意味もなくなります。避けるべきは密で、つまるところ感染対策なしでの人との接触だと思います。なので、旅行も一人か二人、食事は四人まででやる分にはいいと思っています。営業施設の経営も大変ですから。

 

 緊急事態宣言終了後あっちこっちに行きましたが、コロナ禍の中で営業を続ける、あるいは再開する施設はみな対策をしっかりしていて、いずれもスタッフの苦労が偲ばれました。感染者を出せば即休業に追い込まれて死活問題なので、当然と言えば当然ですが。よって感染の場は、柔軟な対策が取れない学校、会社、病院、介護施設、そして、家族間でマスクを付けること、食事の皿を分けることなど感染対策を徹底できない家庭のように思えます。

 

 ともあれ、ここへきて変異種も日本に上陸し、ますますこの先どうなるかわからなくなりました。だからと言って、やりたいことができないのは嫌だし、できないのをコロナのせいにばかりするのも嫌なので、来年以降も状況を見極めつつ、可能なかぎり前向きに行動はしていきたいと思います。

岐阜・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪10 その3~活津彦根神社、安土城址、特別展「信長と光秀の時代」in安土城考古博物館、信長の館、安土城郭資料館

 遠征最終日の11月1日は、恵那に行く予定だったので名古屋駅の近くにホテルを取ったのですが、宿泊まで一週間を切った段階で前日の10月31日に恵那行きを変更したので、この日は安土に行くことにしました。帰る日なので新幹線駅へのアクセスがいいところがよかったので伊勢なども考えたのですが、今回はピンと来なくて、京都や京都駅に出やすい亀岡や大津、米原駅に近い彦根周辺を調べたら、安土城考古博物館で11月23日まで「信長と光秀の時代―戦国近江から天下統一へ―」という特別展が開催されていることを知ったので。安土は訪れたことがありましたが、西国三十三所札所の観音正寺式内社沙沙貴神社が目的の寺社巡りで、安土城にも行ったことがなかったので、いい機会だと思いました。

 

 9時前にホテルをチェックアウトして名古屋駅に行くと、新幹線改札内のスタバでコーヒーを買ってから、名古屋発9時19分のひかりに乗車。47分に米原駅に着いて、59分発の加古川行き各停電車に乗り換え、10時22分に安土駅に到着しました。4年ぶりでしたが、その時とはすっかり様変わりしていて、きれいでモダンな駅になっていたので、びっくりしました。かつてはいかにも特急が停まらない地方の駅という感じで、駅前にタクシーの1台もいなかったのですが。

 

 以前はロータリーを挟んで向かい側にあった観光案内所も駅の1階に移っていたので、いつものように最初に寄ってみると、数は少ないですがコインロッカーがあったので、キャリーバッグを預けることに。駅構内のコインロッカーの情報が得られなかったので、駅前のレンタサイクル屋に預けるつもりでいたのですが、こちらに空きがあったので助かりました。そして安土城址や博物館への行き方を訊いてマップをもらうと、主要施設で特典が受けられる「戦国ワンダーランド滋賀・びわ湖」の周遊パスと、11月1日から開始で今日が初日というスタンプラリーの台紙もくれました。

 

 観光案内所もラリーポイントの一つだったので、スタンプを押してもらうと、まずは安土城を目指そうと思ったのですが、もらった地図を見ると、おすすめのアクセスルートを少し外れたところに活津彦根神社という文字を見つけたので、そちらから行くことにしました。何故なら、活津“彦根”は安土からそう遠くない「彦根」の地名の語源になった神だからです。つまり、彦根や安土周辺はかつて活津彦根が治めていた土地で、彼がこの地域の産土神なのだと思います。

 

 安土駅から駅前の県道201号をまっすぐ行くと琵琶湖の内湖である西の湖に突き当たるのですが、その手前に活津彦根神社はあります。昔の地形はわかりませんが、琵琶湖から長命寺川を通って西の湖に船で入ってくると最奥に神社があるので、西の湖、ひいては琵琶湖への玄関口に建てられたことは明らかです。よって、ここに活津彦根ゆかりの宮などがあり、その跡が聖地となったのではないでしょうか。そして、この神社を中心に安土の街は形成されたように思えます。県道201号はどう考えても当社の参道なので。

f:id:hanyu_ya:20201230231514j:plain県道201号沿いにある活津彦根神社の御旅所を示す石碑

f:id:hanyu_ya:20201230231625j:plain県道201号から見える安土山

 

 活津彦根天照大御神の子で、『ホツマツタヱ』によれば、アマテルと東の典侍オオミヤヒメミチコとのあいだに生まれた子です。ミチコの父はヤソキネで、ヤソキネはアマテルの母イサナミの兄弟なので、オオヤマズミ一族のサクラウチの娘であるセオリツヒメホノコを母に持つ兄のオシホミミより天君に近い血筋でしたが、父の跡を継ぐことはなく、シマツヒコ一族のカナサキの娘であるハヤアキツヒメアキコを母に持つ異母兄弟のアマツヒコネとセットで語られ、詳しいことはわかりません。ただし、以前訪れた近江八幡市にある式内社――馬見岡神社の祭神は天津彦根命だったので、兄弟ともにこのあたりにいたのだと思います。オシホミミも多賀町にある胡宮神社の起源である多賀若宮にいて、多賀大社の起源である多賀宮にいたイサナギに養育されていたようですし。もしかしたら三兄弟とも祖父にあたるイサナギの庇護下で育てられたのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201230231739j:plain活津彦根神社の鳥居と社号標

f:id:hanyu_ya:20201230231845j:plain活津彦根神社についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230231956j:plain拝殿

f:id:hanyu_ya:20201230232052j:plain本殿と摂社の蛭子神社

f:id:hanyu_ya:20201230232147j:plain本殿についての説明板

 

 境内社蛭子神社と津島社で、織田信長の出身地である尾張に総本社があり、織田家が尊崇した津島神社は、岐阜の伊奈波神社にも勧請されていたので、信長が城を築いた土地の産土神の社には、必ず津島社が祀られたのではないかと思いました。もしそうならば、信長は仏は大して重視しなかったが神は比較的大事にしていたのかもしれないと思い、そんなことを考えつつ蛭子神社の説明板を読むと、安土城築城の際に信長が三日三晩当社に参籠して祈願をしたと書かれていたので、その考えに太鼓判を押されたように感じて、信長ゆかりの城と津島社の関係を追ってみたいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20201230232341j:plain信長の逸話が書かれていた蛭子神社についての説明板。祭神の最後にある苔穴明神の正体が気になります。

f:id:hanyu_ya:20201230232425j:plainアートな石灯籠その1

f:id:hanyu_ya:20201230232531j:plainアートな石灯籠その2

 

 活津彦根神社を出たあとは安土山を目指して歩き、橋を渡ったところで山に突き当たったので右に曲がり、山裾に沿って行くと、しばらくして大手門跡の近くにある安土城址の受付前に到着しました。受付から先の城址には売店もトイレもないので、売店と公共トイレを兼ねた城なび館という施設が近くにあり、そこもラリーポイントだったので、寄ってスタンプを押し、周遊パスの特典がコーヒー1杯サービスだったので、ホットコーヒーをもらって一服しました。

 

 コーヒーを飲み終わると受付へ。国の特別史跡である安土城址は現在城内にあった摠見寺の管理下にあるため、受付で寺の御朱印がいただけるので、朱印帳を預けてから城址見学に行きました。御朱印希望者は拝観料を払うときに朱印帳を預けて帰りに引き取ることになっていたので。持参の朱印帳の場合、いただけるのは摠見寺の御朱印だけで、安土城の御城印はあるにはあるのですが、受付で販売している摠見寺オリジナルの朱印帳に書かれたもののみで、したがって朱印帳を買わないと手に入らないようになっていました。

f:id:hanyu_ya:20201230232956j:plain安土山に突き当たって右に曲がると左手に見える摠見寺の参道と安土城址の石碑

f:id:hanyu_ya:20201230233052j:plain受付に向かう途中に見える安土城の遺跡

f:id:hanyu_ya:20201230233149j:plain安土城址についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230233319j:plain受付を入って最初に現れる遺跡――羽柴秀吉邸跡

f:id:hanyu_ya:20201230233442j:plain秀吉邸についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230233518j:plain秀吉邸主殿についての説明板

 

 秀吉邸の前を通る大手道の石段には石仏が使われていて、それも一つや二つではなかったので、信長にとっていかに仏が取るに足らない存在だったかが知れました。光秀が築城した福知山城のように石垣の転用石であれば果敢な侵入者しか足蹴にすることはないかもしれませんが、大手道の石段ともなれば誰でも、それこそ自邸の前に石段がある秀吉も気にせず容赦なく踏んだと思います。信長は仏そのものというよりも偶像に対して価値を見出していなかったのかもしれませんが。まあ、織田家の祖は剣神社の神官なので、仏教はどうでもいいのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201230233720j:plain大手道の石段にされた石仏その1

f:id:hanyu_ya:20201230233905j:plain大手道の石段にされた石仏その2

 

 秀吉邸からしばらく登ると、森蘭丸と織田信澄の邸宅跡を示す石碑がありました。この二人の邸宅が隣り合っているのは実に興味深いことだと思いました。蘭丸は信長の小姓で本能寺の変で主君と運命を共にしたことで有名ですが、信澄は信長が逆心を疑って殺した弟信行の子で、つまり甥です。ということは、信長にとって蘭丸は甥と同じぐらいの存在だったとも考えられます。さらにおもしろいのが、信澄は信長の甥で、かつ光秀の娘婿でもあったことです。信長の命で光秀の婿となった信長の甥が秀吉よりも本丸に近いところに邸宅を構えていた――この事実が何を意味するのか、大いに気になりますね。

f:id:hanyu_ya:20201230234012j:plain大手道の石段。左手に森蘭丸邸跡と織田信澄邸跡の石碑があります。

f:id:hanyu_ya:20201230234108j:plain森蘭丸邸跡と織田信澄邸跡の石碑

f:id:hanyu_ya:20201230234218j:plain森蘭丸と織田信澄の邸宅跡を過ぎると曲がり角が多く見通しが悪い道になっていて、明らかに防御を意識した作りになっています。

f:id:hanyu_ya:20201230234307j:plain黒金門跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230234359j:plain仏足石

f:id:hanyu_ya:20201230234440j:plain天主台西下の二の丸跡にある信長公廟所

f:id:hanyu_ya:20201230234529j:plain柵の向こうはこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20201230234628j:plain天主台に続く石段と石垣

f:id:hanyu_ya:20201230234725j:plain天主台跡。礎石がきれいに残っています。

f:id:hanyu_ya:20201230234809j:plain天主台跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230234853j:plain西の湖が見える天主台跡からの眺め。現在は干拓によって四方いずれも陸地になっていますが、往時の安土城は南以外の三方が琵琶湖の内湖に囲まれていたそうです。

f:id:hanyu_ya:20201230234950j:plain天主台跡から見える信長廟所(左)

f:id:hanyu_ya:20201230235254j:plainソセキとススキ

f:id:hanyu_ya:20201230235459j:plain本丸跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230235603j:plain織田信雄公四代供養塔。信雄は信長の次男です。

f:id:hanyu_ya:20201230235653j:plain信雄四代についての立札

f:id:hanyu_ya:20201230235751j:plain摠見寺跡。天主台よりも近くに西の湖が見えます。

f:id:hanyu_ya:20201230235904j:plain摠見寺跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201231000003j:plain三重塔。パンフレットによると、信長が甲賀の長寿寺から移築したもので、享徳3年(1454)の建立。重要文化財

f:id:hanyu_ya:20201231000105j:plain仁王門に続く参道。仁王門も甲賀から移築したもので、元亀2年(1571)建立。重要文化財。この傾斜のある石段を下りるのが帰りの正規ルートです。

f:id:hanyu_ya:20201231000205j:plain帰りのルートの途中にあった巨石。安土山も古代祭祀が行われた聖地だったのかもしれません。県道201号から見た山の姿は十分に神奈備山の条件を満たしていましたし。

