羽生雅の雑多話

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岐阜・京都神社遠征&明智光秀探訪12 その1~金神社、「麒麟がくる」岐阜大河ドラマ館、岐阜城

 2020年最後の旅となった12月の明智探訪は、岐阜→可児→関ケ原→京都→亀岡に行ってきました。JR西日本主催の「ちょこっと関西 歴史たび「明智光秀」特別企画」の一つで、亀岡市文化資料館で10月24日から12月13日まで特別展「丹波決戦と本能寺の変」を開催していたので。亀山城にもまだ行けていませんでしたし。で、亀岡の他にどこへ行こうか考えていたときに、ちょうど時期が重なる観光イベントと、それに関連した近畿日本ツーリストの宿泊プランがあったので、そちらに参加することにしました。

 

 移動時間や待ち時間の手持無沙汰を解消するために始めて今も続けているスマホゲームがいくつかあるのですが、そのうちの一つである「イケメン戦国」が、今度は岐阜市可児市関ケ原町とコラボする「イケメン戦国武将と巡る岐阜の旅」というのがそのイベントで、岐阜城に行くとゲームキャラクターの織田信長岐阜城を訪れるストーリーが、現在大河ドラマ館がある歴史博物館を訪れると同じくキャラクターの明智光秀と博物館を訪れるストーリーが読めるなど、武将ゆかりの地を訪れると、GPS機能を使って、そのスポットと連動したオリジナルストーリーを読めたりアバターがもらえたりします。たかが乙女ゲーのイベントと侮ってはいけません。主催は長良川温泉泊覧会実行委員会で、協力は岐阜観光コンベンション協会、関ケ原観光協会可児市大河ドラマ麒麟がくる」活用実行委員会、岐阜長良川温泉旅館協同組合等々――観光団体と旅行会社が仕掛ける本格的なイベントです。

 

 2019~2020年の冬にも本能寺や建勲神社太秦映画村を巻き込んだ京都コラボの観光イベントが開催され、その時に初めて本能寺に行く機会を得ました。今回は岐阜城も歴史博物館も10月に行ったばかりの場所ではありますが、イベントスポットの中に、昨年10月に開館した関ケ原古戦場記念館も入っていて、いずれ行くつもりだったので、ちょうどいい機会だと思いました。そしてさらに、京都の時はイベントの宿泊プランを設定している宿泊施設が一つしかなく選べなかったのでホテルは駅近くの定宿にしましたが、今回はいくつか選択肢があり、その中に万延元年(1860)創業の長良川温泉の老舗旅館で、私の行く先々に歌碑があるゆえ旅の師匠と仰いでいる俳聖・松尾芭蕉ゆかりの「十八楼」があったので、ぜひ泊まってみたいと思い、関ケ原町だけでなく、岐阜市も再訪することにしました。イベントの期間は12月1日から3月31日までですが、亀岡の特別展が主目的なので13日までに行く必要があり、なおかつコロナ感染が収束していない以上、何が起こるかわからないと思ったので、イベントが始まった最初の週末に予定を組んで行ってきました。実際、今もイベントは継続中ですが、危惧していたとおりGo Toトラベルは中止となり、緊急事態宣言も発出されたので、さっさと行っておいてよかったです。

 

 3日木曜の11時半まで仕事をし、品川発12時29分ののぞみに乗車。14時31分に名古屋駅に着いて、45分発の大垣行き新快速に乗り換え、15時4分に岐阜駅に到着。そして10月末に岐阜を訪れたときと同じ名鉄岐阜駅近くのホテルにチェックインして荷物を部屋に置くと、歩いて5分ほどのところにあるイベントスポットの一つ、金神社へと向かいました。

 

 金神社は13代成務天皇の時代に創建されたと伝わる古社で、主祭神は渟熨斗姫命。12代景行天皇の皇女であり、10月のプレミアムフライデーに訪れた伊奈波神社の祭神である五十瓊敷入彦命の妃でもあります。五十瓊敷入彦命が美濃で亡くなると、渟熨斗姫命は都を発ってこの国に移り住み、夫の霊を慰めつつ生涯を過ごしたとのこと。その間、地域の開拓に力を注ぎ、私財を投じて産業・農業の発展に寄与し、財をもたらしたことから、死後金大神として信仰されたそうです。そして成務天皇5年(135)に、国造である物部臣賀夫良命がこの地を国府に定めると、民が信仰する金大神を祀りました。それが当社の起源だそうです。他に渟熨斗姫命を主祭神として祀っているところを知らないので、当社が皇女の鎮座地ということになります。ということで、元々は国造が国府を置いた場所に祀った産土神の社なので、実際に皇女の宮があった場所なのか、神上がった場所なのか、葬られた場所なのかはわかりません。

 

 神社に到着し、インパクトのある金の鳥居をくぐると、まずはゲームのアプリを開いて、伊達政宗と訪れる金神社のストーリーをゲット。信長の岐阜城や光秀の歴史博物館と違って金神社が政宗のゆかりの地であるという話は知らないので、こちらの組み合わせは単に人気スポットに人気キャラクターを当て込んだだけだと思います(笑)。いくつか操作をしてストーリーが保存されて読めることを確認すると、お参りし、社務所に行って持参した朱印帳御朱印をいただきました。金神社でもプレミアムフライデー限定の金の御朱印がいただけるのですが、10月に来たときは余裕がなくて寄れませんでした。それから末社を見て境内を一周すると、神社を後にし、最寄りの徹明町バス停まで行ってバスに乗り、岐阜公園へと向かいました。

金神社の鳥居。昭和62年(1987)に建てられた特殊鋼製の鳥居ですが、錆が目立ちはじめたので、平成27年(2015)に塗り替えられたそうです。“金”神社とはいえ、何故この色にしたのか疑問。古くなったらどうなることやら……。また塗り替えることができればいいのですが、お金がかかることなので、そうたびたびはできないと思います。

本殿

賀夫良城。「賀夫良城神社」となっていますが、明らかに古墳なので、物部臣賀夫良命の葬地と思われます。奥津城という言葉があるように、そもそも「城」とは墓のこと。よって、賀夫良の城の上に建てられた神社だから、賀夫良城神社なのだと思います。

社務所の出入り口の横にいた伊達政宗サン

 

 岐阜公園・歴史博物館前バス停で下りると、4時半過ぎだったので、開店早々の早い時間なら入れるかと思い、公園内にある料亭の萬松館を覗いたのですが、残念ながら事前予約制だったので断念。あてが外れたので、歴史博物館の前にある光秀横丁で何か買ってホテルに戻ろうかと思ったのですが、持ち帰りができないみたいで、博物館が閉まる5時には光秀横丁も閉店するため食べる時間もなかったので、こちらもあてが外れて、もはや食事に適した店を探して歩きまわるのも億劫だったので、確実な線をねらって、バスでJR岐阜駅まで行き、前回見つけたアクティブgにある「くらうど」で夕食を摂ることにしました。食事後、電子クーポンとSuicaで支払って店を出ると、ホテルに戻り、その日は終了です。

中津川産更紗サーモンの刺身とレモンサワー。中津川で養殖されているトラウトサーモンです。

高山ラーメ

 

 翌朝は9時過ぎにホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらうと、JR岐阜駅前にある岐阜バスの案内所に行って、宿泊プランに付いていた引換券を渡し、一日乗車券を受け取りました。そのあと12、13番乗り場に行ってバスに乗り、またまた岐阜公園へ。岐阜公園・歴史博物館前バス停で下りて歴史博物館に行き、こちらの入場券の引換券も宿泊プランに付いていたので、チケット売り場の団体窓口で引き換えてから入場。この日12月4日金曜は先着150名がもらえる入館記念証が明智光秀と熙子のバージョンだったので、博物館見学はこの日の朝イチと決めていました。

 

 連絡先記入、検温のあと、入館記念証をもらい、博物館2階にある大河ドラマ館に入ると、前回来たときにはなかった石仏などの小道具が新たに展示されていました。室町将軍足利義昭の御所である二条城造営のシーンで石材として徴収され工事現場に転がされていて、染谷信長にペチペチとたたかれていたものです。他にも物語の進み具合に合わせて展示替えされていたので、リピートでも楽しめました。

入館記念証。他に、徳川家康斎藤道三織田信長羽柴秀吉バージョンがあり、日によってもらえるものが違います。

歴史博物館1階の壁には大きな陶板の美濃国絵図があるのですが、その一部。土岐氏の家名の由来となった地名がたくさん見受けられ、それぞれが本拠とした場所の位置関係がよくわかります。

美濃国絵図の隣にいた明智光秀サン。福知山城でも会いました。2020は明智イヤーですから。

帰蝶サンもいました。まあ、この方も美濃の出身ですから。帰蝶サンはゲーム内では男で、まだ事情は明らかにされていませんが、どうやら濃姫の双子の弟という設定のようで、双子は忌み嫌われて、弟のほうは存在を歴史から抹殺されたという筋書きではないかと推測しています。

 

 10時半に博物館を出ると、金華山ロープウェイ乗り場に行き、宿泊プランに付いていた引換券と乗車券を交換し、11時発に乗車。近ツーの宿泊プランには一日乗車券、大河ドラマ館と岐阜城の入場券、ロープウェイ乗車券などの特典が付いていてありがたかったのですが、「十八楼」に泊まるのは4日なので、使えるのは4日か5日だけ。それゆえ特典が使える場所にはその二日間のうちに行かねばならず、5日は可児市関ケ原町を訪れる予定だったので、岐阜市を観光できるのは二日のうち4日だけ。「十八楼」には2時にはチェックインできるので、夕方まで観光し滞在時間が短くなるのはもったいない気がしたので、昼までには大河ドラマ館と岐阜城の見学を終わらせたいと思い、3日に岐阜入りして前泊した次第です。

ロープウェイも「イケ戦」仕様。

右から織田信長サン、帰蝶サン、明智光秀サン、そして何故か三河出身の徳川家康サン。家康サンの隣にいて切れているのは石田三成サン。

 山頂駅に到着すると、まずは展望レストラン「ポンシェル」に行って、前回食べそびれた飛騨牛ハンバーグを食べました。

展望レストラン前にいた織田信長サンと徳川家康サン。前回飛騨牛ハンバーグライスの食券を払い戻して代わりにきしめんを注文した売店は工事中でした。

「ポンシェル」の飛騨牛ハンバーグライスと、カウンターテーブルから見る長良川

 食事後、岐阜城に行き、岐阜城の入場券も宿泊プランに付いていたので、そちらを受付で見せて入城。

岐阜城に向かう途中に見た岐阜市街。国道と並行して走る道路が、碁盤の目といわれる京都や大阪に通じ、改めて古い街であることを認識。地図を見ると、国道は金華山の脇を通っていますが、その他の道は金華山から発しているので、信長や道三がこの町を整備したときに作られた道ではないかと思いました。

岐阜城と紅葉その1

岐阜城と紅葉その2

岐阜城に向かう途中で見た紅葉

城内にいた織田信長サン

展示されていた地球儀の日本周辺部分。絵は稚拙ですが、わりと正確です。

天守最上階からの眺め(東)。冬は空気が澄んでいるので、秋に来たときよりもはっきりと見え、山がよくわかりました。ちなみに右から恵那山、笠置山御嶽山乗鞍岳御嶽山乗鞍岳は雪をかぶっていました。

天守最上階からの眺め(西)。中央は伊吹山

 

 天守から下りてくると、出入口の受付で、年齢を証明するものを忘れたらしく無料で入れると思っていたけど入れなくて文句を言っている高齢者がいました。岐阜城の入場料は200円なのですが。また、ロープウェイ乗り場に戻るときにも、「なんでエレベーターがないの。市に文句を言ってやる」と怒っている高齢者に会いました。レストランなどの店舗以外の場所にもトイレが設置されていて、おまけに喫煙所まであり、違和感を感じるほど至れり尽くせりで、十分に整備されていると個人的には思いましたが……。大阪城とかにはエレベーターがあるから、そう思うのでしょうか。本来城という建造物には存在しないものなのに。

 

