羽生雅の雑多話

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福井寺社遠征&明智光秀探訪11 その2~一乗谷朝倉氏遺跡、特別公開展「本能寺の変と朝倉将棋」in一乗谷朝倉氏遺跡資料館、柴田神社(北ノ庄城跡)

 珍しく二日続けて興味のある番組が放送され、何時間かテレビの前に陣取ることになったので、横目に見ながら福井遠征記の続きを書きました。時間がもったいなくてテレビだけ見るということができない人間なので。たいてい食事をしたり新聞を読んだり(拾い読み)メールやネット情報をチェックしたりしています。――なのですが、昨日の長谷川博己さんの「ファミリーヒストリー」も照ノ富士関の「逆転人生」も、今日の吉田都さんの「プロフェッショナル」も文句なしにおもしろくて、時折手が止まっていました。さすがNHK。ドラマ以外も見甲斐があります。

 

 さて、遠征最終日の15日は一乗谷に行くだけだったので、9時40分にホテルをチェックアウト。それからフロントで荷物を預かってもらおうとしたのですが、「お預かりしていません」と断られたので、駅に行ってコインロッカーを探して入れました。感染予防対策の一環なのかもしれませんが、こんなことは初めてで、たとえコロナのせいであったとしても、チェックイン前チェックアウト後の荷物の預かりは基本的なサービスで、ないとたいそう不便なので、以後福井でこのホテルを利用することはないと思いました。全国チェーンなので他の地方にもあり、以前金沢や名古屋で泊まったときには、そんなことはなかったと記憶しているのですが。

f:id:hanyu_ya:20210105091550j:plain福井で発見された恐竜――フクイラプトルとフクイサウルスのトリックアート。なんと福井駅の駅ビルの壁に描かれています。駅の正面にあたる西口には恐竜がいっぱいいて、時折吠えているものもいます。

 

 ――ということで、朝からやや不快な気分で観光案内所へ行き、900円で一乗谷朝倉氏遺跡資料館から一乗谷遺跡内が乗り放題になる朝倉氏遺跡フリーバスチケットを購入。前日に永平寺までのバスチケットと一緒に買おうと思ったのですが、使用する当日しか販売できないと言われて買えなかったので。フリーパスは日付印を押してもらったり、ビンゴのように窓の形になっている数字を折り込んだり、スクラッチになっていて日付の数字を削ったりするものが多く、当日しか買えないというのも初めてだったので、その時にも少々イラっとしましたが、渡されたチケットを見たらレシートのような印字の紙だったので、支払いをするときにしか有効年月日の日付が入れられないのだろうと思いました。

 

 永平寺行きのバスは特急で、途中一乗谷の中にあるバス停に何か所か停まると永平寺まで停まらないのですが、前日永平寺に行く途中で見た一乗谷が思っていた以上の人出で、特急バスは混むような予感がしたため、それより20分早い10時発の浄教寺行きの路線バスで行くことにしました。一乗谷までの所要時間は特急と5分ほどしか変わらないので。特急バスの乗り場は福井駅東口の2番乗り場でしたが、浄教寺行きのバスは西口の5番乗り場。駅を越えた反対側で、バス停に5分前にいても間違えていたら確実に乗り遅れるので、観光案内所で事前に訊いておいてよかったと思いました。

 

 問題なく座れる混み具合のバスに乗り、28分には復元町並バス停に到着。一乗谷城の御城印は復元町並南口の入場券売り場の隣にある窓口で販売していることをネットでチェック済みだったので、まずはそれを買いに行きました。購入後、復元町並の見学は後回しにし、十五代室町将軍足利義昭の御所があった安養寺跡に行くためバス停に戻り、42分発の「朝倉ゆめまる号」に乗車。遺跡と周辺を往復する無料シャトルバスで、安養寺跡バス停にはこのバスしか行かなかったので。バス停は復元町並がある西側にしかないため、そちらで待っていたのですが、安養寺跡方面行きの「ゆめまる号」が停まるのは車線の向こうの東側なので、事前に反対側にいて、バス停も何もないので、バスが来たら乗車の意思表示をする必要があります。まるでギリシャのようです。まあ、ここも遺跡ですし。

f:id:hanyu_ya:20210105091856j:plain一乗谷城の御城印。アマビエバージョンもあったので、2枚買いました。

f:id:hanyu_ya:20210105092224j:plain御城印を販売する窓口の横にもあった「明智光秀 雌伏の地」の看板。一乗谷が❺で、明智神社が❸、称念寺が❷でした。❶と❹はどこなのかわかりません(笑)。調べたら美濃街道、岡太神社・大瀧神社、三田村氏庭園とのことでした。場所も、光秀とどんなゆかりがあるのかも知らないところですが。

 

 「ゆめまる号」のドライバーに「安養寺に行くの? 誰もいないよ」と言われ、無料シャトルバスなのに自分の他に誰も乗らず、また誰も乗っていなかったので、なかばそうかもしれないと思いつつ「まあ一応、足利将軍の御所跡なので……」と応じると、次のバス停なので2分ほどで到着。遺跡に着いてみると一人の先客がいて、すぐに慌ててバス停に小走りで行き、ここが終点のため同じ道を戻っていく「ゆめまる号」に乗っていきました。

f:id:hanyu_ya:20210105193009j:plain安養寺跡。はためく幟旗には「明智光秀 雌伏の地」と書かれています。

f:id:hanyu_ya:20210105092408j:plain前の写真の向かって左にある木。なんの木かわかりませんが、とてもきれいでした。

f:id:hanyu_ya:20210105092444j:plain安養寺跡の説明板

 

 いま行ったばかりで、次の「ゆめまる号」は11時16分発だったので、遺跡を見たあとは歩いて復元町並まで戻ることにしました。車で走って距離感はつかめ、15分も歩けば着くと思ったので。木々が色づいた道中の風景がとてもきれいで、これはこれでよいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20210105190101j:plain安養寺跡から復元町並に向かう途中の風景

f:id:hanyu_ya:20210105190149j:plain上城戸を越えたあたりで遭遇した見事な一本イチョウ

f:id:hanyu_ya:20210105190231j:plain脇の小道を通り過ぎるときに下からパシャリ。

 

 復元町並まで戻ると、天気がよくて風景がきれいで、たいそう気持ちがよかったので、先に遺跡巡りをすることにしました。一乗谷の東側の遺跡には国の特別名勝に指定されている四つの庭園跡があります。現在特別名勝は36件ありますが、一乗谷は四つで1件の指定。ちなみに特別史跡は63件あります。

f:id:hanyu_ya:20210105190416j:plain諏訪館跡に向かう途中で眺める復元町並

f:id:hanyu_ya:20210105190506j:plain朝倉義景の妻、小少将が居住したと伝わる諏訪館跡庭園

f:id:hanyu_ya:20210105192543j:plain諏訪館跡庭園の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105192630j:plain英林塚に向かう途中の紅葉

f:id:hanyu_ya:20210105193145j:plain一乗谷初代城主、朝倉家七代当主孝景の墓。孝景の法名「英林宗雄大居士」にちなんで英林塚と呼ばれています。

f:id:hanyu_ya:20210105192720j:plain南陽寺跡庭園。南陽寺は朝倉氏の子女が入る禅宗の尼寺だったそうです。

f:id:hanyu_ya:20210105193233j:plain南陽寺跡庭園の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105193315j:plain朝倉館跡に向かう途中の木

f:id:hanyu_ya:20210105193609j:plain朝倉館の唐門

f:id:hanyu_ya:20210105193804j:plain一乗谷朝倉氏庭園の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105193859j:plain朝倉館跡

f:id:hanyu_ya:20210105195058j:plain朝倉館跡の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105195138j:plain湯殿跡庭園に行く途中にあったビューポイントから眺める朝倉館跡と説明板

f:id:hanyu_ya:20210105195302j:plain湯殿跡庭園

f:id:hanyu_ya:20210105195357j:plain湯殿跡庭園の説明板

 

 四つの特別名勝を見て復元町並の南口に戻ってくると、時刻は11時50分で、昼食は一乗谷レストラントに行こうと思っていたのですが、復元町並バス停を13時11分に出発するバスに乗らないと資料館の講座に間に合わないため、そこまで行っている時間もゆっくり食べる時間もありませんでした。ならば12時を過ぎて混んでくる前に食事をしてしまおうと思い、無料休憩所の一角にある「越前朝倉そば」へ。かけ、ざる、おろし、山菜おろしの蕎麦とうどんしかなかったので、山菜おろしそばを注文し、食事後、復元町並を見学。

f:id:hanyu_ya:20210105222602j:plain「越前朝倉そば」の山菜おろしそば。「朝倉」が付いても越前そばに変わりはないので、ぶっかけです。

f:id:hanyu_ya:20210105195613j:plain復元町並スペース内にある武家屋敷跡その1

f:id:hanyu_ya:20210105195701j:plain復元町並スペース内にある武家屋敷跡その2

f:id:hanyu_ya:20210105195740j:plain武家屋敷についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210105195820j:plain復元町並

f:id:hanyu_ya:20210105195916j:plain武家屋敷跡の紅葉

f:id:hanyu_ya:20210105200010j:plain復元された武家屋敷内の展示。一番展示物が多い建物で、他はこんなにありません。

f:id:hanyu_ya:20210105200053j:plain福井県観光連盟のキャラクター、明智光秀のパネル

 

 1時前には北口から出て、遺跡を左手に見ながら、復元町並バス停の一つ手前の一乗谷レストラント前バス停まで歩き、13時13分発のバスに乗車。

f:id:hanyu_ya:20210105222728j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その1

f:id:hanyu_ya:20210105222819j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その2。左に見える四角いものは井戸跡。朝倉遺跡は井戸跡が多く、復元された家も一つ一つに井戸があった想定で作られていました。

f:id:hanyu_ya:20210105222910j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その3

f:id:hanyu_ya:20210105222957j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その4

f:id:hanyu_ya:20210105223051j:plain紅葉ズームバージョン

 

 朝倉資料館前バス停で降りて、1時20分には一乗谷朝倉氏遺跡資料館に到着しました。2時から始まる講座の会場を確認したあと、時間まで「麒麟がくる」展と特別公開展「本能寺の変と朝倉将棋」を見学。

f:id:hanyu_ya:20210105223234j:plain麒麟がくる」展で展示されていた、ドラマで使用された明智光秀の衣装。実際に使用されたものではなく、同等品だと思いますが。

f:id:hanyu_ya:20210105200252j:plain同じく朝倉義景の衣装。なんといっても朝倉氏遺跡資料館の展示ですから。

 

 本展覧会は将棋、闘茶、セイソ散という三つのテーマで構成され、本能寺外では初公開となる本能寺宛ての朝倉義景書状や、朝倉遺跡から発掘された将棋の駒が特別公開されていました。遺跡から出土している駒は182枚に及び、そのうち121枚が国の重要文化財に指定されています。その中には現在の駒種には見られない「酔象」という駒もあり、そちらも展示されていました。ちなみに、朝倉遺跡からの出土品は2343点が重要文化財に指定されているそうで、まさに日本のポンペイといってよいと思います。

f:id:hanyu_ya:20210105223435j:plain特別公開展で展示されていた遺跡出土品の将棋の駒

 

 5分前に講座の会場に入り、受付をしてレジュメをもらい、指定されたパイプ椅子に座って受講開始。講師は石川美咲氏で、当資料館の学芸員ですが、『針薬方』に「越州朝倉家之薬也」と書かれている「セヰソ散」――すなわち朝倉家の薬であるセイソ散を通して医者としての明智光秀を調べている研究者で、新聞や雑誌記事、テレビ番組でも見かける方でした。それゆえ話を聴いてみたいと思い、受講を申し込みました。ちなみに『針薬方』は、先日の記事でも書きましたが、熊本藩主細川家の家老筋である米田家伝来の文書で、永禄9年(1566)に米田貞能が明智光秀の口伝を書写したと記されているので、光秀関連の古文書で現在一番古いとされている史料です。

f:id:hanyu_ya:20210105223721j:plain講座はオープニングだけ撮影が許可されました。

 

 前半は特別公開展の展示解説、後半がレジュメに基づいた講義で、セイソ散の原料についてと、一乗谷で原料を揃えることができたのか――を含めて、朝倉氏の城下で実際に作れるものかなどの考察を講義してくれました。特別公開展でも展示されていましたが、朝倉遺跡からは薬研なども出土しているので、医者がいたことは確かであり、また孝景の時代に日本第二の印刷医書が出版されるなど、医学書の書写――つまり医術の伝授もさかんだったので、作れるだけの素地はあっただろうとのこと。その他、光秀との交流が認められる医者についてや、「傷を医者に見せろ」「薬を送る」といった内容が記された光秀の書状が紹介され、それらは光秀が医術に通じていた傍証の一端となるのではないかとのことでした。石川氏は、どこでどうやって誰から光秀は医術を学んだのかと疑問を投げかけていましたが、まさにおっしゃるとおりで、医術に限らず、光秀の高い教養のルーツは謎としかいいようがありません。医術伝授がさかんとはいえ、生国を追われて家財もなくほぼ身一つで家族とやってきたよそ者で、門前の寺子屋で食い扶持を稼いでいるような一介の浪人が、その機会を簡単に得られるものでしょうか。個人的にはよほど幸運でないと無理だと思うので、連歌茶の湯とはまた別の、医者関係のネットワークを探れば、そこからも光秀の出自に辿り着くヒントが得られるような気がしました。

 

 3時半に講座が終わり、館内に福井新聞で連載していた石川氏の明智光秀に関するコラムがパネル展示されていたので、バス待ちのあいだ読み、4時5分前に資料館を出て、15時59分発のバスに乗車。16時15分に福井駅に着くと、社務所が開いている時間に間に合いそうだったので、北ノ庄城本丸跡に松平春嶽と旧福井藩士らが築城主の柴田勝家を祀った柴田神社へと向かいました。福井駅から近いので、何年も前、式内社足羽神社を訪れたときにも寄ったのですが、ブームの今なら御朱印だけでなく御城印があるのではないかと思い、行ってみました。