 

 正味70分ほどの見学を終えて、受付で朱印帳を引き取って安土山を後にすると、次に安土城考古博物館へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20201231000323j:plain安土城址近くから見る繖山。山の手前の中央付近に見える丸い呼鈴のような形をした屋根が安土城考古博物館。

f:id:hanyu_ya:20201231000444j:plain近寄ると呼鈴はこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20201231014459j:plain安土城考古博物館入口

 

 徒歩15分ほどで着くと、入ってすぐ右手にミュージアムショップ兼レストランがあり、覗いてみると近江牛の文字が目に飛び込んできたので、特別展を見る前に先に昼食を摂ろうと思い、入店。「近江牛の肉うどん」というメニューがあり、肉が2倍の「近江牛のうつけうどん」と4倍の「近江牛の大うつけうどん」があったので、うつけうどんを注文しました。

f:id:hanyu_ya:20201231000612j:plain近江牛の量が当店比で2倍らしい「近江牛のうつけうどん」

 

 食事を終えると、今回安土を訪れた一番の目的である特別展を見学。こちらも見ごたえのある素晴らしい展覧会でした。旧近江国ならではの展示で、光秀の近江出身説の根拠となっている『江侍聞伝禄』や『淡海温故録』、光秀の他、近江の小谷城の城主だった浅井長政や近江守護だった六角氏の文書、古地図は安土城はもちろん、地元の自治会が所有する繖山の古地図までありました。特に印象的だったのは、安土にある二つの寺――摠見寺と浄厳院が所蔵する信長の肖像画で、その顔がよく似ていたことです。どちらも実物の特徴をうまく捉えているのかもしれないと思いました。

 

 特別展見学後、別室で琵琶湖周辺の遺跡から発掘された資料を展示していたので、そちらも見てから、特別展の図録を購入し、スタンプを押して博物館を出ると、隣接する「安土城天主 信長の館」へと向かいました。どういう施設か知らなかったのですが、パンフレットによると、1992年のセビリア万博の日本館のメイン展示として原寸大で復元された安土城天主の最上部5階6階部分を万博終了後に旧安土町が譲り受けて解体移築したものだそうです。キンキラ金で、まったく落ち着かない空間でしたが、それは私が根っからの庶民だからかもしれません。

 

 復元天主の他にはVRシアターなどがありましたが、中でも嬉しかったのは「天正十年 安土御献立」の復元レプリカがあったことでした。明智光秀が饗応役として徳川家康を接待した時のメニューです。当時家康の陪臣であった土岐定政が光秀に土岐氏ゆかりの品々をもらった時でもあります。武田攻めのあと、家康は天正10年(1982)5月15日から六日間安土城に滞在したそうですが、十五日おちつき膳、十五日晩御膳、十六日御あさめし膳、十六日之夕膳が展示されていました。「将軍の御成りのようで支度が行き過ぎている」と信長が怒ったというのが嘘か真かはわかりませんが、行き過ぎているのは確かで、客観的に見てもやりすぎと思えるほど盛り沢山の料理内容でした。

f:id:hanyu_ya:20201231000923j:plain天正十年 安土御献立」についての解説

 

 光秀が家康の接待役を務めたこと、その時に信長が腹を立てたという話があることは知っていましたが、復元されたメニューを見て新たに疑問をおぼえたことがあります。いったい光秀はこれほどの物を揃えてみせる知識をいつ貯えたのでしょうか? 自分で差配したわけではないのかもしれませんが、それなら誰を頼ったのか? 誰に教わったのか? その伝手はどこで得たのか? 果たしてそれは国を追われた貧乏な浪人や幕府奉公衆に仕える中間ぐらいの小物から成りあがった人間に可能なことなのか? このあたりも光秀の出自に迫るカギの一つではないかと思っているので、いい勉強をさせてもらいました。

 

 14時40分からのVRシアターを見て2階の展示室に行くと、信長の子孫が藩主として治めた天童藩に伝わった信長の肖像画がありました。信長と同時代の宣教師が描いたものとのことで、もっとも似ていると伝えられているそうです。洋画と日本画の違いはありますが、考古博物館で見た掛軸の肖像画と顔の輪郭などは相通じるところがあったので、信長はおそらくこういう顔をしていたのだと思います。今回安土で見た三つの信長画像の類似性からわかるように、平面的な日本画と立体感があり写実的な洋画で画法の差はあれども印象にさして差がないのなら、本徳寺所蔵の光秀の肖像画もまた実物とそれほど乖離したものではないのかもしれません。

 

 館内はほとんど撮影禁止だったので資料としてポストカードを買うために売店に寄ったら「信長のえびしょっぱい」という気になる菓子があったので、併せて購入。そして出入り口にあったスタンプを押して信長の館を出ると、最後の目的地である安土城郭資料館へと向かいました。歩いて15分ほどで到着し、そこでは570円の家紋カプチーノが300円で飲めるというのが周遊パスの特典だったので、そちらを注文してひと息入れることに。時刻は3時半を過ぎたところで、予約してある米原発17時57分のひかりより1本早い新幹線に乗れそうだったので、スマホで1時間早い16時57分発に変更しました。

f:id:hanyu_ya:20201231001133j:plain家紋カプチーノ。もちろん織田木瓜紋です。

f:id:hanyu_ya:20201231001344j:plain安土城図。摠見寺の三重塔も描かれています。

f:id:hanyu_ya:20201231001437j:plain安土城ひな型1/20

f:id:hanyu_ya:20201231001522j:plain安土城ひな型1/20の内側。喫茶コーナーにいたスタッフが機械を操作して中を開けて見せてくれました。

 

 安土城郭資料館のチケットには墨絵師の御歌頭さんが描いた信長の絵が使われていて、その縁ゆえにか売店では御歌頭さんの武将絵のポストカードを販売していて、本能寺で見たものとは違う明智光秀の絵と、安土城の御城印風のものがあったので購入。

f:id:hanyu_ya:20201231032308j:plain御歌頭作の明智光秀安土城御城印

 

 最後のスタンプを押し、資料館を出て、駅の自由通路を通り、観光案内所に戻ってコンプリートした台紙を見せると、記念品としてロッテのトッポをくれました。

f:id:hanyu_ya:20201231001641j:plainトッポとともに渡されたスタンプラリーの台紙。ラリーポイントごとに違う色のスタンプが置いてあり、5か所まわると5色の絵が完成されます。

 

 コインロッカーからキャリーバッグを取り出して、16時22分発の米原行き各停電車に乗り、45分に米原駅に着くと、乗り換えに10分ほどしかありませんでしたが、新幹線改札内売店で駅弁を調達。唯一残っていた井筒屋の「湖北のおはなし」という駅弁と、タカラ缶チューハイがなかったので、「オオサカハイボール」という「名古屋サイダー」に続いてナゾな缶入りアルコールがあったのでそちらを購入し、新幹線に乗車。これにて遠征終了です。

f:id:hanyu_ya:20201231001843j:plain「湖北のおはなし」と「オオサカハイボール

f:id:hanyu_ya:20201231001946j:plain弁当の中身はこんなカンジ。普通の幕の内弁当でした。

岐阜・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪10 その2~土岐明智城址、八王子神社、龍護寺、明知城址、「麒麟がくる」ぎふ恵那大河ドラマ館

 当初の予定では本日から富良野スキーに行く予定でしたが、やめたので、土日とも家に籠っている週末です。旭川自衛隊が出動してから、どうするか同行の友人と相談し、お互いメールを日に1度ぐらいしかチェックしない人間なので、応答にタイムラグがあり、中止ということで合意したのが21日の朝。さっそくキャンセル手続きをしたら、その日の午後にはついに医療団体から緊急事態宣言が出たので、改めて今回は見送るのが賢明なように思えました。北海道スキーは久しぶりだったので残念ですが、会期があるものではないし(シーズンはありますが)、客不足と人手不足で店やリフトが多く営業していないことも十分考えられますし、万が一転んで怪我しても病院で診てもらえなさそうで、それに対して文句が言える状態でもないので。

 

 そんなこともあって、ますます行っておいてよかったという思いを新たにしている明智光秀探訪について、続きを書きたいと思います。

 

 9月上旬の遠征で可児市、10月のプレミアムフライデー岐阜市大河ドラマ館に行ったので、残るは恵那市ということで、10月末日の土曜日は恵那市大河ドラマ館に行ってきました。

 

 恵那市大河ドラマ館の最寄り駅は、恵那駅から出ているローカル電車、明知鉄道の終着駅である明智駅。首都圏から新幹線を使って行く場合に玄関口となる名古屋駅から2時間以上かかるので、どこかのついでに寄るというような場所ではないため、どうせそこまで行くのなら同じ恵那市内にある式内社の恵那神社に寄りたいと思っていました。しかし調べてみると、恵那神社もアクセスが悪く、一日で行こうとするとどちらも滞在時間が取れず、行っただけで終わりそうだったので、今回は会期がある大河ドラマ館を優先し、恵那神社はあきらめました。その代わり――というわけではないのですが、明知鉄道の時刻を調べているときに企画列車の存在を知ったので、それに乗って明智駅まで行くことにしました。明知鉄道の企画列車はいろいろあるのですが、9~11月はきのこ列車で、以前にも書きましたが、私はきのこが大好きなので、これは乗らなければ――と思いました。

 

 ということで、同じ岐阜県内の可児や土岐を訪れた9月に恵那にも行こうと思ったのですが、きのこ列車の申込みをしようとしたらインターネットでの受付は終わっていたので、延期することにしました。ネットでも申し込めるのは5日前までみたいなので、週間天気予報で乗車を予定している11月1日日曜日が晴れであることを確認し、5日前に申し込もうと思ったら、今度は満員で申し込めず。申込みが多い場合は車両が増設されることもある――というようなことがホームページに書かれていたので、あきらめきれずに電話で問い合わせると、車両増設の予定はないが前日の10月31日土曜日ならネットでの受付はすでに締め切っているが、この電話で申し込んでもらえば受けられるという話でした。プレミアムフライデーの件もあり、旅程はずらせなかったので、案内された31日の列車を申し込むと、これから振込用紙を送るが、日にちがないので、間に合わなければ当日の支払いでもよいとのこと。呑気にかまえていましたが、思いのほかギリギリな感じでした。というわけで、土曜に恵那に行くことになったので、特別展の入場が事前予約制だったため、すでに土曜10時の入場券を購入済みだった岐阜市歴史博物館に電話し、ネットでキャンセルできないがどうにかならないか問い合わせたりで、今回は旅行前にバタバタでした。なんとか旅立つ前にすべて解決できましたが。