 資料館に寄ったあと、山頂駅発12時30分のロープウェイで山麓駅に下り、前回は時間がなくて寄らなかった三重塔や信長の居館跡を見てから、バス停に戻ってバスに乗車。名鉄岐阜バス停で下りて、ホテルに預けた荷物を引き取ると、再び岐阜公園方面のバスに乗り、長良橋バス停で下車。そして長良橋通から階段を下りると、鵜飼観覧船乗り場の近くにあるイベントスポット、緑水庵川原町店に入って、コーヒーを飲みました。イベントに関連した特別メニューも提供されていたのですが、ここで食べ過ぎてしまうと夕食に響くので。

三重塔

岐阜公園の紅葉その1

岐阜公園の紅葉その2

岐阜城址についての説明板その1

岐阜城址についての説明板その2

織田信長居館跡

緑水庵川原町店にいた豊臣秀吉サン

 

 この宿泊プランは通常より1時間早い2時にチェックインできたので、2時過ぎには店を出て、ほぼ斜向かいに位置する「十八楼」へ。チェックイン後ロビーで待つように言われ、ウェルカムドリンクがあったので、オレンジジュースを飲んでいると、スタッフが来て部屋に案内してくれようとしましたが、まだドリンクが残っているのを見て「飲み終わってからご案内しますので、ゆっくり飲んでください」と言ってくれたので、飲み終わってから案内してもらいました。

「十八楼」の玄関

「十八楼」のロビーから見える長良川

案内された部屋。イベントのパネルがイーゼルのようなものに立てかけられていて、座卓の籠の中に宿泊プランの特典であるグッズが入っていました(笑)。

パネルはこんなカンジ。帰蝶サンは岐阜銘菓の鮎菓子を握っています。

 

 館内の説明を聞いたあと、淹れてもらった梅抹茶を飲みつつ、座卓に置かれていた鮎菓子を食べて一服すると、1階にある売店へ。今回の宿泊プランで付与されたクーポンが6,000円分あったので、宿泊施設限定のイベントオリジナルグッズや長良川温泉若女将会のオリジナル商品、お土産などを購入。そしてフロントに寄り、ルームサービスでフレシネのハーフボトルを頼んでから部屋に戻りました。館内の説明を受けたときにロビーのバーカウンターでシャンパーニュが飲めるか訊いたら、ルームサービスでスパークリングワインなら用意できるとのことだったので。何度も言いますが、昼間からアルコールを飲めるのが休暇の醍醐味です。

 

 ボトルが来ると、軽くグラス半分ほど飲んだところで、先に温泉に入ってきたほうがいいと思ったので、残りは冷蔵庫に入れて、大浴場に行きました。温泉は熱めの湯が好きで、できるかぎり源泉に近づきたい人間なのですが、ハーフボトルを空けたあとでは、さすがに厳しかったので。長良川温泉の泉質は単純鉄冷鉱泉だそうですが、湯が茶色かったので、驚きました。

 

 40分ほどで戻ってきて、暮れゆく長良川を眺めつつ残りをちびちびと飲んでいましたが、そうこうするうちに日が落ちてフレシネもなくなると、ロビーに行って、本棚に明智光秀関連の雑誌や書籍があり閲覧できたので、夕食の時間まで乱読して過ごしました。

夕暮れの長良川とフレシネ

日没後のロビー

ロビーにある松尾芭蕉「十八楼記」の碑文。「十八楼」は芭蕉翁の命名だそうです。左右にいる鳥は、役目を終えた鵜の剥製。「十八楼」は館内から直接鵜飼観覧船乗船場へ行けます。鵜飼は10月15日までなので、今回訪れたときにはシーズンオフでやっていませんでしたが。

 

 夕食は三つの時間から選べましたが、温泉に入ってハーフボトルを空ければ、それぐらいになるだろうと思い、一番遅い7時でお願いしました。5分前にはロビーを出て、夕食の場所であるレストラン「橘」へ。献立は下記のとおり。

 

 ・お通し 黒豆豆腐

 ・前菜  牛蒡甘辛煮 焼き栗

      茸法蓮草おひたし

      子持鮎甘露煮

      赤ピーマン手毬寿司

      揚げ銀杏串打ち

 ・口代り あん肝と焼き茄子のゼリー寄

 ・吸物  もずく真薯の

        かぶら摺り流し仕立て

 ・向付  本日のお造り盛り合わせ

 ・焼物  鰤の西京焼き 柿湯葉白和え

 ・強肴  飛騨牛ローストビーフ

 ・蓋物  南京とさつまいもの鬼まんじゅう

 ・焜炉  【十八楼名物】飛騨牛の牛鍋

 ・食事  鮎雑炊

      ※岐阜県特産米美濃ハツシモ使用

 ・香の物 飛騨・美濃伝統野菜

        飛騨紅かぶの赤かぶ漬け

      わさび昆布 セロリ浅漬け

 ・デザート グラスデザート

前菜

焼物

強肴

 

 コース料理を酒なしで食べるのは楽しみが半減するので、必ずアルコール類を頼むのですが、日本酒メニューは好きな純米吟醸や銘柄がなく、かといって、ワインも、すでにカヴァを飲んでいたので飲む気にならなかったため、燗酒を注文。飲みながらダラダラと食べていたので、食べ終わったときには入店時にはいた他の客が誰もいませんでした。

 

 9時前に部屋に戻り、この日は終了です。

明智光秀探訪 番外編~「麒麟がくる」展inKITTE

 昨日は仕事始めでしたが、4時半で終えて、丸の内のKITTEで開催されている「麒麟がくる」展に行ってきました。この催しについては知らなかったのですが、1月3日の大河ドラマの放送終了後にツイートを見ていたら、そんな情報を見つけたので。さっそくKITTEのホームページで確認すると12月30日~1月11までの日程で墨絵師の御歌頭さんが本展のために描き下ろした光秀絵も展示されるとのことだったので、緊急事態宣言のせいで見そびれて悔しい思いをすることがないように――とまたもや思って、早めに足を運びました。

 

 1階アクアリウムでの展示なので、数は多くありませんでしたが、大河ドラマ館でも見なかった足利義昭正親町天皇の衣装展示と、さらに、先月の放送で登場した小道具の蘭奢待まであったので、なかなか見ごたえがありました。

f:id:hanyu_ya:20210106224503j:plain展示会場の入口にあったNHKのキャラクター、どーもくん光秀バージョンのパネル

f:id:hanyu_ya:20210106224617j:plainKITTE描き下ろしの御歌頭作、明智光秀。本能寺、安土城郭資料館とも違う光秀です。

f:id:hanyu_ya:20210108113444j:plain御歌頭作、織田信長

f:id:hanyu_ya:20210107132653j:plain御歌頭作、帰蝶

f:id:hanyu_ya:20210107132746j:plain御歌頭作、細川ガラシャ

f:id:hanyu_ya:20210107133400j:plain御歌頭作、斎藤道三。展示物があって、正面から撮れませんでした。

f:id:hanyu_ya:20210106224852j:plain大河ドラマ内で使用された正親町天皇の衣装

f:id:hanyu_ya:20210106225003j:plain大河ドラマ内で使用された足利義昭の衣装

f:id:hanyu_ya:20210106225046j:plain大河ドラマ内で使用された蘭奢待と甲冑。向かって左は明智秀満、右は羽柴秀吉が着用。モニター画面は光秀の妻である妻木熙子役の木村文乃さん。1月3日に放送された熙子が亡くなる場面の映像が流れていました

 

 加えて、ビル内の飲食店では、光秀ゆかりの土地の食材を使用した特別メニューを出しているところが何軒かあったので、丹波牛のピッツァを提供している「ピッツェリアエトラットリアダ・ボッチャーノ」に行ってみました。しかし売り切れとのことだったので、ハッピーアワー料金のスプマンテと水牛のモッツアレラを使ったマルゲリータを食べて帰ってきました

f:id:hanyu_ya:20210106230509j:plain東京駅と直通で繋がる地下1階にある総合観光情報センター「東京シティアイ」にも御歌頭さんの絵がありました。光秀と熙子と思われます。

 

 ついに、明日二度目の緊急事態宣言が1都3県に発せられることになりました。毎年1月の3連休には年1のスキーに行っているのですが、今冬は年末に行くことにしたので、伊東にあるクラシックホテル――川奈ホテルに行く予定だったのですが、年明けに知事たちが政府に要請した段階で宣言も時間の問題だろうと思ったので、年末の富良野スキーに続いてキャンセルしました。

 

 ……ということで、数か月前から入っていた休日の遠出の予定は先月第一週に行った遠征を最後にことごとく御破算になり、高齢の親元には近寄らず、仕事がある日は電車の時差利用を心がけ、遅く行って早く帰り、週に1~2日は商談やミーティングのない日を作って、できるかぎり在宅ワークもし、自分がやれる範囲の必要と思われる感染予防対策はしているので、「これ以上どうしろと言うんじゃい」というのが正直な気持ちです。

 

 けれども、昨日のピッツェリアにも新年会と思しき危機感のない女子会6人組がいたので、こういう輩に医療崩壊が間近に迫っている(所によっては始まっている)現状に即した行動を伴わせるためには、もう宣言を出すしかないと思います。この時の店内の客は一人客の私とその6人組、他にはカップルの計3組。客が減って売上が厳しい店側としては断れず受け入れざるを得ないと思うので、客側が思慮分別のある行動をしなければならず、それができれば緊急事態宣言など出す必要はないと思うのですが、できない人がけっこういるみたいなので。はっきり言って政治家も愚かですが、国民も愚かです。禁止や許可を誰かに明確に決めてもらわないといい悪いを判断できない、いい悪いを自分で決めて自分の意志で主体性を持って行動できない人が多いように思えます。自分で決断できない政治家と国民――残念ですが、それが今の日本の実情です。単に、行動に責任を持ちたくなくて狡猾に身を処しているのかもしれませんが。

 

 川奈ホテルに一緒に行く予定だった友人は、先月横浜で食事をしたときにこう言っていました――「日本は先進国じゃないから」と。近ごろ私もそう思います。そんな国の的外れな政治に振り回されず、コロナ禍の状況下にあっても、今後も悔いのない有意義な一日一日を送るべく努めたいと思います。

福井寺社遠征&明智光秀探訪11 その2~一乗谷朝倉氏遺跡、特別公開展「本能寺の変と朝倉将棋」in一乗谷朝倉氏遺跡資料館、柴田神社(北ノ庄城跡)

 珍しく二日続けて興味のある番組が放送され、何時間かテレビの前に陣取ることになったので、横目に見ながら福井遠征記の続きを書きました。時間がもったいなくてテレビだけ見るということができない人間なので。たいてい食事をしたり新聞を読んだり(拾い読み)メールやネット情報をチェックしたりしています。――なのですが、昨日の長谷川博己さんの「ファミリーヒストリー」も照ノ富士関の「逆転人生」も、今日の吉田都さんの「プロフェッショナル」も文句なしにおもしろくて、時折手が止まっていました。さすがNHK。ドラマ以外も見甲斐があります。

 

 さて、遠征最終日の15日は一乗谷に行くだけだったので、9時40分にホテルをチェックアウト。それからフロントで荷物を預かってもらおうとしたのですが、「お預かりしていません」と断られたので、駅に行ってコインロッカーを探して入れました。感染予防対策の一環なのかもしれませんが、こんなことは初めてで、たとえコロナのせいであったとしても、チェックイン前チェックアウト後の荷物の預かりは基本的なサービスで、ないとたいそう不便なので、以後福井でこのホテルを利用することはないと思いました。全国チェーンなので他の地方にもあり、以前金沢や名古屋で泊まったときには、そんなことはなかったと記憶しているのですが。

f:id:hanyu_ya:20210105091550j:plain福井で発見された恐竜――フクイラプトルとフクイサウルスのトリックアート。なんと福井駅の駅ビルの壁に描かれています。駅の正面にあたる西口には恐竜がいっぱいいて、時折吠えているものもいます。

 

 ――ということで、朝からやや不快な気分で観光案内所へ行き、900円で一乗谷朝倉氏遺跡資料館から一乗谷遺跡内が乗り放題になる朝倉氏遺跡フリーバスチケットを購入。前日に永平寺までのバスチケットと一緒に買おうと思ったのですが、使用する当日しか販売できないと言われて買えなかったので。フリーパスは日付印を押してもらったり、ビンゴのように窓の形になっている数字を折り込んだり、スクラッチになっていて日付の数字を削ったりするものが多く、当日しか買えないというのも初めてだったので、その時にも少々イラっとしましたが、渡されたチケットを見たらレシートのような印字の紙だったので、支払いをするときにしか有効年月日の日付が入れられないのだろうと思いました。

