羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

宝塚メモ~物語がおもしろくない作品を無難にまとめた宙組の進化

 10日ほど前に宝塚宙組公演「アナスタシア」を観てきました。ブロードウェイミュージカルで、ロマノフ家がらみのストーリーとくれば、見逃すわけにはいかず、先行予約に申し込んで当たったチケットなので、休演しないかぎり行く予定でした。

 

 元ネタはディズニーの同名映画で、宝塚バージョンは稲葉太地さんが潤色・演出。結論から言えば、可でもなく不可でもないという微妙な作品でした。アニメをミュージカル化した作品としては完成度が高く、宙組のパフォーマンスもよかったのですが、いちミュージカルとしては物語が全然おもしろくない駄作で、宝塚作品としても魅力がないという、ちぐはぐな印象。ロマノフ家を題材にした宝塚作品ならば「ロマノフの宝石」のほうが断然おもしろいし、ゆりか(真風涼帆さん)がトップスターになってからの宙組作品としても「白鷺の城」とか「El Japón(エル ハポン)―イスパニアのサムライ―」のほうがよかったと思います

 

 ストーリーは流れるように展開し、中だるみもなく全体の構成はよいのですが、とにかく肝心の筋がおもしろくない。「だからどうした」という感じ。映画の「アナスタシア」は見ていないので実際のところはどうかわかりませんが、よくこんなつまらない話のミュージカルを作ったなというか、ミュージカル化したなと思いました。音楽や演出などミュージカルとしての完成度が高かっただけに、この音楽や演出で見せるほどの話ではないことが惜しまれました。猫に小判とか豚に真珠といった感じです。音楽も難曲が多く、それでもゆりかをはじめ宙組生はがんばって歌っていましたが、いくらくり返し歌われても歌うのが難しそうだなと思うばかりで耳に残らないのが残念でした。メロディが入ってこなくておぼえられないので、途中から「白鷺の城」のゆりかの歌が頭の中でリフレインしていました。

 

 宝塚のオリジナル作品ではないので主要な役が少ないのは仕方がなく、それでもまだ物語がおもしろければいいのですが、登場人物が少ない上に話がおもしろくないので見どころがなく救われない感じでした。中でも割を食ったのは、主演コンビと敵対する立場の役柄だった二番手のキキ(芹香斗亜さん)で、比較的おいしい役だったのは主演コンビの仲間役だった三番手のずん(桜木みなとさん)。ずんは95期生の中でも後れを取っていましたが、トップや二番手の同期がコロナ禍で足踏みしているあいだに、ステップアップできる役をもらって、一気に差が縮まった気がします。で、主人公ディミトリ役のゆりか、ヒロインであるアーニャ役の娘役トップスター星風まどかさん、グレブ役のキキ、ヴラド役のずん、以上――という感じで、ホントに見甲斐がありませんでした。ヴラド以外はキャラクターとしても魅力がなく、ディミトリは悪人ではありませんが小物で、ゆりかの持ち味を発揮するのが難しく、彼女の良さがほとんど出ていないように思えました。ゆりかの良さはなんといってもビジュアルで、カッコよさであり、美しさなのですが……衣装も振る舞いも地味な役だったので。キキもソロなどを聴いていると「ずいぶん上手くなったよなぁ」と思い、以前キキの下にいた現花組トップスターのカレー(柚香光さん)がトップスターで通用するのなら、キキがトップスターになってもいいのではないかと思いました。しかし今回の役はつまらなく、ソロ以外に見せ場なし。カレーと違いすぎる扱い、開いた差が気の毒になりました。宝塚ではよくあることですが。

 

 宝塚オリジナルではなくても、「エリザベート」や「ロミオとジュリエット」のようにトップコンビと二番手以外にもおいしい役があるミュージカルはたくさんあるので、実に物足りない感じでしたが、あのストーリーをあれ以上のミュージカルにすることはできないと思うので、宙組生はよくやっていたと思います。野球でいえば、日本のプロ野球の上にはメジャーリーグがあり、プロ野球の下には高校野球があり、でも高校野球でもプロ野球やメジャーの試合以上におもしろく十分に感動できる試合があるのと同じで、今回の作品は稀に見る熱戦でいい試合だった高校野球という感じです。選手個人個人にプロ野球で通じる技量があったとしても、戦っているのが高校野球の試合である以上、プロ野球ではないのと同様に、個々のジェンヌのパフォーマンスの出来がどんなによくても元々の作品がエンタテイメントとしては高校野球レベルなので、あれ以上の出来は望めず、したがって可もなく不可もなく、です。ゆりかもキキもブロードウェイミュージカルの役を思った以上にきっちりこなしていましたが、彼女たちは宝塚の男役を演じてこそ光る魅力の持ち主であり、いかにも宝塚の男役という役を演じてこそ輝く役者さんだと改めて思いました