明知鉄道から送られてきた、きのこ列車のチラシ

 

 で、当日は9時20分にホテルをチェックアウトすると、岐阜発28分の豊橋行き各停電車に乗り、56分に名古屋駅に到着。太閤通口から歩いて3、4分のところにある、その日宿泊予定のホテルに行ってキャリーバッグを預かってもらったあと、再び名古屋駅に戻って、10時24分発の中津川行き快速電車に乗車。11時27分に恵那駅に到着すると、JRの駅を出て左隣にある明知鉄道恵那駅へ行き、窓口で名前を告げて支払いをし、乗車にあたっての説明を聞いて、一日乗り放題の通行手形を受け取りました。飲み物は用意してあるのはお茶だけなので好きな物を持ち込めるとのことだったので、アルコールでもいいのか訊くと、「かまわない」と言うので、JR恵那駅のコンビニに行き、タカラ缶チューハイがあることを確認。出発時間は12時25分で、まだ30分ほど時間があり、早く買うとぬるくなってしまうので、改札前に買うことにし、明知鉄道恵那駅の隣にある恵那市観光物産館「えなてらす」に併設されている観光案内所へと向かいました。明智駅周辺には大河ドラマ館がある日本大正村の他に明知城址と土岐明智城址があり、どちらも光秀ゆかりと言われているので、明智駅からのアクセスルートを訊いたら、「恵那市明智町 山城攻略マップ」というものをくれました。これが地図としても資料としてもよくできていて、たいそう役に立ちました。

「えなてらす」の観光案内所でもらった「恵那市明智町 山城攻略マップ」

 

 ちょうど栗のシーズンであり、恵那は丹波と同じく栗の名産地で、恵那栗の本場。「えなてらす」では食べ比べができるように、市内の九つの和菓子屋の栗きんとんがバラで買えるので、帰りに買って帰ろうと思っていたのですが、他にも栗きんとん大福など、栗好き、栗きんとん好きには見過ごせない栗スイーツがあったので、とりあえず先に二つほど買うことにしました。これから豪勢なきのこ料理を食べるので、しばらく食べる予定はなく、山城にも登るので、荷物は増やしたくなかったのですが……帰りが遅くなって店に寄れないとか、寄れても完売で買えないという事態だけは避けたかったので。

 

 買い物後、JR駅の売店に行ってタカラ缶チューハイを買い、出発10分前に明知鉄道の改札へ行くと、すでに改札が始まっていました。

明知鉄道のきのこ列車も「麒麟がくる」のラッピング車両でした。

食堂車はこんなカンジ

 

 一人参加、しかもギリギリの申込みだったからか、席は車両の入口から一番遠い最奥の端っこで、いかにも取って付けたような感じでしたが、向かい側も右隣もいないので左側のみ隣席とアクリル板で仕切られた席で、右を見れば車両の先頭で、行く手の線路が見えるという、車窓からの眺めが一番いい特等席でした。きのこ料理の担当は明智ゴルフ倶楽部ひるかわゴルフ場レストランで、献立は下記のとおり。

 

 ・季節前菜盛り

 ・鮎の甘露煮

 ・ロージ茸の生姜和え

 ・平茸とホウレン草の胡麻和え

 ・イクチ茸の酢の物 大根おろし

 ・舞茸の天婦羅 松茸の天ぷら 獅子唐

 ・皮茸の旨煮

 ・赤茸と生姜の合わせ煮

 ・里芋とシメジの煮合わせ

 ・松茸御飯

 ・松茸の土瓶蒸し

 ・漬物 果物 お茶

きのこ列車の献立

中身はこんなカンジ

右を見ると見える風景

席に置いてあった袋に入っていたお土産

 

 13時19分に明智駅に着くと、山城攻略マップを見ながら、まずは土岐明智城址こと落合砦を目指すことにしました。きのこ列車でシェフらしき人がお代わりを勧めてくれたので松茸御飯を2杯食べて満腹で、少しでも消化したい状態だったので。歩いて10分ほどで山の麓に着き、山に沿って車道を登っていると左手に山中に入っていく近道があったのですが、獣道のような細い山道だったので、そのまま車道を歩くことに。そこから5分ほどで駐車場とトイレがある公園の入口に到着し、光秀産湯の井戸を見たあと、本丸跡、出丸跡を見学。出丸の見晴らし台からは明知城がバッチリ見え、位置関係を確認することができました。

明智駅の駅舎にあった明知鉄道のキャラクター「てつじい」と、その孫である「てっちゃん」のパネル。てつじいの名前は明知鉄道(あけちてつみち)で、86才だそうです。明知線の開業が1933年なので(笑)。

落合砦の紅葉

千畳敷公園の案内図。土岐明智城址は現在公園として整備されています。

明智光秀公産湯の井戸。可児市にもありましたが……。

産湯の井戸についての説明板

土岐明智城本丸跡

落合砦についての説明板

本丸跡にあった案内板

出丸跡にあった説明板

出丸跡から見える明知城址。真ん中の緑の小山に城址があります。

 

 出丸から続く道があり、地図を見ると下山できるようで、来た道を戻るのはつまらないので、そちらから山を下りると、行きに通るのを避けた道でした。下るのはそれほど難儀ではありませんでしたが、登りで選択しなくてよかったと思う山道でした。途中、モカシンだかローファーだかみたいな靴で登っている人とすれ違いましたが、やめておいたほうが無難だと思います。

 

 続いて大正村広場にある観光案内所へ行き、明知城と土岐明智城の御城印、さらに、説明書付きの武将印というものがあったので購入。その後、明智光秀の手植えと伝わる楓がある八王子神社へと向かいました。

明知城と土岐明智城の御城印。シールになっていました。

明智光秀の武将印。光秀の隣の女性は妻の熙子ではなく、母の牧と思われます。明智には牧の墓と伝わるところがあるので、熙子より牧のほうがゆかりの深い人物なのでしょう。

明知城の大手門を移築したと伝わる八王子神社の唐門

八王子神社社殿についての説明板

「えんむすびの大杉」と呼ばれる意味ありげな御神木。説明板によると、当社の創建は天暦3年(949)だそうですが、実はもっと古く、大和一宮の大神神社の三本杉のように、この杉が聖地の目印として植えられた元々の鳥居なのではないかと思います。

八王子神社本殿。ちょうど紅葉がきれいでした。

境内社柿本人麻呂社。光秀が祀ったといわれ、文武両道を志した光秀は当社に人麻呂を祀り、学問所には天神(菅原道真)を祀ったそうです。手前が光秀の手植えと伝わる楓。

人麻呂神社についての説明板

 

 八王子神社を出ると、明知城の城主であった明知遠山家の菩提寺であり、光秀の供養塔がある龍護寺へと向かいました。神社の境内脇から遠山家累代の墓へと続く道は、恵那駅の観光案内所でもらった明智光秀ゆかりの地マップに「未舗装のため足下注意」と書かれていましたが、明らかに最短ルートだったのでチャレンジしてみました。山城歩きに備えて大山阿夫利神社の本社に登ったときにも履いていたコンフォートブーツだったので、足元に不安はなく、実際の道も、確かに未舗装ではありましたが、落合砦を下った山道よりも歩きやすい道でした。

「えなてらす」の観光案内所でもらった「恵那市明智町 明智光秀ゆかりの地マップ」

 

 初代鎌倉将軍源頼朝重臣として功績を残した加藤景廉を祖に持つ遠山氏は、室町時代には七流に分かれ、遠山七頭と呼ばれていました。惣領家が岩村城城主である岩村遠山家で、それに次ぐ家格が明知遠山家です。したがって土岐氏ではないので、光秀が定説どおり土岐明智氏の出身ならば、この地が生誕地である可能性は低いと思うのですが、遠山家には土岐明智氏から養子に入っている事実があり、また光秀の叔父にあたり、若くして実父を喪った光秀の父親代わりでもあった光安は遠山景行と同一人物という説があるので、まったく無関係とも言い切れません。事実この地には光秀のゆかりと伝わるものがありすぎるし、もし明智光安が遠山景行と同一人物であるのなら、それらは実は光安のゆかり、あるいは光安の子である光春(秀満)のゆかりとも考えられるからです。産湯の井戸は可児市明智城址の近くにもあるので、一方が光秀のゆかりで、他方は光安か光春のゆかりということも十分にあり得ると思います。

明知城主遠山氏累代の墓所

明知遠山家累代の墓にある如意輪観音菩薩像。遠山氏の家紋は丸に二つ引き両で、向かって左側の像の前にある水鉢にはそちらが彫られていますが、右側には桔梗紋が彫られているので、土岐氏の縁者であることがわかります。

如意輪観音像についての説明板

龍護寺山門からの秋の景

龍護寺案内図他。菩提寺の公式が遠山景行=明智光安だったので、いっそう無視できない、考察しがいのある説だと思います。

明智光秀公御霊廟

霊廟の供養塔。本徳寺の肖像画が飾ってありました。

 

 龍護寺の次は明知城址へ向かったのですが、優秀なマップのおかげで最短ルートを選択できたので、寺から歩いて5分ほどで稲荷神社登城口に到着。看板と幟がなければ見過ごしそうな場所でした。

代官所陣屋跡の近くにある稲荷神社登城口

稲荷神社登城口についての説明板

 

 10分ほど山登りをすると本丸下の二の丸に到り、メインルートではないためか、道中誰にも会いませんでしたが、そこでようやくメインルートを歩いてきた人とすれ違うようになりました。

登りはじめると山中はこんなカンジ

堀切と曲輪についての説明板

帯曲輪と枡形虎口についての説明板

 

 山の頂上にある本丸跡は、土岐明智城より狭い感じで、見晴らしも木が邪魔してあまりよくなかったので、早々に山を下りて、山麓にある大河ドラマ館に行くことにしました。5時閉館で、時刻は3時過ぎだったので。

明知城本丸跡

本丸跡にあった明知城縄張図

本丸についての説明板

出丸についての説明板

光秀が学問所に菅原道真を祀ったのが起源とされる天神神社

天神神社についての説明板

天神神社の由来

天神神社登城口についての説明板。こちらから登って下りるのが一般的なルートです。

 

 本丸から20分ほどで到着し、前日に岐阜の大河ドラマ館に行っていたので、その半券を見せて割引料金でチケットを買い、3時半前に入館。大河ドラマ館の展示は微妙な感じでしたが、可児と同じように、それとは別に「明智光秀が生きた時代の東美濃戦国史―山城を巡る攻防―」という特別展を開催していて、実際に山城を巡ってきた後だったので、そちらはとても興味深く見ることができました。土岐氏と遠山氏が関連する城の位置関係や規模が模型で確認できておもしろかったですね。

麒麟がくる ぎふ恵那大河ドラマ館」の会場である大正ロマン

大河ドラマ内で使用された光秀と熙子の婚礼衣装の同等品

土岐家ゆかりの鎧兜(複製)