 

 10分ほどで到着し、お参り後に社務所を覗くと、思ったとおり勝家の絵が描かれた通常の2倍サイズの紙の立派な御城印があったので購入。その後城址公園を見学し、南側の城の橋通りに出ようとすると、以前にはなかった資料館があったので、見てみることに。資料館というよりも、参拝者や見学者のためのトイレもある無料休憩所という感じでした。

f:id:hanyu_ya:20210105224245j:plain柴田神社と北の庄城址公園。繁華街の中にあります。

f:id:hanyu_ya:20210105224343j:plain北ノ庄城の御城印。柴田勝家というと、一般的にはこういうイメージだと思います。

 

 柴田神社を後にすると福井駅に戻り、5時15分前だったので、前日と同じ「福福茶屋」に行って、早めの夕食を摂ることにしました。帰りの新幹線は金沢発19時18分のかがやきで、JR東日本えきねっとトクだ値で買った切符で、エクスプレス予約と違って変更ができなかったため、18時47分に金沢駅に到着する特急電車をe5489で予約していて、出発時刻まで1時間以上あったので。前日食べた越前せいこがに丼はそれだけで満腹になり、他の物が食べられなかったので、二度目は身だしを注文。それと、あとは寝て帰ってもよかったので、いくつかの酒肴と、越前の地酒――北の庄の純米吟醸を頼みました。

f:id:hanyu_ya:20210105224609j:plain越前せいこがにの身だしと北の庄

f:id:hanyu_ya:20210105224712j:plain永平寺ごま豆腐

f:id:hanyu_ya:20210105224804j:plain九頭竜サクラマスとふくいサーモンの食べくらべ

f:id:hanyu_ya:20210105224922j:plainむつの照り焼き

 

 5時45には店を出て駅に行き、券売機で特急券を発券後、ロッカーから荷物を取り出して、18時発の特急しらさぎ11号に乗車。47分に金沢駅に到着し、今回は駅弁もタカラ缶チューハイもいらなかったので、エヴィアンと、いつも買って帰る北陸限定のアルフォート五郎島金時と白えびビーバーを買って、新幹線に乗車。これにて遠征終了です。

福井寺社遠征&明智光秀探訪11 その1~明智神社、永平寺、養浩館庭園ライトアップ

 昨日は三日ぶりに外出して最寄りのコンビニに行って帰ってきたあと、箱根駅伝の4区と5区をテレビ観戦。夕方からは「麒麟がくる」の再放送を、7時からはニュース7を見て、そのまま「ライジン若冲」に突入。伊藤若冲が主役で、動植綵絵が取り上げられるとのことだったので、若冲スキーとしては見逃すわけにはいきません。若冲と、彼のパトロン相国寺の禅僧であり漢詩人でもある大典顕常のダブル主役で、円山応挙池大雅、売茶翁こと高遊外がメインで登場する、なんともマニアックな内容でしたが、独特の不思議な空気感を醸し出す出演者の演技をはじめ、脚本も演出も映像も秀逸で、画面は終始美しく、それでいてコメディ要素もあって笑える、なかなか衝撃的なドラマでした。動植綵絵の他、近年発見された「蕪に双鶏図」も登場しましたし。クリスマスに放送された「光秀のスマホ」に続くNHKの攻めっぷりが小気味よく、エールを送る気持ちで、昨年請求書が届いたあと放ったらかしにしていた受信料の支払い手続きをしてしまいました(笑)。話は飛びますが、本日の復路の駒澤大学の逆転劇は見事でした。アンカーの走りが凄かったですね。素人目で見ても創価大学のアンカーとは全然走りが違いましたし。箱根駅伝のあとは「麒麟がくる」まで見たいテレビ番組もないので、11月の福井遠征記を書きたいと思います。

 

 朝倉氏の城下町があった一乗谷は、国の特別史跡であり特別名勝でもあるので、以前から行きたいと思っていたのですが、明智光秀とゆかりのある場所なので、どうせなら大河ドラマの年に行こうと思い、長らく保留にしていました。そして2020年になり、訪れるなら遺跡は野外なので桜の季節がいいのではないかと思い、周辺情報を調べたら、3月20日から5月6日まで福井市立郷土歴史博物館で「明智光秀と越前―雌伏のとき―」という特別展を開催するので、4月に行こうと思っていました。2月、3月は京都に行くことになっていたので。……なのですが、緊急事態宣言が発せられて出かけられず。特別展も会期途中の4月3日で終了してしまいました。

 

 で、改めていつ行こうかと思い、桜がダメなら紅葉ということで、9月に入って一乗谷朝倉氏遺跡資料館のホームページを見たら、11月30日まで「麒麟がくる」展、11月14日から12月13日まで「本能寺の変と朝倉将棋~出土品に見る中世から近世への転換点~」という特別公開展を開催することが判明。ならば11月の3連休がベストかと思いましたが、さらに詳しいイベント情報を見て、15日に「医療人・明智光秀~セイソ散の発見~」という学芸員による講座があることを知ったので、11月13日から15日の二泊三日で日程を組みました。講座は往復ハガキによる事前申込制で、40人の定員を超えた場合は抽選とのこと。11月2日が申込締切日だったので当落がわかるのは一週間前ぐらいでしたが、それから日程を変更するとホテルのキャンセル料がかかるので、外れても中旬に行くことにしました。紅葉は下旬のほうがいいような気がしましたが、紅葉はあくまでもついでで、主目的ではないので。

 

 当選したので、考えていたとおりの旅程で福井へ。13日の3時半で仕事を切り上げ、16時50分のかがやきに乗車。18時54分に金沢駅に到着し、19時8分発の特急サンダーバード46号に乗り換え。19時51分に福井駅に到着し、駅近くのホテルにチェックインして、初日は終わりです。

 

 翌14日は、まず明智神社へと向かいました。明智光秀の坐像を祀り、「あけっつぁま」と呼ばれている小さな神社です。一乗谷から山を一つ越えた福井市の東大味町にあるのですが、公共交通機関ではアクセスが難しく、バスのように時間決めで1日5、6本運行されている予約制の乗合タクシー文殊山号」ぐらいしか手段がありません。路線バス代わりで地域住民の足を兼ねているためか、区間均一で100円という破格の運賃設定なので、5、6本でもありがたいことこの上ないですが。

 

 最終日の15日は14時から15時半まで一乗谷朝倉氏遺跡資料館の講座に参加し、終了後は金沢経由で神奈川まで帰らなければならないので、一乗谷は講座が始まる前に行こうと思い、であれば、永平寺に行くのなら14日でないと難しく、同じ日に明智神社と永平寺の両方に行く方法を考えたら、おのずと乗る時刻は決まったので、福井鉄道福武線の江端駅を9時47分に出発する「文殊山号」を予約。1便の予約は前日までだったので、新幹線に乗る前に予約専用ダイヤルに電話をかけて申し込みました。

 

 当日は8時45分にホテルを出て、まずは永平寺に行くバスの情報を得るために、JR福井駅西口(正面口)の前にある観光案内所へと向かいました。福井駅から永平寺一乗谷方面に行くバスや電車がすべて1枚にまとめられていて、しかも上下線の時刻が載っている便利な時刻表をもらうと、帰りの福井駅行きバスの最終は15時35分と予想外に早い時間だったので、その後に公共交通機関で戻ってくる方法はないかと訊ねたら、永平寺口駅までバスで行って、そこから電車を使うとのこと。それで戻ってくる可能性が高かったため、行きのバスチケットだけを購入し、9時5分発の福武線に乗車。1時間に2本ぐらいのローカル線で、次の電車では間に合わないので乗りましたが、29分には江端駅に到着し、「文殊山号」の出発時刻まで20分弱待つことになるので、駅前にコンビニでもあればいいと思っていたのですが、着いたら何もなく、けれどもタクシーが1台すでに待っていました。

 

 乗っている客は誰もおらず、江端駅から乗ったのも私一人で、途中のバス停に停まることもなく、江端駅バス停の発車時刻である9時47分には目的地の東大味集落生活改善センターのバス停に着いていました。斜向かいの駐車場に設置されていた案内板の地図に従って歩くと、3〜4分で明智神社に到着。

f:id:hanyu_ya:20210103182712j:plain駐車場にあった東大味町旧跡マップ

f:id:hanyu_ya:20210103183040j:plain明智神社正面

f:id:hanyu_ya:20210103183120j:plain明智神社背面。後ろにある桔梗紋ののれんが掛かっている建物は資料館。

f:id:hanyu_ya:20210103183211j:plain資料館と幟旗。建物に掛かっていた古い札は「東大味歴史文化資料館」でしたが、入口前の新しい立札は「東大味歴史文化明智光秀資料館」。確かに、明智光秀の資料館でした。

f:id:hanyu_ya:20210103182942j:plain境内には称念寺でも見た「明智光秀 雌伏の地」の看板がありました。

 

 資料館でもらったパンフレットによると、明智光秀は永禄5年(1562)から9年(1567)まで東大味の土居之内に住んでいて、のちに柴田勝家と弟の勝定が主君織田信長の命を受けて一向一揆掃討のため越前に侵攻したときに、東大味は集落内の西蓮寺宛てに安堵状が出されて戦禍を免れたが、勝家兄弟とは縁もゆかりもない土地なので、住人たちはきっと光秀がかつて住んでいた集落を気づかって依頼したのだろうと感謝し、光秀の死後も「今もこの地で生きていられるのは明智様のおかげ」と遺徳を偲んで坐像を作り祀ったそうです。しかし世間的には光秀は謀反人であるため、慈眼寺のくろみつ像同様、公にはできなかったので、光秀の邸跡の土居之内に住む3軒の農家によって密かに守られてきましたが、明治に至って坐像を御神体として祀る祠を作ったとのこと。ということで、それが明智神社の起源のようです。なお。光秀の三女の玉は永徳6年(1563)の生まれなので、東大味の土居之内が細川ガラシャの生誕地ともいわれています。

f:id:hanyu_ya:20210103191515j:plainガラシャのゆかりを示す石碑。まだ新しいです。

 

 帰りの乗合タクシーは一番早いのが11時42分発なので時間は十分にありましたが、先にやることをやっておこうと思い、資料館の見学は後に回して、神社から歩いて10分ほどのところにある「山本食料品店」に行くことにしました。ここで明智神社の御朱印と御守りが手に入るので。回り道にはなりますが、方向的には同じなので、西蓮寺にも寄って行くことにしました。非公開みたいで、拝観はできませんでしたが。

f:id:hanyu_ya:20210103183443j:plain西蓮寺山門。寺には今でも柴田勝家と勝定の安堵状が残っていて、勝家の坐像が安置されているそうです。

f:id:hanyu_ya:20210103191422j:plain明智神社の御朱印

 

 帰りは最短距離の朝倉街道を通って神社に戻ってくると、資料館の展示を見学。壁のパネルを読んだあと、自分で電源を入れて3本のタイトルを自由に再生できる映像モニターがあったので、設置されていたベンチに座り、「山本食料品店」の自販機で買ってきたペットボトルのコーヒーを飲みながら、「東大味に残る伝承」「明智神社法要」「光秀と一乗谷・東大味」を順に視聴。「あけっつぁま」を守ってきた3軒の農家の子孫の方の話なども聞けて、おもしろかったです。

f:id:hanyu_ya:20210103183711j:plain資料館のパネルその1

f:id:hanyu_ya:20210103190013j:plain資料館のパネルその2

f:id:hanyu_ya:20210103190119j:plain資料館のパネルその3

f:id:hanyu_ya:20210103191342j:plain資料館のパネルその4

f:id:hanyu_ya:20210103191615j:plain資料館のパネルその5

f:id:hanyu_ya:20210103191738j:plain御祭神「あけっつぁま」の写真。「あけっつぁま」は「明智様」が口語的に転化した呼び名で、加藤神社の祭神である加藤清正が親しみを込めて「せいしょこさん」と呼ばれているのと同じようなものです。

f:id:hanyu_ya:20210103191834j:plainズームするとこんなカンジの「あけっつぁま」。くろみつ像に似ている感じがします。単に黒いからかもしれませんが。

 

 全部見終わると11時20分になろうかという時刻だったので、資料館を出て、土居之内を半周してからバス停へ。すると、行きと同じタクシーがすでに待っていました。帰りも客は一人で、やはりどこにも停まらず。時刻表によると江端駅到着時刻は12時12分となっていましたが、11時50分には着いたので、予定より1本早い12時1分発の福武線に乗れ、26分には福井駅に到着。

 

 ……ところが、永平寺行きのバスは20分に出たばかりで、次の出発時刻は1時間後の13時20分。1時間近くあったので、ならば「これは行けそうだ」と思い、アクセス情報で駅から徒歩15分ほどとなっていた郷土歴史博物館に行くことにしました。展示を見るのが目的ではなく、春の特別展の図録を買うためだったので、往復の時間があれば十分でした。図録は通販対応もしているのですが、福井を訪れる予定があったので、時間があれば寄って購入し、なければ帰ってから通販で申し込めばいいと思っていました。

 

 今は福井県庁がある福井城址の堀脇を通って10分ほど歩くと到着し、入口を入って左手にあるチケット売り場で購入。見本が並べてあるシェルフを見たら和宮に関する展覧会の図録もあったので、一緒に買いました。そして、博物館と駅のあいだにホテルがあり、寄る時間があったので、部屋に2冊の図録を置いてから、駅の反対側にある永平寺行きバスの乗り場へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20210103191943j:plain郷土歴史博物館で購入した2冊の図録。左はどこかで見たようなタイトルだと思いました。

 

