羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

京都寺社遠征 番外編~嵐山の新名所、福田美術館

 福田美術館では「開館記念 福美コレクション展」が開催されていました。「開館記念」と銘打っていることからもわかるように、2019年10月1日に開館したばかりの新しい美術館です。規模はそれほど大きくありませんが、展示品は錚々たるメジャー絵師たちの今までに見たことのない作品――知らないのに、知らないのがおかしいくらいの秀作揃いだったので、ちょっと驚きでした。

f:id:hanyu_ya:20200728010028j:plain葛飾北斎「大天狗図」。北斎の卓越した画技が発揮された傑作。構図といい、表情といい、絵手本集に載っていてもおかしくない出来。本当にこの人は絵が上手いです。

f:id:hanyu_ya:20200728010137j:plain竹内栖鳳「水風白鷺」。これも上手い。

f:id:hanyu_ya:20200728010241j:plain上村松園「人形遣之図」。これも素晴らしい。私が一番好きな「焔」には負けますが、「序の舞」や「鼓の音」より好きだと思いました。

f:id:hanyu_ya:20200728010402j:plain伊藤若冲「群鶏図押絵貼屏風」より。金戒光明寺にある若冲屏風も素晴らしいですが、こちらも甲乙つけがたい味のある作品でした。

f:id:hanyu_ya:20200728010548j:plain「群鶏図押絵貼屏風」より。「何、この鶏の顔!」と心中で叫んでいました。どうしてこんな表情が描けるのか、そもそも思い浮かぶのか、サッパリわかりません。誠に鬼才です。

f:id:hanyu_ya:20200728010712j:plain伊藤若冲「柳に鶏図」。こんな鶏を描くのは若冲だけだと思います。

f:id:hanyu_ya:20200728010856j:plain橋本関雪「睡猿」。長谷川等伯に匹敵する猿だと思いました。

 

 全体的に巧いと思う絵が多くて見ごたえがありました。たまたま時間があったから訪れた美術館でしたが、思わぬいいものに出合えて、大満足でした。

京都寺社遠征 その1~本能寺、広隆寺、太秦映画村、建勲神社、平野神社

 実は12月にも京都へ行ってきました。

 

 私は伊達政宗が好きなので「戦国IXA 千万の覇者」というスマホゲームをしているのですが、ある日、私もよく舞台で見ているミュージカル俳優の加藤和樹さんが「イケメン戦国」の伊達政宗キャラクターボイスを担当していると知ったので、こちらもやりはじめました。「戦国IXA」と違って完全なる乙女ゲーですが、とりあえず待ち時間が長いときの暇つぶしにはなるので……御朱印待ちとか(笑)その「イケメン戦国」が本能寺や建勲神社を巻き込んでイベントをするというので、大いに気になり、これまでに瑞巌寺には行ったことがあっても本能寺には行ったことがなかったので、いい機会だと思い、足を運ぶことにしました。11月の遠征と一緒にできればよかったのですが、三十六歌仙絵巻展は24日までで、こちらのイベントは28日からだったので、2か月連続で出向くことになりました。

 

 12月8日の日曜までは紅葉シーズンでライトアップや特別公開も多いので、その期間は避けて、次の週の木曜の夜に伊丹に飛んで京都入りし、金曜の朝から動くことに。本能寺も建勲神社もフツーにガイドブックに載っている名所なので、土日はそれなりに混むだろうと思ったので。

 

 まずは、京都駅から市バスに乗って堀川蛸薬師バス停まで行き、やはりこれまで行ったことのなかった本能寺跡へと向かいました。織田信長ホトトギス三人衆の中では一番好きな武将なのですが、今の本能寺は信長最期の地ではなく、また旧社地はこのあたりなのですが、現在は石碑があるだけなので、どちらも興味が湧かず、そんなわけで両所とも今回が初訪問と相成りました。

 

 本能寺跡から烏丸通りに出て烏丸御池駅まで歩き、地下鉄に乗って京都市役所前駅で下車。地上に出ると、すぐにホテル本能寺があり、その脇道を通って奥に入ると、本能寺の宝物館にぶつかりました。いつのまにか境内で、目の前の宝物館や、すっ飛ばしてしまった総門も気になりましたが、まずはお参りだろうと思い、本堂へ。参拝を終えたので、次に御朱印をいただきに授与所へ行きました。

御朱印授与所前で出迎えてくれた明智光秀サン。2020年大河ドラマの主役、ゲーム内でも人気ナンバーワンの武将です。

もちろん織田信長サンもいました。なんせここは本能寺ですから。

 

 御朱印を待つあいだに、なんともカッコいいオフィシャルステッカーなるものを見つけたので、2枚購入。信長は好みではなかったので、光秀と森蘭丸バージョンを選びました。

 

 続いて、ここまで来たら信長公廟を無視するわけにはいかないのでお参りをし、その後気になっていた大寶殿宝物館を見学。ちょうど「カエルは観ていた」という展示をしていて、本能寺の変の前夜に危険を知らせるがごとく突然鳴きはじめたと伝わる「三足の蛙」の香炉をはじめ、信長や秀吉の書状など寺宝が公開されていました。その他、展示室の外ですが、館内にはステッカーの元絵も飾られていて、大きな絵で見るといっそう迫力があり、カッコよさが5割増しでした。

信長公廟。隣に本能寺の変で命を落とした家臣たちの供養塔があり、氏名一覧があったのですが、森兄弟の他、明らかに武士ではない黙阿弥などの名もあり、命を落としたのは武士だけではなかったのだと改めて思いました。信長近侍の茶坊主ならば致し方ない部分がありますが、本能寺の僧侶だとしたら気の毒なことです。黙阿弥サンといえば、「元の木阿弥」の語源となった筒井家当主の替え玉が有名ですが……。

墨絵師・御歌頭さん描く森蘭丸。隋心院にあった、だるま商店さん描く襖絵もそうですが、寺は今でも文化醸成の中心地ですね。新しいモノに敏感です。

 

 帰りは総門から出て「能」の字を確認してから、再び京都市役所前駅へ。

本能寺総門。火事に何度も見舞われたので、カタカナの「ヒ」が縦に二つ並ぶ漢字を避けて独特の「能」の字を使っていることは、よく知られるところ。

 

 地下鉄で終点の太秦天神川駅まで行き、地上に出て、すぐ近くの嵐電天神川駅から嵐山電車に乗り、太秦広隆寺駅で下車。イベントスポットである太秦映画村へ行く前に、駅前にある広隆寺に寄りました。受付で拝観料を払い、御朱印をいただいたことがなかったので頂戴し、さっそく新霊宝殿へ。この寺で建物内に入れるのはそこだけなので。

旧霊宝殿前の紅葉

新霊宝殿前の紅葉

 

 広隆寺といえば、なんといっても弥勒菩薩半跏思惟像――国宝第1号です。秦氏が建てた寺で藤原氏や徳川氏とは関係がないため、めったに訪ねませんが、弥勒菩薩像はやはりこの像を超えるものはないと思っています。広隆寺の新霊宝殿は、弥勒菩薩は少々遠いですが、その他は国宝・重要文化財級の仏像でもわりと近くで見られるので、ありがたいです。神護寺薬師如来も、泉涌寺楊貴妃観音も、どんどん距離が遠くなりましたから……。弥勒菩薩が常設で、基本的にいつ行ってもお姿を見られるのも嬉しいことです。

