羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

ネイサンとアリョーナ時代の到来~2019グランプリファイナル感想

 10月11月は毎週末友人知人と食事をしたり飲んだりするハードな日々を過ごし、かつ休日は休日で京都・奈良に行ったり皇居や御岳山に行ったりしていたので、疲労のため家にいる休みの日は記事を書く気力もなく、昼まで寝ていたり昼寝をしたりして体力の回復と温存に努めていました。にもかかわらず風邪を引いて、仕事も二日ほど休む羽目に……。体の節々――特に左半身が痛くて、風邪のせいかと思っていましたが、風邪が治っても痛みはなくならず、はや3週間になります。左手は握力がなく時折痺れてバッグを手持ちするのもつらく、腕を組むのも電車の吊革を持つのも痛いという状態。どうにかしたいと思い、会う人会う人にどうしたらいいか訊いても「年だから仕方がない」と言われ、目下のところ手立て無し。ということで、心身ともにかなり滅入っていますが、フィギュアスケートのグランプリファイナルの試合が素晴らしいものだったので、久しぶりに感想記事を書きたいと思います。

 

 まずは男子シングル。ネイサン・チェンvs羽生結弦、今回も凄まじい戦いでした。歴史的な、後世まで語り継がれる至高の一騎打ちだったと思います。激戦だった世界選手権以来の直接対決でしたが、二人ともグランプリシリーズはぶっちぎりの強さで2勝し、他なんてまったく眼中なし。お互いにライバルはユヅでありネイサンだけで、相手が出場していない大会では、ライバルは己自身であり、目標は過去の自分を超えてパーソナルベストを出すこと、あわよくば世界最高を更新することで、NHK杯なんか全然試合になっていなくて、つまらないものでした。

 

 で、今大会ですが、二人がそれぞれに、自分のすべてを出さなければ勝てない、出し惜しみしていたら――難度を下げて安全策を取るような無難にいったら勝てない、相手のミスを待っていても勝てないと思い、最初から全力で戦っていました。そしてショートでミスをしたユヅは自分の持てるものを最大限出してもネイサンには勝てないので、今までの己の限界を超える挑戦をし、ユヅが逆転をあきらめずに挑戦してくることを確信していたネイサンは、現在の彼がノーミスで滑ることのできる限界の内容で迎え撃ちました。それが4種5本の4回転対決です。一切手を抜かず手加減せずに相手になり、そして40点以上という大差をつけてオリンピック2連覇中の王者を完膚なきまでに負かしました。これほど敬意にあふれた仕合があるでしょうか。ユヅも潔く負けを認めることができ、いっそ清々しい思いすらあったと思います。今の力のすべてを出し切って、やりきって敵わなかったのですから……。だから新たな闘志が湧き、再び上を目指して前を向けるのでしょう。自分にそう思わせてくれるネイサンに本当に感謝していると思います。

 

 二人のジャンプ対決は単に4回転の種類と回数が多いだけではありません。一番難しいルッツの4回転対決は、二人とも完璧に決めて、ユヅは3.94、ネイサンに至っては4.27の加点を引き出しました。4回転からのコンビネーションも二つずつ入れて、4回転以外の残り二つのジャンプは、ネイサンがトリプルで一番得点の高いアクセルと次に高いルッツ、ユヅはルッツとトゥループの3回転3回転のコンビネーションと、トリプルアクセル×2のコンビネーションを入れていました。しかしユヅの体力はもはや限界で、最後のコンビネーションは跳べず、二つのトリプルアクセルの得点が無しに……。ここで勝敗は決まりました。タラレバになりますが、加点はないまでも2本のアクセルの基礎点だけでも獲得していたら、滑走が後のネイサンにさらなるプレッシャーを与えることができ、違う結果になっていたかもしれません。

 

 一方のネイサンは、冒頭の4回転フリップ+3回転トゥループの5.03を筆頭に、すべてのジャンプに加点が付く取りこぼしのない出来栄えでした。回転が早く、ランディングは柔らかく余裕があり、安定感がありました。そして、なんといっても特筆すべきはダンス。衣装は確かにもう少しどうにかしたほうがいいと思いますが、あのキレのあるダンスを踊るプログラムの衣装がユヅのような王子様系だと違和感があるので、ヒラヒラキラキラよりはいいかと思っています。

 

 ネイサンもそうですが、ユヅのライバルになれるスケーターは、みな突出して体の使い方が巧く、踊るのが上手いような気がします。ハビエルしかり、大ちゃんしかり。裏を返せば、それが上手くなければ羽生結弦と戦うこと――ガチの真っ向勝負はできないということかもしれません。ユヅはダンサーとしてのセンスと身体能力は正直イマイチで、体全体からにじみ出る表現力にはやや難がありますが、それ以外は非の打ちどころがなく、難点を補って余りある高度な技術力と、持ち前のビジュアルのよさを最大限に生かす表現力を持っているスケーターですから。

 

 それにしても、ユヅはライバルに恵まれていますね。長年後ろから自分を脅かしてきたショーマが今季大失速して、当面追い越される危機感がなくなり、モチベーションが保てなくなりそうなときに、自分たちを目標として追いかけてきたネイサンが追いついて、いつのまにか自分たちを抜き、簡単には越えられない壁となった――その高い壁に、もはや挑まなくてもいいのに挑戦せずにいられないのが羽生結弦なのだと思います。究極の負けず嫌いだから……。

 

 女子の覇者はコストルナヤ選手。やはり来ましたね~。完成度の高さと美しさで他を圧倒し、男子もビックリの4回転4本をフリーで跳んだ驚異の4回転ジャンパーのトゥルソワ選手、最高難度の4回転ルッツを2本跳んだシェルバコワ選手を抑えて、ネイサンと同じく世界最高得点で優勝。4回転は1本も跳びませんでしたが、納得の金メダルでした。

 

 4回転なしでも文句なく1位であると認めさせる質の高い演技で強力なライバルに打ち勝ち、何度も表彰台の頂点に立ってみせる彼女の存在は、フィギュアスケートの可能性を示していて、けっしてジャンプだけの競技ではないことを体現してくれているようで、嬉しく思って見ています。若くして世界女王となったメドベージェワ選手やザギトワ選手が苦しんでいるように、女子は成長期で体形が変わるので、ジャンプはいずれ思うように跳べなくなります。ですが、16歳の今ジャンプを武器にしていないコストルナヤ選手はおそらくその壁をあまり苦労せずに乗り越え、もしかしたら壁と感じることもなくオリンピックまで行けるかもしれません。ともあれ、彼女の存在は紀平選手にとっても光明だと思います。4回転が跳べなくても勝てることを身をもって証明してくれているのですから……。

 

 前回優勝の紀平選手は残念ながら今回はメダル圏外の4位でしたが、上はすべて今年シニアデビューしたロシア三人娘なので、彼女たちを除けば最高位であり、彼女たちがいなければ連覇できるだけの力はあったと思います。だから焦ってクワドなんかに挑戦せず、コストルナヤ選手を手本にして、トリプルアクセルやスケーティング技術、演技全体の完成度を高めることに精進してほしいですね。

 

 そして忘れてならないのが、ジュニア男子シングルを制した佐藤駿選手。おめでとう! フリーの演技が素晴らしく、見事な逆転優勝を果たしてくれました。今15歳とのことですが、シニアデビューが楽しみですね。このまま伸びてくれれば、北京オリンピックの最有力候補だと思います。フリー決戦日に25歳になったユヅはそこまで現役を続けられるかわからないし……本人がやりたくても脚はもうボロボロだと思うので。気合いとか気持ちだけでなんとかなるものではありませんから。

 