 13時20分発のバスに乗り、14時に永平寺バス停に到着。着いたら寺に行く前に昼食を摂ろうと思い、永平寺といえば蕎麦と豆腐だろうと思ったので、バスの乗車中に蕎麦屋を調べて、アクセスの良さと電子クーポン使用可を基準に何軒かに絞り込みました。あとは店のメニューを見て決めようと思っていたら、バスから降りたとたん割引券をもらい、店名を見たら候補の一つ「一休」だったので、迷うことなくバス停前にあるその店に入ることに。割引券の効果か、けっこう混んでいて時間がかかりそうだったので、永平寺そばと、蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを注文し、飲みながら参拝経路を検討しました。

f:id:hanyu_ya:20210103192234j:plain永平寺そば亭「一休」の永平寺そば。胡麻豆腐付きです。盛り沢山で画面に入らず写真が切れていますが、左にあるのが蕎麦焼酎の蕎麦湯割り。

 

 食事後、クーポン2,000円分を使って支払いをし、店を出ると、食事処を探す必要がなくなったので、永平寺参道を通って寺に向かいました。

f:id:hanyu_ya:20210103192359j:plain永平寺参道の入口にある寺号標。狙いどおり、紅葉がきれいでした。

f:id:hanyu_ya:20210103192632j:plain宗祖道元の歌碑と紅葉

f:id:hanyu_ya:20210103192750j:plain道元の歌碑。歌は「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」。永平寺の冬は「すずし」というレベルではないと思いますが、詩的と語呂的に「さむし」ではまずかったのでしょう。

f:id:hanyu_ya:20210103192930j:plain収蔵庫の瑠璃聖宝閣と紅葉。燃えるような赤です。

f:id:hanyu_ya:20210103193030j:plain別の角度から。こちらから見るとオレンジ色。光の加減で紅葉はいろいろな表情を見せてくれます。

f:id:hanyu_ya:20210103193121j:plain永平寺全景図

f:id:hanyu_ya:20210103193217j:plain納経塔の報恩塔と一葉観音像とカエル(置物)

 

 通用門の受付で拝観券を買い、検温後、拝観の玄関口になっている吉祥閣で御朱印をいただいたあと、順路に従って、まずは隣の傘松閣から拝観。昭和5年(1930)に建てられた、19棟の重要文化財建造物がある境内の中では比較的新しい建物でしたが、伊東深水川合玉堂も参加したという天井画が圧巻でした。

f:id:hanyu_ya:20210103193350j:plain傘松閣の天井画。現在の傘松閣は平成6年(1994)に改築された建物ですが、絵天井は昔の物をそのまま使ったそうです。部屋に入ってすぐに撮影したのですが、部屋の奥の上座から見るのが正位置なので、絵が逆さになってしまったことに、あとから気づきました。

 

 日本三大禅宗の一つで、道元が開いた曹洞宗大本山である永平寺は、日本を代表する禅寺なので、ずいぶん前からいずれ訪れるつもりでいたのですが、行くなら一乗谷とセットだと思っていたので、今回が初めての訪問。規模が大きいことは想像していましたが、禅宗の七堂伽藍が伝統的な形できちんと残っている、こんな寺は初めてだったので驚きました。都から離れた越前国の、さらに山深いところにあったので、数々の戦禍を免れることができたのでしょう。平地にある京都の妙心寺とは異なり、一直線に造られる山門、仏殿、法堂が山の斜面に建てられているため、禅宗において一番重要な法堂が一番上となり、修行の場である七つの建物はすべて回廊で繋がっています。いわく七堂伽藍とはこういうものかと思い、まるで見本のようでした。妙心寺は建物同士が離れていて、外を歩かなければならない配置だったので。その回廊を若い修行中と思われる雲水が頻繁に行き交い、仏殿や法堂の前を通るときには足を止めて相対し一礼をしていく……拝観券売り場から吉祥閣に入ったときには「なんか観光名所化しているなぁ」と思いましたが、次第に物見遊山で来ている自分の気が引けるような、確かに祈りの場でした。

f:id:hanyu_ya:20210103193534j:plain仏殿

f:id:hanyu_ya:20210103193643j:plain中雀門から見下ろす山門

f:id:hanyu_ya:20210103193933j:plain法堂から見る大庫院。紅葉と伽藍の組み合わせが本当にきれいで、心が洗われ、何枚も写真を撮ってしまいました。

f:id:hanyu_ya:20210103193740j:plainちょっと引きで。

f:id:hanyu_ya:20210103193849j:plainかなりズームで。

f:id:hanyu_ya:20210103194041j:plain僧堂の門(多分)

 

 15時35分発の福井駅行き最終バスに間に合わない場合、公共交通機関を利用して福井駅に戻る手段は、永平寺口駅まで出てローカル電車のえちぜん鉄道勝山永平寺線で帰る方法しかなく、次の永平寺口駅行きのバスは16時31分発だったので、4時前には永平寺を後にして、今度は門前通り経由でバス停へ。興味を引かれて立ち寄る店はなく、20分前にはバス停に戻ってきたので、バス停から道路を渡らずに行ける店で一番近く、昼食の候補にも挙げていた食事処兼土産物屋の「井の上」に行って、土産物を物色することにしました。けれども、そこでも特に欲しい物はなかったので、ごまとうふソフトを買って、寒かったので店内で食べることにし、食べ終わると、バスと電車の乗り換え時間が5分ほどしかなかったので、バス代の支払い時間を短縮するため、バスチケットを買ってバス停に戻りました。時間どおりに来たバスに乗り、45分に到着。あえて前の席に座っていたので一番先に降りて切符を買い、50分発の福井駅行き電車に無事乗車。バス停が駅からそれほど遠くなかったので、バスから乗り換えた人はみな間に合ったようですが。

 

 5時12分に福井駅に到着し、郷土歴史博物館の受付で図録を買ったときに、隣の養浩館庭園のライトアップについての案内が掲示されていて、この日5時から夜間公開をすること知ったので、そのまま向かおうと思ったのですが、日が暮れてから一気に気温が下がり、寒いと思ってスマホで確認すると日中より5度以上低い12度だったので、ホテルに寄って1枚着込んでから行きました。養浩館庭園の入園料は220円なのですが、その日は無料開放されていました。

 

 受付でもらったパンフレットによると、養浩館庭園は福井藩松平家の別邸だった御泉水屋敷の跡で、明治になり福井城は政府の所有となりましたが、別邸は松平家に残されて、松平春嶽が「養浩館」と名付けたとのこと。孟子の言葉「浩然の気を養う」が由来だそうです。回遊式林泉庭園だそうですが、夜間のためか庭は立入禁止のところが多く、あまり見られなかったので、ライトアップされた庭の紅葉よりも、数寄屋造りの屋敷から眺めるライトアップされた庭園がよかったです。紅葉の色づき具合はよくわかりませんでしたが。

f:id:hanyu_ya:20210103194219j:plainライトアップされた庭園の紅葉

f:id:hanyu_ya:20210103194346j:plain屋敷の湯殿。妙心寺明智風呂と同じ構造の蒸し風呂です。

f:id:hanyu_ya:20210103194443j:plain屋敷の窓越しに見るライトアップされた庭園その1

f:id:hanyu_ya:20210103194554j:plain窓を避けるとこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20210103194640j:plain屋敷の窓越しに見るライトアップされた庭園その2

f:id:hanyu_ya:20210103194736j:plain窓を避けるとこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20210103194840j:plain御月見ノ間から見る庭園

f:id:hanyu_ya:20210103194917j:plain御月見ノ間の室内。螺鈿細工のコーナー棚なんて初めて見ました。

 

 40分ほどで養浩館庭園を出て、行きと同じく福井城址を通り抜けて、7時前には福井駅に戻り、夕飯を食べようと思って店を探しました。この季節の福井といえば、なんといっても越前がに。最初は駅構内に回転寿司屋があったので入ったのですが、予想外に混んでいて待っている客も何組かいたのであきらめ、駅を出ました。そして駅前にあるパピリンという建物の店舗案内を見ていると、福井市観光物産館があることがわかり、物産店の他に「福福茶屋」という食事処もあるみたいだったので、行ってみることに。これが大正解で、越前がに1杯を使った冬季限定の「越前せいこがに丼」というメニューがあったので注文。それと、蕎麦焼酎があったのですが、越前そばのメニューがあるのに蕎麦湯割りはなかったので、オーダーを取りに来たスタッフに「できなければお湯割りでいいけど、できれば蕎麦湯割りにしてほしい」と言うと、「よろしければ、蕎麦湯を別にお持ちします」と言うので、蕎麦焼酎のストレートを注文。自分で割って飲むことにしました。

f:id:hanyu_ya:20210103195132j:plain「福福茶屋」の越前せいこがに丼。「せいこがに」とは福井で水揚げされるメスのズワイガニで、いわゆる金沢の香箱がにのこと。オスと違って、11月の解禁日から12月いっぱいしか食べられません。越前がには超ブランド蟹なので、産地を証明する黄色のタグが付いていて、そちらが一緒に乗っかってきます。

 

 大満足してホテルに戻り、この日はこれにて日程終了です。

知恵伊豆と在五中将ゆかりの禅寺~平林寺

  あけましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いします。

 

 長らく式内社巡りをしていて、近年は西国三十三所巡りもしているので、寺社にはしょっちゅう行っているため、わざわざ混んでいるときに訪れることもないと思い、その年の最初の寺社詣りを文字どおり初詣としていて、いわゆる一般的な初詣にはもともと行かない人間なので、朝から晩まで家でおとなしく過ごした元旦でした。

 

 さすがに例年よりは少ないみたいですが、テレビのニュースを見ていると、この状況下でも初詣に行く人がそれなりにいて驚いています。寺社が参拝客を受け入れているので、悪いこととは思いませんが、これでは感染は収まらないだろうな、と……。それ以上に強く思うのが、あれだけ不要不急の外出はするなと言われている中でも多くの人々に足を運ばせる初詣という習慣の不思議さで、日本人の生活に根付いた、その根深さにも驚いています。初詣に行く人にとって、初詣は不要不急の外出ではなく、必要な外出ということなのでしょうから……それほど信心深い国民性とは思えないのですが。

 

 それはさておき、昨年の句会メンバーとの春秋の集いは、春の花見は緊急事態宣言が出されるタイミングだったのでパスしましたが、秋の紅葉狩りには参加し、11月28日に新座の平林寺に行ってきました。昔はその日のうちに句や短歌を披露したのですが、近年は秋の場合、年内提出がメドとされているので、昨日は掃除をしながら、いくつか作ってあった歌を見直してノルマの三首を完成させ、メールで提出。毎度ギリギリですが、なんとか間に合いました。

 

  あかきいろ 木々のまにまに あおみどり

    点描にも似た あきの傑作

  

  知恵伊豆も 伊勢物語の中将も

    知らねど集う 野火止の秋

 

  つはものの跡を偲びて建つ社

    今では犬の散歩道なり

 

 平林寺は埼玉県の新座市にあり、メンバーは埼玉県民、東京都民、神奈川県民なので、午後1時目標で門前に集合。今回初めて訪れたのですが、思いのほか立派な寺で意外でした。拝観受付でもらったパンフレットによると、創建は永和元年(1375)で、開基は岩槻城主の太田薀沢。戦国時代に戦禍を被りましたが、天正20年(1592)に徳川家康の援助を受けて中興。やがて家康の孫である家光の時代に幕府の老中首座を勤めた松平伊豆守信綱の菩提寺となり、寛文3年(1663)に信綱の遺命により岩槻から野火止の現在地に移転――ということで、最初は臨済宗建長寺派で、現在は妙心寺派とのこと。本堂は非公開でしたが、御本尊は釈迦如来だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210101201005j:plain平林寺の紅葉。右下は受付を入ってすぐ左にあるトイレの屋根。メンバーが用を足しているあいだ暇だったので周囲を見渡したら、この付近ではここが一番きれいでした。

 

 広い境内には、信綱夫妻をはじめ、大河内松平一族代々の墓が残り、その数170基に及ぶという一大廟所でした。藩主や大名家の廟所や墓所は数多く見てきましたが、これほど規模の大きなところは記憶にありません。信綱は私の出身地である川越藩の藩主で、切れ者ゆえに「知恵伊豆」と呼ばれて、春日局柳生宗矩と共に三代江戸将軍家光を支える鼎の脚ともいわれた人物なので、もちろん知ってはいましたが、信綱時代の川越藩は6万石なので、それくらいの石高の藩の藩主一族の菩提寺がこんなに大きいとは思っていませんでした。他所は、元々は大きかったけれども現在は残っていないだけなのかもしれませんが。もしそうだとしても、十分驚きに値するもので、信綱が幕府内でどれほど重きを成していたのか――家光にとってどれだけ重要な存在だったか考えさせられる史跡でした。

f:id:hanyu_ya:20210101201257j:plain松平家廟所の手前の墓地にあった見性院宝篋印塔。見性院武田信玄の次女で、穴山梅雪正室。信綱は島原の乱を平定したことでも知られますが、こちらの墓地には島原・天草一揆の供養塔などもありました。

f:id:hanyu_ya:20210101202004j:plain信綱の墓の五輪塔の地輪背面

 

 境内には野火止塚と業平塚いう小山があり、何なのかわかりませんが、おそらく平林寺が創建される前からそこにあったもので、これらがあったところに平林寺が建てられたのだと思います。業平といえば、在五中将こと在原業平のことなので、業平塚は業平と何か関係があるのかもしれません。業平は、清和天皇に入内予定だった摂関家の娘、藤原高子との密通が露見して、高子の兄である基経に都を追われて東国を旅したとされているので、あり得ないことではないと思います。余談ですが、基経は時平の父で、時平がのちに父の異母兄である伯父国経の妻であった業平の孫娘を奪って生ませたのが敦忠です。ということで、私にとってはたいそう馴染みのある人物なので、思わぬところで業平の名を見て嬉しくなりました。

f:id:hanyu_ya:20210101201552j:plain紅葉の向こうに見る野火止塚

f:id:hanyu_ya:20210101202259j:plain業平塚と説明板

f:id:hanyu_ya:20210101202349j:plain平林寺境内林の紅葉その1。平林寺の境内林は東京ドーム9個分の広さだそうで、国の天然記念物に指定されています。寄りで撮るよりも引きで撮るほうが美しいと初めて思った紅葉でした。

f:id:hanyu_ya:20210101202445j:plain平林寺境内林の紅葉その2

f:id:hanyu_ya:20210101202532j:plain平林寺境内林の紅葉その3

f:id:hanyu_ya:20210101202616j:plain鐘楼と紅葉。赤、黄、緑、青――見事な色の競演です。

 