 

 広隆寺を後にし、太秦映画村に向かっていると、途中いかにも古そうな神社を発見。近くに蚕の社(木島坐天照御魂神社)がある土地柄であることを考えると、とても無視できなかったので立ち寄りました。鳥居の前に、それだけやけに新しく立派な由緒書が建てられていたので読むと、なんと式内社の大酒神社とのこと。自分のことながら、神社オタクの勘は侮れないと思いました。だてに全国津々浦々巡ってはいません。

大酒神社鳥居

由緒書

 

 私の神社巡りは式内社が中心ですが、それは縄文時代研究のフィールドワークの一環で、神代の聖跡を起源としている可能性が高いからです。大酒神社は式内社ではありますが、由緒書にもあるとおり、祭神は秦始皇帝、弓月王、秦酒公――つまり、大陸から渡来してこの地に根を張った秦氏の祖先です。なので、正直に言って興味がなく、あえて訪れる気はなかったので、こんな偶然でもなければお参りすることはなかったと思います。松尾大社や月読神社、蚕の社は重要スポットなので、機会があれば何度でも行きますが。

 

 太秦映画村は、花見茶屋で「イケメン戦国」のコラボメニューを出しているというので、ランチを食べに行きました。別途2,400円の入村料を払わなければならなかったので、内容のわりに高いランチになりましたが(笑)。でも、こんな機会でもなければ映画村に来ることなどないだろうと思ったので、怖いもの見たさみたいなところもあって行ってきました。当然のことながら、修学旅行で来たときとはずいぶん違っていました(いつの話……)。

コラボメニューの光秀セット。単なるキツネそばとちまきですが、一緒に頼んだ謙信甘酒に梅干しが付いていたので、そばに入れて梅きつねそばにしました。

かなり気合が入った店内。ここまでやるかという気もしましたが……いろいろな意味で勉強になりました。やるなら中途半端はダメ、とか。

 

 食事後、村内をぐるっと一周したあと、映画村を出て太秦広隆寺駅まで戻り、再び嵐電に乗車。帷子ノ辻駅北野線に乗り換え、終点の北野白梅町駅で下車し、市バスに乗って船岡山バス停まで行き、建勲神社へと向かいました。バス停から船岡山北参道入口までは歩いて2、3分ですが、神社は山の上にあるので、そこから登り坂になり、計10分ほどかかります。

船岡山北参道の紅葉

 

 船岡山には、応仁の乱の時に西軍の陣となった船岡山城が建設され、それゆえこのあたり一帯は「西陣」と呼ばれるようになったそうです。ということで、現在国の史跡にも指定されていますが、『枕草子』にも地名が出てくるので、それ以前から都人にとって特別な場所だったと思われます。また、現在は建勲神社の摂社ですが、平安京建都時に玄武大神を祀ったことが起源である船岡妙見社も存在します。よっておそらく神代の神に関わる山城国の聖地の一つだったのではないかと思います。下鴨神社がある糺の森のような。

 

 京都は盆地であり、京都タワーのような高層建造物などない古代においては近くに他にランドマークになりうる場所がありません。そんな中にあって船岡山は、鴨川と賀茂川が出合う糺の森に匹敵するほどわかりやすい地形であり、宮を造るにしろ墓を造って祭祀を行うにしろ、これほど最適なところはないと思います。『徒然草』には鳥辺野と並ぶ都の代表的な葬送の地と書かれていることを思い合わせると、古代に神上がって神となった何者かの葬地だからこそ、のちの世でも葬送の地とされてきたのではないかという気もします。確認不足で考察にもなっていない、あくまで想像ですが。

船岡山公園から見える東山連峰。左が比叡山で右が大文字山。これだけ展望がよい場所が放っておかれたはずがないので、古代に宮が築かれ、それがのちに祭祀が行われる聖地となり、聖地が葬送の地になり、葬送の地だから特にその後は何も建てられなかったのが、応仁の乱に至って聖地だろうが葬地だろうがかまっていられなくなり、見晴らしがよく軍事的拠点にふさわしい地に船岡山城が建てられたというところではないでしょうか。寺社仏閣も容赦なく被害に遭った時代なので。

 

 船岡山公園から建勲神社に行き、参拝後、前回来たときには、へし切長谷部の特別朱印しかいただかなかったので、今回は建勲神社御朱印をいただきました。

山城国船岡山建勲神社境内図。

紅葉に目もくれず、そっぽを向く狛犬。織田木瓜紋にふさわしい潔さを感じます。

建勲神社では、またまた信長サンが出迎えてくれました。当社の御祭神です。

 

 その日は嵐山の花灯路の初日で、夜には嵐山に行くつもりだったので、北野白梅町駅から嵐電に乗るため、船岡山バス停に戻り、バスに乗車。けれども花灯路の点灯や夜間特別拝観は5時からで、このまま行ってもまだ時間的に早く、かつ観光客で激混みの嵐山で時間をつぶすのは気が進まなかったので、急きょ思い立ってわら天神前バス停で下車し、平野神社に寄ることにしました。

 

 平野神社式内社で、それも名神大社なので、もちろん過去に訪れていますが、前に来たときは桜の季節だったので、全然印象が違いました。桜が神紋なので、昔から桜の木が多く奉納植樹され、平安期から桜の名所として名高く、現在は60種400本に及ぶそうですが、今は花もなく人もなく(十月桜がちらほら咲いていましたが……)、しかも拝殿は台風21号の被害を受けて倒壊……悲しすぎました。

平野神社拝殿

 

 とりあえず参拝して御朱印をいただくと、以前来たときにひととおり境内は巡って摂末社なども全部チェックしていたので切り上げて、再びバスに乗り、北野白梅町へと向かいました。北野白梅町バス停で降りて、北野白梅町駅から嵐電に乗り、帷子ノ辻駅で嵐山行きの電車に乗り換え、終点の嵐山駅で下車。平野神社を予定より早く出たので、4時には到着しました。定刻どおりの運行なら、それぐらいに着くことはわかっていたので、電車に乗っているあいだ、さて5時までどうしようかと悩み、スマホでいろいろと検索していたら、11月に若冲の最初期の彩色画作品が発見されたことで話題となった福田美術館が渡月橋からそう遠くないところにあるとわかったので、そちらに行ってみることにしました。

嵐山駅には森蘭丸サンがいました。本能寺の蘭丸と違いすぎ(笑)。

川合玉堂と澤乃井と御嶽山の秋

 11月29日の金曜日は、平日ですが仕事を休みにして、悠々自適な句会仲間と秋恒例の紅葉狩り御嶽山に行ってきました。

 

 その日は御岳駅に10時半集合だったのですが、メンバーの一人が電車遅れで青梅駅での接続がうまくいかず遅刻。青梅線の場合、1時間に1、2本なので、次の電車が来るのは40分後で、駅前に時間をつぶせるような店もなかったので、駅前交差点の橋を渡ったところにある玉堂美術館へ行くことにしました。

f:id:hanyu_ya:20200105191513j:plain玉堂美術館の庭

 