特別展に展示されていた土岐明智城の等高線地図模型

特別展に展示されていた明知城の等高線地図模型

 

 6時閉店の「えなてらす」で栗きんとんを買って帰るため、帰りは恵那駅に17時12分に到着する明智駅発16時22分の電車に乗る予定だったので、4時前には大正ロマン館を出て駅に向かいました。途中に横を通った大正村役場が気になりましたが、見学する時間はなかったので外観の写真を撮るだけにして急いだので、10分前には到着。始発駅のため、すでにホームに入線していた電車はまたもや「麒麟がくる」のラッピング車両だったので、撮影してから乗車しました。

駅に向かう途中にあった日本大正村役場

日本大正村役場についての説明板

明智駅の駅舎前にいるてつじい。マスク姿です。

隣にはハイカラさんもいます。同じくマスク姿です。

帰りに乗ったラッピング電車。この車両で、「麒麟がくる」のキャッチコピーが「それでも、この仁なき世を愛せるか」であることを初めて知りました。

 

 定刻どおり終点の恵那駅に到着し、隣の「えなてらす」に行くと、9種あった栗きんとんのバラ売りは3種に減っていたので、残っていた三つの店の栗きんとんを一つずつ買い、26分発の名古屋行き快速電車に乗車。18時38分に名古屋駅に着いたので、夕飯を食べてからホテルに戻ろうと思い、気になっていたきしめん専門店――「宮きしめん 駿」へと向かいました。この店には前から行ってみたかったのですが、場所がKITTEの地下で、けっして駅から遠いわけではないのですが、ホームにある「住よし」に比べると行くのも食べるのも時間がかかるのは確かなので、今まで行く機会がありませんでした。けれども、電子クーポンが「えなてらす」では使えず、明智では土産物を吟味する時間がなかったので、その日が使用期限のクーポンが1,000円分残っていたこともあり、行ってみることにしました。「住よし」は食券だし、使えたとしても1,000円も食べず、クーポンは釣銭が出ないので、この時は選択肢にありませんでした。

 

 店に着くと、7時前でしたが、すぐに入れたので、ラッキーでした。案内されたのはカウンターでしたが、左右はソーシャルディスタンスで使用しないようになっていたので、十分にゆとりがありましたし。さっそく赤白きしめん食べくらべ定食と、アルコールは名古屋サワーという聞いたことのないメニューがあったので、そちらを注文。食事後ホテルに戻り、この日は終了です。

赤白きしめん食べくらべ定食と名古屋サワー。名古屋サワーは焼酎を名古屋サイダーというご当地ドリンクで割ったものですが、かなり甘かったので、焼酎を足してもらいました(もちろん有料です)。

岐阜・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪10 その1~天龍寺、明智城址、伊奈波神社、岐阜城、「麒麟がくる」岐阜大河ドラマ館

 コロナ禍の中で明智光秀に明け暮れた2020年もいよいよ終わりに近づいてきました。先週、予定していた光秀探訪をすべて終え、あとはスキーやら宝塚やら、光秀とは関係がない目的で旅行の予定が入っているぐらいです。当分収まりそうにない第3波のせいで、それらもどうなるかわかりませんが……。まあ、まさにケセラセラで、何事もなるようにしかならないので。とはいえ、時間も体力も限りがあり、金銭的余裕もタイミングも、この先いつもいつでもあるものとは思っていないので、予定どおり行ければよし、行けなければ行かない、行こうと思えば行けなくはないが行かないほうが無難であれば無理はしない、というだけです。ともあれ、先週の遠征は岐阜→可児→関ケ原→京都→亀岡でしたが、前2回の遠征記がまだなので、順を追って書いていきたいと思います。確実に年を越しそうですが(笑)。

 

 明智光秀の出身地である岐阜県には大河ドラマ館が岐阜市可児市恵那市と三つあり、岐阜市の会場である岐阜市歴史博物館では、2階に期限付きでオープンしている大河ドラマ館とは別に、1階の展示室で特別展「NHK大河ドラマ特別展 麒麟がくる」が11月3日まで開催されていました。なので、こちらの大河ドラマ館は最初から特別展も一緒に見られる日程で訪れるつもりでいました。特別展は9月18日から始まっていたので、博物館だけが目的ならもっと早くに行ってもよかったのですが、岐阜市周辺の寺社にはプレミアムフライデー限定で授与される金の御朱印というものがあり、その流れで岐阜城明智城でも金の御城印がプレミアムフライデー限定で販売されていたので、御朱印&御城印コレクターとしてはどうせなら限定の金バージョンがよいと思い(限定に弱い人間なので……)、プレミアムフライデーに合わせたら10月しか旅程が組めませんでした。

 

 ということで、10月29日木曜の4時過ぎに仕事を終えると、「貝づくし」とタカラ缶チューハイを買って、品川発17時17分ののぞみに乗車。18時45分に名古屋駅に着き、遅れていた19時発の大垣行き快速電車に乗り換え、7時半前に岐阜駅に到着。名鉄岐阜駅から程近いホテルにチェックインし、翌朝は出発が早いので、その日はこれで終了です。

f:id:hanyu_ya:20201213164047j:plain岐阜駅の改札を出て右にあるガラス張りの観光案内所の外側にあしらわれていた、岐阜ゆかりの戦国武将御三方のイラスト。けっこうな迫力で、ちょっと驚きました。

 

 次の日は7時50分にホテルを出て、岐阜発8時11分の多治見行き各停電車に乗車。9時8分に可児駅に到着し、JRと名鉄が接続連絡をしていないため、次の広見線が39分発で待ち時間が30分あったので、駅前に建つ可児市子育てプラザの中にあるカフェ兼レストランでコーヒーを飲むことにしました。9時半に店を出て、始発なのですでに新可児駅のホームに停まっていた電車に乗ると、定刻どおりに出発し、43分に明智駅に到着。そして、まずは天龍寺を目指しました。天龍寺でもプレミアムフライデー限定で金の御朱印がいただけたからです。徒歩25分ぐらいかかるので、近くの明智城址バス停までバスで行けるとよかったのですが、明智駅から出発するKバスは土日祝日限定で、金の御朱印が授与されるプレミアムフライデーであっても平日の運行はないため、今回も歩きです。

 

 一度歩いたことがある道だったからか、10時過ぎには到着し、お参り後、御朱印授与所へ。金の御朱印と通常版があり、微妙に違っていたので両方いただきました。前回来たときには御縁がなくて授与所が閉まっていたのですが、その時に御朱印をもらえなかったからこそ、また行かなければという気にもなったので、結果的にはよかったです。

f:id:hanyu_ya:20201213162847j:plain天龍寺本堂

f:id:hanyu_ya:20201213164122j:plain天龍寺御朱印。向かって左がプレミアムフライデー限定の金の御朱印で、右が通常版。金の御朱印は左上の光秀の文字がデザイン的にあしらわれた桔梗紋が、通常版は右下の桔梗の絵が素敵です。

 

 今回は可児市大河ドラマ館がある花フェスタ記念公園まで行っていると時間が足りなくなるので、そこまで足を延ばすつもりはなかったのですが、その分明智城址周辺はウロウロできたので、天龍寺の近くにある太元神社に行ってみることにしました。すると、途中で思わぬものに遭遇。光秀探訪の最中に起きた偶然の出会いに感動し、しばしその場で立ち尽くしてしまいました。

f:id:hanyu_ya:20201213164345j:plainモリゾーとキッコロくまモンより何より、いまだに一番好きなキャラクターがモリゾーです。愛・地球博には4回行きましたし、その4年後の上海万博でも歴代キャラクターが展示されていたので、モリゾー見たさに海を越えて行きました。

f:id:hanyu_ya:20201213164530j:plain太元神社の鳥居

f:id:hanyu_ya:20201213164638j:plain太元神社についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201213164834j:plain太元神社奥之院についての説明板

 

 太元神社を後にすると、明智城址へ向かい、城址入口脇に設置されたテントで金の御城印と御荘印、武将印を購入。このテントの売店も日曜の午前中とプレミアムフライデーぐらいしか開店しないので、欲しければ開店日に合わせて来るしかありません。

f:id:hanyu_ya:20201213165556j:plain金バージョンの明智城の御城印と御荘印

f:id:hanyu_ya:20201213165654j:plain金バージョンの明智城の武将印。御城印と御荘印とは微妙に紙が違います。

 

 明智城址は9月に来たときにほぼ見ているのですが、その時は台風10号通過後の雨上がりで足場が悪くて断念したエリアもあるので、今回は前回行けなかった所に行ってみることにしました。本丸跡にある展望台の近くから下っていく道があり、その先に六親眷属幽魂塔という社があったので、そこを目指すことに。山道はもちろん未舗装ではありますが、きちんと整備されていて十分に歩きやすく……なのですが、大手口から本丸に続く桔梗坂に比べると道幅が狭くて左右の木々が比較的背が高いものが多いため、鬱蒼として暗い上に、人の往来も(少)ないので、天気がよくないとかなり不安になる道中かもしれません。青空が見えて陽が差していれば安心感もあり、静かで森林浴的な気分を味わえますが。

f:id:hanyu_ya:20201213170206j:plain明智城跡散策路マップ。今回は本丸曲輪から上に伸びている緑の道を行きました。途中までですが。

f:id:hanyu_ya:20201213170351j:plain六親眷属幽魂塔の社

f:id:hanyu_ya:20201213170445j:plain社の中の石碑

f:id:hanyu_ya:20201213170619j:plain六親眷属幽魂塔についての説明板

 

 六親眷属幽魂塔からは、来た道を戻らずとも道なりに山を下っていけば住宅地に出られるみたいでしたが、地図アプリで調べても近くに可児駅行きのバスが停まるバス停が発見できなかったので、展望台に戻り、当初の予定どおり馬場口から出て、羽生ヶ丘4丁目バス停へと向かいました。公共交通の本数が少ないので、乗るつもりのバスや電車を逃すと、そのあとのスケジュールがすべて狂ってしまうので。

 

 11時20分発のバスに乗り、33分に可児駅に到着すると、47分発の岐阜行き各停電車に乗車。12時23分に岐阜駅に着き、観光案内所で岐阜公園方面行きのバス乗り場を訊いて地図をもらうと、教えられた12、13番のバス停へと向かいました。この二つのバス停に来るバスはほとんど停まるとのことだったので、来たバスに乗り、伊奈波通りバス停で下車。伊奈波神社の参道である伊奈波通を伊奈波山に向かって7,8分歩くと、目的の伊奈波神社に突き当たりました。思いのほか広い境内で、摂末社も多そうだったので、境内を見る前に由緒書きが欲しくなり、お参り前でしたが、先に社務所に寄って、金の御朱印と由緒書きをいただくことにしました。

f:id:hanyu_ya:20201213171617j:plain伊奈波神社の鳥居と社号標

f:id:hanyu_ya:20201213171724j:plain楼門と神橋

f:id:hanyu_ya:20201213171836j:plain見事な石造りの神橋です。

f:id:hanyu_ya:20201213181616j:plain伊奈波神社黒龍神社の金の御朱印

 