 のんびりと散策し、境内林をほぼ一周して墓地まで戻ってくると、2時半を過ぎたところだったので、3時に門前に来てもらうようにタクシーを呼び、10分前に寺を出ました。5時から柳瀬川の川べりの近くにある清瀬蕎麦屋で打ち上げ予定でしたが、まだ時間が早かったので、川向うにある所沢の滝の城址公園に行って、本丸跡にある城山神社にお参りし、メンバーが持参した缶チューハイを飲みながら一服しました。

 

 ソーシャルディスタンスを保ちつつ30分ほど歴史談義をして缶を空けると、蕎麦屋に向かって川沿いを歩き、10分ほどで到着。「池添」という、住宅地にある、まずふらっと立ち寄ることはない隠れ家的な店で、夜は事前に連絡を入れておかないと営業していないとのことでした。そのためか、客は私たちだけで、貸切状態。囲炉裏を模したテーブル席で、まずは蕎麦がきをつまみながら十四代を片口でもらって味わい、店の十四代の瓶が空になったあとは店主おすすめの日本酒をもらい、お任せで地物野菜の天ぷらを揚げてもらって舌鼓を打ち、十分に堪能したので、名物の十割蕎麦で締めて終了。駅まで歩いて行けるところではないので、タクシーを呼んでもらい、秋津駅で解散です。

 

 今年は春も秋もマスクなしで参加できることを、心から願っています。

明智光秀探訪 番外編~展覧会「新・明智光秀論―細川と明智 信長を支えた武将たち」in永青文庫美術館

 2020年の大晦日です。大学4年の時に育った家を離れてから昨年までのウン十年間、年越しは親元か海外のいずれかだったので(といっても、海外で年をまたいだのは1度だけですが……)、今回初めて自宅で新年を迎えることになります。外出もせず、せっかく家にいて、大掃除とまではいきませんでしたが、とりあえず普通に掃除を終えたので、短めの記事をアップすることにしました。11月と12月の遠征記がまだ残っていますが、そちらを書き出すと確実に二年越しになってしまうので(笑)。

 

 世界的には未曾有の災禍に見舞われた一年でしたが、個人的には、もちろんコロナウィルスに振り回されはしましたが、たいそう充実した、それなりによい年でした。まさしく日本再発見、ディスカバー・ジャパンの一年という感じで、坂井、京北、沼田、福知山、舞鶴、可児、瑞浪、土岐、恵那、永平寺関ケ原――と、今まで行ったことがなかった地方の町にもたくさん行けて、記憶に残る素敵な経験が数多くできましたし。これも明智光秀のおかげです。

 

 クリスマスの25日は3時で仕事を終え、4時半閉館で入館が4時までの永青文庫美術館へ行ってきました。現在、春から延期されていた展覧会「新・明智光秀論―細川と明智 信長を支えた武将たち」が開催されていて、年内の開館は27日までだったからです。年明けは9日からで、会期は1月末まであるのですが、本展覧会が春から冬になったのは緊急事態宣言によって休館したせいであり、そのとき開催中の展覧会が会期を残して終了ということが実際にあったので、第1波よりも厳しくなっている今の感染状況だと年末年始が終わってどうなるかわからなかったので、見そびれることだけは避けたいという一念で、年内に強行しました。

f:id:hanyu_ya:20201231184327j:plain神田川沿い、芭蕉庵近くから見る水神社のイチョウ

 

 建物の規模を考えたら40分ぐらいあれば十分だろうと思っていたのですが、展示内容が史料も解説も素晴らしく充実していて、見たくて仕方がなかった2014年に熊本で発見された『針薬方』もあったので、全然足りず。まあ、旧熊本藩主細川家伝来の文化財を所蔵管理する永青文庫の展覧会なので、細川家家老筋の米田家に伝来した『針薬方』が出展されていても何ら不思議ではないのですが。その他、田辺城のパネル展示で見た、本能寺の変から七日後に光秀が藤孝・忠興父子に宛てて書いた手紙もありました。

 

 書面に光秀の名が現れる藤孝宛ての信長の書状も多く展示されていて、案件は様々ですが、ほとんどが「光秀からも報告を受けている」「光秀の報告は詳細で助かる」「光秀と相談しろ」とあり、まめにホウレンソウを行う光秀の律儀な為人が伝わってきました。安土城での接待と同じく、いささかやりすぎという気もしましたが……もっと端的に言えばクドイ(笑)。つまり明智光秀という人はそういう人だったのだと思います。よく言えば生真面目で、悪く言えばクソ真面目。完璧を期するあまり傍から見ればやりすぎではないかと思うほど万事に行き届いたところを見せ、目下の人間にしてみれば気が引けるというか恐れ多く、同等の人間にしてみれば優等生すぎて鼻につき、目上の人間にしてみればソツのなさや有能ぶりを見せつけられることでコンプレックスを刺激されて少々鬱陶しく感じる、あるいは脅威をおぼえる――そんな人間だったのではないでしょうか。使えるが、真面目ゆえに洒落が通じないというか融通がきかないので、扱いが面倒くさいと思ったかもしれません。悪い人ではないし嫌いではない、それどころか良い人で好きだけど直接関わるのは苦手で敬遠しがちとか、ついていけないという人は、今の世でも変わらずいるものです。

 

 そんな真面目人間の光秀は、戦で負傷した家臣に宛てた見舞いの文など、相手の怪我や病気を気遣う文の数が他の武将に比べてずば抜けて多いことでも知られます。今回も“気配り光秀”を感じさせる展示があり、光秀の端正な心ばえに改めて感動しました。けっして厭味ではありません(笑)。細川忠興の文で、光秀の娘・玉を母に持ち、家督を継いだ息子の忠利に宛てた文があったのですが、その中でこのようなことを言っています――「その方(忠利)から文が来ると何かあったのかと案じてしまうが、文箱の上の札の書付に「無事之状」とあったので安心した。こうしてくれると先に安心できる。文箱の上に書付の札を付けるのは明智日向守がいつもしていたことで、理に適った方法だ」と。要するに、現代風に置き換えると、予期せずして文が来ると何だろうと思いますが、光秀は封筒に「~~在中」と書いて送ってきたので、内容が判り、安心して封を開けられた、ということです。相手を思いやる光秀の配慮も、舅のやり方に感心したと息子に語る忠興も、父が認める祖父の習慣を引き継いでいる忠利も、なんかとてもいい感じに思え、心が温かくなりました。

 

 一応駆け足で全部見てきましたが、図録はなく、唯一の関連資料は本展覧会を特集した『季刊永青文庫』だけで、載っていない展示解説も多く、書き留める時間がなかったので、来月も問題なく開館していたら、もう一度時間に余裕を持って来ようと思いました。

 

 4時半になったので美術館を出ると、永青文庫の近くに椿山荘があるので、シャンパーニュを飲んで帰ることにしました。ロビーラウンジの「ル・ジャルダン」に入り、マムをグラスで注文。マムはランスに行ったときにも訪れたお気に入りの老舗メゾンなのですが、最近は飲食店で出合うことがなかったので、ちょっと嬉しくなりました。しかも口開けだったので、「これは2杯飲むでしょ」と思い、サンドウィッチも注文。サンドウィッチはキューカンバーサンドが一番好きで、肉はあまり得意ではなく(ハンバーガーは好きですが)、ハムサンドぐらいしか食べないのですが、単品メニューはパテやローストビーフ系しかなかったので、フルーツや野菜なども入った盛り合わせを頼み、チキンを抜いてもらって、野菜とフルーツでまとめてもらうことにしました。通された席は奥まった端の席だったので、『季刊永青文庫』の明智光秀特集を落ち着いて熟読することができました。

f:id:hanyu_ya:20201231185405j:plainホテル椿山荘東京のロビーラウンジ「ル・ジャルダン」のマムと『季刊永青文庫』。私が疲れて1杯飲みたいときや、やることを終えて後はのんびりというときに飲みたいのはシャンパーニュなので、シャンパーニュを置いてある確率が高く、落ち着いた雰囲気で飲める環境ということで、近くにホテルがあれば、迷わずホテルのラウンジかバーに行きます。

f:id:hanyu_ya:20201231185506j:plain帝国ホテルのロビーラウンジ「ランデブー」のアンリオ。今年は海外に行けず、ベートーヴェンのアニバーサリーイヤーということで何年も前から予定していたウィーン旅行ができなかったので、気分だけでも味わおうと思い、23日の夜にドイツ大使館やザクセン観光局が後援している日比谷公園の東京クリスマスマーケットに行ってみたのですが、あまりに人が多くてビックリ。入場待ちの行列がとんでもない長さで、会場内より密ではないかと思うほどだったので、早々に断念したのですが、忙しい中、仕事を無理やり切り上げてせっかく来たので、シャンパーニュを飲んで帰りました。

f:id:hanyu_ya:20201231185607j:plainホテルニューグランドのコーヒーハウス「ザ・カフェ」のスパークリングワイン(銘柄不明)。クリスマス前に友人と横浜中華街で食事をした日、中華料理屋では好みのアルコールが飲めそうになかったので、食前酒代わりのつもりで食事の前にシャンパーニュを飲みに行ったのですが、土曜だったためか混んでいて、ロビーラウンジは満席。ラウンジのスタッフにこちらの店を紹介されましたが、店内はやはり混んでいたので、密を避けてテラスで飲むことにしました。シャンパーニュはなくてスパークリングワインでしたが、メニューにはないオリーブの盛り合わせを希望したら快く受けてもらえ、美味しかったので、さすがクラシックホテルだと思いました。オリーブはお代わりしてしまいました。

 

 「ル・ジャルダン」に入店したときにはまだ5時前だったので、客層はアフタヌーンティを楽しむファミリーや女性二人連れが目立ったのですが、すっかり日が暮れて6時を過ぎると、ディナー予約客がやってきて、近くのテーブルの話し声が耳につくようになったので、6時半過ぎに店を出ました。

 

 8時過ぎには帰宅し、9時から「風の谷のナウシカ」のテレビ放映を見ようと思っていましたが、新聞を読んだついでにテレビ欄を見直すと、NHK総合の夜10時の欄に「光秀のスマホ 歳末の陣」という文字を発見。大いに気になったので、ナウシカはやめて、いつものようにニュースウォッチ9を見たあと引き続きNHKを視聴。結果、おもしろすぎて、50分間テレビ画面を覗き込んで、文字どおりガン見することになりました。ソファに座ったいつもの位置からではスマホの文字が読めなかったので(笑)。主人公光秀の顔が出ないという先進的な作りの玄人好みのドラマ自体にも感心しましたが、クリスマスの夜にこの、一般受けするかわからない、マニアックなドラマを総合で放送するNHKの姿勢にも感心しました。ナウシカを放映する日テレや全日本フィギュアを放映するフジテレビの、あからさまに視聴率を狙った番組編成は妥当で理解できるのですが……まったく意図不明。それらと同じ土壌で戦っても仕方がないということなのか、はたまた多様性を認める社会においては人の好みも千差万別なので少数派の受け皿になろうというのか……まあ、それは民放にはできませんし。ともあれ、前日のイブは年賀状書きに追われて終わりましたが、クリスマス当日はそれなりに楽しめた一日でした。

 

 次の日は全日本フィギュアの男子シングルフリーをテレビ観戦。羽生選手、凄まじい演技でした。優勝おめでとう。ついに真の頂に到達したように思えました。そしてそれは、コロナ禍という苦難があったからこそ、極められたもののような気がしました。勝利を渇望する思いやライバルへの思い、絶対王者としての矜持などが削ぎ落されて、純粋にスケートが好きで、スケートへの思いも含めたスケートをこよなく愛する自分の思いを、スケートを通して表現したい、伝えたいという心が透けて見えました。私は今までユヅの手先や足先の使い方に苦言を呈してきましたが、今回の演技は完璧なジャンプはもちろんですが、それ以上に、静止したときのポーズに見惚れました。高い技術と豊かな表現を融合させた、スポーツであり芸術でもある究極のパフォーマンス――かつて荒川静香や髙橋大輔が見せてくれた、頂点を極めた限られたスケーターにしか到達できない、頂のその先の世界を見せてくれました。今の現役選手では羽生結弦とネイサン・チェンしかできないと思います。ありがとう

 

 そんなこんなでクリスマスが終わり、日比谷のクリスマスマーケットで何か買おうと思っていたのに行けず結局何も買えなかったので、1年働いた褒美に何か欲しいと思ったら、思い出したのが古墳クッションでした。ふるさと納税のサイトで箸墓古墳のクッションを見てその存在を知り、納税金額が高かったので普通に買えないかと思い、ネットで検索したら作り手さんのホームページに辿り着いて、オンラインショップで他の古墳のクッションも売っていたので、どれにしようか迷っているうちにそのままになっていました。改めてホームページを訪れると、SOLD OUTになっているものも多かったので、慌てて注文。被葬者で選ぶか世界遺産にするか悩んでいたのですが、明智光秀の年の締めくくりということで、山崎の戦いにおける光秀の本陣跡ともいわれる恵解山古墳を選択。年内届けは難しいかと思いましたが、嬉しいことに昨日届きました。両手があるような形も可愛く、愛嬌があってとてもよい感じです。

f:id:hanyu_ya:20201231192744j:plain恵解山古墳のクッション。作り手さんは椅子職人なので、フニャフニャしたスポンジやポリわたのクッションではなく、硬めのソファクッションです。玄室がある後円部の真ん中はちゃんと盛り上がっていて、芸が細かいです。

 