 

 東京宝塚劇場は今年リニューアル20周年で、ロビーの柱に20年間に上演された宙組公演のパネルが展示されていました。その中で一番好きなのが「カサブランカ」です。アニメと実写の差はあれども、こちらも映画が元ネタの作品で、けれどもボギーを思い出しもしないほど、ゆーひ(大空祐飛さん)が完璧にリックでした。ああいう男役の演技とそれがピタリとはまった作品をまた観たいなぁと、幕間のあいだ柱の前で佇みながら、しみじみ思っていました。

f:id:hanyu_ya:20210123180105j:plainゆーひ(大空祐飛さん)がトップの時の作品はクラシコ・イタリアーノ」とか「誰がために鐘が鳴る」とか、印象に残るよい作品ばかりでした

 

 ということで、終演後はかなり消化不良気味だったので、星組ロミジュリはなんとしても観たいと思い、ムラに行こうと決意して劇場を出ました。とにかく舞台も気兼ねなく観に行けるように、早くコロナの感染拡大が落ち着いてほしいです。

岐阜・京都神社遠征&明智光秀探訪12 その3~亀山城址、特別展「丹波決戦と本能寺の変」in亀岡市文化資料館、鍬山神社

 最終日の6日は、ホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらうと、京都発9時32分の嵯峨野線の各停電車に乗車。10時に亀岡駅に到着し、駅構内にある観光案内所で亀山城が見学できるかどうかの確認と、文化資料館と鍬山神社の行き方を訊いて地図とバスの時刻表をもらうと、まずは現在宗教法人大本の管轄となっている亀山城址を目指しました。

f:id:hanyu_ya:20210117213653j:plain亀山城の外堀だった南郷池のある南郷公園の明智光秀

 

 歩いて10分ほどで大本の正門に到着すると、敷地内に入り、案内に従ってみろく会館1階にある総合受付に行き、城址を見学するために必要なギャラリーおほもとの入場券を購入。その時に御城印も売っていたので購入し、もう受付に戻ってくる必要はないので、見学を始める前にフロアをうろつくと売店を発見したので寄ってみたら「丹波亀山城明智光秀公―出口王仁三郎の文章・詠歌など―」という冊子が販売されていたので、そちらも購入。

f:id:hanyu_ya:20210117213814j:plain亀山城の御城印と冊子。冊子の表紙にある城の絵は、江戸時代の亀山城で、徳川家康による天下普請で五重の層塔型天守を持つ城に修築されました。

 

 それから、ギャラリーで亀山城に関するVTRが見られるというので2階へ行き、VTR視聴後、ギャラリーで開催されていた特別展示「耀盌」を鑑賞。陶芸家でもあった大本教の教祖、出口王仁三郎が制作した茶碗が展示公開されていたのですが、見たことのない楽茶碗で、ちょっと驚きました。楽焼のイメージを覆す、茶陶の概念を越えた明るく鮮やかな色絵付で、とにかく華やか。亀山城址にある大本教の本部は天恩郷というのですが、まさしく天界を感じさせるというか、パライソを想像させる色合いだと思いました。「パラダイス」ではなく「パライソ」です。命をかけて海を渡り布教に努めたポルトガルの宣教師たちが説いた天国、彼らの熱心な布教活動によって教化されたキリシタンたちが死後に行けると信じて殉教した天国です。そういうものがあると信じる一途な心、どんなに迫害されても持ち続ける篤い信仰心が、天国を茶碗で表現したらこうなると示されたように思いました。楽茶碗としては亜流かもしれませんが、作り手の心がきちんと表現されていて、また見る者にきちんと伝わってくるという時点で、この茶碗たちには紛れもなく存在価値があり、この世に存在する役目を立派に果たしているように思いました。なので、もはや他者が別の価値観をもとに判断を下す茶碗としての良し悪しなどどうでもいいような気がしました。

 