 

 永平寺行きのバスは特急で、途中一乗谷の中にあるバス停に何か所か停まると永平寺まで停まらないのですが、前日永平寺に行く途中で見た一乗谷が思っていた以上の人出で、特急バスは混むような予感がしたため、それより20分早い10時発の浄教寺行きの路線バスで行くことにしました。一乗谷までの所要時間は特急と5分ほどしか変わらないので。特急バスの乗り場は福井駅東口の2番乗り場でしたが、浄教寺行きのバスは西口の5番乗り場。駅を越えた反対側で、バス停に5分前にいても間違えていたら確実に乗り遅れるので、観光案内所で事前に訊いておいてよかったと思いました。

 

 問題なく座れる混み具合のバスに乗り、28分には復元町並バス停に到着。一乗谷城の御城印は復元町並南口の入場券売り場の隣にある窓口で販売していることをネットでチェック済みだったので、まずはそれを買いに行きました。購入後、復元町並の見学は後回しにし、十五代室町将軍足利義昭の御所があった安養寺跡に行くためバス停に戻り、42分発の「朝倉ゆめまる号」に乗車。遺跡と周辺を往復する無料シャトルバスで、安養寺跡バス停にはこのバスしか行かなかったので。バス停は復元町並がある西側にしかないため、そちらで待っていたのですが、安養寺跡方面行きの「ゆめまる号」が停まるのは車線の向こうの東側なので、事前に反対側にいて、バス停も何もないので、バスが来たら乗車の意思表示をする必要があります。まるでギリシャのようです。まあ、ここも遺跡ですし。

f:id:hanyu_ya:20210105091856j:plain一乗谷城の御城印。アマビエバージョンもあったので、2枚買いました。

f:id:hanyu_ya:20210105092224j:plain御城印を販売する窓口の横にもあった「明智光秀 雌伏の地」の看板。一乗谷が❺で、明智神社が❸、称念寺が❷でした。❶と❹はどこなのかわかりません(笑)。調べたら美濃街道、岡太神社・大瀧神社、三田村氏庭園とのことでした。場所も、光秀とどんなゆかりがあるのかも知らないところですが。

 

 「ゆめまる号」のドライバーに「安養寺に行くの? 誰もいないよ」と言われ、無料シャトルバスなのに自分の他に誰も乗らず、また誰も乗っていなかったので、なかばそうかもしれないと思いつつ「まあ一応、足利将軍の御所跡なので……」と応じると、次のバス停なので2分ほどで到着。遺跡に着いてみると一人の先客がいて、すぐに慌ててバス停に小走りで行き、ここが終点のため同じ道を戻っていく「ゆめまる号」に乗っていきました。

f:id:hanyu_ya:20210105193009j:plain安養寺跡。はためく幟旗には「明智光秀 雌伏の地」と書かれています。

f:id:hanyu_ya:20210105092408j:plain前の写真の向かって左にある木。なんの木かわかりませんが、とてもきれいでした。

f:id:hanyu_ya:20210105092444j:plain安養寺跡の説明板

 

 いま行ったばかりで、次の「ゆめまる号」は11時16分発だったので、遺跡を見たあとは歩いて復元町並まで戻ることにしました。車で走って距離感はつかめ、15分も歩けば着くと思ったので。木々が色づいた道中の風景がとてもきれいで、これはこれでよいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20210105190101j:plain安養寺跡から復元町並に向かう途中の風景

f:id:hanyu_ya:20210105190149j:plain上城戸を越えたあたりで遭遇した見事な一本イチョウ

f:id:hanyu_ya:20210105190231j:plain脇の小道を通り過ぎるときに下からパシャリ。

 

 復元町並まで戻ると、天気がよくて風景がきれいで、たいそう気持ちがよかったので、先に遺跡巡りをすることにしました。一乗谷の東側の遺跡には国の特別名勝に指定されている四つの庭園跡があります。現在特別名勝は36件ありますが、一乗谷は四つで1件の指定。ちなみに特別史跡は63件あります。

f:id:hanyu_ya:20210105190416j:plain諏訪館跡に向かう途中で眺める復元町並

f:id:hanyu_ya:20210105190506j:plain朝倉義景の妻、小少将が居住したと伝わる諏訪館跡庭園

f:id:hanyu_ya:20210105192543j:plain諏訪館跡庭園の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105192630j:plain英林塚に向かう途中の紅葉

f:id:hanyu_ya:20210105193145j:plain一乗谷初代城主、朝倉家七代当主孝景の墓。孝景の法名「英林宗雄大居士」にちなんで英林塚と呼ばれています。

f:id:hanyu_ya:20210105192720j:plain南陽寺跡庭園。南陽寺は朝倉氏の子女が入る禅宗の尼寺だったそうです。

f:id:hanyu_ya:20210105193233j:plain南陽寺跡庭園の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105193315j:plain朝倉館跡に向かう途中の木

f:id:hanyu_ya:20210105193609j:plain朝倉館の唐門

f:id:hanyu_ya:20210105193804j:plain一乗谷朝倉氏庭園の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105193859j:plain朝倉館跡

f:id:hanyu_ya:20210105195058j:plain朝倉館跡の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105195138j:plain湯殿跡庭園に行く途中にあったビューポイントから眺める朝倉館跡と説明板

f:id:hanyu_ya:20210105195302j:plain湯殿跡庭園

f:id:hanyu_ya:20210105195357j:plain湯殿跡庭園の説明板

 

 四つの特別名勝を見て復元町並の南口に戻ってくると、時刻は11時50分で、昼食は一乗谷レストラントに行こうと思っていたのですが、復元町並バス停を13時11分に出発するバスに乗らないと資料館の講座に間に合わないため、そこまで行っている時間もゆっくり食べる時間もありませんでした。ならば12時を過ぎて混んでくる前に食事をしてしまおうと思い、無料休憩所の一角にある「越前朝倉そば」へ。かけ、ざる、おろし、山菜おろしの蕎麦とうどんしかなかったので、山菜おろしそばを注文し、食事後、復元町並を見学。

f:id:hanyu_ya:20210105222602j:plain「越前朝倉そば」の山菜おろしそば。「朝倉」が付いても越前そばに変わりはないので、ぶっかけです。

f:id:hanyu_ya:20210105195613j:plain復元町並スペース内にある武家屋敷跡その1

f:id:hanyu_ya:20210105195701j:plain復元町並スペース内にある武家屋敷跡その2

f:id:hanyu_ya:20210105195740j:plain武家屋敷についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210105195820j:plain復元町並

f:id:hanyu_ya:20210105195916j:plain武家屋敷跡の紅葉

f:id:hanyu_ya:20210105200010j:plain復元された武家屋敷内の展示。一番展示物が多い建物で、他はこんなにありません。

f:id:hanyu_ya:20210105200053j:plain福井県観光連盟のキャラクター、明智光秀のパネル

 

 1時前には北口から出て、遺跡を左手に見ながら、復元町並バス停の一つ手前の一乗谷レストラント前バス停まで歩き、13時13分発のバスに乗車。

f:id:hanyu_ya:20210105222728j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その1

f:id:hanyu_ya:20210105222819j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その2。左に見える四角いものは井戸跡。朝倉遺跡は井戸跡が多く、復元された家も一つ一つに井戸があった想定で作られていました。

f:id:hanyu_ya:20210105222910j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その3

f:id:hanyu_ya:20210105222957j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その4

f:id:hanyu_ya:20210105223051j:plain紅葉ズームバージョン

 

 朝倉資料館前バス停で降りて、1時20分には一乗谷朝倉氏遺跡資料館に到着しました。2時から始まる講座の会場を確認したあと、時間まで「麒麟がくる」展と特別公開展「本能寺の変と朝倉将棋」を見学。

f:id:hanyu_ya:20210105223234j:plain麒麟がくる」展で展示されていた、ドラマで使用された明智光秀の衣装。実際に使用されたものではなく、同等品だと思いますが。

f:id:hanyu_ya:20210105200252j:plain同じく朝倉義景の衣装。なんといっても朝倉氏遺跡資料館の展示ですから。

 

 本展覧会は将棋、闘茶、セイソ散という三つのテーマで構成され、本能寺外では初公開となる本能寺宛ての朝倉義景書状や、朝倉遺跡から発掘された将棋の駒が特別公開されていました。遺跡から出土している駒は182枚に及び、そのうち121枚が国の重要文化財に指定されています。その中には現在の駒種には見られない「酔象」という駒もあり、そちらも展示されていました。ちなみに、朝倉遺跡からの出土品は2343点が重要文化財に指定されているそうで、まさに日本のポンペイといってよいと思います。

f:id:hanyu_ya:20210105223435j:plain特別公開展で展示されていた遺跡出土品の将棋の駒

 

 5分前に講座の会場に入り、受付をしてレジュメをもらい、指定されたパイプ椅子に座って受講開始。講師は石川美咲氏で、当資料館の学芸員ですが、『針薬方』に「越州朝倉家之薬也」と書かれている「セヰソ散」――すなわち朝倉家の薬であるセイソ散を通して医者としての明智光秀を調べている研究者で、新聞や雑誌記事、テレビ番組でも見かける方でした。それゆえ話を聴いてみたいと思い、受講を申し込みました。ちなみに『針薬方』は、先日の記事でも書きましたが、熊本藩主細川家の家老筋である米田家伝来の文書で、永禄9年(1566)に米田貞能が明智光秀の口伝を書写したと記されているので、光秀関連の古文書で現在一番古いとされている史料です。

f:id:hanyu_ya:20210105223721j:plain講座はオープニングだけ撮影が許可されました。

 

 前半は特別公開展の展示解説、後半がレジュメに基づいた講義で、セイソ散の原料についてと、一乗谷で原料を揃えることができたのか――を含めて、朝倉氏の城下で実際に作れるものかなどの考察を講義してくれました。特別公開展でも展示されていましたが、朝倉遺跡からは薬研なども出土しているので、医者がいたことは確かであり、また孝景の時代に日本第二の印刷医書が出版されるなど、医学書の書写――つまり医術の伝授もさかんだったので、作れるだけの素地はあっただろうとのこと。その他、光秀との交流が認められる医者についてや、「傷を医者に見せろ」「薬を送る」といった内容が記された光秀の書状が紹介され、それらは光秀が医術に通じていた傍証の一端となるのではないかとのことでした。石川氏は、どこでどうやって誰から光秀は医術を学んだのかと疑問を投げかけていましたが、まさにおっしゃるとおりで、医術に限らず、光秀の高い教養のルーツは謎としかいいようがありません。医術伝授がさかんとはいえ、生国を追われて家財もなくほぼ身一つで家族とやってきたよそ者で、門前の寺子屋で食い扶持を稼いでいるような一介の浪人が、その機会を簡単に得られるものでしょうか。個人的にはよほど幸運でないと無理だと思うので、連歌茶の湯とはまた別の、医者関係のネットワークを探れば、そこからも光秀の出自に辿り着くヒントが得られるような気がしました。

 

 3時半に講座が終わり、館内に福井新聞で連載していた石川氏の明智光秀に関するコラムがパネル展示されていたので、バス待ちのあいだ読み、4時5分前に資料館を出て、15時59分発のバスに乗車。16時15分に福井駅に着くと、社務所が開いている時間に間に合いそうだったので、北ノ庄城本丸跡に松平春嶽と旧福井藩士らが築城主の柴田勝家を祀った柴田神社へと向かいました。福井駅から近いので、何年も前、式内社足羽神社を訪れたときにも寄ったのですが、ブームの今なら御朱印だけでなく御城印があるのではないかと思い、行ってみました。

 

 10分ほどで到着し、お参り後に社務所を覗くと、思ったとおり勝家の絵が描かれた通常の2倍サイズの紙の立派な御城印があったので購入。その後城址公園を見学し、南側の城の橋通りに出ようとすると、以前にはなかった資料館があったので、見てみることに。資料館というよりも、参拝者や見学者のためのトイレもある無料休憩所という感じでした。

f:id:hanyu_ya:20210105224245j:plain柴田神社と北の庄城址公園。繁華街の中にあります。

f:id:hanyu_ya:20210105224343j:plain北ノ庄城の御城印。柴田勝家というと、一般的にはこういうイメージだと思います。

 