 28日が仕事納めだったので、29日は今年ウィーンと富良野に一緒に行く予定だった友人と久しぶりに会って、フレンチを食べました。会うのは1月3連休の安比スキー以来で、行った恵比寿の店も1年に2~3回は行っていましたが、ほぼ1年ぶり。夜はおそらく時短営業中なので、初めてランチで行きました。感染拡大がなければ、翌30日までは富良野、31日からは親元の静岡に行く予定でしたが、深刻な現状を踏まえてどちらも中止したので、昨日から5日の仕事始めまでは巣ごもり生活です。遠征記でも書いて、おとなしく過ごそうと思っています。

 

 本日、東京の感染者が1000人を超えました。逼迫している医療現場に携わっている人たちは本当に困難な状況で、クリスマスはおろか、この一年は楽しむどころではなかったと思います。それでも、街はロックダウンしていないので、経済活動は行われていて、ホテルをはじめとする店は営業し、美術館も開館し、クリスマスマーケットも開催されました。開いている以上、人が行かなければ、その意味もなくなります。避けるべきは密で、つまるところ感染対策なしでの人との接触だと思います。なので、旅行も一人か二人、食事は四人まででやる分にはいいと思っています。営業施設の経営も大変ですから。

 

 緊急事態宣言終了後あっちこっちに行きましたが、コロナ禍の中で営業を続ける、あるいは再開する施設はみな対策をしっかりしていて、いずれもスタッフの苦労が偲ばれました。感染者を出せば即休業に追い込まれて死活問題なので、当然と言えば当然ですが。よって感染の場は、柔軟な対策が取れない学校、会社、病院、介護施設、そして、家族間でマスクを付けること、食事の皿を分けることなど感染対策を徹底できない家庭のように思えます。

 

 ともあれ、ここへきて変異種も日本に上陸し、ますますこの先どうなるかわからなくなりました。だからと言って、やりたいことができないのは嫌だし、できないのをコロナのせいにばかりするのも嫌なので、来年以降も状況を見極めつつ、可能なかぎり前向きに行動はしていきたいと思います。

岐阜・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪10 その3~活津彦根神社、安土城址、特別展「信長と光秀の時代」in安土城考古博物館、信長の館、安土城郭資料館

 遠征最終日の11月1日は、恵那に行く予定だったので名古屋駅の近くにホテルを取ったのですが、宿泊まで一週間を切った段階で前日の10月31日に恵那行きを変更したので、この日は安土に行くことにしました。帰る日なので新幹線駅へのアクセスがいいところがよかったので伊勢なども考えたのですが、今回はピンと来なくて、京都や京都駅に出やすい亀岡や大津、米原駅に近い彦根周辺を調べたら、安土城考古博物館で11月23日まで「信長と光秀の時代―戦国近江から天下統一へ―」という特別展が開催されていることを知ったので。安土は訪れたことがありましたが、西国三十三所札所の観音正寺式内社沙沙貴神社が目的の寺社巡りで、安土城にも行ったことがなかったので、いい機会だと思いました。

 

 9時前にホテルをチェックアウトして名古屋駅に行くと、新幹線改札内のスタバでコーヒーを買ってから、名古屋発9時19分のひかりに乗車。47分に米原駅に着いて、59分発の加古川行き各停電車に乗り換え、10時22分に安土駅に到着しました。4年ぶりでしたが、その時とはすっかり様変わりしていて、きれいでモダンな駅になっていたので、びっくりしました。かつてはいかにも特急が停まらない地方の駅という感じで、駅前にタクシーの1台もいなかったのですが。

 

 以前はロータリーを挟んで向かい側にあった観光案内所も駅の1階に移っていたので、いつものように最初に寄ってみると、数は少ないですがコインロッカーがあったので、キャリーバッグを預けることに。駅構内のコインロッカーの情報が得られなかったので、駅前のレンタサイクル屋に預けるつもりでいたのですが、こちらに空きがあったので助かりました。そして安土城址や博物館への行き方を訊いてマップをもらうと、主要施設で特典が受けられる「戦国ワンダーランド滋賀・びわ湖」の周遊パスと、11月1日から開始で今日が初日というスタンプラリーの台紙もくれました。

 

 観光案内所もラリーポイントの一つだったので、スタンプを押してもらうと、まずは安土城を目指そうと思ったのですが、もらった地図を見ると、おすすめのアクセスルートを少し外れたところに活津彦根神社という文字を見つけたので、そちらから行くことにしました。何故なら、活津“彦根”は安土からそう遠くない「彦根」の地名の語源になった神だからです。つまり、彦根や安土周辺はかつて活津彦根が治めていた土地で、彼がこの地域の産土神なのだと思います。

 

 安土駅から駅前の県道201号をまっすぐ行くと琵琶湖の内湖である西の湖に突き当たるのですが、その手前に活津彦根神社はあります。昔の地形はわかりませんが、琵琶湖から長命寺川を通って西の湖に船で入ってくると最奥に神社があるので、西の湖、ひいては琵琶湖への玄関口に建てられたことは明らかです。よって、ここに活津彦根ゆかりの宮などがあり、その跡が聖地となったのではないでしょうか。そして、この神社を中心に安土の街は形成されたように思えます。県道201号はどう考えても当社の参道なので。

f:id:hanyu_ya:20201230231514j:plain県道201号沿いにある活津彦根神社の御旅所を示す石碑

f:id:hanyu_ya:20201230231625j:plain県道201号から見える安土山

 

 活津彦根天照大御神の子で、『ホツマツタヱ』によれば、アマテルと東の典侍オオミヤヒメミチコとのあいだに生まれた子です。ミチコの父はヤソキネで、ヤソキネはアマテルの母イサナミの兄弟なので、オオヤマズミ一族のサクラウチの娘であるセオリツヒメホノコを母に持つ兄のオシホミミより天君に近い血筋でしたが、父の跡を継ぐことはなく、シマツヒコ一族のカナサキの娘であるハヤアキツヒメアキコを母に持つ異母兄弟のアマツヒコネとセットで語られ、詳しいことはわかりません。ただし、以前訪れた近江八幡市にある式内社――馬見岡神社の祭神は天津彦根命だったので、兄弟ともにこのあたりにいたのだと思います。オシホミミも多賀町にある胡宮神社の起源である多賀若宮にいて、多賀大社の起源である多賀宮にいたイサナギに養育されていたようですし。もしかしたら三兄弟とも祖父にあたるイサナギの庇護下で育てられたのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201230231739j:plain活津彦根神社の鳥居と社号標

f:id:hanyu_ya:20201230231845j:plain活津彦根神社についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230231956j:plain拝殿

f:id:hanyu_ya:20201230232052j:plain本殿と摂社の蛭子神社

f:id:hanyu_ya:20201230232147j:plain本殿についての説明板

 

 境内社蛭子神社と津島社で、織田信長の出身地である尾張に総本社があり、織田家が尊崇した津島神社は、岐阜の伊奈波神社にも勧請されていたので、信長が城を築いた土地の産土神の社には、必ず津島社が祀られたのではないかと思いました。もしそうならば、信長は仏は大して重視しなかったが神は比較的大事にしていたのかもしれないと思い、そんなことを考えつつ蛭子神社の説明板を読むと、安土城築城の際に信長が三日三晩当社に参籠して祈願をしたと書かれていたので、その考えに太鼓判を押されたように感じて、信長ゆかりの城と津島社の関係を追ってみたいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20201230232341j:plain信長の逸話が書かれていた蛭子神社についての説明板。祭神の最後にある苔穴明神の正体が気になります。

f:id:hanyu_ya:20201230232425j:plainアートな石灯籠その1

f:id:hanyu_ya:20201230232531j:plainアートな石灯籠その2

 

 活津彦根神社を出たあとは安土山を目指して歩き、橋を渡ったところで山に突き当たったので右に曲がり、山裾に沿って行くと、しばらくして大手門跡の近くにある安土城址の受付前に到着しました。受付から先の城址には売店もトイレもないので、売店と公共トイレを兼ねた城なび館という施設が近くにあり、そこもラリーポイントだったので、寄ってスタンプを押し、周遊パスの特典がコーヒー1杯サービスだったので、ホットコーヒーをもらって一服しました。

 

 コーヒーを飲み終わると受付へ。国の特別史跡である安土城址は現在城内にあった摠見寺の管理下にあるため、受付で寺の御朱印がいただけるので、朱印帳を預けてから城址見学に行きました。御朱印希望者は拝観料を払うときに朱印帳を預けて帰りに引き取ることになっていたので。持参の朱印帳の場合、いただけるのは摠見寺の御朱印だけで、安土城の御城印はあるにはあるのですが、受付で販売している摠見寺オリジナルの朱印帳に書かれたもののみで、したがって朱印帳を買わないと手に入らないようになっていました。

f:id:hanyu_ya:20201230232956j:plain安土山に突き当たって右に曲がると左手に見える摠見寺の参道と安土城址の石碑

f:id:hanyu_ya:20201230233052j:plain受付に向かう途中に見える安土城の遺跡

f:id:hanyu_ya:20201230233149j:plain安土城址についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230233319j:plain受付を入って最初に現れる遺跡――羽柴秀吉邸跡

f:id:hanyu_ya:20201230233442j:plain秀吉邸についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230233518j:plain秀吉邸主殿についての説明板

 

 秀吉邸の前を通る大手道の石段には石仏が使われていて、それも一つや二つではなかったので、信長にとっていかに仏が取るに足らない存在だったかが知れました。光秀が築城した福知山城のように石垣の転用石であれば果敢な侵入者しか足蹴にすることはないかもしれませんが、大手道の石段ともなれば誰でも、それこそ自邸の前に石段がある秀吉も気にせず容赦なく踏んだと思います。信長は仏そのものというよりも偶像に対して価値を見出していなかったのかもしれませんが。まあ、織田家の祖は剣神社の神官なので、仏教はどうでもいいのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201230233720j:plain大手道の石段にされた石仏その1

f:id:hanyu_ya:20201230233905j:plain大手道の石段にされた石仏その2

 

 秀吉邸からしばらく登ると、森蘭丸と織田信澄の邸宅跡を示す石碑がありました。この二人の邸宅が隣り合っているのは実に興味深いことだと思いました。蘭丸は信長の小姓で本能寺の変で主君と運命を共にしたことで有名ですが、信澄は信長が逆心を疑って殺した弟信行の子で、つまり甥です。ということは、信長にとって蘭丸は甥と同じぐらいの存在だったとも考えられます。さらにおもしろいのが、信澄は信長の甥で、かつ光秀の娘婿でもあったことです。信長の命で光秀の婿となった信長の甥が秀吉よりも本丸に近いところに邸宅を構えていた――この事実が何を意味するのか、大いに気になりますね。

f:id:hanyu_ya:20201230234012j:plain大手道の石段。左手に森蘭丸邸跡と織田信澄邸跡の石碑があります。

f:id:hanyu_ya:20201230234108j:plain森蘭丸邸跡と織田信澄邸跡の石碑

f:id:hanyu_ya:20201230234218j:plain森蘭丸と織田信澄の邸宅跡を過ぎると曲がり角が多く見通しが悪い道になっていて、明らかに防御を意識した作りになっています。

f:id:hanyu_ya:20201230234307j:plain黒金門跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230234359j:plain仏足石

f:id:hanyu_ya:20201230234440j:plain天主台西下の二の丸跡にある信長公廟所

f:id:hanyu_ya:20201230234529j:plain柵の向こうはこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20201230234628j:plain天主台に続く石段と石垣

f:id:hanyu_ya:20201230234725j:plain天主台跡。礎石がきれいに残っています。

f:id:hanyu_ya:20201230234809j:plain天主台跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230234853j:plain西の湖が見える天主台跡からの眺め。現在は干拓によって四方いずれも陸地になっていますが、往時の安土城は南以外の三方が琵琶湖の内湖に囲まれていたそうです。

f:id:hanyu_ya:20201230234950j:plain天主台跡から見える信長廟所(左)

f:id:hanyu_ya:20201230235254j:plainソセキとススキ

f:id:hanyu_ya:20201230235459j:plain本丸跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230235603j:plain織田信雄公四代供養塔。信雄は信長の次男です。

f:id:hanyu_ya:20201230235653j:plain信雄四代についての立札

f:id:hanyu_ya:20201230235751j:plain摠見寺跡。天主台よりも近くに西の湖が見えます。

f:id:hanyu_ya:20201230235904j:plain摠見寺跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201231000003j:plain三重塔。パンフレットによると、信長が甲賀の長寿寺から移築したもので、享徳3年(1454)の建立。重要文化財

f:id:hanyu_ya:20201231000105j:plain仁王門に続く参道。仁王門も甲賀から移築したもので、元亀2年(1571)建立。重要文化財。この傾斜のある石段を下りるのが帰りの正規ルートです。

f:id:hanyu_ya:20201231000205j:plain帰りのルートの途中にあった巨石。安土山も古代祭祀が行われた聖地だったのかもしれません。県道201号から見た山の姿は十分に神奈備山の条件を満たしていましたし。

 

 正味70分ほどの見学を終えて、受付で朱印帳を引き取って安土山を後にすると、次に安土城考古博物館へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20201231000323j:plain安土城址近くから見る繖山。山の手前の中央付近に見える丸い呼鈴のような形をした屋根が安土城考古博物館。

f:id:hanyu_ya:20201231000444j:plain近寄ると呼鈴はこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20201231014459j:plain安土城考古博物館入口

 

 徒歩15分ほどで着くと、入ってすぐ右手にミュージアムショップ兼レストランがあり、覗いてみると近江牛の文字が目に飛び込んできたので、特別展を見る前に先に昼食を摂ろうと思い、入店。「近江牛の肉うどん」というメニューがあり、肉が2倍の「近江牛のうつけうどん」と4倍の「近江牛の大うつけうどん」があったので、うつけうどんを注文しました。

f:id:hanyu_ya:20201231000612j:plain近江牛の量が当店比で2倍らしい「近江牛のうつけうどん」

 