 ギャラリーを後にすると、みろく会館から外に出て、受付でもらったパンフレットの順路に沿って見学。明智光秀丹波統治の拠点として築いた亀山城は、江戸時代になると、天下普請によって五重の層塔型天守を持つ城に修築されました。天下普請とは江戸幕府が全国の大名に命令して行わせた土木事業で、城郭建造は13しか例がなく、江戸城名古屋城大坂城駿府城、二条城など徳川家のための城と、あとは幕府が諸大名に睨みをきかせる上で重要な拠点となる城が天下普請によって築かれました。つまり亀山城はそのうちの一つだったということです。しかし維新後に廃城となり、そのまま管理されずに荒れ果てていたのを、大正8年(1919)に出口王仁三郎が購入し、整備。地面を掘り起し石垣を積み直して大規模な神苑造営を行い、大本教発祥の地である綾部の梅松苑とともに二大聖地とし、現代に至るとのこと。出口王仁三郎は亀岡の出身で、亀山城に格別の思い入れがあったらしく、築城主である明智光秀のことも「名将」と断言しています。購入した冊子には出口王仁三郎の文章がいくつか掲載されているのですが、その中に下記のような文があります。

 

明智光秀は稀に見る名将であったのである。太閤秀吉にあの偉業を遂げさした裏面には光秀の功績を無視することはできない。しかし表面伝わっている歴史では、主殺し親殺しの大罪人の汚名を着ているが決してそんな大悪人ではない。天下の将来を達観して大所高所から身を殺して仁をなした大勇者である。」

 

 この文の最後は「人為の歴史というものは信ずるに足らぬものである。」で締めくくられているのですが、まさにそのとおりだと思います。出口王仁三郎のすごいところは、この文章を言論統制下にある大日本帝国の時代に書いて発表していることです。これでは危険人物として目を付けられても仕方がないと思います。実際に、敬神尊皇報国の大義を唱導する教団でありながら、逆賊無道主殺しの不倫不徳の明智光秀城址を教団の聖地に選ぶとはいかがなものかという批判があったとも書かれていました。また、以下のような分析もしていて、少々長いですが、言い得て妙だと思ったので、引用しておきます。

 

「群雄割拠して権謀術数至らざるなく、陶晴賢はその主なる大内氏を亡ぼし、上杉景勝はその骨肉を殺し、斎藤龍興は父の義龍を討ち、その他これに類する非行逆行数うるにいとまなき時代に際し、独り光秀のこの挙あるを難ずるの大にしてかつ喧ましきは、五十四万石の大名が、右大臣三公の職を有する主人を弑したりということと、戦場が王城の地にしてその軍容花々しく、もって人口に膾炙することの速やかなると、加うるに世は徳川の天下に移り、世襲制度に変ぜしめたる上は、光秀をそのままに付しておくことは、政策上もっとも不利益であったことと、第二第三の光秀出現せんには、徳川の天下は根底より転覆する次第であるから、偏狭なる儒者が光秀を攻撃したのが、今日光秀に対して非難の声が特に甚しいのではないかとも思わるるのであります。」

 

 いろいろな史料が発見されて明智光秀に関する情報が増えて見方が変わってきた昨今ならともかく、大正という時代において明らかだった、限られた事実から見てもこのように思っていた人間がいる――それほどに光秀に対する評価は不当だったのだと思います。けれども、思っていてもそれを口にすることはできなかった――みながみな一宗教の教祖にまでなった出口王仁三郎のようにはなれなかったし、一宗教の教祖である出口王仁三郎に迎合することもできなかったのだと思います。

 

 城址で見学できるのは光秀の手植えと伝わるイチョウの木あたりまでで、そこから先は見学者は立入禁止なので引き返し、花明山植物園へと向かいました。大本の敷地内にあるこの植物園は、昭和26年(1951)に開園。亀山城の外堀だった南郷池に隣接し、その範囲は橋が架けられた中の島まで及び、日本の野生植物を中心に約1000種類が植えられているそうですが、なんとメタセコイアの木までありました。

 