 柴田神社を後にすると福井駅に戻り、5時15分前だったので、前日と同じ「福福茶屋」に行って、早めの夕食を摂ることにしました。帰りの新幹線は金沢発19時18分のかがやきで、JR東日本えきねっとトクだ値で買った切符で、エクスプレス予約と違って変更ができなかったため、18時47分に金沢駅に到着する特急電車をe5489で予約していて、出発時刻まで1時間以上あったので。前日食べた越前せいこがに丼はそれだけで満腹になり、他の物が食べられなかったので、二度目は身だしを注文。それと、あとは寝て帰ってもよかったので、いくつかの酒肴と、越前の地酒――北の庄の純米吟醸を頼みました。

f:id:hanyu_ya:20210105224609j:plain越前せいこがにの身だしと北の庄

f:id:hanyu_ya:20210105224712j:plain永平寺ごま豆腐

f:id:hanyu_ya:20210105224804j:plain九頭竜サクラマスとふくいサーモンの食べくらべ

f:id:hanyu_ya:20210105224922j:plainむつの照り焼き

 

 5時45には店を出て駅に行き、券売機で特急券を発券後、ロッカーから荷物を取り出して、18時発の特急しらさぎ11号に乗車。47分に金沢駅に到着し、今回は駅弁もタカラ缶チューハイもいらなかったので、エヴィアンと、いつも買って帰る北陸限定のアルフォート五郎島金時と白えびビーバーを買って、新幹線に乗車。これにて遠征終了です。

福井寺社遠征&明智光秀探訪11 その1~明智神社、永平寺、養浩館庭園ライトアップ

 昨日は三日ぶりに外出して最寄りのコンビニに行って帰ってきたあと、箱根駅伝の4区と5区をテレビ観戦。夕方からは「麒麟がくる」の再放送を、7時からはニュース7を見て、そのまま「ライジン若冲」に突入。伊藤若冲が主役で、動植綵絵が取り上げられるとのことだったので、若冲スキーとしては見逃すわけにはいきません。若冲と、彼のパトロン相国寺の禅僧であり漢詩人でもある大典顕常のダブル主役で、円山応挙池大雅、売茶翁こと高遊外がメインで登場する、なんともマニアックな内容でしたが、独特の不思議な空気感を醸し出す出演者の演技をはじめ、脚本も演出も映像も秀逸で、画面は終始美しく、それでいてコメディ要素もあって笑える、なかなか衝撃的なドラマでした。動植綵絵の他、近年発見された「蕪に双鶏図」も登場しましたし。クリスマスに放送された「光秀のスマホ」に続くNHKの攻めっぷりが小気味よく、エールを送る気持ちで、昨年請求書が届いたあと放ったらかしにしていた受信料の支払い手続きをしてしまいました(笑)。話は飛びますが、本日の復路の駒澤大学の逆転劇は見事でした。アンカーの走りが凄かったですね。素人目で見ても創価大学のアンカーとは全然走りが違いましたし。箱根駅伝のあとは「麒麟がくる」まで見たいテレビ番組もないので、11月の福井遠征記を書きたいと思います。

 

 朝倉氏の城下町があった一乗谷は、国の特別史跡であり特別名勝でもあるので、以前から行きたいと思っていたのですが、明智光秀とゆかりのある場所なので、どうせなら大河ドラマの年に行こうと思い、長らく保留にしていました。そして2020年になり、訪れるなら遺跡は野外なので桜の季節がいいのではないかと思い、周辺情報を調べたら、3月20日から5月6日まで福井市立郷土歴史博物館で「明智光秀と越前―雌伏のとき―」という特別展を開催するので、4月に行こうと思っていました。2月、3月は京都に行くことになっていたので。……なのですが、緊急事態宣言が発せられて出かけられず。特別展も会期途中の4月3日で終了してしまいました。

 

 で、改めていつ行こうかと思い、桜がダメなら紅葉ということで、9月に入って一乗谷朝倉氏遺跡資料館のホームページを見たら、11月30日まで「麒麟がくる」展、11月14日から12月13日まで「本能寺の変と朝倉将棋~出土品に見る中世から近世への転換点~」という特別公開展を開催することが判明。ならば11月の3連休がベストかと思いましたが、さらに詳しいイベント情報を見て、15日に「医療人・明智光秀~セイソ散の発見~」という学芸員による講座があることを知ったので、11月13日から15日の二泊三日で日程を組みました。講座は往復ハガキによる事前申込制で、40人の定員を超えた場合は抽選とのこと。11月2日が申込締切日だったので当落がわかるのは一週間前ぐらいでしたが、それから日程を変更するとホテルのキャンセル料がかかるので、外れても中旬に行くことにしました。紅葉は下旬のほうがいいような気がしましたが、紅葉はあくまでもついでで、主目的ではないので。

 

 当選したので、考えていたとおりの旅程で福井へ。13日の3時半で仕事を切り上げ、16時50分のかがやきに乗車。18時54分に金沢駅に到着し、19時8分発の特急サンダーバード46号に乗り換え。19時51分に福井駅に到着し、駅近くのホテルにチェックインして、初日は終わりです。

 

 翌14日は、まず明智神社へと向かいました。明智光秀の坐像を祀り、「あけっつぁま」と呼ばれている小さな神社です。一乗谷から山を一つ越えた福井市の東大味町にあるのですが、公共交通機関ではアクセスが難しく、バスのように時間決めで1日5、6本運行されている予約制の乗合タクシー文殊山号」ぐらいしか手段がありません。路線バス代わりで地域住民の足を兼ねているためか、区間均一で100円という破格の運賃設定なので、5、6本でもありがたいことこの上ないですが。

 

 最終日の15日は14時から15時半まで一乗谷朝倉氏遺跡資料館の講座に参加し、終了後は金沢経由で神奈川まで帰らなければならないので、一乗谷は講座が始まる前に行こうと思い、であれば、永平寺に行くのなら14日でないと難しく、同じ日に明智神社と永平寺の両方に行く方法を考えたら、おのずと乗る時刻は決まったので、福井鉄道福武線の江端駅を9時47分に出発する「文殊山号」を予約。1便の予約は前日までだったので、新幹線に乗る前に予約専用ダイヤルに電話をかけて申し込みました。

 

 当日は8時45分にホテルを出て、まずは永平寺に行くバスの情報を得るために、JR福井駅西口(正面口)の前にある観光案内所へと向かいました。福井駅から永平寺一乗谷方面に行くバスや電車がすべて1枚にまとめられていて、しかも上下線の時刻が載っている便利な時刻表をもらうと、帰りの福井駅行きバスの最終は15時35分と予想外に早い時間だったので、その後に公共交通機関で戻ってくる方法はないかと訊ねたら、永平寺口駅までバスで行って、そこから電車を使うとのこと。それで戻ってくる可能性が高かったため、行きのバスチケットだけを購入し、9時5分発の福武線に乗車。1時間に2本ぐらいのローカル線で、次の電車では間に合わないので乗りましたが、29分には江端駅に到着し、「文殊山号」の出発時刻まで20分弱待つことになるので、駅前にコンビニでもあればいいと思っていたのですが、着いたら何もなく、けれどもタクシーが1台すでに待っていました。

 

 乗っている客は誰もおらず、江端駅から乗ったのも私一人で、途中のバス停に停まることもなく、江端駅バス停の発車時刻である9時47分には目的地の東大味集落生活改善センターのバス停に着いていました。斜向かいの駐車場に設置されていた案内板の地図に従って歩くと、3〜4分で明智神社に到着。

f:id:hanyu_ya:20210103182712j:plain駐車場にあった東大味町旧跡マップ

f:id:hanyu_ya:20210103183040j:plain明智神社正面

f:id:hanyu_ya:20210103183120j:plain明智神社背面。後ろにある桔梗紋ののれんが掛かっている建物は資料館。

f:id:hanyu_ya:20210103183211j:plain資料館と幟旗。建物に掛かっていた古い札は「東大味歴史文化資料館」でしたが、入口前の新しい立札は「東大味歴史文化明智光秀資料館」。確かに、明智光秀の資料館でした。

f:id:hanyu_ya:20210103182942j:plain境内には称念寺でも見た「明智光秀 雌伏の地」の看板がありました。

 

 資料館でもらったパンフレットによると、明智光秀は永禄5年(1562)から9年(1567)まで東大味の土居之内に住んでいて、のちに柴田勝家と弟の勝定が主君織田信長の命を受けて一向一揆掃討のため越前に侵攻したときに、東大味は集落内の西蓮寺宛てに安堵状が出されて戦禍を免れたが、勝家兄弟とは縁もゆかりもない土地なので、住人たちはきっと光秀がかつて住んでいた集落を気づかって依頼したのだろうと感謝し、光秀の死後も「今もこの地で生きていられるのは明智様のおかげ」と遺徳を偲んで坐像を作り祀ったそうです。しかし世間的には光秀は謀反人であるため、慈眼寺のくろみつ像同様、公にはできなかったので、光秀の邸跡の土居之内に住む3軒の農家によって密かに守られてきましたが、明治に至って坐像を御神体として祀る祠を作ったとのこと。ということで、それが明智神社の起源のようです。なお。光秀の三女の玉は永徳6年(1563)の生まれなので、東大味の土居之内が細川ガラシャの生誕地ともいわれています。

f:id:hanyu_ya:20210103191515j:plainガラシャのゆかりを示す石碑。まだ新しいです。

 

 帰りの乗合タクシーは一番早いのが11時42分発なので時間は十分にありましたが、先にやることをやっておこうと思い、資料館の見学は後に回して、神社から歩いて10分ほどのところにある「山本食料品店」に行くことにしました。ここで明智神社の御朱印と御守りが手に入るので。回り道にはなりますが、方向的には同じなので、西蓮寺にも寄って行くことにしました。非公開みたいで、拝観はできませんでしたが。

f:id:hanyu_ya:20210103183443j:plain西蓮寺山門。寺には今でも柴田勝家と勝定の安堵状が残っていて、勝家の坐像が安置されているそうです。

f:id:hanyu_ya:20210103191422j:plain明智神社の御朱印

 

 帰りは最短距離の朝倉街道を通って神社に戻ってくると、資料館の展示を見学。壁のパネルを読んだあと、自分で電源を入れて3本のタイトルを自由に再生できる映像モニターがあったので、設置されていたベンチに座り、「山本食料品店」の自販機で買ってきたペットボトルのコーヒーを飲みながら、「東大味に残る伝承」「明智神社法要」「光秀と一乗谷・東大味」を順に視聴。「あけっつぁま」を守ってきた3軒の農家の子孫の方の話なども聞けて、おもしろかったです。

f:id:hanyu_ya:20210103183711j:plain資料館のパネルその1

f:id:hanyu_ya:20210103190013j:plain資料館のパネルその2

f:id:hanyu_ya:20210103190119j:plain資料館のパネルその3

f:id:hanyu_ya:20210103191342j:plain資料館のパネルその4

f:id:hanyu_ya:20210103191615j:plain資料館のパネルその5

f:id:hanyu_ya:20210103191738j:plain御祭神「あけっつぁま」の写真。「あけっつぁま」は「明智様」が口語的に転化した呼び名で、加藤神社の祭神である加藤清正が親しみを込めて「せいしょこさん」と呼ばれているのと同じようなものです。

f:id:hanyu_ya:20210103191834j:plainズームするとこんなカンジの「あけっつぁま」。くろみつ像に似ている感じがします。単に黒いからかもしれませんが。

 

 全部見終わると11時20分になろうかという時刻だったので、資料館を出て、土居之内を半周してからバス停へ。すると、行きと同じタクシーがすでに待っていました。帰りも客は一人で、やはりどこにも停まらず。時刻表によると江端駅到着時刻は12時12分となっていましたが、11時50分には着いたので、予定より1本早い12時1分発の福武線に乗れ、26分には福井駅に到着。

 

 ……ところが、永平寺行きのバスは20分に出たばかりで、次の出発時刻は1時間後の13時20分。1時間近くあったので、ならば「これは行けそうだ」と思い、アクセス情報で駅から徒歩15分ほどとなっていた郷土歴史博物館に行くことにしました。展示を見るのが目的ではなく、春の特別展の図録を買うためだったので、往復の時間があれば十分でした。図録は通販対応もしているのですが、福井を訪れる予定があったので、時間があれば寄って購入し、なければ帰ってから通販で申し込めばいいと思っていました。