 食事を終えると、今回安土を訪れた一番の目的である特別展を見学。こちらも見ごたえのある素晴らしい展覧会でした。旧近江国ならではの展示で、光秀の近江出身説の根拠となっている『江侍聞伝禄』や『淡海温故録』、光秀の他、近江の小谷城の城主だった浅井長政や近江守護だった六角氏の文書、古地図は安土城はもちろん、地元の自治会が所有する繖山の古地図までありました。特に印象的だったのは、安土にある二つの寺――摠見寺と浄厳院が所蔵する信長の肖像画で、その顔がよく似ていたことです。どちらも実物の特徴をうまく捉えているのかもしれないと思いました。

 

 特別展見学後、別室で琵琶湖周辺の遺跡から発掘された資料を展示していたので、そちらも見てから、特別展の図録を購入し、スタンプを押して博物館を出ると、隣接する「安土城天主 信長の館」へと向かいました。どういう施設か知らなかったのですが、パンフレットによると、1992年のセビリア万博の日本館のメイン展示として原寸大で復元された安土城天主の最上部5階6階部分を万博終了後に旧安土町が譲り受けて解体移築したものだそうです。キンキラ金で、まったく落ち着かない空間でしたが、それは私が根っからの庶民だからかもしれません。

 

 復元天主の他にはVRシアターなどがありましたが、中でも嬉しかったのは「天正十年 安土御献立」の復元レプリカがあったことでした。明智光秀が饗応役として徳川家康を接待した時のメニューです。当時家康の陪臣であった土岐定政が光秀に土岐氏ゆかりの品々をもらった時でもあります。武田攻めのあと、家康は天正10年(1982)5月15日から六日間安土城に滞在したそうですが、十五日おちつき膳、十五日晩御膳、十六日御あさめし膳、十六日之夕膳が展示されていました。「将軍の御成りのようで支度が行き過ぎている」と信長が怒ったというのが嘘か真かはわかりませんが、行き過ぎているのは確かで、客観的に見てもやりすぎと思えるほど盛り沢山の料理内容でした。

f:id:hanyu_ya:20201231000923j:plain天正十年 安土御献立」についての解説

 

 光秀が家康の接待役を務めたこと、その時に信長が腹を立てたという話があることは知っていましたが、復元されたメニューを見て新たに疑問をおぼえたことがあります。いったい光秀はこれほどの物を揃えてみせる知識をいつ貯えたのでしょうか? 自分で差配したわけではないのかもしれませんが、それなら誰を頼ったのか? 誰に教わったのか? その伝手はどこで得たのか? 果たしてそれは国を追われた貧乏な浪人や幕府奉公衆に仕える中間ぐらいの小物から成りあがった人間に可能なことなのか? このあたりも光秀の出自に迫るカギの一つではないかと思っているので、いい勉強をさせてもらいました。

 

 14時40分からのVRシアターを見て2階の展示室に行くと、信長の子孫が藩主として治めた天童藩に伝わった信長の肖像画がありました。信長と同時代の宣教師が描いたものとのことで、もっとも似ていると伝えられているそうです。洋画と日本画の違いはありますが、考古博物館で見た掛軸の肖像画と顔の輪郭などは相通じるところがあったので、信長はおそらくこういう顔をしていたのだと思います。今回安土で見た三つの信長画像の類似性からわかるように、平面的な日本画と立体感があり写実的な洋画で画法の差はあれども印象にさして差がないのなら、本徳寺所蔵の光秀の肖像画もまた実物とそれほど乖離したものではないのかもしれません。

 

 館内はほとんど撮影禁止だったので資料としてポストカードを買うために売店に寄ったら「信長のえびしょっぱい」という気になる菓子があったので、併せて購入。そして出入り口にあったスタンプを押して信長の館を出ると、最後の目的地である安土城郭資料館へと向かいました。歩いて15分ほどで到着し、そこでは570円の家紋カプチーノが300円で飲めるというのが周遊パスの特典だったので、そちらを注文してひと息入れることに。時刻は3時半を過ぎたところで、予約してある米原発17時57分のひかりより1本早い新幹線に乗れそうだったので、スマホで1時間早い16時57分発に変更しました。

f:id:hanyu_ya:20201231001133j:plain家紋カプチーノ。もちろん織田木瓜紋です。

f:id:hanyu_ya:20201231001344j:plain安土城図。摠見寺の三重塔も描かれています。

f:id:hanyu_ya:20201231001437j:plain安土城ひな型1/20

f:id:hanyu_ya:20201231001522j:plain安土城ひな型1/20の内側。喫茶コーナーにいたスタッフが機械を操作して中を開けて見せてくれました。

 

 安土城郭資料館のチケットには墨絵師の御歌頭さんが描いた信長の絵が使われていて、その縁ゆえにか売店では御歌頭さんの武将絵のポストカードを販売していて、本能寺で見たものとは違う明智光秀の絵と、安土城の御城印風のものがあったので購入。

f:id:hanyu_ya:20201231032308j:plain御歌頭作の明智光秀安土城御城印

 

 最後のスタンプを押し、資料館を出て、駅の自由通路を通り、観光案内所に戻ってコンプリートした台紙を見せると、記念品としてロッテのトッポをくれました。

f:id:hanyu_ya:20201231001641j:plainトッポとともに渡されたスタンプラリーの台紙。ラリーポイントごとに違う色のスタンプが置いてあり、5か所まわると5色の絵が完成されます。

 

 コインロッカーからキャリーバッグを取り出して、16時22分発の米原行き各停電車に乗り、45分に米原駅に着くと、乗り換えに10分ほどしかありませんでしたが、新幹線改札内売店で駅弁を調達。唯一残っていた井筒屋の「湖北のおはなし」という駅弁と、タカラ缶チューハイがなかったので、「オオサカハイボール」という「名古屋サイダー」に続いてナゾな缶入りアルコールがあったのでそちらを購入し、新幹線に乗車。これにて遠征終了です。

f:id:hanyu_ya:20201231001843j:plain「湖北のおはなし」と「オオサカハイボール

f:id:hanyu_ya:20201231001946j:plain弁当の中身はこんなカンジ。普通の幕の内弁当でした。

岐阜・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪10 その2~土岐明智城址、八王子神社、龍護寺、明知城址、「麒麟がくる」ぎふ恵那大河ドラマ館

 当初の予定では本日から富良野スキーに行く予定でしたが、やめたので、土日とも家に籠っている週末です。旭川自衛隊が出動してから、どうするか同行の友人と相談し、お互いメールを日に1度ぐらいしかチェックしない人間なので、応答にタイムラグがあり、中止ということで合意したのが21日の朝。さっそくキャンセル手続きをしたら、その日の午後にはついに医療団体から緊急事態宣言が出たので、改めて今回は見送るのが賢明なように思えました。北海道スキーは久しぶりだったので残念ですが、会期があるものではないし(シーズンはありますが)、客不足と人手不足で店やリフトが多く営業していないことも十分考えられますし、万が一転んで怪我しても病院で診てもらえなさそうで、それに対して文句が言える状態でもないので。

 

 そんなこともあって、ますます行っておいてよかったという思いを新たにしている明智光秀探訪について、続きを書きたいと思います。

 

 9月上旬の遠征で可児市、10月のプレミアムフライデー岐阜市大河ドラマ館に行ったので、残るは恵那市ということで、10月末日の土曜日は恵那市大河ドラマ館に行ってきました。

 

 恵那市大河ドラマ館の最寄り駅は、恵那駅から出ているローカル電車、明知鉄道の終着駅である明智駅。首都圏から新幹線を使って行く場合に玄関口となる名古屋駅から2時間以上かかるので、どこかのついでに寄るというような場所ではないため、どうせそこまで行くのなら同じ恵那市内にある式内社の恵那神社に寄りたいと思っていました。しかし調べてみると、恵那神社もアクセスが悪く、一日で行こうとするとどちらも滞在時間が取れず、行っただけで終わりそうだったので、今回は会期がある大河ドラマ館を優先し、恵那神社はあきらめました。その代わり――というわけではないのですが、明知鉄道の時刻を調べているときに企画列車の存在を知ったので、それに乗って明智駅まで行くことにしました。明知鉄道の企画列車はいろいろあるのですが、9~11月はきのこ列車で、以前にも書きましたが、私はきのこが大好きなので、これは乗らなければ――と思いました。

 

 ということで、同じ岐阜県内の可児や土岐を訪れた9月に恵那にも行こうと思ったのですが、きのこ列車の申込みをしようとしたらインターネットでの受付は終わっていたので、延期することにしました。ネットでも申し込めるのは5日前までみたいなので、週間天気予報で乗車を予定している11月1日日曜日が晴れであることを確認し、5日前に申し込もうと思ったら、今度は満員で申し込めず。申込みが多い場合は車両が増設されることもある――というようなことがホームページに書かれていたので、あきらめきれずに電話で問い合わせると、車両増設の予定はないが前日の10月31日土曜日ならネットでの受付はすでに締め切っているが、この電話で申し込んでもらえば受けられるという話でした。プレミアムフライデーの件もあり、旅程はずらせなかったので、案内された31日の列車を申し込むと、これから振込用紙を送るが、日にちがないので、間に合わなければ当日の支払いでもよいとのこと。呑気にかまえていましたが、思いのほかギリギリな感じでした。というわけで、土曜に恵那に行くことになったので、特別展の入場が事前予約制だったため、すでに土曜10時の入場券を購入済みだった岐阜市歴史博物館に電話し、ネットでキャンセルできないがどうにかならないか問い合わせたりで、今回は旅行前にバタバタでした。なんとか旅立つ前にすべて解決できましたが。

明知鉄道から送られてきた、きのこ列車のチラシ

 

 で、当日は9時20分にホテルをチェックアウトすると、岐阜発28分の豊橋行き各停電車に乗り、56分に名古屋駅に到着。太閤通口から歩いて3、4分のところにある、その日宿泊予定のホテルに行ってキャリーバッグを預かってもらったあと、再び名古屋駅に戻って、10時24分発の中津川行き快速電車に乗車。11時27分に恵那駅に到着すると、JRの駅を出て左隣にある明知鉄道恵那駅へ行き、窓口で名前を告げて支払いをし、乗車にあたっての説明を聞いて、一日乗り放題の通行手形を受け取りました。飲み物は用意してあるのはお茶だけなので好きな物を持ち込めるとのことだったので、アルコールでもいいのか訊くと、「かまわない」と言うので、JR恵那駅のコンビニに行き、タカラ缶チューハイがあることを確認。出発時間は12時25分で、まだ30分ほど時間があり、早く買うとぬるくなってしまうので、改札前に買うことにし、明知鉄道恵那駅の隣にある恵那市観光物産館「えなてらす」に併設されている観光案内所へと向かいました。明智駅周辺には大河ドラマ館がある日本大正村の他に明知城址と土岐明智城址があり、どちらも光秀ゆかりと言われているので、明智駅からのアクセスルートを訊いたら、「恵那市明智町 山城攻略マップ」というものをくれました。これが地図としても資料としてもよくできていて、たいそう役に立ちました。

「えなてらす」の観光案内所でもらった「恵那市明智町 山城攻略マップ」

 

 ちょうど栗のシーズンであり、恵那は丹波と同じく栗の名産地で、恵那栗の本場。「えなてらす」では食べ比べができるように、市内の九つの和菓子屋の栗きんとんがバラで買えるので、帰りに買って帰ろうと思っていたのですが、他にも栗きんとん大福など、栗好き、栗きんとん好きには見過ごせない栗スイーツがあったので、とりあえず先に二つほど買うことにしました。これから豪勢なきのこ料理を食べるので、しばらく食べる予定はなく、山城にも登るので、荷物は増やしたくなかったのですが……帰りが遅くなって店に寄れないとか、寄れても完売で買えないという事態だけは避けたかったので。

 

 買い物後、JR駅の売店に行ってタカラ缶チューハイを買い、出発10分前に明知鉄道の改札へ行くと、すでに改札が始まっていました。

明知鉄道のきのこ列車も「麒麟がくる」のラッピング車両でした。

食堂車はこんなカンジ

 

 一人参加、しかもギリギリの申込みだったからか、席は車両の入口から一番遠い最奥の端っこで、いかにも取って付けたような感じでしたが、向かい側も右隣もいないので左側のみ隣席とアクリル板で仕切られた席で、右を見れば車両の先頭で、行く手の線路が見えるという、車窓からの眺めが一番いい特等席でした。きのこ料理の担当は明智ゴルフ倶楽部ひるかわゴルフ場レストランで、献立は下記のとおり。

 

 ・季節前菜盛り

 ・鮎の甘露煮

 ・ロージ茸の生姜和え

 ・平茸とホウレン草の胡麻和え

 ・イクチ茸の酢の物 大根おろし

 ・舞茸の天婦羅 松茸の天ぷら 獅子唐

 ・皮茸の旨煮

 ・赤茸と生姜の合わせ煮

 ・里芋とシメジの煮合わせ

 ・松茸御飯

 ・松茸の土瓶蒸し

 ・漬物 果物 お茶

きのこ列車の献立

中身はこんなカンジ

右を見ると見える風景

席に置いてあった袋に入っていたお土産

 

 13時19分に明智駅に着くと、山城攻略マップを見ながら、まずは土岐明智城址こと落合砦を目指すことにしました。きのこ列車でシェフらしき人がお代わりを勧めてくれたので松茸御飯を2杯食べて満腹で、少しでも消化したい状態だったので。歩いて10分ほどで山の麓に着き、山に沿って車道を登っていると左手に山中に入っていく近道があったのですが、獣道のような細い山道だったので、そのまま車道を歩くことに。そこから5分ほどで駐車場とトイレがある公園の入口に到着し、光秀産湯の井戸を見たあと、本丸跡、出丸跡を見学。出丸の見晴らし台からは明知城がバッチリ見え、位置関係を確認することができました。

明智駅の駅舎にあった明知鉄道のキャラクター「てつじい」と、その孫である「てっちゃん」のパネル。てつじいの名前は明知鉄道(あけちてつみち)で、86才だそうです。明知線の開業が1933年なので(笑)。