 伊奈波神社は旧国幣小社で、式内社物部神社の論社でもあり、美濃三宮とされています。主祭神五十瓊敷入彦命。11垂仁天皇の第一皇子で、12代景行天皇の同母兄、つまり日本武尊の伯父ですが、五十瓊敷入彦命主祭神とする神社というのは初めてで、他におぼえがないので、どこからか勧請されたのではなく、まさしく鎮座地なのだと思います。社務所でいただいた略由緒によると、五十瓊敷入彦命が身まかった翌年にあたる景行14年に稲葉山(現・金華山)の丸山に鎮斎し、天文8年(1539)に斎藤道三稲葉山を居城とするに際して現在地に神霊を遷したとのこと。「神様が足下になってしまうのは申し訳ない」と道三が言ったとかなんとか……。五十瓊敷入彦命稲葉山の麓に住んでいたそうなので、皇子の宮跡を起源とする神社といってよいと思います。伊奈波神が丸山から遷座する前は、今は当社の境内社となっている黒龍神社に祀られている高龗神が当山鎮護の神だったようです。長良川木曽川に挟まれ、どう見ても水害が多そうな土地柄なので(7月の台風10号でも大変なことになっていましたし……)、水神が祀られていたのでしょう。

 

 境内社黒龍神社の他にもいくつかあったのですが、その中に吉備神社と和歌三神社があるのが気になりました。徳川家康を祭神とする東照宮菅原道真を祭神とする天満神社は珍しくないので、もはや気にも留めませんが、吉備神社や和歌三神社はそうそう見かけるものではありませんから。

 

 吉備神社の祭神は吉備津彦命となっていましたが、吉備津彦命こと彦五十狭芹彦命の事績を考えると、この土地や伊奈波神と関係があるようには思えないので、もしかしたら彦五十狭芹彦命と同じ四道将軍だった丹波道主命が元々の祭神だったのではないかという気もします。丹波道主命は伊奈波神の祖父なので。和歌三神社の祭神は、説明板によれば玉津島神、人丸神、文学の守護神でしたが、和歌三神といえば、通常は住吉神、玉津島神、柿本人麻呂。したがって「文学の守護神」というのが住吉神ということになります。住吉神=カナサキ、玉津島神=ヒルコですが、主祭神である五十瓊敷入彦命との関係性は不明で、こちらに関しては他に該当するような神も思い浮かばないので、和歌三神が祀られている理由については思い当たりません。

f:id:hanyu_ya:20201213172933j:plain手水舎と大黒社

f:id:hanyu_ya:20201213173048j:plain境内社についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201213181302j:plain黒龍神社

f:id:hanyu_ya:20201213181419j:plain須佐之男神社・東照宮天満神社・和歌三神社の合殿。説明板にあるとおり、須佐之男神社は尾張に総本社がある津島神社を勧請したものだと思います。

f:id:hanyu_ya:20201213181534j:plain吉備神社

 

 伊奈波神社を後にすると、次は岐阜公園に向かいました。バス停に戻ってバスに乗ると遠回りになるので10分ほど歩き、1時半過ぎに到着。ちょうど菊人形・菊花展を開催中で、華やかな感じでした。

f:id:hanyu_ya:20201213182836j:plain斎藤道三(中央)と明智光秀(向かって左)の菊人形

f:id:hanyu_ya:20201213183000j:plain織田信長帰蝶の菊人形

 

 天気がよかったので、昼食は金華山の山の上にある展望レストラン「ポンシェル」で食べようと思い、まずは金華山ロープウェーの乗り場へ。岐阜城の御城印にもプレミアムフライデー限定バージョンがあり、山麓駅のお土産売り場で販売していたので購入すると、チケット売り場で電子クーポンが使えたので1,000円分を利用して1,100円の往復乗車券を買い、1時50分発のロープウェーに乗車。

f:id:hanyu_ya:20201213183638j:plain山麓駅にいた本木道三の蝋人形。ソックリです。

f:id:hanyu_ya:20201213183506j:plain岐阜城プレミアムフライデー限定の金の御城印。明智城は紙が金色でしたが、こちらは文字が金色です。

 

 山頂駅に着くと、すぐにレストランに向かったのですが、平日の2時になろうかという時刻だというのに順番待ちの状態でした。他に店もなく、麓に戻ってから食べるのではいつになるかわからなかったので、とりあえず食券を買って名前を書いて10分ほど待ちましたが、密を避けるため席数を限っているのか、一向に順番が進まず。展望台にはレストランの他に売店があり、そこで売っているのはソフトクリームや飲み物で食事メニューはなかったのですが、改めてよく見ると、きしめんだけあったので、飛騨牛ハンバーグライスの食券を払い戻して、きしめんを注文。こちらは待っている客も1組ぐらいしかおらず、注文してから5分も待たずに出てきたので、さっさと食べて天守閣へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20201213184119j:plain二の丸門付近から見る岐阜城

f:id:hanyu_ya:20201213184229j:plain岐阜城と織田木瓜紋と永楽通宝紋の幟旗

 

 天守閣の入口に着くと、10人ほどでしたが入場待ちの列ができていたので、驚きました。コロナ禍中の平日に訪れた場所で待たされることなど、これまでなかったので。順番になり、検温後に入場料を払って連絡先を記入すると城内へ。この一連の入城手続きに時間がかかり、さらに中に入れる人数を絞っているため待たされるようで、入ってみると問題なく空いていました。岐阜城は昭和31年(1956)に建てられた復興天守なので、城内は福知山城と同じく資料館です。

f:id:hanyu_ya:20201213184547j:plain城内に展示されていた織田信長

f:id:hanyu_ya:20201213184833j:plain城内に展示されていた信長の山麓居館想像図その1

f:id:hanyu_ya:20201213184940j:plain城内に展示されていた信長の山麓居館想像図その2

f:id:hanyu_ya:20201213185036j:plain城内に展示されていた安土城想像図

f:id:hanyu_ya:20201213185122j:plain城内に展示されていた岐阜城における信長のおもてなし

f:id:hanyu_ya:20201213185214j:plain天守最上階からの眺めその1

f:id:hanyu_ya:20201213185339j:plain天守最上階からの眺めその2

 

 天守閣を出て隅櫓を模した資料館に寄ると、行きの展望台経由ルートとは異なる二の丸と馬場経由ルートで山頂駅へ。こちらを通ると、金華山が岩山であることがよくわかりました。

f:id:hanyu_ya:20201213185515j:plain金華山の岩と岐阜城その1

f:id:hanyu_ya:20201213185614j:plain金華山の岩と岐阜城その2

f:id:hanyu_ya:20201213185659j:plain岩と石垣と井戸

f:id:hanyu_ya:20201213191330j:plain復元大手門と思いきや、信長時代にはなかったらしい「天下第一の門」

 

 山頂駅に戻り、15時発のロープウェーに乗って山を下ると、次はいよいよ一番の目的である岐阜市歴史博物館へ。特別展「NHK大河ドラマ特別展 麒麟がくる」は事前予約制だったので、翌31日10時の入場券を買っていたのですが、1日の日曜に乗るつもりだった明知鉄道の企画列車が思いがけず混んでいて、予約が31日しか取れなかったため、予定を変更して土曜は恵那に行くことにしました。ところが、特別展のチケットを購入したサイトでは変更も払い戻しもできなかったので、どうしたらいいか博物館に電話して訊いてみたら、チケット売り場の窓口でその旨を申し出れば当日券として使えるとのことだったので、金曜に行くことにしました。

f:id:hanyu_ya:20201213191446j:plain特別展「麒麟がくる」の看板

 

 特別展は近年稀に見る充実した内容で、本徳寺蔵の画像や慈眼寺蔵のくろみつ像も含めて、今まで各地で見てきた明智光秀関連史料を一堂に会したような素晴らしいものでした。山城か近江か丹波か、どこかで見た――つまり、方々に散らばり、あっちこっちに足を運ぶことによってようやく見ることができる史料が今回一か所に集められていたので、よくこれだけのものを揃えたと心底感心し、この企画に対する岐阜市の心意気を感じました。この展示内容を知っていたら、わざわざ見に行かなかった展示もあったかもしれません。行って後悔した旅はないので、それはそれでいいのですが……。なので、半分ぐらいは見覚えのあるものでしたが、それでもたいそう見ごたえのある展覧会でした。

 

 続いて大河ドラマ館を見て、最後にミュージアムショップに寄ってグッズを吟味しましたが、目ぼしい物がなかったので、図録だけ買って博物館を出ました。時刻は5時10分前で、博物館前にある光秀横丁も5時までの営業だったので、うまいもん処で何か食べるのはあきらめて、みやげもん処に行き、店内を物色。けれども、こちらもあまり心惹かれるものはなかったので、栗きんとんだけ買って、店を出ました。

f:id:hanyu_ya:20201213191632j:plain博物館の1階が特別展展示室で、2階は大河ドラマ

f:id:hanyu_ya:20201213191736j:plain岡村菊丸パネルの後ろにいるのはフロイス

f:id:hanyu_ya:20201213191834j:plain斎藤道三の甲冑。さすが岐阜城のお膝元、ここでも推しは斎藤道三です。

f:id:hanyu_ya:20201213190712j:plain出演者パネルですが、岐阜城ゆかりの人々という明確な意思が感じられます。駒がいないのは初めてでした。

f:id:hanyu_ya:20201213190540j:plain博物館の前に仮設店舗の光秀横丁というのが作られていて、みやげもん処とうまいもん処があります。

 

 金華山山上ではきしめんしか食べられず、あてにしていた光秀横丁のうまいもん処は閉店時間直前で結局何も食べられなかったので、夕食はやや豪勢にしたいと思い、ホテルに戻る前にJR岐阜駅に行くことにしました。クーポンがまだ残っていて、駅ビル内なら電子クーポンが使える店も多いだろうと思ったので。岐阜公園歴史博物館前バス停からバスで駅まで行き、適当な店を探して駅ビル内を徘徊していると、電子クーポンが使えて飛騨牛のメニューがある「くらうど」という居酒屋を見つけたので入店。飛騨牛朴葉焼き定食を頼み、飛騨牛を食べるのなら飛騨の地酒である天領が飲みたかったのですが、残念ながらグラスでの提供はなく、グラスで飲める純米吟醸酒ははなざかりだけだったので、そちらを注文。しかしイマイチな相性だったので、レモンサワーも頼んで食事を終えると、歩いてホテルに戻り、その日の日程終了です。

f:id:hanyu_ya:20201213190251j:plain飛騨牛朴葉焼き定食と、レモンサワーと、はなざかり。はなざかりは日本酒にしてはお洒落なグラスで出てきました。こういう器の選択もアリだなと思いました。

関西寺社遠征&明智光秀探訪9 その4~大津市歴史博物館、三井寺、西教寺、慈眼堂

 最終日は、チェックアウトをしてホテル内のロッカーに荷物を預けると、今回の遠征の一番の目的である大津市歴史博物館へと向かいました。JR線で膳所駅まで行き、京阪膳所駅大津線の一日乗車券を買って、坂本比叡山口行きに乗車。大津市役所前駅で下車し、駅から5~6分ほど歩くと到着。ちょうど10時ぐらいでした。途中に三井寺の案内板が出ていて、三井寺から歩いて来られるほど近いことに驚きました。

f:id:hanyu_ya:20201125192100j:plain特集展示「明智光秀と戦国時代の大津」の看板

f:id:hanyu_ya:20201125192204j:plain企画展「聖衆来迎寺と盛安寺―明智光秀ゆかりの下坂本の社寺」の看板

 