 亀山城址の次は歩いて5分ほどのところにある文化資料館へ行き、特別展「丹波決戦と本能寺の変」を見学。光秀の書状が多く展示されていて、朝倉氏遺跡資料館の講座でも触れられた、光秀が怪我を気づかう小畠永明宛ての文や、福知山市の御霊神社が所蔵するものとはまた別の明智家家中法度などがありました。こちらは山口市歴史民俗資料館の所蔵品で、内容は御霊神社の所蔵品と同じですが、若干語句の異動が見られるそうです。何故山口市歴史民俗資料館に明智家の家中軍法があるのか、山口市周辺から発見されたものなのか大いに気になりました。その他、大津歴史博物館の時と同様に、個人蔵の書状など、丹波国の地元ならではの史料も豊富でした。展示も工夫されていて、主な展示品には解説にQRコードがあって、それを読み込むと亀岡PR特別大使の戦国VTuber明智光秀が出てきて解説してくれたりするのですが、VTuberによる説明があってもその場で理解するのは至難なので、図録を買って確認することに。本展は当館の第35回特別展で、第34回特別展の「明智光秀と戦国丹波丹波進行前夜」の図録もあったので、両方購入しました。

f:id:hanyu_ya:20210119004939j:plain特別展の案内人であるVTuber明智光秀。動物戦国武将占いなどもあり、なかなか手の込んだ展示内容でした。ちなみに、武将占いをやってみたら結果は狼で、竹中半兵衛タイプでした。

 

 資料館を出ると亀岡駅に戻り、12時55分発のバスに乗って、式内社の鍬山神社へと向かいました。13時5分に鍬山神社バス停に到着し、そこから徒歩5分ほどで到着。社務所無人だったので呼鈴を鳴らすと、しばらくして神職の方が現れたので御朱印をお願いし、待っているあいだに御守り授与所を見渡すと、50円で略記を売っていたので購入。

f:id:hanyu_ya:20210117220025j:plain鍬山神社の鳥居

f:id:hanyu_ya:20210117222404j:plain鍬山神社鍬山宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210117221443j:plain鍬山神社八幡宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210117221132j:plain本殿

 

 その略記によると、当社の創建は和銅2年(709)で、祭神は大己貴神応神天皇。神社創建前から祭祀は行われていたようで、大己貴が国土経営に励んでいた往古、丹波国は泥湖でしたが、八柱の神が相談して山を切り拓いて山城方面に水を流して抜くことに成功し、広大な平野が開拓されたとのこと。それによってできたのが保津峡であり保津川で、その徳を尊んで鍬山神を祀り、「鍬山」という祭神名は開削に使われた鍬が山積みになっていたことから名付けられたそうです。――ということはつまり、現在の祭神は大己貴神と、平安時代末期に祀られた応神天皇ではありますが、元々は亀岡盆地の開拓神である八柱の神を鍬山神として祀ったのが起源ということなのだと思います。境内には金山・樫船・高樹神社、日吉神社熊野神社、稲荷疱瘡神社、愛宕神社天満宮厳島社、百太夫神社という八つの境内社があるので、大己貴以外は本社から分けられて、境内社で祀られるようになったのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20210117221914j:plain境内の奥にある鳥居。鍬山神社は当初背後にある面降山の西にある医王渓に鎮座していましたが、慶長15年(1610)に亀山城の城主となった岡部長盛が現在地に遷座したとのこと。行かなかったので鳥居の先はわかりませんが、想像するに面降山で、神社創建以前の古代祭祀においては面降山を御神体として祭祀が行われていたのかもしれません。

 

 金山姫命を祭神とする金山神社カナヤマヒコ猿田彦命を祭神とする樫船神社はサルタヒコ、高樹神社の祭神は「山雷大神」と書いてありましたが、おそらく『日本書紀』に“高木”神として登場するタカキネを祀ったのだと思います。大山咋神を祭神とする日吉神社はヤマクイ、熊野神社は本来熊野神といえばイサナミのことですが、こちらは大己貴=オホナムチの父であるソサノヲを祀ったのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117221817j:plain境内社の高樹・樫船・金山神社日吉神社熊野神社

 

 天満宮の祭神は菅原道真ですが、道真がこの地の開拓神ということはないので、元々はこちらが山雷大神を祀った社だったのだと思います。山雷大神→雷神→天神→菅原道真と変化したのでしょう。愛宕神社の祭神は「火産霊神(稚産日命)雷神」と書かれていましたが、稚産日=ワクムスビは火産霊こと迦具土カグツチの子で、父子といえども両者は別神なので、元々はわざわざカッコ書きで記されているワクムスビを祀った社だったのではないかと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117222727j:plain境内社天満宮愛宕神社

 