 小さいながらもなかなか見ごたえのある美術館だったので、十分満足して駅に戻り、メンバーが揃ったところで、バスに乗ってケーブルカー乗り場へ。

f:id:hanyu_ya:20200105191630j:plain玉堂美術館から駅に戻るときに通った多摩川べりから見上げた御岳駅の前にある橋。下から見て、アーチ橋であることを知りました。

 

 ケーブルカーで滝本駅から御嶽山駅まで行き、そこからさらにリフトを乗り継いで大展望台駅に到着。この時点で12時近く、15時から澤乃井の酒蔵見学の予約を入れていたので、御嶽神社まで行っている時間はないのでは――ということになり、展望食堂で食べ物を調達し、外のベンチで酒盛りをすることに。その日はメチャメチャ寒かったのですが、雨上がりの晴天で、空気が澄んでいて気持ちよかったので、熱いおでんやラーメンをつまみに飲む日本酒は最高に美味でした。とはいえ、しばらくすると日陰で座り込んでいるのも辛くなってきたので、紅葉を求めて近くの産土社へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20200105192159j:plain産土社付近から見える御嶽神社。かなり距離あります。

f:id:hanyu_ya:20200105192335j:plain青空に映える赤もみじ

 

 御嶽神社の元宮と思われる産土社に参拝し、周囲を散策したあとリフトで降りると、滝本行きケーブルカーの出発時間までけっこう時間があり、かつ冷気に負けて飲み残した四合瓶もあったので、近くにあるテラスみたいなところで、またまた酒を飲むことに。

f:id:hanyu_ya:20200105192459j:plain御嶽山駅近くから見える山並み

 

 四合瓶を空にして、ケーブルカーで滝本駅に降り、バスで御岳駅バス停まで戻ってくると、多摩川沿いに整備されている御岳渓谷遊歩道を歩いて、沢井にある小澤酒造へ。

f:id:hanyu_ya:20200105192635j:plain色づいていても赤みのない色合いは、これぞまさしく玉堂色という多摩川岸の木々。

f:id:hanyu_ya:20200105192828j:plain秋晴れの御岳渓谷

f:id:hanyu_ya:20200105192947j:plain少し青空が夕景になってきました。

 

 酒造見学後、川沿いに造られた「清流ガーデン澤乃井園」のオープンテラスで、暮れゆく渓流を眺めつつ澤乃井の熱燗を飲み、陽が落ちて店も閉まったところで引き上げ、まだ5時過ぎだったので、立川で途中下車し、駅近くの大衆飲み屋で打ち上げをして終了です。

f:id:hanyu_ya:20200105193453j:plain澤乃井の酒蔵

f:id:hanyu_ya:20200105193413j:plain「清流ガーデン澤乃井園」から見える渓流風景

 

 ……ということで、例によって以下は句会に提出したヘボ歌三首。なんとか年内にということで、大晦日ギリギリ、実家へ向かう新幹線の中で仕上げました。

 

  玉堂の色はこれだと知らしめる

    御岳の山の秋の彩り

 

  

 

  山の上 吐息も白き 空の下

    友と呑む酒 寒さ忘れる (束の間)

 

  

 

  大都会 見下ろし思う ビル群も

    わが身も所詮 蟻と変わらず

令和の大嘗宮

 11月24日の日曜日に、大嘗宮を見に皇居へ行ってきました。この先二度と見る機会はないだろうと思ったので。日比谷駅のB6出口で中学時代の友人と待ち合わせ、合流後坂下門へ。前日まで雨が降り、乾通りの一般公開もまだ始まっていなかったので、それほど待たずに入れました。セキュリティチェックが厳しいため、入場までそれなりに時間はかかりましたが。

f:id:hanyu_ya:20200105162851j:plainB6出口近くの二重橋濠。色づいた並木とビル群が水面に映っているのが、怪しげな曇り空もあいまって、なんともシュール。友人を待っているあいだに外国人観光客に撮影を頼まれ、スマホを縦に横にの希望があり、8回ほどシャッターを押しました。外国人の眼にもインパクトのある風景だったのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20200105162951j:plain江戸城本丸跡に造られた大嘗宮に行くあいだに通り過ぎた富士見櫓。下から見ると、なかなか威圧感があります。

f:id:hanyu_ya:20200105163034j:plain本丸休憩所に置かれていた大嘗宮の模型

f:id:hanyu_ya:20200105163129j:plain大嘗宮前の人垣はこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20200105163222j:plainいよいよ近づいてきました。

f:id:hanyu_ya:20200105163300j:plain大嘗宮小忌幄舎。柴垣にあしらわれているのは椎の枝だそうです。

f:id:hanyu_ya:20200105163505j:plain大嘗宮正面。鳥居の扉がこんなふうになっていることが知れただけでも見に来た甲斐がありました。

f:id:hanyu_ya:20200105163602j:plain大嘗宮主基殿。長らく神社巡りをしていますが、二本組の鰹木なんて初めて見ました。これは8本なのか、はたまた5本なのか……他では見られないことに何か意味があるのか……奥が深いです。

 

 大嘗宮を見終わったあとは、二の丸庭園、三の丸尚蔵館に寄り、大手門から出て東京駅まで歩きました。

f:id:hanyu_ya:20200105163653j:plain二の丸庭園の諏訪の茶屋

 

 友人が5時から汐留の自然薯料理屋を予約しておいてくれたのですが、まだ時間があったので、丸の内のKITTEの中にある東京大学がやっている博物館を見ることに。ここのミュージアムショップで売っている「乾杯」というアミノ酸サプリメントが飲みすぎに効くような気がして、近くに来ると買って帰るのですが、時間に余裕があればついでに博物館も見学することにしています。入場無料の上、東京駅前とは思えない、ちょっとした異空間なので。

 

 用が済んだあと山手線で新橋駅まで行き、店が思ったより駅近で幾分まだ早かったので、時間つぶしに汐留シティセンターのスタバでコーヒーを飲み、開店と同時に入店。飲み放題だったので、レモンサワーをお代わりしつつ、自然薯を堪能し帰ってきました。

京都・奈良寺社遠征 その3~醍醐寺、勧修寺、隋心院

  11月3連休の三日目――4日の振替休日は醍醐寺に行きました。上醍醐准胝堂が西国三十三所の第11番札所なのですが、3日と4日の二日間、月巡り巡礼の法要が行われるというので。

 

 月巡り巡礼というのは、西国三十三所草創1300年記念行事の一環で、第1番札所の青岸渡寺から始まって、毎月寺替わりで順々に行われる特別法要のことです。2019年11月は第11番札所の醍醐寺、12月は第12番札所の岩間寺というように、札所の順に持ち回りで行われ、法要がある日は観音菩薩像をイメージした特別な御朱印が授与されます。

 

 ――ということで、法要が始まる1時間前の9時半前に到着し、下醍醐から上醍醐まで1時間かけて歩く覚悟だったのですが、行ってみると、法要は下醍醐観音堂で行われるとのこと。しばらく来なかったので、すっかり失念していましたが、上醍醐准胝堂が数年前に火事に見舞われたことを思い出し、結局全焼して、その後再建されていないことを、そのとき初めて知りました。

 