 では、最後にひと言……

 

「ガンバレ、ショーマ!」

宝塚メモ~ついに「GOD OF STARS」と冠される域にまで達した、たたき上げのトップスター、紅ゆずる

 もう半月以上前のことで公演もすでに終わっていますが、ベニーこと紅ゆずるさんのサヨナラ公演に行ってきました。演目は「GOD OF STARS―食聖―」と「Éclair Brillant(エクレール ブリアン)」。

 

 いやぁ、おもしろかった。紅ゆずるの持ち味全開でしたね。フルスロットル。結果、ベニーがトップのあいだの公演は、再演ではなく書き下ろしは全部おもしろかったということになりました。大したものです。あの公演を観て、紅ゆずるが魅力のないトップスターだという人がいるでしょうか。本当に好き嫌いを超越して人を魅了する真のエンターテイナーだと思いました。ベニーは特別好きというわけではないのに、観ればおもしろいことはわかっているので、星組観たい、外せないという感じ。そう思わせることのできるトップスターが、果たしてどれぐらいいるでしょうか。トップスターの一つの在り方、一つの形を見せてくれました。

 

 芝居、ショーともに全体を通して見られる、キレキレのメリハリがあるポージング、決めポーズのカッコよさ、正統派トップスターの柔らかさとノーブルな雰囲気、どれをとっても見事でした。コメディエンヌとして見せる三枚目ぶりと黒燕尾姿に代表される二枚目ぶりは、まさにギャップ萌え(笑)。今回一番印象的だったショーのボレロの場面は、紅ゆずるのビジュアルの端整さなくしては成り立ちません。観客に見られることを意識した、観客を魅せることに徹した、まさしくプロフェッショナル。宝塚で感心するほどプロだと思わされることはあまりないのですが、最近だと、みっちゃん(北翔海莉さん)の歌とチギ(早霧せいなさん)の身体能力を駆使した芝居に匹敵するようなプロ魂を感じましたね。

 

 そんなベニーの下で二番手をやれて、こと(礼真琴さん)も幸せだったと思います。優秀なので歌、ダンス、芝居すべてにおいてソツがない彼女ですが、特にファンというわけではないのに見ずにいられない魅力を放つスター、ファンではない人まで惹きつける抜きん出た特別なものというものがどれほど稀有で大事か、紅ゆずるを一番近くで見てきて、一番多く絡ませてもらったことで、わかったと思います。今回のお芝居は十分ベニーと向こうを張っていました――リー・ロンロンの気弱さを表すクネクネとした動きも含めて。芸事においては三拍子そろっていて何でもできると思うので、トップスター就任後の幅広い活躍を楽しみにしています。

 

 最後に特筆すべきは、みつる(華形ひかるさん)。相変わらず存在感の大きさを感じました。芝居はベニー演じる料理人ホン・シンシンの育ての親兼元雇い主というキーマンで、脇固めでも老け役でもない、どう見ても別格スター。とても専科とは思えません。裏を返せば、星組の組子は人材不足ということかもしれませんが、紅ゆずるというGOD OF STARSがもたらした星組の新しい魅力である、他組にはないおもしろさ――コメディセンスを、これからも失わずにいってほしいと思います。

兵庫寺社遠征 その3~廣田神社、神呪寺

 西宮神社を後にすると、西宮駅に戻って阪神バスに乗り、広田神社前バス停で下車し、廣田神社へと向かいました。

廣田神社拝殿

 

 廣田神社名神大社であり旧官幣大社という古社で、生田神社や長田神社と同じく『日本書紀』に神社としての縁起が書かれていて、神功皇后三韓征伐に協力した天照大御神が、戦からの帰途、船が思うように進まなかったときに現れて、「わが荒魂を皇后の側に置くのはよくないので、広田国に置くように」と言われたので、山背根子の娘である葉山媛に祀らせた――とあります。事代主を長田に祀った長媛は、彼女の妹になります。

 

 ただし、長田や生田とは異なり、広田は神功皇后が神を祀らせたときよりも遥か昔から重要な聖地でした。それゆえ、同じような神社縁起でありながら、広田、生田、長田の内、広田だけが官幣大社だったのでしょう。

 

 当社の主祭神天照大御神荒魂。単に天照大御神ではなく、「荒魂」が付いているところがミソです。これは天照大御神とは別の神だからで、祭神名を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命といいます。現在、天照大御神は女神とされているので、天照大御神荒魂の神がヒメの名であっても不思議に思わないかもしれませんが、元来の天照大御神はアマテルという男神であり、女神ではないので、「媛」が付いている名前はおかしく、このことからも天照大御神荒魂が天照大御神とは別の神であることがわかります。

 

 では誰なのかというと、『ホツマツタヱ』には「アマサカルヒニムカツヒメ」という神が登場するのですが、これを漢字で表せば「天下がる日に向かつ姫」であり、「天下がる日」ことアマヒカミ=天日神と向かい合う姫――という意味になります。天日神=天神=天君であるアマテルと対等の位置に立ち、向かい合えるのは、12人の妃の中でも正妃である皇后のみ。ということで、「天下がる日に向かつ姫」とはセオリツヒメホノコのことです。廣田神社の祭神名にある「天疎向津媛」の読みは「あまさかるむかつひめ」なので、アマサカルヒニムカツヒメ=天下がる日に向かつ姫が転じたものと考えて問題ありません。略して、単にムカツヒメ=向かつ媛とも呼ばれました。

 

 『日本書紀』によると、神功皇后三韓征伐を勧めた神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という名で、伊勢国度会県の五十鈴宮にいるとのこと。伊勢神宮内宮の別宮である荒祭宮の祭神は廣田神社と同じ天照大御神荒魂であり、神道五部書の『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』や『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』には、祭神のまたの名は「瀬織津比咩神」であると書かれています。つまり、五十鈴宮とは荒祭宮のことで、瀬織津姫撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大御神荒魂を祀るから荒祭宮なのでしょう――“荒魂を祭る宮”という意味で。

 

 では何故、夫アマテルを祀る伊勢神宮の別宮である荒祭宮の祭神であるセオリツヒメが廣田神社の祭神になったというか、広田に鎮座することになったのかというと、アマテルの遺言があったからです。『ホツマ』によれば、「キサキ ヒロタニイキテ ワカヒメトトモニ ヰココロマモルベシ ワレハトヨケト ヲセオモル イセノミチナリ」とあり、これを漢字で表せば「后 広田に行きて 和歌姫と共に ヰココロ護るべし 我は豊受とヲセを守る イセの道なり」となります。

 

 昔は夫婦のことを妹背といい、“背”というのは「背の君」といわれるように夫のことで、“妹”が妻を表しました。また妹背=イモセはイモヲセともいい、よって背=セ=ヲセで、アマテルがトヨケ=豊受と共に守ると言っているのは夫の道になります。そして、妹=イモ=ヰなので「ヰココロ」というのは妹心――つまり妻の心です。すなわち、自分たち夫婦で妻の道と夫の道を守り、夫婦道を守護しようというのがアマテルの遺言の真意です。夫婦のあるべき姿――夫婦道が妹背=イモヲセの道であり、略して「イセノミチ(伊勢の道)」というわけです。

 

 ということで、アマテルは遺言で自分の死後の鎮座地を祖父トヨケ(イサナミの父。「トヨウケ」とも)が鎮座するアサヒミヤ=朝日宮としましたが、のちに本宮があった伊勢にトヨケ共々遷座させられました。それが現在の伊勢の内宮と外宮であり、内宮祭神の天照大御神がアマテルで、下宮祭神の豊受大御神がトヨケです。そして、トヨケが神上がるために入った洞の上に建てられた朝日宮を起源とするのが丹後一宮の籠神社の奥宮である真名井神社で、それゆえ籠神社は「元伊勢」と呼ばれるのです。ちなみに、籠神社はトヨケが死ぬ前まで政務を執っていたミヤツノミヤ=宮津の宮を起源とする神社です。