落合砦の紅葉

千畳敷公園の案内図。土岐明智城址は現在公園として整備されています。

明智光秀公産湯の井戸。可児市にもありましたが……。

産湯の井戸についての説明板

土岐明智城本丸跡

落合砦についての説明板

本丸跡にあった案内板

出丸跡にあった説明板

出丸跡から見える明知城址。真ん中の緑の小山に城址があります。

 

 出丸から続く道があり、地図を見ると下山できるようで、来た道を戻るのはつまらないので、そちらから山を下りると、行きに通るのを避けた道でした。下るのはそれほど難儀ではありませんでしたが、登りで選択しなくてよかったと思う山道でした。途中、モカシンだかローファーだかみたいな靴で登っている人とすれ違いましたが、やめておいたほうが無難だと思います。

 

 続いて大正村広場にある観光案内所へ行き、明知城と土岐明智城の御城印、さらに、説明書付きの武将印というものがあったので購入。その後、明智光秀の手植えと伝わる楓がある八王子神社へと向かいました。

明知城と土岐明智城の御城印。シールになっていました。

明智光秀の武将印。光秀の隣の女性は妻の熙子ではなく、母の牧と思われます。明智には牧の墓と伝わるところがあるので、熙子より牧のほうがゆかりの深い人物なのでしょう。

明知城の大手門を移築したと伝わる八王子神社の唐門

八王子神社社殿についての説明板

「えんむすびの大杉」と呼ばれる意味ありげな御神木。説明板によると、当社の創建は天暦3年(949)だそうですが、実はもっと古く、大和一宮の大神神社の三本杉のように、この杉が聖地の目印として植えられた元々の鳥居なのではないかと思います。

八王子神社本殿。ちょうど紅葉がきれいでした。

境内社柿本人麻呂社。光秀が祀ったといわれ、文武両道を志した光秀は当社に人麻呂を祀り、学問所には天神(菅原道真)を祀ったそうです。手前が光秀の手植えと伝わる楓。

人麻呂神社についての説明板

 

 八王子神社を出ると、明知城の城主であった明知遠山家の菩提寺であり、光秀の供養塔がある龍護寺へと向かいました。神社の境内脇から遠山家累代の墓へと続く道は、恵那駅の観光案内所でもらった明智光秀ゆかりの地マップに「未舗装のため足下注意」と書かれていましたが、明らかに最短ルートだったのでチャレンジしてみました。山城歩きに備えて大山阿夫利神社の本社に登ったときにも履いていたコンフォートブーツだったので、足元に不安はなく、実際の道も、確かに未舗装ではありましたが、落合砦を下った山道よりも歩きやすい道でした。

「えなてらす」の観光案内所でもらった「恵那市明智町 明智光秀ゆかりの地マップ」

 

 初代鎌倉将軍源頼朝重臣として功績を残した加藤景廉を祖に持つ遠山氏は、室町時代には七流に分かれ、遠山七頭と呼ばれていました。惣領家が岩村城城主である岩村遠山家で、それに次ぐ家格が明知遠山家です。したがって土岐氏ではないので、光秀が定説どおり土岐明智氏の出身ならば、この地が生誕地である可能性は低いと思うのですが、遠山家には土岐明智氏から養子に入っている事実があり、また光秀の叔父にあたり、若くして実父を喪った光秀の父親代わりでもあった光安は遠山景行と同一人物という説があるので、まったく無関係とも言い切れません。事実この地には光秀のゆかりと伝わるものがありすぎるし、もし明智光安が遠山景行と同一人物であるのなら、それらは実は光安のゆかり、あるいは光安の子である光春(秀満)のゆかりとも考えられるからです。産湯の井戸は可児市明智城址の近くにもあるので、一方が光秀のゆかりで、他方は光安か光春のゆかりということも十分にあり得ると思います。

明知城主遠山氏累代の墓所

明知遠山家累代の墓にある如意輪観音菩薩像。遠山氏の家紋は丸に二つ引き両で、向かって左側の像の前にある水鉢にはそちらが彫られていますが、右側には桔梗紋が彫られているので、土岐氏の縁者であることがわかります。

如意輪観音像についての説明板

龍護寺山門からの秋の景

龍護寺案内図他。菩提寺の公式が遠山景行=明智光安だったので、いっそう無視できない、考察しがいのある説だと思います。

明智光秀公御霊廟

霊廟の供養塔。本徳寺の肖像画が飾ってありました。

 

 龍護寺の次は明知城址へ向かったのですが、優秀なマップのおかげで最短ルートを選択できたので、寺から歩いて5分ほどで稲荷神社登城口に到着。看板と幟がなければ見過ごしそうな場所でした。

代官所陣屋跡の近くにある稲荷神社登城口

稲荷神社登城口についての説明板

 

 10分ほど山登りをすると本丸下の二の丸に到り、メインルートではないためか、道中誰にも会いませんでしたが、そこでようやくメインルートを歩いてきた人とすれ違うようになりました。

登りはじめると山中はこんなカンジ

堀切と曲輪についての説明板

帯曲輪と枡形虎口についての説明板

 

 山の頂上にある本丸跡は、土岐明智城より狭い感じで、見晴らしも木が邪魔してあまりよくなかったので、早々に山を下りて、山麓にある大河ドラマ館に行くことにしました。5時閉館で、時刻は3時過ぎだったので。

明知城本丸跡

本丸跡にあった明知城縄張図

本丸についての説明板

出丸についての説明板

光秀が学問所に菅原道真を祀ったのが起源とされる天神神社

天神神社についての説明板

天神神社の由来

天神神社登城口についての説明板。こちらから登って下りるのが一般的なルートです。

 

 本丸から20分ほどで到着し、前日に岐阜の大河ドラマ館に行っていたので、その半券を見せて割引料金でチケットを買い、3時半前に入館。大河ドラマ館の展示は微妙な感じでしたが、可児と同じように、それとは別に「明智光秀が生きた時代の東美濃戦国史―山城を巡る攻防―」という特別展を開催していて、実際に山城を巡ってきた後だったので、そちらはとても興味深く見ることができました。土岐氏と遠山氏が関連する城の位置関係や規模が模型で確認できておもしろかったですね。

麒麟がくる ぎふ恵那大河ドラマ館」の会場である大正ロマン

大河ドラマ内で使用された光秀と熙子の婚礼衣装の同等品

土岐家ゆかりの鎧兜(複製)

特別展に展示されていた土岐明智城の等高線地図模型

特別展に展示されていた明知城の等高線地図模型

 

 6時閉店の「えなてらす」で栗きんとんを買って帰るため、帰りは恵那駅に17時12分に到着する明智駅発16時22分の電車に乗る予定だったので、4時前には大正ロマン館を出て駅に向かいました。途中に横を通った大正村役場が気になりましたが、見学する時間はなかったので外観の写真を撮るだけにして急いだので、10分前には到着。始発駅のため、すでにホームに入線していた電車はまたもや「麒麟がくる」のラッピング車両だったので、撮影してから乗車しました。

駅に向かう途中にあった日本大正村役場

日本大正村役場についての説明板

明智駅の駅舎前にいるてつじい。マスク姿です。

隣にはハイカラさんもいます。同じくマスク姿です。

帰りに乗ったラッピング電車。この車両で、「麒麟がくる」のキャッチコピーが「それでも、この仁なき世を愛せるか」であることを初めて知りました。

 

 定刻どおり終点の恵那駅に到着し、隣の「えなてらす」に行くと、9種あった栗きんとんのバラ売りは3種に減っていたので、残っていた三つの店の栗きんとんを一つずつ買い、26分発の名古屋行き快速電車に乗車。18時38分に名古屋駅に着いたので、夕飯を食べてからホテルに戻ろうと思い、気になっていたきしめん専門店――「宮きしめん 駿」へと向かいました。この店には前から行ってみたかったのですが、場所がKITTEの地下で、けっして駅から遠いわけではないのですが、ホームにある「住よし」に比べると行くのも食べるのも時間がかかるのは確かなので、今まで行く機会がありませんでした。けれども、電子クーポンが「えなてらす」では使えず、明智では土産物を吟味する時間がなかったので、その日が使用期限のクーポンが1,000円分残っていたこともあり、行ってみることにしました。「住よし」は食券だし、使えたとしても1,000円も食べず、クーポンは釣銭が出ないので、この時は選択肢にありませんでした。

 

 店に着くと、7時前でしたが、すぐに入れたので、ラッキーでした。案内されたのはカウンターでしたが、左右はソーシャルディスタンスで使用しないようになっていたので、十分にゆとりがありましたし。さっそく赤白きしめん食べくらべ定食と、アルコールは名古屋サワーという聞いたことのないメニューがあったので、そちらを注文。食事後ホテルに戻り、この日は終了です。

赤白きしめん食べくらべ定食と名古屋サワー。名古屋サワーは焼酎を名古屋サイダーというご当地ドリンクで割ったものですが、かなり甘かったので、焼酎を足してもらいました(もちろん有料です)。

岐阜・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪10 その1~天龍寺、明智城址、伊奈波神社、岐阜城、「麒麟がくる」岐阜大河ドラマ館

 コロナ禍の中で明智光秀に明け暮れた2020年もいよいよ終わりに近づいてきました。先週、予定していた光秀探訪をすべて終え、あとはスキーやら宝塚やら、光秀とは関係がない目的で旅行の予定が入っているぐらいです。当分収まりそうにない第3波のせいで、それらもどうなるかわかりませんが……。まあ、まさにケセラセラで、何事もなるようにしかならないので。とはいえ、時間も体力も限りがあり、金銭的余裕もタイミングも、この先いつもいつでもあるものとは思っていないので、予定どおり行ければよし、行けなければ行かない、行こうと思えば行けなくはないが行かないほうが無難であれば無理はしない、というだけです。ともあれ、先週の遠征は岐阜→可児→関ケ原→京都→亀岡でしたが、前2回の遠征記がまだなので、順を追って書いていきたいと思います。確実に年を越しそうですが(笑)。

 

 明智光秀の出身地である岐阜県には大河ドラマ館が岐阜市可児市恵那市と三つあり、岐阜市の会場である岐阜市歴史博物館では、2階に期限付きでオープンしている大河ドラマ館とは別に、1階の展示室で特別展「NHK大河ドラマ特別展 麒麟がくる」が11月3日まで開催されていました。なので、こちらの大河ドラマ館は最初から特別展も一緒に見られる日程で訪れるつもりでいました。特別展は9月18日から始まっていたので、博物館だけが目的ならもっと早くに行ってもよかったのですが、岐阜市周辺の寺社にはプレミアムフライデー限定で授与される金の御朱印というものがあり、その流れで岐阜城明智城でも金の御城印がプレミアムフライデー限定で販売されていたので、御朱印&御城印コレクターとしてはどうせなら限定の金バージョンがよいと思い(限定に弱い人間なので……)、プレミアムフライデーに合わせたら10月しか旅程が組めませんでした。

 

 ということで、10月29日木曜の4時過ぎに仕事を終えると、「貝づくし」とタカラ缶チューハイを買って、品川発17時17分ののぞみに乗車。18時45分に名古屋駅に着き、遅れていた19時発の大垣行き快速電車に乗り換え、7時半前に岐阜駅に到着。名鉄岐阜駅から程近いホテルにチェックインし、翌朝は出発が早いので、その日はこれで終了です。

f:id:hanyu_ya:20201213164047j:plain岐阜駅の改札を出て右にあるガラス張りの観光案内所の外側にあしらわれていた、岐阜ゆかりの戦国武将御三方のイラスト。けっこうな迫力で、ちょっと驚きました。

 

 次の日は7時50分にホテルを出て、岐阜発8時11分の多治見行き各停電車に乗車。9時8分に可児駅に到着し、JRと名鉄が接続連絡をしていないため、次の広見線が39分発で待ち時間が30分あったので、駅前に建つ可児市子育てプラザの中にあるカフェ兼レストランでコーヒーを飲むことにしました。9時半に店を出て、始発なのですでに新可児駅のホームに停まっていた電車に乗ると、定刻どおりに出発し、43分に明智駅に到着。そして、まずは天龍寺を目指しました。天龍寺でもプレミアムフライデー限定で金の御朱印がいただけたからです。徒歩25分ぐらいかかるので、近くの明智城址バス停までバスで行けるとよかったのですが、明智駅から出発するKバスは土日祝日限定で、金の御朱印が授与されるプレミアムフライデーであっても平日の運行はないため、今回も歩きです。

 

 一度歩いたことがある道だったからか、10時過ぎには到着し、お参り後、御朱印授与所へ。金の御朱印と通常版があり、微妙に違っていたので両方いただきました。前回来たときには御縁がなくて授与所が閉まっていたのですが、その時に御朱印をもらえなかったからこそ、また行かなければという気にもなったので、結果的にはよかったです。

f:id:hanyu_ya:20201213162847j:plain天龍寺本堂

f:id:hanyu_ya:20201213164122j:plain天龍寺御朱印。向かって左がプレミアムフライデー限定の金の御朱印で、右が通常版。金の御朱印は左上の光秀の文字がデザイン的にあしらわれた桔梗紋が、通常版は右下の桔梗の絵が素敵です。

 

 今回は可児市大河ドラマ館がある花フェスタ記念公園まで行っていると時間が足りなくなるので、そこまで足を延ばすつもりはなかったのですが、その分明智城址周辺はウロウロできたので、天龍寺の近くにある太元神社に行ってみることにしました。すると、途中で思わぬものに遭遇。光秀探訪の最中に起きた偶然の出会いに感動し、しばしその場で立ち尽くしてしまいました。

f:id:hanyu_ya:20201213164345j:plainモリゾーとキッコロくまモンより何より、いまだに一番好きなキャラクターがモリゾーです。愛・地球博には4回行きましたし、その4年後の上海万博でも歴代キャラクターが展示されていたので、モリゾー見たさに海を越えて行きました。

f:id:hanyu_ya:20201213164530j:plain太元神社の鳥居

f:id:hanyu_ya:20201213164638j:plain太元神社についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201213164834j:plain太元神社奥之院についての説明板