 醍醐寺は私にとって特別な寺なので、三十三所巡りとは関係なく過去に何度か訪れ、上醍醐にも行ったことがあるのですが、仁和寺と同じく、行けば軽く3、4時間は費やす寺なので、時間に余裕がないと行く気がせず、10年以上足を運んでいませんでした。とはいえ、西国三十三所の札所なので、1300年記念の御朱印をいただきに近々行くつもりではいたのですが、上醍醐まで行かないといただけないと思っていたので、億劫で、なかなか足が向かず。伽藍は以前に下醍醐上醍醐も全部巡って見ていて、何度でも見たいものといえば五重塔ぐらいでしたし……。なのですが、今回は特別法要&特別御朱印授与の他、国の特別史跡であり特別名勝でもある三宝院の特別公開があって、霊宝館でも特別展開催中という“特別”の大盤振る舞いだったので、またまた行くなら「今でしょ」と思い、出向きました。

 

 観音堂へ行くと、早くも長蛇の列が見え、先頭が見えないので何の列かわからなかったのですが、おそらく御朱印の列だろうとあたりをつけて並ぶことに。次から次へと人が来るので、前のほうに確認に行っていると、そのあいだに人が増えて、さらに順番が遅くなるので。堂内では着々と法要の準備が進み、10時半になって時間どおり始まりましたが、御朱印授与所まで辿り着けず。けれど、あと3、4人というところだったので、順番待ちをしながら読経を聴いていました。

醍醐寺観音堂。行列は御朱印の順番を待つ人たち。

 

 結局1時間ほど並び、法要の最中に人前を通って席には着けないので、邪魔にならない所に立って10分ほど観音経を聴き、混雑を避けて、法要が終わる前に観音堂を出ました。前日に続く立ちっぱなしの御朱印待ちで、朝から疲れたので、弁天堂の近くにある御休み処「阿闍梨寮 寿庵」でひと息入れようと思いましたが、残念ながら開いていなかったので、霊宝館エリアにあるカフェレストランへ行くことに。

醍醐寺弁天堂。右に見えるのが「阿闍梨寮 寿庵」。かつては高僧の宿舎だったそうです。

弁天堂前の橋から見る観音堂

 

 霊宝館の受付を入り、霊宝館の玄関の向かい側にあるお土産屋の隣にあるフレンチカフェ「ル・クロ スゥ ル スリジェ」は、2年ぐらい前にできた店で、大いに気になっていたので、まだ11時過ぎでしたが、ランチメニューができるというので食事をすることにしました。前日の三輪そうめんもそうですが、ホテルが朝食なしの場合、朝はコーヒーぐらいで済ませ、朝昼兼用の食事をがっつり食べることにしています。いわゆるブランチです。日頃の生活も、夜に飲み会でもなければ、昼食の比重が一番大きいし、人と時間がずれていると店も空いていて、入りやすいので。なので、昼は11時、夜は5時ぐらいに食事をすることが多いです。気に入れば、アルコールを飲みつつ、1時間以上は飲み食いしますし。もちろんこの日もグラスワインとランチコースを頼み、食後にコーヒーを追加し、1時間半ほどダラダラと食事をしました。居心地が良かったので。

「ル・クロ スゥ ル スリジェ」の薬膳カレーのランチコース。さりげなく小鉢の色でトリコロールが表現されているのが心憎いです。

 

 お腹がいっぱいになり、休憩も十分に取り、しばらく立ちっぱなし歩きっぱなしでも休まなくていいだろうというぐらいに体力も回復したので、霊宝館に行きました。ここには私の一番好きな不動明王像である快慶作の不動明王坐像があるので、久しぶりに会えると思うと自然に気合が入りました。前回見られると思って来たのですが、見られず、いつでも見たいときに見られるものではないものなのだと思い知らされて帰りましたから……。

秋期特別展の主な展示品

 

 昔、仏教美術関連の仕事をしていたときに、仏像も見まくり、薬師如来なら神護寺仁和寺、四天王なら東寺、十二神将なら室生寺と、数ある仏像の中から自分のお気に入りを見つけました。そうした中で、不動明王については、醍醐寺の快慶作がベストだと思っています。その他の五大明王は東寺の像がベストだと思っているのですが……。

 

 不動明王は怖ろしい憤怒の顔をしていると仏典に書かれているので、牙をむき、片目を見開いている、美醜でいえば、どちらかといえば醜悪な形相で表されることが多いのですが、快慶の不動明王はその特徴を無視したもので、しかも表情だけでなく容貌自体にも快慶特有の端整さがあるので、本当にカッコいいです。柔和な表情であることが多い如来像や菩薩像とは違う、力強さをともなう美しさがあり、その点は興福寺の阿修羅像に通じます。阿修羅もそうですが、戦いや争いの中に身を投じなければならないゆえに備わる強さと、その荒々しさとは相反する美しさを併せ持つ存在は切なさを漂わせるので、そこにもある種の美を感じます。

 

 霊宝館を堪能したあとは、特別公開中の三宝院へ。私の主目的は観音堂と霊宝館だったので、もはや気が抜けたようになっていましたが、圧倒されるような仏像群を見たあとに眺める、陽光に輝く秋晴れの日の庭園は、爽やかで美しく、解放感があり、心が洗われるようでした。その様はまさしく疑似極楽浄土。昔の人々が庭園というものに何を求めたのか、わかるような気がしました。だから寺には名庭と呼ばれる庭園が数多く造られてきたのでしょう――仏像と同じく、心の安らぎ、安寧をもたらすものとして。

醍醐寺三宝院表書院(国宝)から見る庭園

醍醐寺三宝院本堂(重要文化財)から見る純浄観(重要文化財)と庭園

醍醐寺三宝院玄関(重要文化財)に飾られた生け花

醍醐寺三宝院唐門(国宝)。金が目に痛いくらい眩しかったです。

 

 先にも書きましたが、私にとって醍醐寺は特別で、京都で好きな寺と言われれば、1番2番に挙げる寺です。醍醐寺泉涌寺金戒光明寺仁和寺神護寺がトップ5といったところでしょうか。次点で延暦寺、東寺、廬山寺、鞍馬寺清水寺といった感じです。つまり、鎌倉時代以降に創建された寺には興味がないということです。それは京都に限らずですが……。総本山や徳川やら何やらに関係する寺はそれなりに興味があるので、基本的に――ではありますが。西国三十三所を巡っているのも、私が興味を持っている時代からあった古い寺だからです。

 

 中でも醍醐寺は、醍醐天皇ゆかりの寺で、五重塔は私が大学時代に研究対象としていた醍醐天皇第三皇子――代明親王の発願で建てられたもの。親王を偲ぶ唯一の歴史的遺物なので、見るたびに感慨をおぼえます。

醍醐寺五重塔(国宝)。京都でもっとも古い五重塔です。

 

 時平の妹である穏子を母に持ち、時平の娘を妻とした第二皇子保明親王や、時平の弟である忠平の娘を妻とした第四皇子重明親王の消息は摂関家の資料からもうかがえますが、摂関家ではない藤原定方の娘を妻とした代明親王のことはほとんど辿れず、わずかながらも親王の為人が想像できる資料が、鎌倉時代に編纂された『醍醐寺雑事記』でした。醍醐寺の歴史を綴った書です。

 