 連絡先を書いて観覧券を購入すると、まずは企画展「聖衆来迎寺と盛安寺」の展示室へ。聖衆来迎寺伝教大師最澄の創建と伝わり、恵心僧都源信が寺に入って以降、中世を通じて延暦寺の念仏道場として栄えた天台宗の中本山。その表門は明智光秀が築城した坂本城の城門を移築したもので、櫓門だったと考えられています。織田信長の家臣で、宇佐山城で討死した森可成森蘭丸の父)の墓があったことから信長の比叡山焼き討ちを免れたといわれ、それによって文化財の消失も免れ、寺宝の一つである鎌倉時代に描かれた絹本着色の六道絵15幅は、現在国宝に指定されています。この国宝が36年ぶりに地元滋賀県で一堂に会して展示されるのが今回の企画展です。通常は東博、京博、奈良博などに分割委託されているらしいので。一方の盛安寺は、明智光秀の祈願所だったことから「明智寺」とも呼ばれ、光秀の位牌を祀り、光秀の陣太鼓などが伝わるゆかりの寺です。その陣太鼓は常設展のほうに展示されていましたが、実物を見ることができました。その他、今年8月に聖衆来迎寺で確認された、光秀の妻、妻木熙子の戒名「福月真祐大姉」が記された仏涅槃図などもあり、開館30周年記念にふさわしい、また「びわ湖大津光秀大博覧会」のメインパビリオンとしての気合が伝わってくる充実した展示内容でした。

f:id:hanyu_ya:20201125192728j:plain盛安寺に残されている明智光秀の陣太鼓

 

 企画展に続いて常設展を見学すると、こちらには陣太鼓の他に、国宝の「中務大輔家久公御上京日記」が展示されていて、例によって小躍りしたくなりました。はっきり言って、この博物館で出合えて一番嬉しかった展示品です。見たくて仕方がなかったので。文書そのものを見たかったというよりも内容が知りたかったのですが。この文書は、天正3年(1575)に島津家久がお伊勢参りのついでに坂本城を訪れたときの記録で、坂本城の様子や光秀のもてなしぶりが書かれているからです。しかも筆者の島津家久は薩摩の守護大名島津貴久の四男で、名高い島津四兄弟の末っ子。神主の吉田兼見や宣教師のフロイス坂本城について記した史料はありますが、歴史に名立たる戦国武将が坂本城について記した一次史料というと、この文書ぐらいではないでしょうか。撮影は禁止でしたが、購入した図録に解説があったので、大まかな内容は判りました。家久は連歌師の里村紹巴の案内で坂本城を訪問したとか、畳三畳敷ほどの屋形船で舟遊びをしたとか、焼き討ち跡の日吉大社を訪れたとか、城内では茶会と酒宴があり、葦巻き漁の実演が行われて、捕った魚が振る舞われたのち、連歌の会が催されたとか、家久はその席を中座して場内を見廻り、蔵などの貯えが立派だったため「言の葉およハす候」と感心している感想まで知ることができました。やはり武将目線は違います。安土城における家康に対する饗応と併せ考えると、光秀の隙のなさというか完璧主義ぶりが感じられます。島津や徳川という有力大名に己の力を見せつけるのが完璧主義の成せる業というか性分なのか見栄なのか、はたまた牽制なのかは判断が難しいところですが。

 

 特集展示では光秀のために自害した土豪の文書や、年貢を納めない村民に対して光秀が出した督促状などが展示されていて、比叡山焼き討ち後に信長から支配を任された志賀郡の統治が順風満帆なものではなかったことが知れます。まあ、在地の土豪や農民にしてみれば、縁もゆかりもない余所者がいきなり領主様としてやってきて好き勝手にするわけですから、反発がないわけがありません。その反発の一端を具体的に知ることができました。坂本城を中心とした光秀の志賀郡支配が地元の土豪からしてみれば領地の横領だったというのは、まさしく地元目線で、当博物館ならではの展示だと思いましたが、全国的に国盗り合戦の戦国時代において、新参の領主に対しては、光秀の例に限らず、どこもかしこもそんな感じだったのだろうと思います。

 

 展示を見終わったら11時40分ぐらいだったので、博物館に隣接する大津市民文化会館の1階にあるカフェレストラン「Inti(インティ)」へ。昼食は坂本まで行って「芙蓉園本館」で近江牛の柳川御膳を食べようと思っていたのですが、博物館の近くに何かないか調べたらこの店がヒットし、メニューに近江牛ハンバーグがあることがわかったので、こちらで食べることにしました。滋賀といえば、なんといっても近江牛。最高です。

f:id:hanyu_ya:20201125224650j:plain「Inti」の近江牛ハンバーグセット

 

 店を出ると、午後に絶対に行きたいのは西教寺と慈眼堂だけだったので、ならば多少余裕があるかと思い、三井寺に寄ることにしました。山内を一巡するような時間はありませんでしたが、特別公開されている勧学院客殿ぐらいは見られそうだったので。博物館からは本当に近くて、歩いて5分ほどで仁王門に着きました。入山受付で特別拝観券を購入すると、金堂も三井の晩鐘も弁慶の引摺り鐘も無視して勧学院へ。

f:id:hanyu_ya:20201125225029j:plain園城寺三井寺)の仁王門。三井寺駅から行くと総門か観音堂参道の入山受付のほうが近く、駅に戻るには遠くなるので仁王門まで来ることはないのですが、見て損はない重要文化財です。

f:id:hanyu_ya:20201125225141j:plain三井寺の学問所として創建され、現在の建物は毛利輝元によって再建されたという勧学院。国宝です。建物内は撮影禁止でした。

 

 続いて、三井寺文化財収蔵庫を見学。展示品が変わっている感じがしないので、いつもは三井寺公式広報担当キャラクターである、べんべんのグッズを買いに立ち寄るぐらいなのですが、特別拝観券に入館料が含まれていたので、久しぶりに展示室まで入ってみました。やはりあまり印象に残る物はなく、建物を出る前に覗いた売店にもべんべんグッズの目新しい物はなかったのですが、思いがけず、大津市の出版社が発行している「明智光秀と琵琶湖」という本を見つけたので購入。それだけでも寄った甲斐がありました。特別拝観券にはお気に入りの茶房、本寿院の100円割引券も付いていたのですが、時間がなかったのでそちらは寄らずに、西国三十三所第14番札所の観音堂にお参りをして、三井寺を後にしました。

 

 三井寺の最寄り駅である三井寺駅まで行って再び石山坂本線に乗り、大津市役所前駅を通過して終点の坂本比叡山口駅まで行くと、駅前のバス停からバスに乗って、西教寺バス停で下車。2時過ぎに西教寺に着きました。

f:id:hanyu_ya:20201125225643j:plain乗った電車は「麒麟がくる」のラッピングカーでした。織田信長とその両親。

 

 チケット購入後、まずは禅明坊光秀館へ。今回は西教寺の特別開扉が目的だったのでここはさらっと見学し、西教寺へと向かいました。

 

 西教寺では、JR西日本主催の「ちょこっと関西 歴史たび「明智光秀」特別企画」で本堂御厨子特別開扉が行われていて、10月1日から元三大師坐像と聖徳太子坐像が公開されていました。特別開扉については6日前に乗った北陸新幹線の車内誌で知ったので、なんてグッドタイミングなんだと、光秀との浅からぬ縁を感じました。この情報を得る前は博物館の展示に関連した聖衆来迎寺や盛安寺、時間があれば坂本城跡に行こうと思っていたのですが。

 

 6月にも来ているので、明智一族の墓などは後回しにして、すぐに本堂に向かい、まずは聖徳太子坐像と対面。西教寺聖徳太子が仏法の師と仰いだ高句麗から来た恵慈、恵聡のために創建したといわれているので、当山開基の像ということになります。脇侍には師である恵慈と、太子の子である山城大兄王、その両脇に太子の兄弟皇子である卒末呂王と殖栗王の像がありました。続いて、向かって右隣りにある元三大師像と対面。平安時代には荒廃していた西教寺を復興し、念仏の道場としたのが元三大師こと慈恵大師良源です。

f:id:hanyu_ya:20201129194727j:plain本坊から見る本堂

 

 光秀探訪を始める前から元三大師ゆかりの寺巡りをしていて、角大師像も廬山寺をはじめいくつか見てきましたが、見た瞬間に驚いたほど、かなりの異形でした。こんな像は見たことがなかったので、このたび特別展示が重なってこの時期に大津に来る予定があり、その数日前に偶然特別開扉を知るという奇異な縁によって、この像を見ることができて本当によかったと思いました。まさしく明智様のお導きで、珍しい元三大師様を拝むことができました。

 

 あまりにインパクトのある御姿に、離れようにも離れがたく、しばらく立ち尽くして見入っていたのですが、参拝客の喋り声で我に返り、一人二人ではなく何人かが本堂に入ってこちらに来るようだったので、その場を離れることにしました。そのとき目の前から横に視線を移すと、おみくじがあったので、100円を払って引いたら74番でした。元三大師といえば、おみくじの創始者ですから、元三大師のおみくじがあれば必ず引くことにしています。堂内は暗くて細かい文字を読むのが難儀だったので、74番の引出しからおみくじを1枚もらって、大吉であることだけ確認し、本堂から出ました。

 

 本堂を出ると、晴れていたので陽の眩しさもあって、どこからか人の世に戻ってきたような感覚がしました。乱れのない不断念仏が響く中で異形の角大師と対峙していた薄暗い堂内は、俗世と切り離されたような空間だったので。目が明るさに慣れてから改めておみくじを開いてみると、大吉ではありましたが、お告げの内容は微妙でした。元三大師のおみくじは総じてそんなもので、状況がどう転んでも該当するような表現になっていて、願いは成就するが、そのためにはそれまで用心して努力しなければダメという感じ。つまり、成就しなければ、注意不足であり努力不足ということになります。タダで願いが叶うわけではないということです。だから元三大師おみくじ、好きなんですよね。やや自虐的っぽい気もしますが。

f:id:hanyu_ya:20201129194941j:plain一応大吉の74番おみくじ。すべての望み事は功を積めば成就するそうです。「功を積めば」というところがミソです(笑)。

 

 それから客殿、書院を見学。明智光秀公資料室には光秀から寄進された棟木が展示されていました。比叡山焼き討ちで西教寺も焼けたので、庫裏を復興するために寄進されたもののようです。光秀によって焼き討ちの1年後には仮庫裏が、3年後には仮本堂が建立されています。

 

 建物内を見終わると、売店で手白猿の置物を購入。西教寺中興の祖で、この寺を不断念仏の道場とした真盛上人が、一揆の首謀者と誤解されての僧兵に攻め入られたときに本堂で身代わりとなって鉦をたたいて念仏を唱えていたという猿の置物です。初めて見たときから欲しかったのですが、ボストンバッグで来ているときは割れ物を持って帰るのが嫌だったので買うのを先送りしていました。しかし今回は三泊四日の旅でキャリーバッグで来ていたので、3回目の訪問にしてようやく買って帰ることができました。

f:id:hanyu_ya:20201129195129j:plain西教寺の手白猿と日吉大社の神猿

 