 

 一方、アマテルが示したセオリツヒメの鎮座地が広田だったのは、遺言の中に「和歌姫と共に」という言葉があるように、この地にアマテルの姉であり妹であるワカヒメ=和歌姫ゆかりの広田の宮があったからだと思われます。この宮は『ミカサフミ』に「ヒラウヒロタノ ミヤツクリ ソタテアクマテ カナサキノ ツネノヲシヱハ ミコトノリ(拾う広田の宮造り 育て上ぐまで カナサキの常の教えは詔)」という一文があるので、カナサキが捨て子とされたヒルコ(のちの和歌姫)を拾って育てるために建てた宮であることがわかります。カナサキの本宮(住吉大社の起源)から見て西にあったため、ニシトノ=西殿とかニシノミヤ=西宮と呼ばれましたが、拾った子のための宮だったのでヒロタノミヤ=拾たの宮とも呼ばれ、ヒロタノミヤがあることから、この地はヒロタ=拾た=広田と呼ばれるようになりました。廣田神社の脇殿には住吉大神八幡大神、諏訪大神、高皇産霊神の四座が祀られていますが、住吉大神は筒之男三神ではなく、この地に最初に西宮こと広田の宮を建てて、西宮や広田という地名の起源となったカナサキを元々は祀っていたのだと思います。

 

 以上のように考えてくると、セオリツヒメは夫の遺言にしたがって、カナサキが建てた西宮こと広田の宮に行き、そこで神上がって広田神となったのだと思います。おそらくこの宮は甲山にあったのではないでしょうか。今の甲山には平安時代に創建された甲山大師こと神呪寺がありますが、実際に祭祀用の銅戈が出土しているので、古代祭祀が行われていた聖地であることは間違いありません。岩木山神社祭神であるクシキネの岩木山しかり、大神神社祭神であるクシヒコの三輪山しかり、箱根神社祭神であるオシホミミの箱根山しかり、神上がった人たちの葬地は地図がない時代でもわかりやすいランドマーク的な山や島であることが多く、なおかつ縄文海進で現在より海が5メートルほど高かった時代、西宮周辺は入り海だったので、その可能性は高いと思われます。死後に葬られたのか、あるいはトヨケやクシヒコのように、その地の鎮守となるため、みずから洞に入って亡くなったかはわかりませんが……。そうして広田の地に鎮座した神ゆえに、広田国に祀れという神託を神功皇后にもたらしたという逸話が生まれたのでしょう。

広田神社前バス停から見える甲山。バスから降りたとたん、あまりの神奈備山ぶりにびっくりしました。

甲山と六甲山系(向かって左)

 

 セオリツヒメが共に妹心を守るように言われたヒルコも、この地に祀られたのだと思います。その後時代が下って神功皇后の時代に至り、西宮の跡地で古代祭祀が行われていた広田神ことセオリツヒメを祀る神社として廣田神社が建てられ、蛭子神ことヒルコを祀る神社として戎社が建てられ、廣田神社の脇殿神として前身である広田の宮を建てた住吉神ことカナサキが祀られたのではないでしょうか。

本殿と、向かって右隣にある第一・第二脇殿

 

 第二脇殿の祭神である八幡大神は、応神天皇神功皇后・仲姫命とされていますが、葉山媛に天照大御神荒魂を祀らせた神功皇后のことでしょう。第三脇殿の祭神である諏訪大神、第四脇殿の高皇産霊神は、高皇産霊=タカミムスヒで、イツヨノ“ミムスヒ”=五代“皇産霊”であるトヨケを祀っているのだと思います。天照大御神荒魂をセオリツヒメではなくアマテルとしたときに、神宮外宮の祭神ということで主祭神の関係者として祀られたのでしょう。

 

 第三脇殿の祭神である諏訪大神――健御名方大神は、生田神社の本殿左隣に諏訪神社が祀られていたことも謎でしたが、その正体は健御名方=タケミナカタではなく、事代主ことクシヒコなのかもしれません。

 

 というのも、松江にある旧国幣中社美保神社の現祭神は事代主神と美穂津姫命ですが、『出雲国風土記』には、当社がある美保郷には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)のあいだに生まれた「御穂須須美命」が坐す――という記述があります。よって当社の元々の祭神は御穂須須美命であり、なおかつ大国主神と奴奈川姫命のあいだに生まれた子といえば、わかっているのはタケミナカタしかいないので、御穂須須美命というのはタケミナカタのことなのですが、にもかかわらず美保神社の祭神は事代主神となっているので、タケミナカタ=御穂須須美命=事代主神=クシヒコという転化が起こっていることになります。つまり、タケミナカタ事代主神という祭神名で祀られている事例が存在するのです。これは諏訪神であるタケミナカタ事代主神であるクシヒコの同一化が起こっているということなので、ならばその逆――健御名方神の祭神名で事代主が祀られていることもありえるのではないかと思います。ちなみに『ホツマ』では、二人がクシキネの子であることが確認できるだけで母親については不明ですが、記紀にはそれぞれの母親の名が載っていて、タケミナカタとクシヒコは異母兄弟になります。

 

 もし廣田神社や生田神社に祀られている諏訪大神が当初は事代主を祀った名残なのであれば、同じ時期に同じ神功皇后の命で祀られた長田神を祀ったのだと思います。

 

 以上をまとめると、摂末社を含めた廣田神社、生田神社、長田神社の祭神たちは、当初は次のような面々だったと考えられます。

 

廣田神社 

本殿(現祭神:天照大御神荒魂)……………祭神:セオリツヒメ(広田神)

第一脇殿(現祭神:住江三前大神)…………祭神:カナサキ(住吉神)

第二脇殿(現祭神:八幡三所大神)…………祭神:神功皇后

第三脇殿(現祭神:諏訪健御名方富大神)…祭神:クシヒコ(長田神)

第四脇殿(現祭神:高皇産霊大神)…………祭神:トヨケ

戎社=西宮神社(現祭神:蛭子大神)………祭神:ヒルコ(生田神)

 

生田神社

本殿(現祭神:稚日女尊)……………………祭神:ヒルコ(生田神)

八幡神社(現祭神:応神天皇)………………祭神:神功皇后

住吉神社(現祭神:表・中・底筒男命)…祭神:カナサキ(住吉神)

諏訪神社(現祭神:武御名方命)……………祭神:クシヒコ(長田神)

兵庫宮御旅所(現祭神:天照大御神)………祭神:セオリツヒメ(広田神)

 

長田神社

本殿(現祭神:事代主神)……………………祭神:クシヒコ(長田神)

八幡社(現祭神:応神天皇)…………………祭神:神功皇后

蛭子社(現祭神:蛭子神)……………………祭神:ヒルコ(生田神)

天照皇大御神社(現祭神:天照大御神)…祭神:セオリツヒメ(広田神)

 

 つまり、神代における西宮こと広田の宮の関係者と紀元200年前後に神功皇后の命を受けて祀られた神々で、三韓帰りに神戸付近の海で船が動かなくなって困った皇后はこの近くにセオリツヒメやヒルコが鎮座することを知っていたからこそ、社殿を建てて彼らを祀るように命じたのでしょう。となると、事代主の正体はクシヒコではなく、四国に鎮座するツミハのような気がしますが。それについての考察は長くなるので、機会があればまた、こんぴらさん大三島神社を再訪したときにでも述べたいと思います。船旅の難を救った神ならば、カギは瀬戸内海にあり、この海の安全を守護する神が無関係とは思えないので……いつになるかわかりませんが