 

 今は福井県庁がある福井城址の堀脇を通って10分ほど歩くと到着し、入口を入って左手にあるチケット売り場で購入。見本が並べてあるシェルフを見たら和宮に関する展覧会の図録もあったので、一緒に買いました。そして、博物館と駅のあいだにホテルがあり、寄る時間があったので、部屋に2冊の図録を置いてから、駅の反対側にある永平寺行きバスの乗り場へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20210103191943j:plain郷土歴史博物館で購入した2冊の図録。左はどこかで見たようなタイトルだと思いました。

 

 13時20分発のバスに乗り、14時に永平寺バス停に到着。着いたら寺に行く前に昼食を摂ろうと思い、永平寺といえば蕎麦と豆腐だろうと思ったので、バスの乗車中に蕎麦屋を調べて、アクセスの良さと電子クーポン使用可を基準に何軒かに絞り込みました。あとは店のメニューを見て決めようと思っていたら、バスから降りたとたん割引券をもらい、店名を見たら候補の一つ「一休」だったので、迷うことなくバス停前にあるその店に入ることに。割引券の効果か、けっこう混んでいて時間がかかりそうだったので、永平寺そばと、蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを注文し、飲みながら参拝経路を検討しました。

f:id:hanyu_ya:20210103192234j:plain永平寺そば亭「一休」の永平寺そば。胡麻豆腐付きです。盛り沢山で画面に入らず写真が切れていますが、左にあるのが蕎麦焼酎の蕎麦湯割り。

 

 食事後、クーポン2,000円分を使って支払いをし、店を出ると、食事処を探す必要がなくなったので、永平寺参道を通って寺に向かいました。

f:id:hanyu_ya:20210103192359j:plain永平寺参道の入口にある寺号標。狙いどおり、紅葉がきれいでした。

f:id:hanyu_ya:20210103192632j:plain宗祖道元の歌碑と紅葉

f:id:hanyu_ya:20210103192750j:plain道元の歌碑。歌は「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」。永平寺の冬は「すずし」というレベルではないと思いますが、詩的と語呂的に「さむし」ではまずかったのでしょう。

f:id:hanyu_ya:20210103192930j:plain収蔵庫の瑠璃聖宝閣と紅葉。燃えるような赤です。

f:id:hanyu_ya:20210103193030j:plain別の角度から。こちらから見るとオレンジ色。光の加減で紅葉はいろいろな表情を見せてくれます。

f:id:hanyu_ya:20210103193121j:plain永平寺全景図

f:id:hanyu_ya:20210103193217j:plain納経塔の報恩塔と一葉観音像とカエル(置物)

 

 通用門の受付で拝観券を買い、検温後、拝観の玄関口になっている吉祥閣で御朱印をいただいたあと、順路に従って、まずは隣の傘松閣から拝観。昭和5年(1930)に建てられた、19棟の重要文化財建造物がある境内の中では比較的新しい建物でしたが、伊東深水川合玉堂も参加したという天井画が圧巻でした。

f:id:hanyu_ya:20210103193350j:plain傘松閣の天井画。現在の傘松閣は平成6年(1994)に改築された建物ですが、絵天井は昔の物をそのまま使ったそうです。部屋に入ってすぐに撮影したのですが、部屋の奥の上座から見るのが正位置なので、絵が逆さになってしまったことに、あとから気づきました。

 

 日本三大禅宗の一つで、道元が開いた曹洞宗大本山である永平寺は、日本を代表する禅寺なので、ずいぶん前からいずれ訪れるつもりでいたのですが、行くなら一乗谷とセットだと思っていたので、今回が初めての訪問。規模が大きいことは想像していましたが、禅宗の七堂伽藍が伝統的な形できちんと残っている、こんな寺は初めてだったので驚きました。都から離れた越前国の、さらに山深いところにあったので、数々の戦禍を免れることができたのでしょう。平地にある京都の妙心寺とは異なり、一直線に造られる山門、仏殿、法堂が山の斜面に建てられているため、禅宗において一番重要な法堂が一番上となり、修行の場である七つの建物はすべて回廊で繋がっています。いわく七堂伽藍とはこういうものかと思い、まるで見本のようでした。妙心寺は建物同士が離れていて、外を歩かなければならない配置だったので。その回廊を若い修行中と思われる雲水が頻繁に行き交い、仏殿や法堂の前を通るときには足を止めて相対し一礼をしていく……拝観券売り場から吉祥閣に入ったときには「なんか観光名所化しているなぁ」と思いましたが、次第に物見遊山で来ている自分の気が引けるような、確かに祈りの場でした。

f:id:hanyu_ya:20210103193534j:plain仏殿

f:id:hanyu_ya:20210103193643j:plain中雀門から見下ろす山門

f:id:hanyu_ya:20210103193933j:plain法堂から見る大庫院。紅葉と伽藍の組み合わせが本当にきれいで、心が洗われ、何枚も写真を撮ってしまいました。

f:id:hanyu_ya:20210103193740j:plainちょっと引きで。

f:id:hanyu_ya:20210103193849j:plainかなりズームで。

f:id:hanyu_ya:20210103194041j:plain僧堂の門(多分)

 

 15時35分発の福井駅行き最終バスに間に合わない場合、公共交通機関を利用して福井駅に戻る手段は、永平寺口駅まで出てローカル電車のえちぜん鉄道勝山永平寺線で帰る方法しかなく、次の永平寺口駅行きのバスは16時31分発だったので、4時前には永平寺を後にして、今度は門前通り経由でバス停へ。興味を引かれて立ち寄る店はなく、20分前にはバス停に戻ってきたので、バス停から道路を渡らずに行ける店で一番近く、昼食の候補にも挙げていた食事処兼土産物屋の「井の上」に行って、土産物を物色することにしました。けれども、そこでも特に欲しい物はなかったので、ごまとうふソフトを買って、寒かったので店内で食べることにし、食べ終わると、バスと電車の乗り換え時間が5分ほどしかなかったので、バス代の支払い時間を短縮するため、バスチケットを買ってバス停に戻りました。時間どおりに来たバスに乗り、45分に到着。あえて前の席に座っていたので一番先に降りて切符を買い、50分発の福井駅行き電車に無事乗車。バス停が駅からそれほど遠くなかったので、バスから乗り換えた人はみな間に合ったようですが。

 

 5時12分に福井駅に到着し、郷土歴史博物館の受付で図録を買ったときに、隣の養浩館庭園のライトアップについての案内が掲示されていて、この日5時から夜間公開をすること知ったので、そのまま向かおうと思ったのですが、日が暮れてから一気に気温が下がり、寒いと思ってスマホで確認すると日中より5度以上低い12度だったので、ホテルに寄って1枚着込んでから行きました。養浩館庭園の入園料は220円なのですが、その日は無料開放されていました。

 

 受付でもらったパンフレットによると、養浩館庭園は福井藩松平家の別邸だった御泉水屋敷の跡で、明治になり福井城は政府の所有となりましたが、別邸は松平家に残されて、松平春嶽が「養浩館」と名付けたとのこと。孟子の言葉「浩然の気を養う」が由来だそうです。回遊式林泉庭園だそうですが、夜間のためか庭は立入禁止のところが多く、あまり見られなかったので、ライトアップされた庭の紅葉よりも、数寄屋造りの屋敷から眺めるライトアップされた庭園がよかったです。紅葉の色づき具合はよくわかりませんでしたが。

f:id:hanyu_ya:20210103194219j:plainライトアップされた庭園の紅葉

f:id:hanyu_ya:20210103194346j:plain屋敷の湯殿。妙心寺明智風呂と同じ構造の蒸し風呂です。

f:id:hanyu_ya:20210103194443j:plain屋敷の窓越しに見るライトアップされた庭園その1

f:id:hanyu_ya:20210103194554j:plain窓を避けるとこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20210103194640j:plain屋敷の窓越しに見るライトアップされた庭園その2

f:id:hanyu_ya:20210103194736j:plain窓を避けるとこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20210103194840j:plain御月見ノ間から見る庭園

f:id:hanyu_ya:20210103194917j:plain御月見ノ間の室内。螺鈿細工のコーナー棚なんて初めて見ました。

 

 40分ほどで養浩館庭園を出て、行きと同じく福井城址を通り抜けて、7時前には福井駅に戻り、夕飯を食べようと思って店を探しました。この季節の福井といえば、なんといっても越前がに。最初は駅構内に回転寿司屋があったので入ったのですが、予想外に混んでいて待っている客も何組かいたのであきらめ、駅を出ました。そして駅前にあるパピリンという建物の店舗案内を見ていると、福井市観光物産館があることがわかり、物産店の他に「福福茶屋」という食事処もあるみたいだったので、行ってみることに。これが大正解で、越前がに1杯を使った冬季限定の「越前せいこがに丼」というメニューがあったので注文。それと、蕎麦焼酎があったのですが、越前そばのメニューがあるのに蕎麦湯割りはなかったので、オーダーを取りに来たスタッフに「できなければお湯割りでいいけど、できれば蕎麦湯割りにしてほしい」と言うと、「よろしければ、蕎麦湯を別にお持ちします」と言うので、蕎麦焼酎のストレートを注文。自分で割って飲むことにしました。

f:id:hanyu_ya:20210103195132j:plain「福福茶屋」の越前せいこがに丼。「せいこがに」とは福井で水揚げされるメスのズワイガニで、いわゆる金沢の香箱がにのこと。オスと違って、11月の解禁日から12月いっぱいしか食べられません。越前がには超ブランド蟹なので、産地を証明する黄色のタグが付いていて、そちらが一緒に乗っかってきます。

 

 大満足してホテルに戻り、この日はこれにて日程終了です。

知恵伊豆と在五中将ゆかりの禅寺~平林寺

  あけましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いします。

 

 長らく式内社巡りをしていて、近年は西国三十三所巡りもしているので、寺社にはしょっちゅう行っているため、わざわざ混んでいるときに訪れることもないと思い、その年の最初の寺社詣りを文字どおり初詣としていて、いわゆる一般的な初詣にはもともと行かない人間なので、朝から晩まで家でおとなしく過ごした元旦でした。

 

 さすがに例年よりは少ないみたいですが、テレビのニュースを見ていると、この状況下でも初詣に行く人がそれなりにいて驚いています。寺社が参拝客を受け入れているので、悪いこととは思いませんが、これでは感染は収まらないだろうな、と……。それ以上に強く思うのが、あれだけ不要不急の外出はするなと言われている中でも多くの人々に足を運ばせる初詣という習慣の不思議さで、日本人の生活に根付いた、その根深さにも驚いています。初詣に行く人にとって、初詣は不要不急の外出ではなく、必要な外出ということなのでしょうから……それほど信心深い国民性とは思えないのですが。

 

 それはさておき、昨年の句会メンバーとの春秋の集いは、春の花見は緊急事態宣言が出されるタイミングだったのでパスしましたが、秋の紅葉狩りには参加し、11月28日に新座の平林寺に行ってきました。昔はその日のうちに句や短歌を披露したのですが、近年は秋の場合、年内提出がメドとされているので、昨日は掃除をしながら、いくつか作ってあった歌を見直してノルマの三首を完成させ、メールで提出。毎度ギリギリですが、なんとか間に合いました。

 

  あかきいろ 木々のまにまに あおみどり

    点描にも似た あきの傑作

  

  知恵伊豆も 伊勢物語の中将も

    知らねど集う 野火止の秋

 

  つはものの跡を偲びて建つ社

    今では犬の散歩道なり

 

 平林寺は埼玉県の新座市にあり、メンバーは埼玉県民、東京都民、神奈川県民なので、午後1時目標で門前に集合。今回初めて訪れたのですが、思いのほか立派な寺で意外でした。拝観受付でもらったパンフレットによると、創建は永和元年(1375)で、開基は岩槻城主の太田薀沢。戦国時代に戦禍を被りましたが、天正20年(1592)に徳川家康の援助を受けて中興。やがて家康の孫である家光の時代に幕府の老中首座を勤めた松平伊豆守信綱の菩提寺となり、寛文3年(1663)に信綱の遺命により岩槻から野火止の現在地に移転――ということで、最初は臨済宗建長寺派で、現在は妙心寺派とのこと。本堂は非公開でしたが、御本尊は釈迦如来だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210101201005j:plain平林寺の紅葉。右下は受付を入ってすぐ左にあるトイレの屋根。メンバーが用を足しているあいだ暇だったので周囲を見渡したら、この付近ではここが一番きれいでした。