 何故代明親王に興味を持ったかというと、親王には3人の息子と3人の娘がいるのですが、これがみなよくできた子女で……長男は正三位権大納言、次男は従二位中納言、三男は従三位権大納言、長女は摂政正室、次女は女御、三女は関白正室という、一点の曇りもないきらびやかな一家で、こんな華やかな家族は摂関家にも例がなかったからです。しかも、代明親王は実家も婚家も摂関家と縁がないばかりか、本人も34歳の若さで亡くなっていて……ということで、父に早くに死なれた子供たちが、血縁者の有力な後見がないのに落ちぶれることなく、ここまで栄達しているのが不思議でたまらず、調べまくりました。ちなみに、長女は行成の祖母、三女は公任の母、次女は具平親王の母――当時才人として一目置かれていた人物はみな代明親王の血筋です。摂関家がらみのこの血縁関係を見ると、醍醐天皇の皇后で、朱雀・村上両天皇時代に母后として絶大な権力を有していた穏子の意向があったのだろうと結論付けましたが、何故穏子がもっと自分と縁の深い摂関家ゆかりの藤原北家嫡流筋の子供たちを差し置いて代明親王家の子女を取り立てたのか……までは分析しきれていません。隠居して自由な時間が増えたら、もう一度一から洗い直して考察してみたいですね。

 

 三宝院を見終わったあと、醍醐寺で今回の遠征のミッションは完了だったので、新幹線の時間を早めて帰ろうと思い、エクスプレス予約で検索したのですが、指定席の空きがなくて、予約の変更ができず。仕方がないので、当初の予定どおり6時過ぎの新幹線で帰ることにしましたが、人の多い洛中に戻る気にはなれず、周辺案内図を見ると、山科川を越えたところに明智光秀の胴塚があるみたいなので、そこに寄りつつ、歩いて勧修寺へ行くことにしました。珍しく時間に余裕があったので。

 

 山科川のほとりを歩き、渡れるところで橋を渡り、スマホの地図を頼りに歩いたのですが、塚らしきものは一向に発見できず。そうこうするうちに神社が現れて、GPSの位置情報で調べると八幡宮で、参道の鳥居の向こう側にある道を越えれば勧修寺という場所でした。ここまで来て同じ道を引き返すのも面倒だったので、光秀の胴塚はあきらめ、道を渡って勧修寺に向かうことにしました。

 

 勧修寺は醍醐天皇の生母胤子の外祖父である宮道弥益の邸を寺としたのが起源で、胤子の父藤原高藤と母宮道列子のなれそめの話は『今昔物語集』にも載っていて有名なので、かなり昔に一度訪れ、しかし庭園しか見られないので、その後再訪することはなく、今回が二度目の訪問でした。庭園の入口で入園料を払って庭園だけ見るのは前と変わりありませんでしたが、昨今の御朱印ブームのおかげか、塔頭の佛光院で勧修寺の御朱印もいただけるようになっていて、金字で書かれた天皇陛下御即位記念の特別御朱印を頂戴してきました。

勧修寺庭園にあるさざれ石付近の紅葉

さざれ石

勧修寺庭園についての説明文

勧修寺の現在のシンボル、観音堂。昭和初期に建てられたものです。

台風21号の被害を受けてブルーシートがかけられたままの本堂

勧修寺の近くにある宮道神社ヤマトタケルと、その子ワカタケルが祭神とのこと。

宮道神社由緒碑。宮道氏の祖がヤマトタケルとは知りませんでした。

 

 まだ時間があったので、次に隋心院へと向かいました――もちろん徒歩で。高光の多武峰に続く、三十六歌仙ゆかりの地巡りです。

 

 隋心院は一条天皇の時代に小野氏の邸宅横に建立された寺とのこと。小野小町の没年は不明なので、その時に彼女が生きていたかどうかはわかりませんが、仕えた仁明天皇の死後、宮中を退いた小町が暮らし、深草少将が九十九夜通ったのは、この寺の隣にあった邸宅だそうです。

 

 前にも書いたような気がするのですが、百人一首で一番好きな歌が小町の歌で、学生の頃には何とも思わなかった「花の色は~」の歌が、ある日ストンと心に落ちてきて、「うわぁ~、まさにそのとウり!(榎木津風)」と驚き、思わず身震いをおぼえたほどです。共感できる心情をあまりに的確に表現していて、それでいて花になぞらえることで、美しい言葉を使うことで、辛気くささを感じさせないようにしている流暢で巧妙な歌であることがわかり、その凄さにどこか打ちのめされたような気分になりました。改めて小町の偉大さを実感し、女性でただひとり六歌仙に選ばれている理由がわかったような気もしました。なんせ「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに」ですから……。怨霊になるにふさわしい激情家である崇徳院のストレートすぎる「瀬をはやみ~」や、三舟の才を誇る公任ならではの技巧を駆使した「滝の音は~」も好きですが、小町のこの歌には到底かないません。

 

 隋心院でも新天皇陛下御即位記念の特別御朱印があったので、いただいてきました。勧修寺も隋心院も門跡寺院だからかもしれません。それと、隋心院発行の「小野小町と隋心院」という冊子も購入。冬嗣やら良房やら藤原摂関家のことも書かれていたので。

小野小町歌碑。後ろ姿は佐竹本の絵を思い出させます。

隋心院本堂の手前にある能之間に奉納されている襖絵「極彩色梅匂小町絵図」

「極彩色梅匂小町絵図」の解説

 

 隋心院を出ると、寺社仏閣はそろそろ閉門という時間になったので、閉門時間がない醍醐天皇陵と朱雀天皇陵が歩いて行ける距離にあったので立ち寄り、醍醐寺まで戻って、醍醐寺バス停からバスに乗ることに。次に来たのが山科駅行きだったので、山科から電車で京都駅に戻ることにしました。

醍醐天皇後山科陵

朱雀天皇醍醐陵

 

 京都駅に戻ると、八条口前のホテルに預けてあった荷物を引き取り、タカラ缶チューハイ湯葉きのこを調達して、新幹線に乗車。今回も無事に遠征終了です。

京都・奈良寺社遠征 その2~大神神社、談山神社、興福寺

  あけましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いします。

 

 ……ということで、2020年も明け、周回遅れもいいところですが、引き続き2019年の備忘録を続けます。

 

 11月3連休の二日目は、悩んだ末、奈良に行くことにし、まずは多武峰談山神社へと向かいました。当社は藤原鎌足を祭神とする神社で、神代の聖跡というわけではなく、なおかつ時間があったら寄るというような気軽に行けるところではないので、今まで行ったことがなかったのですが、2019年は鎌足の没後1350年で、ちょうど「ザ・カマタリ!」という社宝特別展が開催されていたので、行くなら「今でしょ」と思い、足を運びました。折りしも前の日に京博で藤原高光の絵を見たあとだったので、多武峰少将と呼ばれた彼の隠遁先を見ておくのもよいか――とも思いました。

 

 「談山」という社名は、鎌足中大兄皇子(のちの天智天皇)と大化の改新について談合を行ったことに由来するそうで、鎌足の死後、長男の定慧が墓をこの山に移し、十三重塔を建立して父を祀ったのが当社の起源とのこと。ということで、山の上なので、アクセスは公共の交通機関だと桜井駅からバスで約30分。しかも1~2時間に1本ぐらいしかない路線なので、この日は多武峰に行って夜までに京都に戻れればいいぐらいの気持ちで行きました。

 