 

 さて、廣田神社の本殿と脇殿、向かって左隣にある摂社の伊和志豆神社を参拝したあと、御朱印をいただくために社務所へ行きました。摂社の御朱印もこちらで授与されますが、当然のことながら、お参りした人にだけ――ということになっていたので、とりあえず廣田神社、南宮神社、伊和志豆神社の御朱印だけいただき、境外摂社である名次神社と岡田神社は参拝してから改めていただきに来ることにしました。自己申告制なので、言えば頂戴できると思いますが、参拝していない神社の御朱印を受けてもどうかと思ったので。

 

 ということで、続いて名次神社と岡田神社に行けないか地図とバスの時刻表とにらめっこしていたのですが、廣田神社を挟んで別々の方向にあるため2か所をまわるのは時間的に厳しそうだったので、どちらかといえば駅やバス停からアクセスがよさそうな名次神社に目的を絞ってバスに乗りました。

 

 ……なのですが、行き先が同じだから問題ないだろうと思って乗ったバスが、予想以上に大回りで、想定していなかった山道を登りはじめた時点で、これでは名次神社に行ったあと御朱印をもらいに廣田神社に戻っても社務所が開いている時間には間に合いそうにないという感じだったので、改めて岡田神社とともに来ればいいと名次神社をあきらめ、目的を変更して、甲山大師バス停で下車。神呪寺に行くことにしました。

 

 甲山の中腹にある神呪寺は、第53代淳和天皇の妃、眞井戸御前が弘法大師を導師に迎えて開いた寺なので「甲山大師」と呼ばれているようです。所在地の山の名前が「甲山」だからというよりも、山号自体が「甲山」だからだと思いますが。寺としての歴史は平安時代からですが、甲山という名は神功皇后が平和を祈願して金の兜を埋めたという伝承に基づくともいわれ、つまりそれ以前から重要な地でした。前述したように、おそらくセオリツヒメの葬地であり、元々は廣田神社御神体なのだと思います。

神呪寺の後ろにある甲山

神呪寺本堂

甲山の名の由来について語る石碑

 

 甲山は西宮の至る所からよく見えますが、甲山からは西宮の市街地が一望でき、さらには海の向こうに山並みも見え、方向的に考えれば、おそらく生駒山地金剛山地かと思われます。ということは、それより西に位置する住吉大社の所在地である住之江はここから見えたのかもしれません。動画を撮って拡大して見たらあべのハルカスが写っていましたし。それはつまり、カナサキの本宮が見えたということです。それゆえ「西宮」は甲山に建てられたのでしょう。

 

 如意閣という展望台からの風景を確認したあと、裏手に登山口があったので行ってみたのですが、そこにあった地形図板を見たところ、頂上まで行って帰ってくるのは時間的に無理そうだったので、隣にある神社が白髭神社であることだけを確認して引き返しました。

登山口にある甲山地形図

白髭大明神。祭神はホノススミか、はたまたサルタヒコか……。

 

 その後、御朱印をいただくために御守り授与所に寄ると、財宝万倍の神力があるという融通小判があったので記念に購入し、寺を後にしました。

 

 バスで5時過ぎに西宮駅に戻ってくると、駅ビルのフードコートにたこ焼屋が入っていたので、食べていくことにしました。梅田で何か食べるか、駅弁でも買って新幹線で食べようと思っていたのですが、メニューを見たら大好きな明石焼があったので……。あとはもう帰るだけなので、レモンサワーも注文。時間が惜しくて昼食も摂らず、西宮神社でわらび餅を食べたきりだったので、生き返るようでした。

会津屋」の明石焼。明石焼は神戸界隈に来たら必ず食べるのですが、三ノ宮では食事をする余裕がなかったので、せめて帰りに大阪でたこ焼でもいいから食べたいと思っていたところ、ありつけたので、感激でした。以前、本場の明石で寺社巡りをしたときは、一日二食、明石焼というぐらいの大好物です。店によって味も違うので、飽きることはありません。

 

 あっという間に平らげて、帰りの新幹線で飲む酒のつまみにお土産用のたこ焼まで購入し、ロッカーから荷物を取り出して阪神線に乗車。梅田に戻ると、切符を買ってある時間より30分ほど早い新幹線に乗れそうだったので、特急券の乗り変ができないかと思い、大阪駅みどりの窓口を探して行ってみました。すると、運よく窓口に並ぶ列も短く、窓際の空席もあったので、間に合いそうな列車に変更してもらってから、JR線で新大阪駅へ。いつものようにタカラ缶チューハイをゲットしてから新幹線に乗り、これにて遠征終了です。

兵庫寺社遠征 その2~西宮神社

 記録的な大型台風19号が通過し、本日は晴れていますが、風が強いので、当初の予定どおり外出は控えて終日家に籠ることに。昨日は一時的に停電になったぐらいで、家の周囲を見ても被害はなく(屋根の上とかは確認できていませんが……)、幸運なことに日常を取り戻せたので、9月15日の兵庫寺社遠征の続きを書きつつ、記事アップが遅くなった原因である神社考察を書きたいと思います。

 

 

 生田神社を後にして阪神線に乗り、西宮駅に着くと、改札を出たところでようやく空きロッカーを見つけたので、トートバッグを預けて、近くにあった案内所で周辺地図をもらい、西宮神社を目指しました。

 

 案内所のおねーサンに訊いたところ、歩いて5分ほどとのことだったのですが、迷ってえびすの森の外を一周し、国道43号線沿いの南門から入ることに。境内の駐車場の手前に廣田神社の摂社である南宮神社があったので、まずはそちらから参拝しました。実は南宮神社こそがこの神域における要だと思っているので……建物自体は阪神大震災で全壊し、その後復興されたものなので、見どころはありませんでしたが。

西宮神社境内図

 

 それから駐車場を抜けて、えびすの森に沿って並んでいる境内社――松尾神社神明神社大国主西神社、六甲山神社、百太夫神社、火産霊神社を経て、本殿にお参りし、社務所御朱印をいただいて、えびす土鈴と御神影札、そして社務所発行の『西宮神社史話』という本を購入。こんなに散財したのは、当社および、当社と切っても切れない関係にある廣田神社が、神代史研究において、きわめて重要な神社だからです。

えびす土鈴

 

 『西宮神社史話』によると、現在の西宮神社の社地は、南宮神社の前身である浜南宮の神域で、鎌倉時代に著された『諸社禁忌』には、その末社として次の五社が挙げられているそうです。

 

児御前、衣毘須、三郎殿、一童、松原

 

 また、平安末期から鎌倉初期に成立した『伊呂波字類抄』には、廣田神社摂末社として次の十社が挙げられているそうです。

 

矢州大明神、南宮、戎、児宮、三郎殿、一童、内王子、松原、百大夫、竃殿

 

 『伊呂波字類抄』の「戎」は『諸社禁忌』の「衣毘須」、『伊呂波字類抄』の「児宮」は『諸社禁忌』の「児御前」なので、この二社と「三郎殿」「一童」「松原」の三社を合わせた五社は、浜南宮の末社であることがわかります。

 