 

 広い境内には、信綱夫妻をはじめ、大河内松平一族代々の墓が残り、その数170基に及ぶという一大廟所でした。藩主や大名家の廟所や墓所は数多く見てきましたが、これほど規模の大きなところは記憶にありません。信綱は私の出身地である川越藩の藩主で、切れ者ゆえに「知恵伊豆」と呼ばれて、春日局柳生宗矩と共に三代江戸将軍家光を支える鼎の脚ともいわれた人物なので、もちろん知ってはいましたが、信綱時代の川越藩は6万石なので、それくらいの石高の藩の藩主一族の菩提寺がこんなに大きいとは思っていませんでした。他所は、元々は大きかったけれども現在は残っていないだけなのかもしれませんが。もしそうだとしても、十分驚きに値するもので、信綱が幕府内でどれほど重きを成していたのか――家光にとってどれだけ重要な存在だったか考えさせられる史跡でした。

f:id:hanyu_ya:20210101201257j:plain松平家廟所の手前の墓地にあった見性院宝篋印塔。見性院武田信玄の次女で、穴山梅雪正室。信綱は島原の乱を平定したことでも知られますが、こちらの墓地には島原・天草一揆の供養塔などもありました。

f:id:hanyu_ya:20210101202004j:plain信綱の墓の五輪塔の地輪背面

 

 境内には野火止塚と業平塚いう小山があり、何なのかわかりませんが、おそらく平林寺が創建される前からそこにあったもので、これらがあったところに平林寺が建てられたのだと思います。業平といえば、在五中将こと在原業平のことなので、業平塚は業平と何か関係があるのかもしれません。業平は、清和天皇に入内予定だった摂関家の娘、藤原高子との密通が露見して、高子の兄である基経に都を追われて東国を旅したとされているので、あり得ないことではないと思います。余談ですが、基経は時平の父で、時平がのちに父の異母兄である伯父国経の妻であった業平の孫娘を奪って生ませたのが敦忠です。ということで、私にとってはたいそう馴染みのある人物なので、思わぬところで業平の名を見て嬉しくなりました。

f:id:hanyu_ya:20210101201552j:plain紅葉の向こうに見る野火止塚

f:id:hanyu_ya:20210101202259j:plain業平塚と説明板

f:id:hanyu_ya:20210101202349j:plain平林寺境内林の紅葉その1。平林寺の境内林は東京ドーム9個分の広さだそうで、国の天然記念物に指定されています。寄りで撮るよりも引きで撮るほうが美しいと初めて思った紅葉でした。

f:id:hanyu_ya:20210101202445j:plain平林寺境内林の紅葉その2

f:id:hanyu_ya:20210101202532j:plain平林寺境内林の紅葉その3

f:id:hanyu_ya:20210101202616j:plain鐘楼と紅葉。赤、黄、緑、青――見事な色の競演です。

 

 のんびりと散策し、境内林をほぼ一周して墓地まで戻ってくると、2時半を過ぎたところだったので、3時に門前に来てもらうようにタクシーを呼び、10分前に寺を出ました。5時から柳瀬川の川べりの近くにある清瀬蕎麦屋で打ち上げ予定でしたが、まだ時間が早かったので、川向うにある所沢の滝の城址公園に行って、本丸跡にある城山神社にお参りし、メンバーが持参した缶チューハイを飲みながら一服しました。

 

 ソーシャルディスタンスを保ちつつ30分ほど歴史談義をして缶を空けると、蕎麦屋に向かって川沿いを歩き、10分ほどで到着。「池添」という、住宅地にある、まずふらっと立ち寄ることはない隠れ家的な店で、夜は事前に連絡を入れておかないと営業していないとのことでした。そのためか、客は私たちだけで、貸切状態。囲炉裏を模したテーブル席で、まずは蕎麦がきをつまみながら十四代を片口でもらって味わい、店の十四代の瓶が空になったあとは店主おすすめの日本酒をもらい、お任せで地物野菜の天ぷらを揚げてもらって舌鼓を打ち、十分に堪能したので、名物の十割蕎麦で締めて終了。駅まで歩いて行けるところではないので、タクシーを呼んでもらい、秋津駅で解散です。

 

 今年は春も秋もマスクなしで参加できることを、心から願っています。

明智光秀探訪 番外編~展覧会「新・明智光秀論―細川と明智 信長を支えた武将たち」in永青文庫美術館

 2020年の大晦日です。大学4年の時に育った家を離れてから昨年までのウン十年間、年越しは親元か海外のいずれかだったので(といっても、海外で年をまたいだのは1度だけですが……)、今回初めて自宅で新年を迎えることになります。外出もせず、せっかく家にいて、大掃除とまではいきませんでしたが、とりあえず普通に掃除を終えたので、短めの記事をアップすることにしました。11月と12月の遠征記がまだ残っていますが、そちらを書き出すと確実に二年越しになってしまうので(笑)。

 

 世界的には未曾有の災禍に見舞われた一年でしたが、個人的には、もちろんコロナウィルスに振り回されはしましたが、たいそう充実した、それなりによい年でした。まさしく日本再発見、ディスカバー・ジャパンの一年という感じで、坂井、京北、沼田、福知山、舞鶴、可児、瑞浪、土岐、恵那、永平寺関ケ原――と、今まで行ったことがなかった地方の町にもたくさん行けて、記憶に残る素敵な経験が数多くできましたし。これも明智光秀のおかげです。

 

 クリスマスの25日は3時で仕事を終え、4時半閉館で入館が4時までの永青文庫美術館へ行ってきました。現在、春から延期されていた展覧会「新・明智光秀論―細川と明智 信長を支えた武将たち」が開催されていて、年内の開館は27日までだったからです。年明けは9日からで、会期は1月末まであるのですが、本展覧会が春から冬になったのは緊急事態宣言によって休館したせいであり、そのとき開催中の展覧会が会期を残して終了ということが実際にあったので、第1波よりも厳しくなっている今の感染状況だと年末年始が終わってどうなるかわからなかったので、見そびれることだけは避けたいという一念で、年内に強行しました。

f:id:hanyu_ya:20201231184327j:plain神田川沿い、芭蕉庵近くから見る水神社のイチョウ

 

 建物の規模を考えたら40分ぐらいあれば十分だろうと思っていたのですが、展示内容が史料も解説も素晴らしく充実していて、見たくて仕方がなかった2014年に熊本で発見された『針薬方』もあったので、全然足りず。まあ、旧熊本藩主細川家伝来の文化財を所蔵管理する永青文庫の展覧会なので、細川家家老筋の米田家に伝来した『針薬方』が出展されていても何ら不思議ではないのですが。その他、田辺城のパネル展示で見た、本能寺の変から七日後に光秀が藤孝・忠興父子に宛てて書いた手紙もありました。

 

 書面に光秀の名が現れる藤孝宛ての信長の書状も多く展示されていて、案件は様々ですが、ほとんどが「光秀からも報告を受けている」「光秀の報告は詳細で助かる」「光秀と相談しろ」とあり、まめにホウレンソウを行う光秀の律儀な為人が伝わってきました。安土城での接待と同じく、いささかやりすぎという気もしましたが……もっと端的に言えばクドイ(笑)。つまり明智光秀という人はそういう人だったのだと思います。よく言えば生真面目で、悪く言えばクソ真面目。完璧を期するあまり傍から見ればやりすぎではないかと思うほど万事に行き届いたところを見せ、目下の人間にしてみれば気が引けるというか恐れ多く、同等の人間にしてみれば優等生すぎて鼻につき、目上の人間にしてみればソツのなさや有能ぶりを見せつけられることでコンプレックスを刺激されて少々鬱陶しく感じる、あるいは脅威をおぼえる――そんな人間だったのではないでしょうか。使えるが、真面目ゆえに洒落が通じないというか融通がきかないので、扱いが面倒くさいと思ったかもしれません。悪い人ではないし嫌いではない、それどころか良い人で好きだけど直接関わるのは苦手で敬遠しがちとか、ついていけないという人は、今の世でも変わらずいるものです。

 

 そんな真面目人間の光秀は、戦で負傷した家臣に宛てた見舞いの文など、相手の怪我や病気を気遣う文の数が他の武将に比べてずば抜けて多いことでも知られます。今回も“気配り光秀”を感じさせる展示があり、光秀の端正な心ばえに改めて感動しました。けっして厭味ではありません(笑)。細川忠興の文で、光秀の娘・玉を母に持ち、家督を継いだ息子の忠利に宛てた文があったのですが、その中でこのようなことを言っています――「その方(忠利)から文が来ると何かあったのかと案じてしまうが、文箱の上の札の書付に「無事之状」とあったので安心した。こうしてくれると先に安心できる。文箱の上に書付の札を付けるのは明智日向守がいつもしていたことで、理に適った方法だ」と。要するに、現代風に置き換えると、予期せずして文が来ると何だろうと思いますが、光秀は封筒に「~~在中」と書いて送ってきたので、内容が判り、安心して封を開けられた、ということです。相手を思いやる光秀の配慮も、舅のやり方に感心したと息子に語る忠興も、父が認める祖父の習慣を引き継いでいる忠利も、なんかとてもいい感じに思え、心が温かくなりました。

 

 一応駆け足で全部見てきましたが、図録はなく、唯一の関連資料は本展覧会を特集した『季刊永青文庫』だけで、載っていない展示解説も多く、書き留める時間がなかったので、来月も問題なく開館していたら、もう一度時間に余裕を持って来ようと思いました。

 

 4時半になったので美術館を出ると、永青文庫の近くに椿山荘があるので、シャンパーニュを飲んで帰ることにしました。ロビーラウンジの「ル・ジャルダン」に入り、マムをグラスで注文。マムはランスに行ったときにも訪れたお気に入りの老舗メゾンなのですが、最近は飲食店で出合うことがなかったので、ちょっと嬉しくなりました。しかも口開けだったので、「これは2杯飲むでしょ」と思い、サンドウィッチも注文。サンドウィッチはキューカンバーサンドが一番好きで、肉はあまり得意ではなく(ハンバーガーは好きですが)、ハムサンドぐらいしか食べないのですが、単品メニューはパテやローストビーフ系しかなかったので、フルーツや野菜なども入った盛り合わせを頼み、チキンを抜いてもらって、野菜とフルーツでまとめてもらうことにしました。通された席は奥まった端の席だったので、『季刊永青文庫』の明智光秀特集を落ち着いて熟読することができました。

f:id:hanyu_ya:20201231185405j:plainホテル椿山荘東京のロビーラウンジ「ル・ジャルダン」のマムと『季刊永青文庫』。私が疲れて1杯飲みたいときや、やることを終えて後はのんびりというときに飲みたいのはシャンパーニュなので、シャンパーニュを置いてある確率が高く、落ち着いた雰囲気で飲める環境ということで、近くにホテルがあれば、迷わずホテルのラウンジかバーに行きます。

f:id:hanyu_ya:20201231185506j:plain帝国ホテルのロビーラウンジ「ランデブー」のアンリオ。今年は海外に行けず、ベートーヴェンのアニバーサリーイヤーということで何年も前から予定していたウィーン旅行ができなかったので、気分だけでも味わおうと思い、23日の夜にドイツ大使館やザクセン観光局が後援している日比谷公園の東京クリスマスマーケットに行ってみたのですが、あまりに人が多くてビックリ。入場待ちの行列がとんでもない長さで、会場内より密ではないかと思うほどだったので、早々に断念したのですが、忙しい中、仕事を無理やり切り上げてせっかく来たので、シャンパーニュを飲んで帰りました。

f:id:hanyu_ya:20201231185607j:plainホテルニューグランドのコーヒーハウス「ザ・カフェ」のスパークリングワイン(銘柄不明)。クリスマス前に友人と横浜中華街で食事をした日、中華料理屋では好みのアルコールが飲めそうになかったので、食前酒代わりのつもりで食事の前にシャンパーニュを飲みに行ったのですが、土曜だったためか混んでいて、ロビーラウンジは満席。ラウンジのスタッフにこちらの店を紹介されましたが、店内はやはり混んでいたので、密を避けてテラスで飲むことにしました。シャンパーニュはなくてスパークリングワインでしたが、メニューにはないオリーブの盛り合わせを希望したら快く受けてもらえ、美味しかったので、さすがクラシックホテルだと思いました。オリーブはお代わりしてしまいました。