 その後、熙子と明智一族の墓をお参りし、天気もよかったので、初めて墓地に上がってみました。前田利家の六女で、豊臣秀吉の養女となった菊姫の墓などがあります。

f:id:hanyu_ya:20201129195308j:plain西教寺の墓地から見える琵琶湖。真ん中の山は近江富士の三上山だと思います(未確認)。

 

 3時半を過ぎたので、唐門を経由して総門前のバス停へと向かいました。途中、井筒八つ橋本舗の「桔梗之華」を買うために禅明坊光秀館の隣にある物産館に寄ると、お目当ての3個入りは売り切れ。前回も昼過ぎには売り切れていて、2時ぐらいに再入荷していたので、なんとなくそんな予感はしていましたが。悩みましたが、せっかく来たし、キャリーバッグだし、他では買えないし……ということで、残り3箱ほどになっていた6個入りを購入。

f:id:hanyu_ya:20201129195440j:plain唐門から見える琵琶湖。前回は雨だったので何も見えませんでしたが、この日は額絵のようにきれいでした。

f:id:hanyu_ya:20201129195535j:plain改めて探してみた、唐門の麒麟(のようなもの)

 

 3時50分発のバスに乗ると、日吉大社前バス停で下車し、最後に、前回雨と怪我のため断念した慈眼堂へと向かいました。残念ながら、光秀=天海説のヒントになるようなものは何もありませんでしたが、境内に桓武天皇の供養塔があるのが気になりました。後陽成天皇とか後水尾天皇は、まだなんとなくわかるのですが……。

f:id:hanyu_ya:20201129195644j:plain慈眼堂入口

f:id:hanyu_ya:20201129223526j:plain慈眼堂

f:id:hanyu_ya:20201129223638j:plain境内にある慈眼大師

f:id:hanyu_ya:20201129223747j:plain何故か桓武天皇供養塔があります。

 

 慈眼堂を後にすると、4時で受付を終えた滋賀院門跡の境内を通り抜け、日吉馬場に出て坂本比叡山口駅まで歩き、16時33分発の石山寺行きに乗車。びわ湖浜大津駅京津線に、京阪山科駅でJR線に乗り換えて、5時20分に京都駅に到着。エクスプレス予約で取っていた新幹線は19時13分発でしたが、1時間ぐらい早められそうだったので、乗車中にスマホで変更しました。本当に便利です。

f:id:hanyu_ya:20201129223108j:plain帰りの石山寺行き電車もラッピング電車でした。足利幕府の面々です。三淵藤英役の谷原章介さんが……コロナ禍の今、換気は大切なので、窓が開いているのは仕方がないですが。

f:id:hanyu_ya:20201129223212j:plainびわ湖浜大津駅で反対側から電車を降りたら、こちらは美濃衆でした。

 

 西教寺の物産館では電子クーポンが使えなかったので、まだ3泊目のクーポン1,000円分が残っていて、駅構内の駅弁屋で電子クーポンが使えることを確認すると、改めて使える店を探すのも面倒だったので、「かにめし二段重」を購入。900円で釣銭はもらえませんでしたが、もともと1,100円の商品がキャンペーンで安くなっていたので、よしとしました。それから特急券を発券し、みやこみちの「ハーベス」に行って、タカラ缶チューハイと「あじわいぷっちょ しば漬味」を買うと、ホテルのロッカーからキャリーバッグを引き取り、荷物整理をして図録や本、置物などをしまってから改札口へ。予定より1時間早い18時13分発ののぞみに乗車し、これにて遠征終了です。

関西寺社遠征&明智光秀探訪9 その3~売布神社、中山寺

 翌日は、宝塚大劇場で3時半開演の月組公演を観る予定だったので、3時までに宝塚に行けばいい感じでした。関西における大雨のピークはこの日の午前中で、午後には台風が東海から関東に移動して回復してくるという予報だったので、e5489で福知山発9時50分の特急電車を予約していましたが、天気が悪ければ変更し、チェックアウトの時間ギリギリまでホテルにいて、昼過ぎに宝塚に入り、歩くのが億劫なほど雨が降っていたら、ワインでも飲みながらランチをのんびり食べるつもりでいました。

 

 しかし朝起きると、予報に反して陽が出ていて、スマホで調べたら宝塚の天気も雨ではなかったので、9時半にはホテルをチェックアウトし、駅の券売機で特急券を発券して、当初の予定どおり特急こうのとり10号に乗車。朝食を摂っている余裕がなかったので、車内で前日「光秀が話す自動販売機」で買った「鬼滅の刃」缶コーヒーを飲みながら「足立音衛門」の栗菓子を食べることに。「栗一粒」という栗がまるごとひと粒入ったパウンドケーキで、食べ比べてみたかったので和栗とマローネを買ったのですが、和栗のほうが断然美味しかったです。そうこうしているうちに11時になり、宝塚駅に到着。

 

 JRの改札口を出たところにあるコインロッカーに大きな荷物を預けると、阪急宝塚線に乗り換えて、売布神社駅で下車。駅から5分ほど歩くと売布神社に到着し、お参りをして境内をひととおり見たのち、御守り授与所に行ったら無人だったので、呼鈴を押すと、程なくして神社の方が来てくれたので、御朱印と由緒書きをいただきました。

f:id:hanyu_ya:20201123155312j:plain売布神社参道。古い形の鳥居です。

f:id:hanyu_ya:20201123155410j:plain売布神社の由来についての説明板

 

 売布神社式内社で、祭神は下照姫命と天稚彦神。いただいた由緒書きには、下照姫神の別名は高姫神で、大国主神の第二皇女であり、天稚彦は天津国魂神の皇子と書かれていました。記紀を基にした一般的な認識では、下照姫は、またの名を高照姫といい、大国主の娘とされているので、ほぼ由緒書きに近いのですが、『ホツマツタヱ』によれば、下照姫と高照姫は別人で、はっきり言って、『ホツマ』のほうが格段に説得力がある血縁・婚姻関係になっています。

 

 記紀において大国主神大己貴命と同一神とされていますが、『ホツマ』によると、大己貴=オホナムチ、大国主=ヲコヌシで、オホナムチはアマテルの弟ソサノヲの子であるクシキネ、ヲコヌシはクシキネの子であるクシヒコのことになります。そもそもヲコヌシ=大国主とは、漢字表記のとおり“大きな国の主”の意味であり、個人名ではありません。アマテルの孫であるニニキネがクシヒコに賜った尊称です。

 

 オホナムチにはクシヒコの他にタカヒコネとタカコという子がいて、タカコはタカヒメとも呼ばれます。漢字で表せば、タカヒメ=高姫、タカヒコネ=高彦根であり、よってタカヒコネとは奥州一宮の都々古別神社や下野一宮の日光二荒山神社の祭神である味耜“彦根”命のことです。タカヒコネは馬術を能くし、そのためタカマガハラの馬を司る馬事長官のヲバシリの生まれ変わりと言われ、ヲバシリの跡を継いで馬事長官となり、「フタアレカミ」という神名を賜りました。「フタアレ」を漢字で表せば「ニ生れ」で、二度生まれたという意味であり、つまりヲバシリの生まれ変わりであることを意味したものです。けれども、後世に至って「フタアレ」には「ニ荒」の漢字があてられるようになり、二荒神を祀った山は二荒山(男体山)と呼ばれ、二荒山の神を祀った社は二荒山神社となりました。

 

 一方、カナヤマヒコの子であるアマクニタマには、アメワカヒコとオクラヒメという子がいました。漢字で表せば、カナヤマヒコ=金山彦、アマクニタマ=天国魂、アメワカヒコ=天稚彦、オクラヒメ=大倉姫で、すなわちカナヤマヒコとは美濃一宮の南宮大社の祭神、“金山彦”命のことです。

 

 タカヒメとオクラヒメは、アマテルの姉であり妹であるヒルコに仕えていて、またの名をワカヒメともシタテルヒメとも呼ばれていたヒルコは、オクラヒメシタテルヒメの名を継がせ、タカヒメには新たにタカテルヒメの名を与えました。そして、タカテルヒメはアメワカヒコの妻になり、シタテルヒメはタカヒコネの妻になりました。出仕と結婚、どちらが先かはわかりませんが。

 

 ということで、シタテルヒメ=下照姫といえばヒルコのことで、したがって下照姫を祀っている場合、その正体は初代下照姫のヒルコと二代下照姫のオクラヒメ、そしてオクラヒメとほとんど同一化されているタカヒメの三者が考えられます。

 

 ところで、由緒書きにある売布神社由来記によると、往古諸人がいまだ木の葉をまとい、草樹の実を食物として飢餓をしのいでいたころ、当地に来た下照姫が麻布を織り、稲を植えることを教え、衣食を整えた里人らが、その後豊かな生活を送ることができたので、神徳を慕って祀ったとあります。そして『ホツマ』には、ヒルコは祓いの歌によって害虫を払い、キシヰクニの枯れた稲をよみがえらせ、和歌の力で稲をよみがえらせたことからワカヒメ=和歌姫と称えられ、キシヰクニの民から感謝されてタマツミヤを贈られたという記述があります。

 

 「キシヰクニ」は、漢字で表せば「紀志伊国」――つまり紀伊国志摩国のことで、「タマツミヤ」は「玉津宮」――すなわち玉津島神社がその跡ということになります。それゆえ玉津島神社の筆頭祭神は稚日女尊なのです――稚日女=ワカヒルメ=ワカヒメ=ヒルコですから。キシヰクニのタマツミヤの跡が実際に残っている以上、ヒルコが枯れた稲をよみがえらせたというエピソードは、それに近いことが史実としてあったと考えてよいと思います。であるならば、ヒルコは稲作技術に精通していて人々に農業指導を行う立場だったと想定できるので、売布神社周辺の里人に稲を植えることを教えたのもヒルコで、この恩人を祀ったのが当社の元々の起源ではないかと思います。

 

 ところが、式内社売布神社は松江にもあって、そちらの主祭神は下照姫ではなく、速秋津比売神となっています。速秋津比売=ハヤアキツヒメで、よってその正体は、アマテルの12人の妃の一人であるハヤアキツヒメアキコのことになります。ハヤアキツヒメは住吉神ことカナサキの娘であり、住吉神の鎮座地は摂津一宮の住吉大社筑前一宮の住吉神社なので、何故出雲国に祀られているのかわからず、場所が宍道湖と大橋川の接点なので、海の神の娘で潮流を司る水戸の神が水害防止を祈念して祀られたのだろうぐらいに思っていました。しかし今回、宝塚の売布神社を訪れたことで別の一つの可能性に思い至りました。

 

 由緒書きによると、宝塚の売布神社はいつごろからか貴船大明神として崇められていたそうで、八代江戸将軍徳川吉宗の時代に行われた調査で、売布神社であるというのが正しいと判明したそうです。境内社の一つに豊玉神社があり、祭神は豊玉彦神と豊玉姫神とされていましたが、この境内社はおそらく本社が貴船神ではなく売布神の社になったときに建てられ、本社の祭神ではなくなった貴船神をこちらに祀ることになったのだと思います――貴船神といえばトヨタマヒメのことなので。トヨタマヒメ豊玉姫で、つまり豊玉神社の祭神、豊玉姫神のことです。

f:id:hanyu_ya:20201123160453j:plain売布神社の社号標についての説明板

 