 

 太元神社を後にすると、明智城址へ向かい、城址入口脇に設置されたテントで金の御城印と御荘印、武将印を購入。このテントの売店も日曜の午前中とプレミアムフライデーぐらいしか開店しないので、欲しければ開店日に合わせて来るしかありません。

f:id:hanyu_ya:20201213165556j:plain金バージョンの明智城の御城印と御荘印

f:id:hanyu_ya:20201213165654j:plain金バージョンの明智城の武将印。御城印と御荘印とは微妙に紙が違います。

 

 明智城址は9月に来たときにほぼ見ているのですが、その時は台風10号通過後の雨上がりで足場が悪くて断念したエリアもあるので、今回は前回行けなかった所に行ってみることにしました。本丸跡にある展望台の近くから下っていく道があり、その先に六親眷属幽魂塔という社があったので、そこを目指すことに。山道はもちろん未舗装ではありますが、きちんと整備されていて十分に歩きやすく……なのですが、大手口から本丸に続く桔梗坂に比べると道幅が狭くて左右の木々が比較的背が高いものが多いため、鬱蒼として暗い上に、人の往来も(少)ないので、天気がよくないとかなり不安になる道中かもしれません。青空が見えて陽が差していれば安心感もあり、静かで森林浴的な気分を味わえますが。

f:id:hanyu_ya:20201213170206j:plain明智城跡散策路マップ。今回は本丸曲輪から上に伸びている緑の道を行きました。途中までですが。

f:id:hanyu_ya:20201213170351j:plain六親眷属幽魂塔の社

f:id:hanyu_ya:20201213170445j:plain社の中の石碑

f:id:hanyu_ya:20201213170619j:plain六親眷属幽魂塔についての説明板

 

 六親眷属幽魂塔からは、来た道を戻らずとも道なりに山を下っていけば住宅地に出られるみたいでしたが、地図アプリで調べても近くに可児駅行きのバスが停まるバス停が発見できなかったので、展望台に戻り、当初の予定どおり馬場口から出て、羽生ヶ丘4丁目バス停へと向かいました。公共交通の本数が少ないので、乗るつもりのバスや電車を逃すと、そのあとのスケジュールがすべて狂ってしまうので。

 

 11時20分発のバスに乗り、33分に可児駅に到着すると、47分発の岐阜行き各停電車に乗車。12時23分に岐阜駅に着き、観光案内所で岐阜公園方面行きのバス乗り場を訊いて地図をもらうと、教えられた12、13番のバス停へと向かいました。この二つのバス停に来るバスはほとんど停まるとのことだったので、来たバスに乗り、伊奈波通りバス停で下車。伊奈波神社の参道である伊奈波通を伊奈波山に向かって7,8分歩くと、目的の伊奈波神社に突き当たりました。思いのほか広い境内で、摂末社も多そうだったので、境内を見る前に由緒書きが欲しくなり、お参り前でしたが、先に社務所に寄って、金の御朱印と由緒書きをいただくことにしました。

f:id:hanyu_ya:20201213171617j:plain伊奈波神社の鳥居と社号標

f:id:hanyu_ya:20201213171724j:plain楼門と神橋

f:id:hanyu_ya:20201213171836j:plain見事な石造りの神橋です。

f:id:hanyu_ya:20201213181616j:plain伊奈波神社黒龍神社の金の御朱印

 

 伊奈波神社は旧国幣小社で、式内社物部神社の論社でもあり、美濃三宮とされています。主祭神五十瓊敷入彦命。11垂仁天皇の第一皇子で、12代景行天皇の同母兄、つまり日本武尊の伯父ですが、五十瓊敷入彦命主祭神とする神社というのは初めてで、他におぼえがないので、どこからか勧請されたのではなく、まさしく鎮座地なのだと思います。社務所でいただいた略由緒によると、五十瓊敷入彦命が身まかった翌年にあたる景行14年に稲葉山(現・金華山)の丸山に鎮斎し、天文8年(1539)に斎藤道三稲葉山を居城とするに際して現在地に神霊を遷したとのこと。「神様が足下になってしまうのは申し訳ない」と道三が言ったとかなんとか……。五十瓊敷入彦命稲葉山の麓に住んでいたそうなので、皇子の宮跡を起源とする神社といってよいと思います。伊奈波神が丸山から遷座する前は、今は当社の境内社となっている黒龍神社に祀られている高龗神が当山鎮護の神だったようです。長良川木曽川に挟まれ、どう見ても水害が多そうな土地柄なので(7月の台風10号でも大変なことになっていましたし……)、水神が祀られていたのでしょう。

 

 境内社黒龍神社の他にもいくつかあったのですが、その中に吉備神社と和歌三神社があるのが気になりました。徳川家康を祭神とする東照宮菅原道真を祭神とする天満神社は珍しくないので、もはや気にも留めませんが、吉備神社や和歌三神社はそうそう見かけるものではありませんから。

 

 吉備神社の祭神は吉備津彦命となっていましたが、吉備津彦命こと彦五十狭芹彦命の事績を考えると、この土地や伊奈波神と関係があるようには思えないので、もしかしたら彦五十狭芹彦命と同じ四道将軍だった丹波道主命が元々の祭神だったのではないかという気もします。丹波道主命は伊奈波神の祖父なので。和歌三神社の祭神は、説明板によれば玉津島神、人丸神、文学の守護神でしたが、和歌三神といえば、通常は住吉神、玉津島神、柿本人麻呂。したがって「文学の守護神」というのが住吉神ということになります。住吉神=カナサキ、玉津島神=ヒルコですが、主祭神である五十瓊敷入彦命との関係性は不明で、こちらに関しては他に該当するような神も思い浮かばないので、和歌三神が祀られている理由については思い当たりません。

f:id:hanyu_ya:20201213172933j:plain手水舎と大黒社

f:id:hanyu_ya:20201213173048j:plain境内社についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201213181302j:plain黒龍神社

f:id:hanyu_ya:20201213181419j:plain須佐之男神社・東照宮天満神社・和歌三神社の合殿。説明板にあるとおり、須佐之男神社は尾張に総本社がある津島神社を勧請したものだと思います。

f:id:hanyu_ya:20201213181534j:plain吉備神社

 

 伊奈波神社を後にすると、次は岐阜公園に向かいました。バス停に戻ってバスに乗ると遠回りになるので10分ほど歩き、1時半過ぎに到着。ちょうど菊人形・菊花展を開催中で、華やかな感じでした。

f:id:hanyu_ya:20201213182836j:plain斎藤道三(中央)と明智光秀(向かって左)の菊人形

f:id:hanyu_ya:20201213183000j:plain織田信長帰蝶の菊人形

 

 天気がよかったので、昼食は金華山の山の上にある展望レストラン「ポンシェル」で食べようと思い、まずは金華山ロープウェーの乗り場へ。岐阜城の御城印にもプレミアムフライデー限定バージョンがあり、山麓駅のお土産売り場で販売していたので購入すると、チケット売り場で電子クーポンが使えたので1,000円分を利用して1,100円の往復乗車券を買い、1時50分発のロープウェーに乗車。

f:id:hanyu_ya:20201213183638j:plain山麓駅にいた本木道三の蝋人形。ソックリです。

f:id:hanyu_ya:20201213183506j:plain岐阜城プレミアムフライデー限定の金の御城印。明智城は紙が金色でしたが、こちらは文字が金色です。

 

 山頂駅に着くと、すぐにレストランに向かったのですが、平日の2時になろうかという時刻だというのに順番待ちの状態でした。他に店もなく、麓に戻ってから食べるのではいつになるかわからなかったので、とりあえず食券を買って名前を書いて10分ほど待ちましたが、密を避けるため席数を限っているのか、一向に順番が進まず。展望台にはレストランの他に売店があり、そこで売っているのはソフトクリームや飲み物で食事メニューはなかったのですが、改めてよく見ると、きしめんだけあったので、飛騨牛ハンバーグライスの食券を払い戻して、きしめんを注文。こちらは待っている客も1組ぐらいしかおらず、注文してから5分も待たずに出てきたので、さっさと食べて天守閣へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20201213184119j:plain二の丸門付近から見る岐阜城

f:id:hanyu_ya:20201213184229j:plain岐阜城と織田木瓜紋と永楽通宝紋の幟旗

 

 天守閣の入口に着くと、10人ほどでしたが入場待ちの列ができていたので、驚きました。コロナ禍中の平日に訪れた場所で待たされることなど、これまでなかったので。順番になり、検温後に入場料を払って連絡先を記入すると城内へ。この一連の入城手続きに時間がかかり、さらに中に入れる人数を絞っているため待たされるようで、入ってみると問題なく空いていました。岐阜城は昭和31年(1956)に建てられた復興天守なので、城内は福知山城と同じく資料館です。

f:id:hanyu_ya:20201213184547j:plain城内に展示されていた織田信長

f:id:hanyu_ya:20201213184833j:plain城内に展示されていた信長の山麓居館想像図その1

f:id:hanyu_ya:20201213184940j:plain城内に展示されていた信長の山麓居館想像図その2

f:id:hanyu_ya:20201213185036j:plain城内に展示されていた安土城想像図

f:id:hanyu_ya:20201213185122j:plain城内に展示されていた岐阜城における信長のおもてなし

f:id:hanyu_ya:20201213185214j:plain天守最上階からの眺めその1

f:id:hanyu_ya:20201213185339j:plain天守最上階からの眺めその2

 

 天守閣を出て隅櫓を模した資料館に寄ると、行きの展望台経由ルートとは異なる二の丸と馬場経由ルートで山頂駅へ。こちらを通ると、金華山が岩山であることがよくわかりました。

f:id:hanyu_ya:20201213185515j:plain金華山の岩と岐阜城その1

f:id:hanyu_ya:20201213185614j:plain金華山の岩と岐阜城その2

f:id:hanyu_ya:20201213185659j:plain岩と石垣と井戸

f:id:hanyu_ya:20201213191330j:plain復元大手門と思いきや、信長時代にはなかったらしい「天下第一の門」

 

 山頂駅に戻り、15時発のロープウェーに乗って山を下ると、次はいよいよ一番の目的である岐阜市歴史博物館へ。特別展「NHK大河ドラマ特別展 麒麟がくる」は事前予約制だったので、翌31日10時の入場券を買っていたのですが、1日の日曜に乗るつもりだった明知鉄道の企画列車が思いがけず混んでいて、予約が31日しか取れなかったため、予定を変更して土曜は恵那に行くことにしました。ところが、特別展のチケットを購入したサイトでは変更も払い戻しもできなかったので、どうしたらいいか博物館に電話して訊いてみたら、チケット売り場の窓口でその旨を申し出れば当日券として使えるとのことだったので、金曜に行くことにしました。

f:id:hanyu_ya:20201213191446j:plain特別展「麒麟がくる」の看板

 

 特別展は近年稀に見る充実した内容で、本徳寺蔵の画像や慈眼寺蔵のくろみつ像も含めて、今まで各地で見てきた明智光秀関連史料を一堂に会したような素晴らしいものでした。山城か近江か丹波か、どこかで見た――つまり、方々に散らばり、あっちこっちに足を運ぶことによってようやく見ることができる史料が今回一か所に集められていたので、よくこれだけのものを揃えたと心底感心し、この企画に対する岐阜市の心意気を感じました。この展示内容を知っていたら、わざわざ見に行かなかった展示もあったかもしれません。行って後悔した旅はないので、それはそれでいいのですが……。なので、半分ぐらいは見覚えのあるものでしたが、それでもたいそう見ごたえのある展覧会でした。

 

 続いて大河ドラマ館を見て、最後にミュージアムショップに寄ってグッズを吟味しましたが、目ぼしい物がなかったので、図録だけ買って博物館を出ました。時刻は5時10分前で、博物館前にある光秀横丁も5時までの営業だったので、うまいもん処で何か食べるのはあきらめて、みやげもん処に行き、店内を物色。けれども、こちらもあまり心惹かれるものはなかったので、栗きんとんだけ買って、店を出ました。

f:id:hanyu_ya:20201213191632j:plain博物館の1階が特別展展示室で、2階は大河ドラマ

f:id:hanyu_ya:20201213191736j:plain岡村菊丸パネルの後ろにいるのはフロイス

f:id:hanyu_ya:20201213191834j:plain斎藤道三の甲冑。さすが岐阜城のお膝元、ここでも推しは斎藤道三です。

f:id:hanyu_ya:20201213190712j:plain出演者パネルですが、岐阜城ゆかりの人々という明確な意思が感じられます。駒がいないのは初めてでした。

f:id:hanyu_ya:20201213190540j:plain博物館の前に仮設店舗の光秀横丁というのが作られていて、みやげもん処とうまいもん処があります。

 

 金華山山上ではきしめんしか食べられず、あてにしていた光秀横丁のうまいもん処は閉店時間直前で結局何も食べられなかったので、夕食はやや豪勢にしたいと思い、ホテルに戻る前にJR岐阜駅に行くことにしました。クーポンがまだ残っていて、駅ビル内なら電子クーポンが使える店も多いだろうと思ったので。岐阜公園歴史博物館前バス停からバスで駅まで行き、適当な店を探して駅ビル内を徘徊していると、電子クーポンが使えて飛騨牛のメニューがある「くらうど」という居酒屋を見つけたので入店。飛騨牛朴葉焼き定食を頼み、飛騨牛を食べるのなら飛騨の地酒である天領が飲みたかったのですが、残念ながらグラスでの提供はなく、グラスで飲める純米吟醸酒ははなざかりだけだったので、そちらを注文。しかしイマイチな相性だったので、レモンサワーも頼んで食事を終えると、歩いてホテルに戻り、その日の日程終了です。

f:id:hanyu_ya:20201213190251j:plain飛騨牛朴葉焼き定食と、レモンサワーと、はなざかり。はなざかりは日本酒にしてはお洒落なグラスで出てきました。こういう器の選択もアリだなと思いました。