 ところが、『伊呂波字類抄』で廣田神社摂末社に挙げられている「百大夫」と「竃殿」は、どう考えても今の西宮神社境内社である百太夫神社と庭津火神社のことなので、「南宮」の下に続く「戎」以下の八社は、廣田神社摂末社といっても、実質的には廣田神社(北宮)ではなく、浜南宮(南宮)の末社だったのかもしれません。現在の社名に置き換えると、「南宮」は南宮神社、「児宮」は児社、「百大夫」は百太夫神社、「竃殿」は庭津火神社、「松原」は松原神社で、「三郎殿」は奥宮、または奥戎とも呼ばれたようなので、奥戎=オクエビス=オキエビス=沖恵美酒で、沖恵美酒神社ということになります。「一童」と「内王子」については不明ですが、『西宮神社史話』によると、六甲山神社、松尾神社、梅宮神社は江戸期に勧請ないしは創建された神社で、神明神社は明治期に遷座されたそうなので、この四社ではないことははっきりしています。

南宮神社

児社

太夫神社(左)と火産霊神社(右)

庭津火神社

沖恵美酒神社

 

 そして、「戎」と呼ばれた末社が、現在の西宮神社です。末社でありながら、えびす信仰が全国に広まったことで隆盛し、本社である浜南宮を凌ぐ神社となり、その結果立場が逆転して、本社を飲み込む形で社地を引き継ぎ、末社ではない、本社から独立した別の神社となり、今に至っているのだと思います。戎社を中心としたえびす信仰がこれほど全国に広まった理由について思うところはあるのですが、説明が長くなるので、ここで触れるのはやめておきます。

西宮神社拝殿

 

 さて、廣田神社の別宮である浜南宮の末社であった戎社を起源とする西宮神社ですが、前述したように大発展し、現在は全国に約3500社あるえびす神社の総本社とされています。……なのですが、えびす神というのは難しい神なので、総本社といわれてもピンとこなくて、正直ビミョー。というのも、えびす神と呼ばれる神は複数いるからです。

 

 まず一人目は、前の生田神社の記事でも触れましたが、第一子ヒルコを生んだあと再び身籠ったイサナミが流産したヒヨルコ=蛭子です。権力者の都合でイサナミの長男であるアマテルが性別を変えられて女神とされたときに、長女ヒルコは弟のアマテルに置き換えられて、ヒルコの事績はアマテルのものとなり、彼女は闇に葬られ、存在が許されたのはワカヒルメ=稚日女という神名だけでした。それもアマテルの機織女であるとカモフラージュされて、ようやく残されてきました。表立ってヒルコを祀ることができなくなった信奉者たちは、ヒヨルコを祀るふりをして、ヒルコの祭祀を続けたのだと思います。そんなわけで、ヒヨルコをえびす神として祀っている場合でも、その正体はヒルコであることが多いので、一筋縄ではいきません。

 

 二人目は事代主で、大国主の息子とされている神です。今の世に大国主として知られているのは、ソサノヲ(出雲大社祭神、熊野大社および熊野本宮大社祭主で現祭神)の息子であり、オホナムチとも呼ばれるクシキネ(岩木山神社祭神、出雲大社祭主で現祭神)ですが、その息子であるクシヒコ(大神神社祭神)はコトシロヌシ=事代主であり、『ホツマツタヱ』でエミスガオ=笑みす顔と称えられた人物。よって「笑みす」が転じたと思われる「えびす」の神とはクシヒコとみなすのが妥当なのですが、単に事代主というと個人名ではなく役職名なので、実は何人も該当者がいます。クシヒコの孫であるツミハ(三島大社祭神)もその一人で、彼は初代天皇神武の舅で、二代天皇綏靖の外祖父なので、事代主を祭神としている場合、彼を祀っていることも少なくありません。また、実際にヲコヌシ=大国主という神名を賜ったのはクシキネではなく、彼の息子のクシヒコなので、大国主と事代主が一緒に祀られている場合、大国主=クシヒコ、事代主=ツミハである可能性も高く、こちらも一筋縄ではいきません。

 

 三人目はスクナヒコナ=少彦名で、現在大国主とされているオホナムチに協力して国土開発に励んだことぐらいしか目立った事績がないことから、二人セットで語られることが多いため、大国=ダイコク=大黒で、大国主と同一化されている大黒天と一対にされるえびすにあてられることがままあります。さらに、えびす神とされるヒヨルコは『古事記』で「淡島」と呼ばれているのですが、『ホツマツタヱ』によると、淡島神=アワシマカミの名を賜ったのはスクナヒコナなので、ヒヨルコとスクナヒコナが混同されていることも多くあります。

 

 ということで、えびす=笑みす=クシヒコ=事代主=ツミハと、えびす=蛭子=ヒルコ=ヒヨルコ=淡島=スクナヒコナという関係性が成り立つので、一概にえびすといっても誰を祀っているのかわからず、つまり3500社あっても、奉祀されている神々の正体は違うと思うので、何をもって総本社といっているのかわからない――というのが実のところ本音。ですが、細かいことはさておき、西宮神社の現祭神は次のとおり。

西宮神社由緒

 

 第一殿の祭神は西宮大神こと蛭児大神、第二殿の祭神は天照大御神大国主大神、第三殿の祭神は須佐之男大神――なかなか興味深いメンツです。前述を踏まえて穿った見方をすれば、蛭児大神はヒヨルコ、天照大御神ヒルコ、大国主大神はクシヒコとも考えられ、いずれもえびす神として祀られてきた神です。もしかしたら、えびす神と呼ばれる主だった神をすべて祀っているから総本社なのかもしれません。となると、何故彼らと共に須佐之男大神が祀られているのかが大いに気になります。

三殿に四座を祀る三連春日造の本殿

 

 西宮神社の現祭神は四座ですが、元々は廣田神社の別宮である浜南宮の末社の一つなので、元来の祭神は一座であり、蛭子大神を祀っていたのだと思います。とはいえ、他の三座も本殿に祀られるからには、まったく無関係な神というわけではなく、元からこの地に祀られていた神々と考えられます。現在の西宮神社である「戎」の他、現在の児社、百太夫神社、庭津火神社、松原神社である「児宮」「百大夫」「竃殿」「松原」は祭神が判明しているのでとりあえず省くと、残る「三郎殿」「一童」「内王子」の祭神かと思われます。

 

 第三殿の須佐之男大神は、須佐之男スサノオ=ソサノヲで、イサナミの三男ソサノヲのことなので、「三郎殿」――現在の沖恵美酒神社の祭神の正体は彼でしょう。

 

 第二殿の天照大御神は、本地仏大日如来か十一面観音なので、仮に『伊呂波字類抄』で本地仏が観音とされている「内王子」の祭神であるとすると、消去法で考えれば、残る大国主大神が「一童」の祭神ということになります。しかし、他所の一童社の祭神をみると、石清水八幡宮の一童社の祭神は磯良神、吉備津神社の一童社の祭神は菅原道真と天鈿女神なので、一童社の祭神が大国主というのは、あまりしっくりきません。

 

 ならば、吉備津神社の例に従って、現在の松原神社の祭神とされている菅原道真を「一童」の祭神と考えると、『伊呂波字類抄』で本地仏が大日とされている「松原」の祭神が本来は天照大御神ということになり、「内王子」の祭神は観音を本地仏とする天照大御神とは別の神――となります。現在西宮神社の境内に祀られている天照大御神以外の神のうち、一般的な本地垂迹説で本地仏がわかり、それが観音である神といえば、六甲山神社の祭神である菊理姫命と、火産霊神社の祭神である火産霊神ですが、六甲山神社は先述したとおり江戸時代に六甲山から白山権現――菊理姫命を勧請した社なので、平安後期にはすでに存在していた「内王子」の祭神には、千手観音が本地仏である迦具土――すなわち火産霊神がふさわしいように思えます。つまり、浜南宮の末社は、次のような関係にあるのではないでしょうか。

 