 百太夫神社の祭神は豊磐間戸神と櫛磐間戸神。丹波篠山には、この二柱を祭神とする櫛岩窓神社があり、丹波国の四つの名神大社の一つとされているので、丹波国とゆかりの深い神なのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117223443j:plain境内社の百太夫神社

 

 ということで、おそらく国土開発の神である大己貴神を筆頭に、丹波国に坐す神である豊磐間戸神と櫛磐間戸神、山城国の開拓神である大山咋神丹波と山城のあいだにある愛宕山に坐す愛宕神、道案内の神である猿田彦神中山道を拓いた金山彦神、それと天君の政治を支える国府の神である高木神か、水神の厳島神あたりが亀岡盆地の開拓に関わったとされる八柱の神の正体で、当初鍬山神として祀られた面々ではないでしょうか。

 

 そして現在、鍬山神として祀られているのは大己貴神ですが、元々は大物主神が祀られていて、その正体は初代大物主の大己貴=オホナムチではなく、オホナムチの孫で三代大物主の子守=コモリではないかと思います。何故ならば、亀岡にある丹波一宮の出雲大神宮の祭神は大国主命三穂津姫命ですが、こちらの正体も二代大物主の大国主=ヲコヌシではなく三代大物主のコモリと思われるからです。その理由は、下鴨神社の摂社、三井神社の祭神である伊賀古夜日売命が丹波の神だからです。

 

 伊賀古夜日売命は『ホツマツタヱ』にはイソヨリという名で登場し、子守神ことコモリの娘ということになっています。イソヨリは、父コモリの母で祖母にあたるミホツの推薦で宮中に出仕し、十一代天君の皇后トヨタマの弟であるタケツミに下賜されました。そしてイソヨリとタケツミのあいだに生まれたのが、のちに神武天皇を生むタマヨリです。つまり、丹波神武天皇の外祖母イソヨリの出身地で、それゆえにイソヨリの父コモリと、孫娘イソヨリの出世の道を拓いた祖母のミホツが出雲大神宮に祀られていると考えるのが自然です。とはいえ、これも祭神と祭主の関係で、コモリが父ヲコヌシと母ミホツを祀って祭主として祭事を行っていたけれども、神上がるとコモリ自身が祀られて祭神とされたのかもしれませんが。そう考えると、高樹神社の祭神は、元々は丹波とゆかりの深いミホツだったのではないか――という気もします。ミホツは高木神ことタカキネの娘なので。

 

 さらに略記を読むと、当社は、楽田、油田、八日田、相撲田、馬場田、雑用田、奉射田、華田という8種の社領田を持っていたので、当地名を「八田」といい、のちに当地を賜った源頼政が「八田」を「矢田」に改めたので「矢田宮」とも呼ばれましたが、8種の社領田は明智光秀によって没収されたとのこと。そのため一時衰退しましたが、江戸時代になって亀山城主の岡部長盛が社殿を造営し社田を寄進し、以後は歴代藩主に崇敬されて明治維新を迎え、今に至るそうです。比叡山焼き討ちにおける「なでぎり」もそうですが、この事実からも明智光秀が怪我や病気を気づかう情け深い人物である一方で、容赦のない一面を持っていたことがわかります。

 

 乗ってきた13時4分発の次のバスは14時33分発だったのですが、神社の周辺には何もなかったので、来るときにバスの中から見かけた400メートルほど離れた店に行ってドリンクを買ってきたり、エクスプレス予約で帰りの新幹線を予約したり、文化資料館で買った図録などを読みながら、どうにか時間をつぶし、定刻どおりに来たバスに乗車。一方通行のバスなので行きより時間がかかり、3時前に亀岡駅に到着。新幹線は4時半過ぎののぞみを選び、少々時間的に余裕があったので、サンガスタジアムの1階にある物産館に寄って、クーポンで丹波黒豆の豆菓子を購入。そして亀岡駅に戻り、15時21分発の嵯峨野線の各停電車に乗車。49分に京都駅に到着し、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイと平宗の柿の葉寿司を買い、ホテルに行ってキャリーバッグを引き取ると、手持ちの図録や豆をしまうべくロビーで荷物整理をしてから駅に戻り、16時36分発のぞみに乗車。これにて2020年最後の遠征終了です。

 