 とりあえず乗ろうと思ったバスは電車からの接続がギリギリ間に合うかというところで、1本早いバスは1時間近く待ち、1本遅いバスは2時間後だったのでチャレンジしたのですが、間に合わず。紅葉シーズンなので、運よく臨時便でも出ていれば乗ろうと思っていましたが、そんな都合のいいものもなく、調べたとおり、次のバスは2時間後だったので、乗りそびれた場合の当初の予定に沿って、JR線で桜井からひと駅の三輪まで行き、三輪そうめんを食べることにしました。大神神社の二の鳥居の近くの店に入り、まだ空いていたので、けっこうのんびりと食事をしたのですが、11時半を過ぎると混みはじめたので店を出、それでもまだ時間があったので、大神神社にお参りすることに。

f:id:hanyu_ya:20200103230512j:plain三輪そうめんと柿の葉寿司のセット。奈良グルメのド定番。

 

 大和一宮で名神大社でもある大神神社はすこぶる重要な神社で、背後の三輪山登拝はもちろん、摂末社は何年か前にすべて巡っているので、今回は拝殿に参拝し、御朱印をいただいて終わり。御朱印は以前来たときにも頂戴しているのですが、即位記念の特別印かもしれないと思い、時間もあったので列に並んでみました――残念ながら普通でしたが。まあ、ここの祭神はアマテルではなくソサノヲの末裔で、どちらかといえば伊勢系ではなく出雲系なので、さもありなんという気分。

f:id:hanyu_ya:20200103230709j:plain大神神社拝殿

 

 ちなみに、当社の祭神は大物主大神。初代大物主はソサノヲの息子で、オホナムチ=大己貴と呼ばれたクシキネですが、その息子で、大和の国を治めたヲコヌシ=大国主こと二代大物主クシヒコは、神上がる(=亡くなる)ときにこの地を守る神となるべく三輪山の洞に入りました。それゆえ三輪山は神が坐す神奈備山として崇められ、山を御神体として祭祀が行われてきました。それが神社以前の聖地としてのそもそもの起源です。

 

 「大物主」とは役職名なので大物主大神に該当する人物は何人かいるのですが、大神神社主祭神の名は「倭大物主櫛𤭖魂命」とされています。これは、倭=ヤマトの大物主である櫛𤭖魂=クシミカタマの命=ミコトという意味の名なので、『ホツマツタヱ』に登場するクシミカタマのことになります。彼は五代大物主で、その妹であるタタライスズヒメは初代神武天皇の皇后なので、神武の義兄にあたります。

 

 そして、『古事記』で三嶋湟咋の娘、勢夜陀多良比売に通い、比売多多良伊須気余理比売を生ませたとされる美和(三輪)の大物主の話は、『ホツマツタヱ』では弟ミシマ(ミノシマ)の娘であるタマクシヒメを妻とし、タタライスズヒメをもうけたツミハの話になっています。一方『日本書紀』では、大物主ではなく事代主が三島溝橛耳神の娘である玉櫛媛に通って媛蹈鞴五十鈴媛命を生ませたとあるので、この話の主人公は大物主ではなく、大物主の代行である事代主を務めたツミハということでほぼ間違いありません。つまり、五代大物主クシミカタマの名を持ち、なおかつクシミカタマの父である事代主ツミハのエピソードを持っている大物主大神とは、クシミカタマであり、なおかつツミハでもあるということになります。……ではあるのですが、クシヒコが入った洞の場所には、目印として真っすぐな杉が植えられたと『ホツマ』に書かれています。なので、三本杉が大神神社の神紋である以上、当社の本来の祭神はクシヒコであると考えてよいと思います。それに、クシミカタマは境外摂社である日向神社に「櫛御方命」として、ツミハは同じく境外摂社である率川阿波神社に「事代主神」として祀られています。いずれも式内社で、大神神社末社ではなく摂社であるという事実こそが、今は小さな神社の主祭神であっても、櫛御方命ことクシミカタマ事代主神ことツミハが、大物主大神とゆかりの深い重要な神であることを教えてくれます。ちなみに、彼らの系譜を書くと次のとおり。

 

 ソサノヲ――クシキネ――クシヒコ――ミホヒコ――ツミハ――クシミカタマ

 

 その後、土日祝日しか開いていない宝物収蔵庫を見学したあと、JR線で桜井駅に戻り、駅からバスに乗って談山神社へ。終点で降りて歩き、受付で拝観料600円を払って入山。その日は年中行事のけまり祭が行われる日でしたが、11時からとのことですでに終了し、人もあまりいませんでした。受付で訊いたところ、「ザ・カマタリ!」は拝殿で開催されているというので、神廟拝所、十三重塔を経て、拝殿へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20200103231011j:plain談山神社境内案内図

f:id:hanyu_ya:20200103231105j:plain談山神社神廟拝所と神廟である十三重塔

f:id:hanyu_ya:20200103231154j:plain神廟拝所内に祀られていた祭神鎌足の御神像

f:id:hanyu_ya:20200103231252j:plain神廟拝所内に飾られていた狩野重信筆の三十六歌仙扁額より藤原敦忠北野天満宮の扁額とはまた違った味わいがあります。

f:id:hanyu_ya:20200103231352j:plain鎌足の二人の息子――定慧と不比等によって建立された十三重塔。現在の塔は室町時代に再建されたものですが、木造十三重塔としては世界唯一だそうです。重要文化財

 

 拝殿入口にある授与所で御朱印をいただいたあと、靴を脱いで昇殿し、まずは本殿に参拝。それから殿内で公開されていた展示品を見てまわりました。その中に住吉如慶・具慶合筆『多武峰縁起絵巻』という作品が展示されていて、それがとても興味深かったので、御守り授与所で売っていたカラーの現代語訳版を購入。ついでに、けまり祭の時にしか売っていないという「まりびと守」というものがあったので、そちらも買いました。私が買っているのを見て、参拝客の一人が興味を持ち、手に取っていましたが、同行者に「そんなもの買ってどうするの?」とたしなめられ、断念。自分が言われたようで、つい笑いそうになりましたが、こらえつつ、ひそかに心の中で「どうもしません、単に限定品に弱いだけです」とつぶやいていました。

 

 会計を待っているあいだに、吉野の金峯山寺で買った「くまぶしくん」によく似たクマのぬいぐるみを発見。「くまたりくん」と「かがみひめ」という名で、単品購入不可だったのですが、「そりゃ夫婦なんだから、一人じゃ可哀想か」と妙に納得し、そちらも追加購入。「くまたりくん」は言わずもがな、当社の祭神である鎌足をクマのぬいぐるみ化したものですが、「かがみひめ」はどう考えても彼の妻である鏡女王に由来するもの。特にそんなことは説明されていませんでしたが……。鏡女王といえば、私の大好きな額田王のおねーサン。ここで会ったのも縁のような気がして、かさばるけど持ち帰ることにしました。

f:id:hanyu_ya:20200103231848j:plain談山神社拝殿

f:id:hanyu_ya:20200103231444j:plain談山神社本殿。大宝元年(701)に創建され、現在の建物は19世紀半ばに建て替えられたもの。重要文化財

f:id:hanyu_ya:20200103231542j:plain特別展で展示されていた『多武峰縁起絵巻』より「談合の図」。多武峰山中で大化の改新についての密談をする中大兄皇子鎌足の場面。

f:id:hanyu_ya:20200103234012j:plain「くまたりくん」と「かがみひめ」。春日大社の神紋は下がり藤ですが、談山神社の神紋は上がり藤だそうで……どちらも藤原氏の家紋ですが。