 

 「ル・ジャルダン」に入店したときにはまだ5時前だったので、客層はアフタヌーンティを楽しむファミリーや女性二人連れが目立ったのですが、すっかり日が暮れて6時を過ぎると、ディナー予約客がやってきて、近くのテーブルの話し声が耳につくようになったので、6時半過ぎに店を出ました。

 

 8時過ぎには帰宅し、9時から「風の谷のナウシカ」のテレビ放映を見ようと思っていましたが、新聞を読んだついでにテレビ欄を見直すと、NHK総合の夜10時の欄に「光秀のスマホ 歳末の陣」という文字を発見。大いに気になったので、ナウシカはやめて、いつものようにニュースウォッチ9を見たあと引き続きNHKを視聴。結果、おもしろすぎて、50分間テレビ画面を覗き込んで、文字どおりガン見することになりました。ソファに座ったいつもの位置からではスマホの文字が読めなかったので(笑)。主人公光秀の顔が出ないという先進的な作りの玄人好みのドラマ自体にも感心しましたが、クリスマスの夜にこの、一般受けするかわからない、マニアックなドラマを総合で放送するNHKの姿勢にも感心しました。ナウシカを放映する日テレや全日本フィギュアを放映するフジテレビの、あからさまに視聴率を狙った番組編成は妥当で理解できるのですが……まったく意図不明。それらと同じ土壌で戦っても仕方がないということなのか、はたまた多様性を認める社会においては人の好みも千差万別なので少数派の受け皿になろうというのか……まあ、それは民放にはできませんし。ともあれ、前日のイブは年賀状書きに追われて終わりましたが、クリスマス当日はそれなりに楽しめた一日でした。

 

 次の日は全日本フィギュアの男子シングルフリーをテレビ観戦。羽生選手、凄まじい演技でした。優勝おめでとう。ついに真の頂に到達したように思えました。そしてそれは、コロナ禍という苦難があったからこそ、極められたもののような気がしました。勝利を渇望する思いやライバルへの思い、絶対王者としての矜持などが削ぎ落されて、純粋にスケートが好きで、スケートへの思いも含めたスケートをこよなく愛する自分の思いを、スケートを通して表現したい、伝えたいという心が透けて見えました。私は今までユヅの手先や足先の使い方に苦言を呈してきましたが、今回の演技は完璧なジャンプはもちろんですが、それ以上に、静止したときのポーズに見惚れました。高い技術と豊かな表現を融合させた、スポーツであり芸術でもある究極のパフォーマンス――かつて荒川静香や髙橋大輔が見せてくれた、頂点を極めた限られたスケーターにしか到達できない、頂のその先の世界を見せてくれました。今の現役選手では羽生結弦とネイサン・チェンしかできないと思います。ありがとう

 

 そんなこんなでクリスマスが終わり、日比谷のクリスマスマーケットで何か買おうと思っていたのに行けず結局何も買えなかったので、1年働いた褒美に何か欲しいと思ったら、思い出したのが古墳クッションでした。ふるさと納税のサイトで箸墓古墳のクッションを見てその存在を知り、納税金額が高かったので普通に買えないかと思い、ネットで検索したら作り手さんのホームページに辿り着いて、オンラインショップで他の古墳のクッションも売っていたので、どれにしようか迷っているうちにそのままになっていました。改めてホームページを訪れると、SOLD OUTになっているものも多かったので、慌てて注文。被葬者で選ぶか世界遺産にするか悩んでいたのですが、明智光秀の年の締めくくりということで、山崎の戦いにおける光秀の本陣跡ともいわれる恵解山古墳を選択。年内届けは難しいかと思いましたが、嬉しいことに昨日届きました。両手があるような形も可愛く、愛嬌があってとてもよい感じです。

f:id:hanyu_ya:20201231192744j:plain恵解山古墳のクッション。作り手さんは椅子職人なので、フニャフニャしたスポンジやポリわたのクッションではなく、硬めのソファクッションです。玄室がある後円部の真ん中はちゃんと盛り上がっていて、芸が細かいです。

 

 28日が仕事納めだったので、29日は今年ウィーンと富良野に一緒に行く予定だった友人と久しぶりに会って、フレンチを食べました。会うのは1月3連休の安比スキー以来で、行った恵比寿の店も1年に2~3回は行っていましたが、ほぼ1年ぶり。夜はおそらく時短営業中なので、初めてランチで行きました。感染拡大がなければ、翌30日までは富良野、31日からは親元の静岡に行く予定でしたが、深刻な現状を踏まえてどちらも中止したので、昨日から5日の仕事始めまでは巣ごもり生活です。遠征記でも書いて、おとなしく過ごそうと思っています。

 

 本日、東京の感染者が1000人を超えました。逼迫している医療現場に携わっている人たちは本当に困難な状況で、クリスマスはおろか、この一年は楽しむどころではなかったと思います。それでも、街はロックダウンしていないので、経済活動は行われていて、ホテルをはじめとする店は営業し、美術館も開館し、クリスマスマーケットも開催されました。開いている以上、人が行かなければ、その意味もなくなります。避けるべきは密で、つまるところ感染対策なしでの人との接触だと思います。なので、旅行も一人か二人、食事は四人まででやる分にはいいと思っています。営業施設の経営も大変ですから。

 

 緊急事態宣言終了後あっちこっちに行きましたが、コロナ禍の中で営業を続ける、あるいは再開する施設はみな対策をしっかりしていて、いずれもスタッフの苦労が偲ばれました。感染者を出せば即休業に追い込まれて死活問題なので、当然と言えば当然ですが。よって感染の場は、柔軟な対策が取れない学校、会社、病院、介護施設、そして、家族間でマスクを付けること、食事の皿を分けることなど感染対策を徹底できない家庭のように思えます。

 

 ともあれ、ここへきて変異種も日本に上陸し、ますますこの先どうなるかわからなくなりました。だからと言って、やりたいことができないのは嫌だし、できないのをコロナのせいにばかりするのも嫌なので、来年以降も状況を見極めつつ、可能なかぎり前向きに行動はしていきたいと思います。

岐阜・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪10 その3~活津彦根神社、安土城址、特別展「信長と光秀の時代」in安土城考古博物館、信長の館、安土城郭資料館

 遠征最終日の11月1日は、恵那に行く予定だったので名古屋駅の近くにホテルを取ったのですが、宿泊まで一週間を切った段階で前日の10月31日に恵那行きを変更したので、この日は安土に行くことにしました。帰る日なので新幹線駅へのアクセスがいいところがよかったので伊勢なども考えたのですが、今回はピンと来なくて、京都や京都駅に出やすい亀岡や大津、米原駅に近い彦根周辺を調べたら、安土城考古博物館で11月23日まで「信長と光秀の時代―戦国近江から天下統一へ―」という特別展が開催されていることを知ったので。安土は訪れたことがありましたが、西国三十三所札所の観音正寺式内社沙沙貴神社が目的の寺社巡りで、安土城にも行ったことがなかったので、いい機会だと思いました。

 

 9時前にホテルをチェックアウトして名古屋駅に行くと、新幹線改札内のスタバでコーヒーを買ってから、名古屋発9時19分のひかりに乗車。47分に米原駅に着いて、59分発の加古川行き各停電車に乗り換え、10時22分に安土駅に到着しました。4年ぶりでしたが、その時とはすっかり様変わりしていて、きれいでモダンな駅になっていたので、びっくりしました。かつてはいかにも特急が停まらない地方の駅という感じで、駅前にタクシーの1台もいなかったのですが。

 

 以前はロータリーを挟んで向かい側にあった観光案内所も駅の1階に移っていたので、いつものように最初に寄ってみると、数は少ないですがコインロッカーがあったので、キャリーバッグを預けることに。駅構内のコインロッカーの情報が得られなかったので、駅前のレンタサイクル屋に預けるつもりでいたのですが、こちらに空きがあったので助かりました。そして安土城址や博物館への行き方を訊いてマップをもらうと、主要施設で特典が受けられる「戦国ワンダーランド滋賀・びわ湖」の周遊パスと、11月1日から開始で今日が初日というスタンプラリーの台紙もくれました。

 

 観光案内所もラリーポイントの一つだったので、スタンプを押してもらうと、まずは安土城を目指そうと思ったのですが、もらった地図を見ると、おすすめのアクセスルートを少し外れたところに活津彦根神社という文字を見つけたので、そちらから行くことにしました。何故なら、活津“彦根”は安土からそう遠くない「彦根」の地名の語源になった神だからです。つまり、彦根や安土周辺はかつて活津彦根が治めていた土地で、彼がこの地域の産土神なのだと思います。

 

 安土駅から駅前の県道201号をまっすぐ行くと琵琶湖の内湖である西の湖に突き当たるのですが、その手前に活津彦根神社はあります。昔の地形はわかりませんが、琵琶湖から長命寺川を通って西の湖に船で入ってくると最奥に神社があるので、西の湖、ひいては琵琶湖への玄関口に建てられたことは明らかです。よって、ここに活津彦根ゆかりの宮などがあり、その跡が聖地となったのではないでしょうか。そして、この神社を中心に安土の街は形成されたように思えます。県道201号はどう考えても当社の参道なので。

f:id:hanyu_ya:20201230231514j:plain県道201号沿いにある活津彦根神社の御旅所を示す石碑

f:id:hanyu_ya:20201230231625j:plain県道201号から見える安土山

 

 活津彦根天照大御神の子で、『ホツマツタヱ』によれば、アマテルと東の典侍オオミヤヒメミチコとのあいだに生まれた子です。ミチコの父はヤソキネで、ヤソキネはアマテルの母イサナミの兄弟なので、オオヤマズミ一族のサクラウチの娘であるセオリツヒメホノコを母に持つ兄のオシホミミより天君に近い血筋でしたが、父の跡を継ぐことはなく、シマツヒコ一族のカナサキの娘であるハヤアキツヒメアキコを母に持つ異母兄弟のアマツヒコネとセットで語られ、詳しいことはわかりません。ただし、以前訪れた近江八幡市にある式内社――馬見岡神社の祭神は天津彦根命だったので、兄弟ともにこのあたりにいたのだと思います。オシホミミも多賀町にある胡宮神社の起源である多賀若宮にいて、多賀大社の起源である多賀宮にいたイサナギに養育されていたようですし。もしかしたら三兄弟とも祖父にあたるイサナギの庇護下で育てられたのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201230231739j:plain活津彦根神社の鳥居と社号標

f:id:hanyu_ya:20201230231845j:plain活津彦根神社についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230231956j:plain拝殿

f:id:hanyu_ya:20201230232052j:plain本殿と摂社の蛭子神社

f:id:hanyu_ya:20201230232147j:plain本殿についての説明板

 

 境内社蛭子神社と津島社で、織田信長の出身地である尾張に総本社があり、織田家が尊崇した津島神社は、岐阜の伊奈波神社にも勧請されていたので、信長が城を築いた土地の産土神の社には、必ず津島社が祀られたのではないかと思いました。もしそうならば、信長は仏は大して重視しなかったが神は比較的大事にしていたのかもしれないと思い、そんなことを考えつつ蛭子神社の説明板を読むと、安土城築城の際に信長が三日三晩当社に参籠して祈願をしたと書かれていたので、その考えに太鼓判を押されたように感じて、信長ゆかりの城と津島社の関係を追ってみたいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20201230232341j:plain信長の逸話が書かれていた蛭子神社についての説明板。祭神の最後にある苔穴明神の正体が気になります。

f:id:hanyu_ya:20201230232425j:plainアートな石灯籠その1

f:id:hanyu_ya:20201230232531j:plainアートな石灯籠その2

 