戎…………祭神:蛭子大神       → 現・西宮神社(第一殿)の祭神

三郎殿……祭神:須佐之男大神     → 現・西宮神社(第三殿)の祭神

一童………祭神:菅原道真       → 現・松原神社の祭神

内王子……祭神:火産霊命       → 現・火産霊神社の祭神

松原………祭神:天照大御神      → 現・西宮神社(第二殿)の祭神

百大夫……祭神:百太夫神       → 現・百太夫神社の祭神 

竃殿………祭神:奥津彦神・奥津比女神 → 現・庭津火神社の祭神

 

 ということで、この中にはもう一人の西宮神社第二殿の祭神である大国主大神がいないのですが、彼は式内社大国主西神社の祭神なのだと思います。

 

 式内社とは平安時代に成立した『延喜式』に記載されている古社のことで、よって社格は違えども、大国主西神社は廣田神社と同等の神社です。つまり摂末社の祭神ではないため、上記には入ってきませんが、大国主大神は、大国主=ヲコヌシ=クシヒコ=エミス=えびす神ということで、どこかの段階で戎社に合祀されたのだと思います。それゆえ、戎社を起源とする西宮神社式内社大国主西神社と縁が深いとされ、戎社境内の阿弥陀堂が明治期には県社に指定されて、大国主西神社を名乗ることが許されたのでしょう。すなわち、大国主西神社の所在地は『延喜式』にあるとおり元々は摂津国兎原郡でしたが、戎社に合祀後は武庫郡に移ったということです。――であるならば、西宮神社大国主西神社であるというのも、あながち間違ってはいないと思います。

元は阿弥陀堂だったという現在の大国主西神社(左)と六甲山神社(中央)と百太夫神社(右)

 

 かつて「戎」「児宮」「三郎殿」「一童」「内王子」「松原」「百大夫」「竃殿」の末社があった浜南宮の本殿には、神功皇后が豊浦津の海で手に入れて以来連戦連勝だったことから、皇后に勝運をもたらした神通の如意宝珠と崇められ、クラックが剣の形に見られることから「剱珠」と呼ばれた水晶玉が祀られていました。というよりも、この霊宝を奉祀するために、廣田神社の本殿とは別の宮が建てられ、本社の南にあり海に近いことから、「浜南宮」と呼ばれたのだと思います。よって、浜南宮の後継社である南宮神社の現祭神は豊玉姫神大山咋神、厳嶋姫神、斎殿の四座ですが、元々の祭神は名に「玉」が入っていることから剱珠になぞらえられた豊“玉”姫神であり、大山咋神と厳嶋姫神松尾神社と市杵島神社の祭神が合祀されたのではないでしょうか。どちらも江戸時代には境内社として復活したようですが。

 

 行けば、帰ってきてこれぐらいの考察はするだろうと思ったので、余裕がないと訪れる決心がつかず、そのため今まで足を踏み入れなかったのが西宮です。社務所のえびす信仰資料展示室なども見学し、結局西宮神社に1時間以上もいて、疲れたので境内の「おかめ茶屋」で一服してから、今回の寺社遠征の主目的である廣田神社へと向かいました。寺社遠征記も考察が入るため必然的に長くなり、一つの記事では一つの神社について書くのが精一杯。なので、まだまだ続きますが、興味のない方は適当に読み飛ばしてください。

おかめ茶屋の冷やし甘酒とわらび餅

兵庫寺社遠征 その1~生田神社

 記録的な台風19号の襲来で幕を開けた10月の3連休。3連休以上休みがないと泊りがけで出かける気になれないため、気温的にもようやく動きやすくなってきたこの季節、例年ならば何らかの予定を入れているところですが、先月宝塚に行き、来月、再来月には京都に行くつもりなので、たまたま何もなし。不要不急の外出はするなとのことですが、元から家に籠るつもりだったので、スケジュール変更を余儀なくされるような影響はありません。家が被害を受けないことを祈るだけです。

 

 さて、はや1か月前のことになりますが、みりお(明日海りおさん)のサヨナラ公演を観に宝塚まで行ったので、翌日は例によって寺社巡りをしてきました。

 

 急きょ決めた遠征だったので、梅田や三宮のホテルは高いところしか空きがなく、堺筋本町に泊まっていたのですが、その日はマラソンのオリンピック代表が内定するMGCがあったため、チェックアウトタイムギリギリの11時5分前までテレビ中継を見たあと、まずは新大阪駅へ。不要な手荷物を預けようと思ったのですが、予想どおり、やはりその時間ではロッカーの空きがなく、手荷物預かり所も長蛇の列だったので、あきらめて新快速に乗り、三ノ宮で下車。こちらの駅のロッカーも空きがなかったので、独走だった設楽選手も後半へばって、みるみるうちに失速するような暑さの中、重いバッグを持ったまま生田神社へと向かいました。

 

 生田神社は名神大社であり旧官幣中社、『日本書紀』でも縁起が語られるほど重要な神社なので、同じく名神大社であり旧官幣中社長田神社とともに、かなり昔に訪れたことがあるのですが、今年いっぱい御代替記念の限定御朱印を授与しているとのことだったので、久しぶりに足を運びました。

f:id:hanyu_ya:20191013153532j:plain生田神社拝殿。背後は生田の森。

 

 当社の祭神は稚日女尊。『日本書紀』によると、三韓征伐の帰途、神功皇后が乗る船が動かなくなったので神意を占わせたところ、この神が現れて「活田長峡国に居りたい」と言われたので、海上五十狭茅に祀らせたのが神社としての起源です。ちなみに、同じ時に事代主が現れて「長田国に祀るように」と言われて山城根子の娘である長媛に祀らせたのが長田神社です。

 

 稚日女=ワカヒルメ=とは、『ホツマツタヱ』によれば、アマテルの姉にあたるヒルコのこと。ヒルコはイサナギ・イサナミ夫妻の第一子でしたが、父イサナギの厄払いのため三歳になるかならないかという時に形式的に捨てられ、イサナギ左大臣であったカナサキに拾われて育てられました。その後、長男アマテル、次男ツキヨミが生まれたあとに親元に戻ったので、立場上は彼らの妹ということになり、ワカヒルメと呼ばれました。「ワカ」は稚いの意味で、「ヒルメ」は昼の女(娘)――つまり昼子姫ということです。また、ヒルコ=昼子は和歌の達人である養父カナサキに育てられて、長じて和歌の達人となり、和歌姫=ワカヒメとも呼ばれたので、それが転じてワカヒルメになったのかもしれません。和歌の守護神とされる和歌三神は、諸説ありますが、一般的には住吉明神、玉津島明神、柿本人麻呂のことをいい、住吉明神はカナサキ、玉津島明神はワカヒルメのことです。それゆえ当社には住吉神社と人丸神社があり、カナサキを祀る住吉神社は本殿の並びにあるのだと思います。主祭神の養父ですから。ところが、この住吉神社の現祭神は表筒男命中筒男命底筒男命とされています。けれども、本来住吉神といえば、「スミヨロシ」の神名を賜ったカナサキのこと。スミヨロシ=スミヨシ=住吉なので。想像するに、カナサキが三筒男を祀った筑前一宮の住吉神社は当然のことながら三筒男が祭神なので、そちらの影響を受けて、同じ社名ゆえに三筒男が祭神であると伝えられてきたのではないでしょうか。

 

 住吉神社は本殿の向かって右側にあるのですが、住吉神社と本殿のあいだに末社八幡神社があります。祭神は応神天皇。この地にワカヒルメを祀らせた神功皇后の息子なので、その縁で本殿隣に祀られているのだろうと思います。

 