 

 拝殿を後にし、途中すっ飛ばした権殿横にある境内社を見に行くと、鎌足墓所があるという御破裂山に登る山道があったのですが、鬱蒼として見るからに険しそうだったので、あきらめました。縄文時代の聖跡だったら根性で行ったと思いますが、予定外の買い物で手荷物も多くなっていたので……。

 

 ――ということで、境内で見るべきものは見たので、バス停へと向かうことに。バスの時間が合わなかったら、神社の前にある多武峰観光ホテルでお茶でも飲もうと思いましたが、急げば2時28分発に乗れそうだったので、参道のお土産屋も無視して小走りで直行しました。間に合って、3時過ぎに桜井駅に到着。時間的にもう一か所ぐらい行けそうだったので、とりあえずJR線に乗って京都方面に向かいつつスマホで検討し、興福寺に行くことにしました。前の年にも行っているのですが、なんと南円堂が特別公開されていることがわかったので。

 

 興福寺の南円堂は、草創1300年記念ということで、私が近年寺巡りをしている西国三十三所の第9番札所なのですが、基本的に毎年10月17日しか開扉しないという、遠方に住む者には非常に拝観が難しい札所で、阿修羅を見にたびたび興福寺を訪れている私ですら一度も御本尊にお目にかかったことはありませんでした。なにしろ10月17日に奈良にいなければ見られないのですから……もちろん曜日関係なく、です。それが今回北円堂とともに20日ほど特別公開されたのですから、これはもう行くしかありません。

 

 南円堂の御本尊は不空羂索観音で、康慶一門が手がけた坐像は国宝です。御顔の端整さ、光背の繊細さはいかにも慶派という感じで、威圧感のある像でした。御本尊をはじめ堂内の仏像は鎌倉時代に制作されたものですが、南円堂は嵯峨天皇の時代に藤原冬嗣が父内麻呂追善のために建立した建造物。もちろん何回か建て替えられて、現在は四度目の建物だそうです。ちなみに、冬嗣は鎌足の五世孫で、時平の曽祖父でもあります。

 

 北円堂は2018年の特別公開の時にじっくり見たので、今回はさらっと一周して終わり、堂を出てすぐに長い行列を成していた御朱印授与所の列に並びました。列の長さからかなり時間がかかるだろうと覚悟はしていましたが、拝観時間が終わっても、日が暮れて境内が夜闇に包まれても順番はこず、結局2時間待ち。私はそのあと特に予定もなく、京都のホテルに戻ればいいだけで、スマホをいじりながら待ち時間をつぶしていたのでよかったのですが、そんな時間的余裕がある人ばかりではないはずで、前に並んでいた年配のご夫婦なんか何度も娘さんらしき人から、まだかまだかという催促の電話がかかってきていました。奥サンが電話を受けるたびに一緒に並んでいる旦那サンに報告するので内容がわかってしまったのですが……。みんなよく粘ると心底感心する一方で、何やら一抹の怖さも感じました。恐るべし、御朱印ブーム。

 

 6時半ごろになんとか1300年記念の特別印入りの御朱印をゲット。興福寺に着いてから3時間以上立ちっぱなしで、さすがに疲労感もハンパなかったので、近鉄奈良駅からは確実に座れて乗り換えもない特急で京都に帰ることにしました。とにかく疲れていたのでアルコールを飲みたかったのですが、特急だと京都までの所要時間が30分強で、のんびり飲めないので、ホテルの部屋でゆっくり飲むことにし、京都駅到着後、駅構内のみやこみちでタカラ缶チューハイを買って、駅前のホテルに帰着。これにて日程終了です。

京都・奈良寺社遠征 その1~宝鏡寺、白峯神宮、京都国立博物館、二条城(付・藤原公任論)

 もう1か月以上前のことになりますが、自身の備忘録を兼ねて書いておきます(笑)

 

 先月の3連休は京都&奈良に行ってきました。11月の3連休の京都など人ばかりなので避けたかったのですが、特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」の会期中で、二泊三日で行ける日がそこしかなかったので仕方ありません。

 

 当初は土曜に京都で展覧会を観たあと、名古屋まで戻って泊まり、翌日から熊野に行って那智の滝のライトアップを見るつもりだったのですが、夜間の公共交通機関のアクセス手段はないということで断念。その後どこに行くか決まっていなかったこともあって、前日の金曜は仕事仲間に誘われたので飲んで帰り、翌土曜の2時ぐらいまでに京都に入れればいいと思っていたのですが、新幹線が満席で予約の変更ができなかったため、頑張って予定どおり10時半前ののぞみに乗りました。ということで、1時前には京都に到着したのですが、その日国立博物館は夜8時まで開館していたので、まずは夕方には閉まるところから行こうと思い、宝鏡寺へと向かいました。

 

 宝鏡寺和宮ゆかりの門跡寺院なのですが、どうせ行くなら人形展が開催されている期間がいいと思い、けれどもこの寺の人形展は毎年春秋2回開催されていて、この時に見に行かなければ今度はいつ見られるかわからないというようなものではなかったので、自分の中で優先順位が低く、そのため今まで行ったことがありませんでした。今回三十六歌仙絵が目的で、あとは特にこれといった目的もなかったので行ってみると、なんと「孝明さん」という御所人形に出合いました。その名のとおり、和宮の兄である孝明天皇ゆかりの品で、崩御後に形見分けで当寺に下賜されたとのこと。それまでこの人形の存在を知らなかったのですが、こんな物があるのなら、もっと早く来ればよかったと悔みました。孝明天皇の人柄が偲ばれるような、実に味のある素敵な人形だったので……。家茂の懐中時計などもそうですが、生前大切にしていて死後遺愛の品と呼ばれるような持ち物は、所有者の為人を表し、その人がどういう人物だったかを想像する手助けをしてくれます。イギリス製の懐中時計を愛用した家茂は、未知の物に対する好奇心があり、新しいものを受け入れることができる柔軟な心の持ち主だったのだろう――とか。なので、「孝明さん」もエピソードとして取り入れたかったと思いました。実に惜しいことです。

 

 宝鏡寺を後にし、さて次にどこへ行こうかと近くの名所をスマホで調べていたら、歩いていける距離にある白峯神宮で、オリンピック仕様の限定朱印帳というのを頒布しているという情報を得たので、行ってみることにしました。

 

 白峯神宮は本来、日本第一の怨霊ともいわれる崇徳院を祭神とする怨霊鎮めの役割を持つ御霊神社なのですが、今ではすっかりスポーツの神様。この時もちょうどラグビーワールドカップの会期中だったので、拝殿前には日本代表へ向けて寄書きされた応援大絵馬が設置されていました。

 