 他方、松江の売布神社には摂社の和田津見神社があり、櫛八玉神と豊玉彦神、豊玉比売神を祭神としています。こちらも海が近いから海神を祀っているのだろう程度に思っていましたが、二つの売布神社における共通の祭神が豊玉彦豊玉姫であり、宝塚の売布神社貴船大明神とされていたことを併せ考えると、売布神とは本来トヨタマヒメのことではなかったかと思います。

 

 トヨタマヒメはカナサキの子孫であるハデツミ(鹿児島神宮祭神)の娘で、十代天君ニニキネの息子で山幸彦として知られるヒコホオデミが兄から借りて失くした釣り針を探し求めて九州に至ったときに彼と出会い、その妻となりました。二人の宮跡が青島神社です。やがてヒコホオデミが父の跡を継いで十一代天君になることが決まり、急いで近江の国へ帰ることになり、トヨタマヒメは後から行くことになりました。そのとき彼女は身籠っていて、早船の旅は危険だったからです。臨月も近く、すでに産屋に移っている状態でした。その産屋の跡が鵜戸神宮で、生まれてくる子――のちにウガヤフキアワセズと名付けられる子のために建てられた産屋の跡なので、当宮の祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊なのです。日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊=ヒコナギサタケ“ウガヤフキアエズ”ノミコト――すなわちウガヤフキアワセズのことです

 

 出産に備えて産屋に移っていたトヨタマヒメでしたが、子供が生まれる前に近江へ向かうことになりました。夫が天君となり、お腹の子は無事に生まれれば天君の第一子なので、子の将来のためにも、田舎で生むわけにはいかなかったのかもしれません。あるいは皇后となって正妻の地位を維持するためにも離れているわけにはいかなかったのかもしれません。理由はともかく、身重で旅立ったトヨタマヒメは近江に着く前に産気づいてしまい、途中の小浜で子を生むことになりました。その時の産屋の跡が若狭一宮の若狭姫神社です。急造の産屋で生まれた子に、母親のトヨタマヒメはウガヤフキアワセズと名付けました。茅葺きが間に合わなかった――という意味で、史上稀に見るヘンテコリンな名前です。いったいどんな思いだったのでしょうね。

 

 ということで、トヨタマヒメは宮崎から小浜経由で近江に入っているので、出雲国に寄った可能性が大いにあります。なので、松江の売布神社はその時にトヨタマヒメが立ち寄って滞在した宮か何かの跡ではないかと思います。宝塚の売布神社は、ヒルコはカナサキによってヒロタノミヤ=広田の宮(現在の広田神社)で育てられていたので、その頃に周辺地域で機織りや稲作の指導をしたとも考えられます。そのヒルコを称えて祀っていた場所にトヨタマヒメが縁を持つことになり、神上がったのちにヒルコと一緒に祀られたのではないでしょうか。ヒルコとトヨタマヒメには三世代の開きがあるので。

 

 売布神社を後にすると、まだ時間的に余裕があったので、駅に戻って再び宝塚線に乗り、隣の中山観音駅で下車。西国三十三所の第24番札所の中山寺へと向かいました。

 

 山門前に到着すると、けっこうな人出で、久しぶりに人が多いと思う混み具合でした。山門をくぐり、露店なども出ている塔頭が並ぶ参道を歩くと階段に突き当たるのですが、その隣にエスカレーターが設置されていたことにまず驚きました。お参りをするのにエスカレーターを使ったおぼえがあるのは、江戸城の鎮守である日枝神社ぐらいで、日枝神社は首都東京のド真ん中の赤坂にあるので、なんとなく納得していましたが、宝塚という地方都市にある中山寺が何故そこまでするのかわからず、「???」という感じでした。お参りという一種の行においてエスカレーターを使うのも気が引けたので、歩いて階段を上ると、境内は予想外に広く、本堂に行くにはもう一つ階段を登る必要がありました――こちらにもエスカレーターがありましたが。

f:id:hanyu_ya:20201123162500j:plain中山寺山門

f:id:hanyu_ya:20201123162607j:plain本堂に続く階段の隣にあるエスカレーターと五重塔

 

 本堂の奥には五重塔もあり、わりと境内を見るのに時間がかかりそうだったので、先に腹ごしらえをしようと思い、まずは観音茶屋の案内が出ている大国堂のほうへ向かうことにしました。ちょうど時刻も12時を回ったところだったので。すると、右手に予期せぬものを発見し、思わず瞠目。なんと古墳があり、しかも柵もなく自由に石室内に入れて、中に石棺まであったのです。

f:id:hanyu_ya:20201123162749j:plain古墳の入口

f:id:hanyu_ya:20201123162845j:plain古墳内の石棺

 

 入口脇にあった説明板によると、この中山寺古墳は、寺伝によれば14代仲哀天皇の后である大仲姫の墳墓とされ、「石の櫃」と称されるとのこと。仲哀天皇日本武尊の子で、神功皇后とのあいだに応神天皇をもうけたことで知られます。つまり熱田神の子であり八幡神の父です。仲哀天皇には神功皇后の他に妃が二人いて、そのうちの一人が大仲姫命です。大仲姫命は日本武尊の異母弟である彦人大兄命の娘なので、仲哀天皇とは従兄妹の間柄であり、彼女が生んだ子が仲哀天皇の長男と次男なので、仲哀天皇が即位以前に娶った最初の妻は大仲姫命だったと考えられます。神功皇后仲哀天皇の即位後に立后し、応神天皇は父天皇崩御して10か月後に生まれた遺腹の子なので、明らかに大仲姫命より後に迎えられた妻です。

f:id:hanyu_ya:20201123163149j:plain石の櫃に着いての説明板

f:id:hanyu_ya:20201123163247j:plain中山寺古墳ついての説明板

 

 被葬者が大仲姫かどうか真実は定かではありませんが、死後に神として祀られた貴人の葬地だったからこそ、この地は聖地として崇められ、古来の聖地だったからこそ、この地が選ばれて中山寺が建立されたのは明白です。同じく聖徳太子の開基と伝わる第31番札所の長命寺も第32番札所の観音正寺も、磐座と思われる巨石が残る古代祭祀の聖地に建立された寺でした。比叡山高野山も、元々はヤマクイとイブキドヌシの聖地です。よって、神社ではなく寺であっても、平安時代前期ぐらいまでに建立された古刹は、古来の聖地を選んで建てられているのかもしれません。

 

 観音茶屋に到着すると、選べるアルコールとちくわの磯辺揚げがセットになったちょい呑みセット500円というメニューがあったので、そちらを注文し、飲み物はチューハイを選択。ジョッキか何かで出てくるのかと思いましたが缶チューハイで、神戸居留地のストロングチューハイでした。

 

 ひと休みして本堂へ行くと、こちらもたいそうな賑わいで、コロナ禍中とは思えないほど混雑していました。行くまで知らなかったのですが、中山寺は現在は安産祈願の寺として有名らしく、本堂の前には仮設テントの祈祷申込所まで設置されている有り様で、あまりの人気ぶりに驚いたのですが、どうやらこの日は戌の日だったので、余計に人が多かったみたいです。たくさんの妊婦さんや小さなお子様連れを見て、エスカレーターがあることも合点がいきました。私は西国三十三所の札所で、聖徳太子の建立と伝わる古刹だから訪れたのですが、御守り授与所を覗いても安産守しか見あたらなかったので何も買わず。売布神社のあと中山寺に行く余裕があると思っていなかったので、朱印帳もロッカーに入れてきたため、御朱印をいただくこともできませんでした。紙でいただくこともできるはずですが、西国三十三所御朱印朱印帳にいただいているので……。なので、お参り後、平成29年に再建されたという見るからに新しい青い五重塔を見て引き上げました。

f:id:hanyu_ya:20201123165203j:plain本堂の裏。青空があっという間に雲で見えなくなりました。

f:id:hanyu_ya:20201123165300j:plain本堂屋根の鬼瓦

 

 せっかくなので、帰りはエスカレーターを使ってみると、降りたところに「梵天」というお休み処があったので、昼食を摂ることにしました。店に入ると、最初に目についた、たこ焼とうどんのセットを注文したのですが、席で待っているあいだに、中山寺名物の「蓮ごはん」というメニューがあることを知り、どうしても気になったので追加。結果、とんでもないボリュームになり、少し前にちくわを食べて缶チューハイ1本を空けていたこともあって、動くのが億劫なくらい腹いっぱいになりました。

f:id:hanyu_ya:20201123191357j:plain店内に貼られていた中山寺名物「蓮ごはん」についてのポスター。蓮の葉で包まれた炊き込みご飯です。

f:id:hanyu_ya:20201123165548j:plainたこ焼と「蓮ごはん」

f:id:hanyu_ya:20201123165640j:plainうどんと「蓮ごはん」。蓮の葉を開くと、こんなカンジ。

 

 2時過ぎに宝塚駅に戻って、2時半には宝塚大劇場に入り、開演まで1時間ほどありましたが、コーヒーすら飲む気がしないほどの満腹状態だったので、武庫川が見えるテラスの席に座って時間をつぶすことにしました。その時にスマホをいじっていたら、GoToトラベルを利用した宿泊予約でクーポンが付与されていることに気づき、大劇場のショップでもクーポンが使えることがわかったので、急いで使い方を調べました。そして、どうにか理解したのでショップに行ったのですが、その店では紙クーポンのみ利用でき、電子クーポンは使えないとのこと。クーポンには紙と電子があり、電子は使えないところがあるという認識はまったくなく、そのとき初めて知りました。このときレジに持っていったのはクーポンが使えるなら買おうと思った土産物ばかりだったのですが、レジスタッフにクーポンが使えないのなら買わないとも言えなかったので、仕方なく現金払いで購入しました。

 

 松本悠里前理事のサヨナラ公演で、坂玉サマこと坂東玉三郎氏監修の和風レビューと、男役トップスターの男女二役という微妙な感じのミュージカルを観終わると、宝塚駅に行き、ロッカーから荷物を引き上げて、JR線に乗車。途中尼崎駅で乗り換えて、8時前に京都駅に到着し、ホテルにチェックインすると、夕食を摂るために再び駅構内へ。大劇場で使えなかった電子クーポンの有効期限がその日で切れるため、電子クーポンが使える店に入りたかったのですが、「はしたて」は紙クーポンのみの取り扱いだったり、グランヴィアの「ル・タン」は営業時間短縮でラストオーダーが終わっていたりで、しばらくさまようことになりました。ポルタの「田ごと」に至って、ようやく9時まで開いていて電子クーポンも使えたので、いつもの京ゆば御膳セットと玉乃光を注文。食事後ホテルに戻り、日程終了です。

f:id:hanyu_ya:20201123170200j:plain安定の味、京ゆば御膳と玉乃光の組み合わせ。昼に食べ過ぎたので 夜は軽く済ませるつもりだったのですが……。