 八幡神社住吉神社の反対側にあたる、本殿の向かって左側には武御名方命を祭神とする諏訪神社大山咋命を祭神とする日吉神社があるのですが、諏訪神=スワノカミことタケミナカタ、日吉神ことヤマクイと当社の関係性はわかりません。とはいえ、正確なところは不明ですが、ヤマクイに関していえば、鳥居を入った右横に同じく大山咋命を祭神とする松尾神社があり、松尾神もヤマクイのことなので、深い関係があるのかもしれません。想像をたくましくすれば、事代主を長田に祀った長媛が山背氏の出なので、稚日女を生田に祀った海上五十狭茅も山城国にゆかりのある人物で、山城国の神を祀った――とも考えられます。

 

 本殿の後ろには鎮守の森である生田の森があり、森の手前には蛭子神社があります。立札によると、祭神は蛭子尊――『ホツマ』によれば、ヒルコを生んだあと再び身籠ったイサナミが流産したヒヨルコのことで、『古事記』で「淡島」と呼ばれている神のことです。この不幸があったためにイサナギの厄落としが必要になり、父親の厄年に生まれたヒルコが捨て子とされました。ということで、ヒヨルコはヒルコの妹か弟なので、ヒルコこと稚日女尊を祭神とする生田神社に祀られていてもおかしくはないのですが、蛭子神社の祭神はヒヨルコではなく、本殿と同じくヒルコだろうと思います。

f:id:hanyu_ya:20191013154001j:plain末社蛭子神社。背後は生田の森。

 

 というのも、蛭子神社は本殿と生田の森のあいだに位置するので、本殿を拝むとおのずと蛭子神社を、さらにはその先にある生田の森を拝むことになります。このことは生田神社の要が生田の森であり、つまり生田の森こそが当社の御神体であることを示している気がします。また、蛭子神社の向かって左側には天手力男命を祭神とする戸隠神社があり、その本社は長野にある戸隠神社で、生田から遠く離れた信州戸隠山に鎮座する神ですが、手力男=タチカラヲで、戸隠=トガクシの神名を賜った彼は、『ホツマ』によれば、ワカヒルメの息子です。それゆえこの位置に祀られていると思われ、この事実が、蛭子神社の祭神がヒルコであることの何よりの証だと思います。

f:id:hanyu_ya:20191013154117j:plain末社戸隠神社とさざれ石。背後は生田の森。

 

 そして、生田の森には生田森坐社があり、祭神は息長足姫命神功皇后)とのこと。はじめに神を祀らせた祭主が神上がったのち、新たな神として元々の祭神と併せて祀られたということでしょう。当社は生田の森のやや東寄りにあり、生田神社本殿を拝むとおのずと蛭子神社を拝むことになるように、本殿右隣の八幡神社を拝むとおのずと生田森坐社を拝むことになります。意図されたことかどうかはわかりませんが。

f:id:hanyu_ya:20191013154223j:plain末社の生田森坐社

 

 境内末社は全部で14社あり、上記の他に、人丸神社と社殿を同じくする雷大臣神社と塞神社、松尾神社と対の位置に大海神社、生田の池に市杵島神社があります。

 

 雷大臣神社の祭神は中臣烏賊津連で、旧社家である後神家の始祖であり、市杵島神社の祭神は市杵島姫命で、池があれば必ず祀られている水の神なので、この二社は問題ないのですが、塞神社と大海神社の祭神は大いに気になりました。

f:id:hanyu_ya:20191013154344j:plain末社の人丸神社、雷大臣神社、塞神社

f:id:hanyu_ya:20191013154502j:plain末社の市杵島神社

 

 塞神社の現祭神は道返大神・八衢比古神・八衢比売神の三柱、そして大海神社の祭神は猿田彦命とされていますが、塞神といえば道祖神で、道祖神といえば猿田彦なので、猿田彦は塞神社の祭神であり、大海神社の祭神は、やはり神功皇后ゆかりの名神大社で、三韓帰りの皇后が暴風雨から助かるために祀って祈願したという起源を持つ海神社と同じ綿津見三神だろうと思います。大海神社の意味は「大海神の社」ですから。

 

 本殿お参り後、目的の限定御朱印をいただき、生田の森を含めて境内をひととおり見終わると、神戸三宮駅に行き、阪神線で西宮へと向かいました。

宝塚メモ~トップ就任後もっとも明日海りおらしかった公演「ある御伽話」

 久しぶりの宝塚メモです。


 はや半月ほど前のことになりますが、宝塚に行ってきました。日比谷ではなく、兵庫県宝塚市にある大劇場――通称「ムラ」のほうです。宝塚歌劇の殿堂で開催された大浦みずき展以来の遠征なので、かれこれ5年ぶりぐらいになります。
 
 当初の予想どおり、ユヅが出場する世界フィギュアなみの超激戦と化した、みりおこと明日海りおさんのサヨナラ公演。仕事で知り合ったみりおファンさんが譲ってくれて、唯一確保できていた14日ソワレの貸切公演のB席チケットがあったので観に行ってきました。今までB席で観たことがなかったので、大劇場か東宝のS席かA席を手に入れるべく、ダブるのもかまわずに申込みを入れまくったのですが、東京のみならず大劇場公演の抽選を入れても1枚も当たらず。13日のローチケとぴあの落選結果を受けて、急きょエクスプレス予約で新幹線の切符を取り、関西に出張ることにしました。みりおのサヨナラを観ずに終わるというのだけは、なんとしても避けたかったので……。2階の14列でしたが、上手の通路側だったので、前方の視界がよく、距離は遠かったのですが、思っていた以上によく見えました。
 
 演目は「A Fairy Tale―青い薔薇の精―」と「シャルム」。どちらもtheみりお’sサヨナラ公演という感じで、再演はとても無理だと思いつつ観ていました。みりお以上に薔薇の精役が似合うトップスターはこの先出てこないと思うので……。まさしくみりおのために作られた作品であり、みりおに己の魅力を最大限に発揮させるというよりも、みりおの魅力を観客に最大限に見せることに徹した作品だと思いました。ゆえに、過去に観た作品の中でも一番みりおらしく、みりおの魅力が感じられる作品でした。それは裏を返せば、どれだけトップスターになってから演目に恵まれなかったかということと同義かもしれませんが……。「ポーの一族」は秀作でしたが、見た目が巻き毛の少年という時点で、みりおの魅力は半減されていましたし。
 
f:id:hanyu_ya:20190929184129j:plain大劇場正面T階段脇に飾ってあった青い薔薇
 
 みりおの魅力――それは他のジェンヌの追随を許さない美しさです。だからこそ巻き毛の少年というハードルの高いヴィジュアルも通用したのだと思います。ノーブルな容姿とバランスの取れた体形、のびやかな歌声……すべてが美しい。それも品のある美しさで、しかも華がある。それは上手い下手を超越した魅力であり、一時期は芸事の実力も伴ってほしいと願っていましたが、次第にもはやどうでもいいと思いました。どんなに頑張っても努力では得られない天からの授かりものに恵まれた奇跡の麗人は、見ているだけで眼福でしたから。今回のお芝居の脚本・演出は植田景子さんでしたが、“薔薇の精”という人外のものを持ってこなければ、みりおの美しさは表現しきれなかったのだと思います。とにかく美しく、そして悲しみを背負うという設定の主人公――。この「悲しみ」というのも、薄幸や華のある儚さとともに、みりおが表現するのを得意とするところなので、ひたすらみりおがきれいだと思わせる作品としては十分に成功していました。物語としては、楽しい、おもしろいというように心を動かされることはなく、感動が薄いため、良くも悪くもありませんでしたが、でもそれでよいのだと思います。「フェアリーテール」と題しているからには、所詮おとぎ話なので……おとぎ話とはそういうものです。
 