 摂関期を中心に平安時代が好きで、時平好きの私にとって、怨霊というものはもちろん無視できない存在なので、古くは長屋王から崇徳院まで興味を持ち、怨霊化した歴史的背景や目に見えぬ形のないものである怨霊の本質などを以前から調べていたので、ここへ来るたびに「何かが違う」と思っていたのですが、今回はそれを通り越して「平和だなぁ」と脱力してしまいました。そして「崇徳院もよかったなぁ、こんなに国民に親しく拝まれる神になれて」と思いました。日本の大魔縁となり天皇と皇民に祟ると言い残したのは三大怨霊の中でも崇徳院だけですから……。同じ三大怨霊といっても、道真は死後藤原忠平によって怨霊にされた非自発的な怨霊で、崇徳院は自ら成ると宣言して成った自発的な怨霊なので、性質が全然違います。道真には民に祟るほどの恨みはなく、後世で怨霊とされたことも、きっと不本意だろうと思います。

白峯神宮の大絵馬。個人的には違和感ありまくりでしたが、これもアリで、よいのだろうとも思いました。

 

 お参り後、目的の朱印帳とともに、『百人一首で京都を歩く』という本を購入。なんといっても崇徳院といえば、「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に逢はんとぞ思ふ」の歌の作者ですから……この歌にも執念深い性格が如実に表れていると思います。

 

 白峯神宮を後にすると、上京区総合庁舎前バス停から市バスに乗って祇園バス停まで行き、乗り換えて東山七条バス停で下車。今回の旅の主目的である京都国立博物館へと向かいました。

 

 定時閉館時間の前だからか、まだ人が多かったので、先に腹ごしらえをするため、まずは館内レストランの「ザ・ミューゼス」に行き、コーヒーを飲むぐらいでは人が引きそうになかったので、夕食には早い時間でしたが、食事をすることにしました。ハイアットリージェンシー京都がやっている店なので、もともとここで食べるつもりだったので。当初の予定どおりコースメニューと、食事なので白ワインを頼み、のんびりと1時間ほどかけて食事をし、5時過ぎに店を出て特別展会場に入りました。

デザートのアイスクリーム。チョコに描かれた虎は、京博の公式キャラクターの「トラりん」。

 

 いやぁ、壮観でした。大学時代も含めて昔は平安摂関期を研究していたので、『古今集後撰集』をはじめとする勅撰集や私家集などの歌集は当時を知る資料として外せず、手あたり次第に読み漁ったので馴染み深く、そのため六歌仙三十六歌仙といわれる歌人たちはわりと身近な歴史人物だったので、佐竹本に限らず三十六歌仙絵も好んで見てきましたが、今回の展示は分断され散り散りになった佐竹本が一堂に会することの凄さを十分に伝えてくれました。はっきり言って、藤原信実と後京極良経の書画よりも軸装に感動しました。あれほど表装に注目し、作品の一部分として意識して見たのは初めてでした。

 

 絵――特に西洋画は額まで含めて一つの作品だと思っているので、額装の状態で見たくて、好きな絵は実物を見に行くようにしているのですが、掛軸に関してはそこまで表装を気にしたことはありませんでした。ですが、今回同じ作者による、いわば同じシリーズの書画を並べられて、一幅の掛軸において表具がどれだけ作品全体の印象の決め手になるか――主役である画に与える影響の大きさを実感しました。そして、何でもアリな表装の奥深い世界にも魅了されました。私が大昔に博物館実習をしたときには、天地、中廻し、一文字、風袋というスタイルが定型という感じでしたが、そんな決まりごとは無視して、風袋なし、天地に襖絵だか屏風絵だかを使ったり、一文字に主役の画よりも古い時代裂を使うなど、それぞれに深いこだわりが見られて、歴史的に貴重な歌仙絵を手に入れて所有する喜びのようなものまで伝わってきました。展示替えの関係で、私が三十六歌仙の中で一番好きな藤原敦忠(時平の息子)が見られなかったのは残念でしたが、小町が見られたので、まあよしとします。

チケットなど、あっちこっちで見かけた佐竹本三十六歌仙絵の小大君。こちらの作品も敦忠と同じく後期のみの展示だったので見られませんでした。

 

 平安貴族スキーの私が、当時の歴史人物の中でも藤原時平藤原公任藤原行成が好きなことはたびたび触れてきましたが、実は三十六歌仙とは、和歌、漢詩、管絃のすべてに秀でた「三舟の才」で知られる公任が選んだ和歌の名人36人のことです。よって当然のことながら、彼より後の時代の人はいません。しかしこれが名歌人のスタンダードとなり、後世までその認識が受け継がれて、数々の歌仙絵が生まれました。

 

 ところで、何故私が公任を好きかというと、三舟の才という稀に見る才能の持ち主だからということはありますが、単にその事実だけではなく、彼の血筋と官歴を含めた生涯を考えたとき、その心内に思いを馳せると切なくなり、人間として興味があるからです。三舟の才も、これだけは余人に劣ることがあってはならないという譲れない気持ちの結果で、そこには凄まじいプライドの高さと壮絶な努力が透けて見えます。

 

 公任は父も祖父も曽祖父も五代前まで関白太政大臣という、都一といってよい名門の長男で、母は醍醐天皇の孫、姉は円融天皇の皇后であり、皇族を除けば並ぶものなき高貴な血筋の、生まれながらの貴公子でした。ちなみに父方の祖母は時平の娘なので、醍醐天皇の曽孫であると同時に時平の曾孫でもあります。

 

 ……なのですが、天運が味方せず、円融の皇后だった姉の遵子は皇子に恵まれず、格下の女御だった詮子が皇子を生み、その子が一条天皇として即位すると、詮子が皇太后となり、母后の権限でまだ幼い息子の治世に深く介入しました。その大きな政治的発言権を持つ皇太后が同母弟である道長を引き立てたので、それまで同い年でありながら明らかに出自の差、血筋の差で出世レースにおいて公任に大きく水をあけられていた道長が次第に台頭し、姉の後ろ盾のおかげもあって、あっという間に公任の官位を抜き去り、政権を握りました。その後、摂関職は道長の息子たちに受け継がれたので、公任は摂政・関白になれず、それどころか大臣職にすら至れず、大納言を極官として人生を終えました。摂政関白太政大臣家として五代続いてきた家柄が、自分の代で大臣家より下の納言家に落ちたのです。天皇を中心とした政治の世界で位人臣を極めることがすべての時代です。その心中を想像すると、ちょっと胃が痛くなります。

 

 三十六歌仙とはそんな公任が選んだ歌人たちなのです。だから歌人としては高名であっても現実的な官職においては不遇であるというような人たちや、一見華やかで、世間では恵まれた貴人として知られていても、陰りをまとい、後年や晩年は薄幸だったと思われる人物が取り上げられています。敦忠しかり、高光しかり。宮中の華だった小町や伊勢も同じです。公任が選んだのは、栄華の世界と、それがいつまでも続く絶対的なものではなく儚いものであることを知る人々の歌であり、この世の酸いも甘いも味わい、その両方を歌で表現することのできる歌詠みを選んでいるような気がします。まるで彼らの歌を通して、この世の光と影の存在を人々に知らしめるかのように。

 

 京博を出たあとは、清水五条駅まで歩いて京阪電車に乗り、三条京阪駅で地下鉄に乗り換えて、二条城前駅で下車。世界遺産登録25周年記念でライトアップとプロジェクションマッピングのアートイベント「FLOWERS BY NAKED」をやっている二条城へと向かいました。その日は月も美しく、夜の世界遺産を存分に堪能して、その日の日程終了です。

東南隅櫓

唐門

車寄

秋の月

二の丸庭園

清流園