 活津彦根神社を出たあとは安土山を目指して歩き、橋を渡ったところで山に突き当たったので右に曲がり、山裾に沿って行くと、しばらくして大手門跡の近くにある安土城址の受付前に到着しました。受付から先の城址には売店もトイレもないので、売店と公共トイレを兼ねた城なび館という施設が近くにあり、そこもラリーポイントだったので、寄ってスタンプを押し、周遊パスの特典がコーヒー1杯サービスだったので、ホットコーヒーをもらって一服しました。

 

 コーヒーを飲み終わると受付へ。国の特別史跡である安土城址は現在城内にあった摠見寺の管理下にあるため、受付で寺の御朱印がいただけるので、朱印帳を預けてから城址見学に行きました。御朱印希望者は拝観料を払うときに朱印帳を預けて帰りに引き取ることになっていたので。持参の朱印帳の場合、いただけるのは摠見寺の御朱印だけで、安土城の御城印はあるにはあるのですが、受付で販売している摠見寺オリジナルの朱印帳に書かれたもののみで、したがって朱印帳を買わないと手に入らないようになっていました。

f:id:hanyu_ya:20201230232956j:plain安土山に突き当たって右に曲がると左手に見える摠見寺の参道と安土城址の石碑

f:id:hanyu_ya:20201230233052j:plain受付に向かう途中に見える安土城の遺跡

f:id:hanyu_ya:20201230233149j:plain安土城址についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230233319j:plain受付を入って最初に現れる遺跡――羽柴秀吉邸跡

f:id:hanyu_ya:20201230233442j:plain秀吉邸についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230233518j:plain秀吉邸主殿についての説明板

 

 秀吉邸の前を通る大手道の石段には石仏が使われていて、それも一つや二つではなかったので、信長にとっていかに仏が取るに足らない存在だったかが知れました。光秀が築城した福知山城のように石垣の転用石であれば果敢な侵入者しか足蹴にすることはないかもしれませんが、大手道の石段ともなれば誰でも、それこそ自邸の前に石段がある秀吉も気にせず容赦なく踏んだと思います。信長は仏そのものというよりも偶像に対して価値を見出していなかったのかもしれませんが。まあ、織田家の祖は剣神社の神官なので、仏教はどうでもいいのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201230233720j:plain大手道の石段にされた石仏その1

f:id:hanyu_ya:20201230233905j:plain大手道の石段にされた石仏その2

 

 秀吉邸からしばらく登ると、森蘭丸と織田信澄の邸宅跡を示す石碑がありました。この二人の邸宅が隣り合っているのは実に興味深いことだと思いました。蘭丸は信長の小姓で本能寺の変で主君と運命を共にしたことで有名ですが、信澄は信長が逆心を疑って殺した弟信行の子で、つまり甥です。ということは、信長にとって蘭丸は甥と同じぐらいの存在だったとも考えられます。さらにおもしろいのが、信澄は信長の甥で、かつ光秀の娘婿でもあったことです。信長の命で光秀の婿となった信長の甥が秀吉よりも本丸に近いところに邸宅を構えていた――この事実が何を意味するのか、大いに気になりますね。

f:id:hanyu_ya:20201230234012j:plain大手道の石段。左手に森蘭丸邸跡と織田信澄邸跡の石碑があります。

f:id:hanyu_ya:20201230234108j:plain森蘭丸邸跡と織田信澄邸跡の石碑

f:id:hanyu_ya:20201230234218j:plain森蘭丸と織田信澄の邸宅跡を過ぎると曲がり角が多く見通しが悪い道になっていて、明らかに防御を意識した作りになっています。

f:id:hanyu_ya:20201230234307j:plain黒金門跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230234359j:plain仏足石

f:id:hanyu_ya:20201230234440j:plain天主台西下の二の丸跡にある信長公廟所

f:id:hanyu_ya:20201230234529j:plain柵の向こうはこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20201230234628j:plain天主台に続く石段と石垣

f:id:hanyu_ya:20201230234725j:plain天主台跡。礎石がきれいに残っています。

f:id:hanyu_ya:20201230234809j:plain天主台跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230234853j:plain西の湖が見える天主台跡からの眺め。現在は干拓によって四方いずれも陸地になっていますが、往時の安土城は南以外の三方が琵琶湖の内湖に囲まれていたそうです。

f:id:hanyu_ya:20201230234950j:plain天主台跡から見える信長廟所(左)

f:id:hanyu_ya:20201230235254j:plainソセキとススキ

f:id:hanyu_ya:20201230235459j:plain本丸跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201230235603j:plain織田信雄公四代供養塔。信雄は信長の次男です。

f:id:hanyu_ya:20201230235653j:plain信雄四代についての立札

f:id:hanyu_ya:20201230235751j:plain摠見寺跡。天主台よりも近くに西の湖が見えます。

f:id:hanyu_ya:20201230235904j:plain摠見寺跡についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201231000003j:plain三重塔。パンフレットによると、信長が甲賀の長寿寺から移築したもので、享徳3年(1454)の建立。重要文化財

f:id:hanyu_ya:20201231000105j:plain仁王門に続く参道。仁王門も甲賀から移築したもので、元亀2年(1571)建立。重要文化財。この傾斜のある石段を下りるのが帰りの正規ルートです。

f:id:hanyu_ya:20201231000205j:plain帰りのルートの途中にあった巨石。安土山も古代祭祀が行われた聖地だったのかもしれません。県道201号から見た山の姿は十分に神奈備山の条件を満たしていましたし。

 

 正味70分ほどの見学を終えて、受付で朱印帳を引き取って安土山を後にすると、次に安土城考古博物館へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20201231000323j:plain安土城址近くから見る繖山。山の手前の中央付近に見える丸い呼鈴のような形をした屋根が安土城考古博物館。

f:id:hanyu_ya:20201231000444j:plain近寄ると呼鈴はこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20201231014459j:plain安土城考古博物館入口

 

 徒歩15分ほどで着くと、入ってすぐ右手にミュージアムショップ兼レストランがあり、覗いてみると近江牛の文字が目に飛び込んできたので、特別展を見る前に先に昼食を摂ろうと思い、入店。「近江牛の肉うどん」というメニューがあり、肉が2倍の「近江牛のうつけうどん」と4倍の「近江牛の大うつけうどん」があったので、うつけうどんを注文しました。

f:id:hanyu_ya:20201231000612j:plain近江牛の量が当店比で2倍らしい「近江牛のうつけうどん」

 

 食事を終えると、今回安土を訪れた一番の目的である特別展を見学。こちらも見ごたえのある素晴らしい展覧会でした。旧近江国ならではの展示で、光秀の近江出身説の根拠となっている『江侍聞伝禄』や『淡海温故録』、光秀の他、近江の小谷城の城主だった浅井長政や近江守護だった六角氏の文書、古地図は安土城はもちろん、地元の自治会が所有する繖山の古地図までありました。特に印象的だったのは、安土にある二つの寺――摠見寺と浄厳院が所蔵する信長の肖像画で、その顔がよく似ていたことです。どちらも実物の特徴をうまく捉えているのかもしれないと思いました。

 

 特別展見学後、別室で琵琶湖周辺の遺跡から発掘された資料を展示していたので、そちらも見てから、特別展の図録を購入し、スタンプを押して博物館を出ると、隣接する「安土城天主 信長の館」へと向かいました。どういう施設か知らなかったのですが、パンフレットによると、1992年のセビリア万博の日本館のメイン展示として原寸大で復元された安土城天主の最上部5階6階部分を万博終了後に旧安土町が譲り受けて解体移築したものだそうです。キンキラ金で、まったく落ち着かない空間でしたが、それは私が根っからの庶民だからかもしれません。

 

 復元天主の他にはVRシアターなどがありましたが、中でも嬉しかったのは「天正十年 安土御献立」の復元レプリカがあったことでした。明智光秀が饗応役として徳川家康を接待した時のメニューです。当時家康の陪臣であった土岐定政が光秀に土岐氏ゆかりの品々をもらった時でもあります。武田攻めのあと、家康は天正10年(1982)5月15日から六日間安土城に滞在したそうですが、十五日おちつき膳、十五日晩御膳、十六日御あさめし膳、十六日之夕膳が展示されていました。「将軍の御成りのようで支度が行き過ぎている」と信長が怒ったというのが嘘か真かはわかりませんが、行き過ぎているのは確かで、客観的に見てもやりすぎと思えるほど盛り沢山の料理内容でした。

f:id:hanyu_ya:20201231000923j:plain天正十年 安土御献立」についての解説

 

 光秀が家康の接待役を務めたこと、その時に信長が腹を立てたという話があることは知っていましたが、復元されたメニューを見て新たに疑問をおぼえたことがあります。いったい光秀はこれほどの物を揃えてみせる知識をいつ貯えたのでしょうか? 自分で差配したわけではないのかもしれませんが、それなら誰を頼ったのか? 誰に教わったのか? その伝手はどこで得たのか? 果たしてそれは国を追われた貧乏な浪人や幕府奉公衆に仕える中間ぐらいの小物から成りあがった人間に可能なことなのか? このあたりも光秀の出自に迫るカギの一つではないかと思っているので、いい勉強をさせてもらいました。

 

 14時40分からのVRシアターを見て2階の展示室に行くと、信長の子孫が藩主として治めた天童藩に伝わった信長の肖像画がありました。信長と同時代の宣教師が描いたものとのことで、もっとも似ていると伝えられているそうです。洋画と日本画の違いはありますが、考古博物館で見た掛軸の肖像画と顔の輪郭などは相通じるところがあったので、信長はおそらくこういう顔をしていたのだと思います。今回安土で見た三つの信長画像の類似性からわかるように、平面的な日本画と立体感があり写実的な洋画で画法の差はあれども印象にさして差がないのなら、本徳寺所蔵の光秀の肖像画もまた実物とそれほど乖離したものではないのかもしれません。

 

 館内はほとんど撮影禁止だったので資料としてポストカードを買うために売店に寄ったら「信長のえびしょっぱい」という気になる菓子があったので、併せて購入。そして出入り口にあったスタンプを押して信長の館を出ると、最後の目的地である安土城郭資料館へと向かいました。歩いて15分ほどで到着し、そこでは570円の家紋カプチーノが300円で飲めるというのが周遊パスの特典だったので、そちらを注文してひと息入れることに。時刻は3時半を過ぎたところで、予約してある米原発17時57分のひかりより1本早い新幹線に乗れそうだったので、スマホで1時間早い16時57分発に変更しました。

f:id:hanyu_ya:20201231001133j:plain家紋カプチーノ。もちろん織田木瓜紋です。

f:id:hanyu_ya:20201231001344j:plain安土城図。摠見寺の三重塔も描かれています。

f:id:hanyu_ya:20201231001437j:plain安土城ひな型1/20

f:id:hanyu_ya:20201231001522j:plain安土城ひな型1/20の内側。喫茶コーナーにいたスタッフが機械を操作して中を開けて見せてくれました。

 

 安土城郭資料館のチケットには墨絵師の御歌頭さんが描いた信長の絵が使われていて、その縁ゆえにか売店では御歌頭さんの武将絵のポストカードを販売していて、本能寺で見たものとは違う明智光秀の絵と、安土城の御城印風のものがあったので購入。

f:id:hanyu_ya:20201231032308j:plain御歌頭作の明智光秀安土城御城印

 

 最後のスタンプを押し、資料館を出て、駅の自由通路を通り、観光案内所に戻ってコンプリートした台紙を見せると、記念品としてロッテのトッポをくれました。

f:id:hanyu_ya:20201231001641j:plainトッポとともに渡されたスタンプラリーの台紙。ラリーポイントごとに違う色のスタンプが置いてあり、5か所まわると5色の絵が完成されます。

 

 コインロッカーからキャリーバッグを取り出して、16時22分発の米原行き各停電車に乗り、45分に米原駅に着くと、乗り換えに10分ほどしかありませんでしたが、新幹線改札内売店で駅弁を調達。唯一残っていた井筒屋の「湖北のおはなし」という駅弁と、タカラ缶チューハイがなかったので、「オオサカハイボール」という「名古屋サイダー」に続いてナゾな缶入りアルコールがあったのでそちらを購入し、新幹線に乗車。これにて遠征終了です。

f:id:hanyu_ya:20201231001843j:plain「湖北のおはなし」と「オオサカハイボール

f:id:hanyu_ya:20201231001946j:plain弁当の中身はこんなカンジ。普通の幕の内弁当でした。