f:id:hanyu_ya:20190929184037j:plainバウホール前の看板
 
f:id:hanyu_ya:20190929184415j:plain大劇場壁に飾られたみりおのポートレート
 
 そして、人外の美を誇る薔薇の精みりおを舞台の中で違和感のある浮いたものにしなかったのが、次期トップスターに決まった二番手のカレー(柚香光さん)。こちらもひと目見たら忘れられない圧倒的な美貌で、みりおの隣に立っても霞まない、呑み込まれない存在感を放っていました。たいへん貴重だと思います。これまでネックだった歌もお芝居ではかなり上達して聞こえたので驚き、やはりトップになるともなるといろいろ変わってくるのか……と感心したのですが、残念ながらショーではいつものカレーの歌(笑)。まだ安定して上手く歌えるわけではないのだろうと納得しましたが、伸びしろが感じられたので、ひと足早く星組トップスターになる同期のこと(礼真琴さん)に比べると、勝っているのはヴィジュアルだけで、芸事の完成度が低く、トップ就任はまだ早いと思い、不安でしたが、今回のパフォーマンスを見て、カレーでいいのかもしれないと思いました。ここ数年、最大の人気を誇ったトップスターであるみりおの次はプレッシャーが大きいと思いますが、他にこの重責を担える人もいませんし。
 
 私の現花組イチ押しであるマイティー(水美舞斗さん)は、お芝居ではカレーの叔父役で、キーパーソンだけど過去の人という、出番も少なく、マイティーらしくない微妙な役でしたが、ショーでは「次期二番手か⁉」ってほど光っていました。一方、お芝居で目立っていたのは瀬戸かずやさん。今後カレーがトップになったときの二番手以下も気になります。
 
f:id:hanyu_ya:20190929184459j:plainマイティーとカレーのポートレート。同期が並んでいます。
 
 ショーといえば、アンサンブルばかりではありましたが、わりと踊っていて、そこはかとなく「ダンスの花組」感が醸し出されていて、一応意識しているのかも……と思いました。宝塚男役の真骨頂である黒燕尾姿で大階段を降りてきて踊る、おなじみの群舞もあったのですが、そのBGMが「愛遥かに」で、これにはやられて、最後の最後で目頭がじーんときてしまいました。歌われていたら、かなめ(涼風真世さん)と比べてしまってモヤモヤしたと思いますが、歌なしのインストゥルメンタルだったので、ノックアウトです。後からパンフレットを見たら、振付はヤンさん(安寿ミラさん)とのこと。宝塚の歴史の中でも稀有な人気を誇った花組トップスターを送るサヨナラ公演の中に、花組を象徴する場面である黒燕尾の群舞を組み込み、その振付を名ダンサーだった元花組トップスターに振付させるという粋な計らいに、作・演出を担当した稲葉さんの花組愛が感じられました。「ダンスの花組」の歴史を大事にしたいという……。ヤンさんは、なーちゃん(大浦みずきさん)のサヨナラ公演で花組二番手に昇格し、なーちゃんの後を継いだ、「ダンスの花組」の中でも踊りを得意とした典型的ダンサーのトップさん。「ザ・フラッシュ」で、男役のヤンさんが娘役として相手役に抜擢されて、なーちゃんと踊った「サテンドール」などは、今でも忘れられません。このジャズの名曲をバックで歌っていたのは、しいちゃん(峰丘奈知さん)でしたし……あの頃の花組は本当に最強でした。
 
 ともあれ、みりお、長いあいだお疲れ様でした。在団中はずっと、ものすごいプレッシャーの中で闘ってきたと思います。稀に見る歌劇団の爆上げを受けて、いわれなき中傷など、内外でいろいろなことを言われてきたと思います。私も厳しいことを言ってきましたし……。でも、月組時代から楽しませていただきました。ありがとう。たびたび不満を口にしても、あなたが出る作品を観ないという選択肢はありませんでした。美しいあなたを見れば、それなりに満足でき、けれども、それなりでは物足りない、さらに上を期待するがゆえの不平不満でしたから……なんかユヅに対する思いと似てますね。ユヅと同じく、数いるトップの一人ではなく、その先のトップ・オブ・トップに到れた者だけが見せられる、頂点の先の世界を見せてほしいと願っていたのかもしれません。でもまあ、しばらくは、ゆっくり休んでほしいと思います。最後のほうは心配になるほど痩せ細っていましたから。現在東京では、みりおに先駆けて、星組トップスターのベニー(紅ゆずるさん)がサヨナラ公演中ですが、こちらのチケットもカスリもせず、今のところ観劇予定はなし。このチケット全然取れない状況、なんとかしてください、宝塚歌劇団さん。
 
f:id:hanyu_ya:20190929190152j:plain観劇後はホテルグランヴィア大坂のバーで一杯。夕食代わりのクラブサンドと。

まさしく「線の魔術」~みんなのミュシャ展 プチ感想

 2週間ほど前になりますが、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催中の「みんなのミュシャミュシャからマンガへ――線の魔術」展に行ってきました。

 

 新国立博物館ミュシャ展の時の感想にも書きましたが、彼の絵の魅力の一つは自在で繊細な輪郭線にあると思っているので、副題にある「線の魔術」という表現には大いに共感をおぼえ、また「マンガへ」ともあったので、おそらく私の好きなグラフィックデザイナー時代の作品が中心だろうと思い、足を運びました。思ったとおり、「ムハ」というチェコ読みの名前が影も形もない展覧会でした。

 

 作品は所狭しと並べられていて、見甲斐がありました。「ハムレット」「ジスモンダ」「ロレンザッチョ」のサラ・ベルナール題材作品、私の好きな四芸術の「舞踏」の他、「ヒヤシンス姫」や「黄道十二宮」など、おなじみの代表作もありましたし。しかも会場は一部撮影可能なところもあり、さすが文化村だと思いました。

トラピスティーヌ(トラピスト派のリキュール)のポスターの部分。人物も背景も、まったく隙のない凄い絵です。

ベネディクティン(ベネディクト派のリキュール)のポスターの部分。人物と背景の明暗が素晴らしい。

 

 そんな展示の中でも今回特におもしろいと感じたのが、ミュシャの影響が見られる後世のクリエーターの作品展示でした。ドラクエと並ぶ大作ゲーム、FFこと「ファイナルファンタジー」で知られるイラストレーターの天野喜孝さんの絵は私も好きなのですが、ミュシャの影響が見られる作品として見せられたことで「なるほど」と思い、だから好きなのかと、このたび得心がいきました。何年か前に天野喜孝×HYDE展「天命と背徳」という展覧会が原宿であったのですが、もちろん狂喜乱舞して行きました。天使と悪魔が背反し混迷を極めた世界を、ラルクhydeをモチーフに天野さんが描く作品群の展示で、モチーフもテーマも好みのドンピシャでしたから。

天野喜孝×HYDE展「天命と背徳」で購入した扇子。悪魔のhydeと天使のhyde

 

 マンガ家作品については、中にはミュシャに通じるところはないだろうと思うものもありましたが、山岸涼子さんや波津彬子さんの絵は特別好きというわけではありませんが、雰囲気のある上手い絵だとは思っていて、マンガも何冊か持っているので納得。山岸さんは昔雑誌で読んでいた『日出処の天子』のカラーなどは少女マンガの域を超えた素晴らしいものだったし、波津さんは鏡花作品を漫画化した作品は大好きですし。ま、現代日本においてアールヌーヴォーといえば、私は岡田嘉夫さんではないかと思いますが……パステル調とか淡い色づかいの作品だけがアールヌーヴォーというわけではないと思うので。