 二度目の緊急事態宣言が出されたあと、先週の3連休も今週の土日も終日家に籠っていたので、残っていた昨年の遠征記を書き終えることができました。家にいたらいたで、やることはたくさんあるのですが、正月休みと3連休にブログを書きすぎて肩こりが激しく、吐き気や頭痛に見舞われたので、家にいてもなるべく座りっぱなしは避けて、体操などをして極力動くようにしました。気をつけなければならないのは、コロナだけではありません。

 

 亀山城址については、大本の神域ということでインターネットへの写真掲載が禁止されていたので、説明文や案内図なども載せられないため、記事を書くにあたって改めて調べていたら、緊急事態宣言により来月7日まで再び見学不可となったことを知りました。最初の緊急事態宣言を受けて見学受付休止となったあと再開されたのが10月だったので、見学ができたのは10~12月の三月のみ。本当に行っておいてよかったです。「いつか」なんてないものだと、つくづく思います。

岐阜・京都神社遠征&明智光秀探訪12 その2~「麒麟がくる」ぎふ可児大河ドラマ館、岐阜関ケ原古戦場記念館、二条城

  翌日は、「十八楼」の大浴場のオープンが5時半だったので、混む前に入りたいと思い、珍しく5時に起床。温泉に入って部屋に戻ると、荷造りやら何やら出発準備をし、7時に朝食会場へ。食事後、8時半にチェックアウトして、長良橋バス停からバスに乗り、JR岐阜駅に向かいました。イベントスポットになっている可児の大河ドラマ館に行ったらまた岐阜まで戻ってきて関ケ原に行くので、キャリーバッグをロッカーに入れて改札口に行ったのですが、9時9分発はギリギリで間に合うか微妙だったので、観光案内所などで時間をつぶし、38分発の高山本線の各停電車に乗車。

岐阜駅前の織田信長像。今では見慣れた感がありますが、初めて見たときは鮮やかな金一色で驚きました。この日は雲一つない青空に燦然と輝く堂々とした立ち姿が、よく見るとマスク着用だったので、久しぶりにシュールだと思いました。

観光案内所にもいた織田信長サンと明智光秀サン。本当に気合いが入っているイベントです。

 

 10時20分に美濃太田駅に到着し、この駅止まりだったので、35分発の太多線の多治見行き各停電車に乗り換え、42分に可児駅に着くと、10時52分発の花フェスタ記念公園行きのバスに乗り、11時9分に到着。近ツーの宿泊プランに付いていた大河ドラマ館の入場引換券は岐阜か可児で使えるものだったのですが、岐阜のほうが先だったので、こちらでは岐阜の大河ドラマ館の入場券の半券を見せて、相互割引の料金でチケットを購入。可児を訪れるのは三度目でしたが、前回10月のプレミアムフライデーに来たときには、時間がなくて花フェスタ記念公園はパスしたので、大河ドラマ館は2回目。こちらも展示替えが見られて、リピートでも楽しめました。

大河ドラマ館がある花のミュージアムの入口にあった出演者のパネル。前回来たときにはなかったような気が……。

大河ドラマ館入口横の壁の光秀の写真。これも前回来たときにはなかったと思います。

大河ドラマ館に展示されていた明智光秀の衣装。前回はここに光秀の甲冑が展示されていましたが、今回の衣装は入口横の壁の写真で光秀が着ているもので、なるほどと思いました。しかもこの写真は若かりし頃の光秀――つまり明智荘で暮らしているときの場面なので、明智荘があった可児の展示にふさわしく、よく考えられているなぁと思いました。

イベントスポットなので、森蘭丸サンがおりました。可児にある兼山城の城主です。全然戦国武将っぽくないビジュアルですが(笑)。ここでは可児ゆかりの武将である光秀と蘭丸のゲーム内で使えるアバターがもらえました。

大河ドラマ館に入るときにもらった来館記念証。前回もいただきましたが、今回はなんとドアラバージョンでした!

 

 可児駅行きのバスは乗ってきたバスが折り返す11時16分発の次は13時11分までないので、帰りは12時33分発の明智駅行きKバスを利用することにしました。1時前に明智駅に到着し、13時6分発の名鉄広見線に乗り、一つ隣の新可児駅で14分発の中部国際空港行きに乗り換え、犬山駅名鉄岐阜行きの犬山線に乗り換え、14時9分に名鉄岐阜駅に到着。関ケ原方面に行く東海道線の岐阜駅の発車時刻が19分で、これを逃すと次は49分となり、3時までに関ケ原駅に着けないので、急いでJR岐阜駅へ向かい、ロッカーから荷物を取り出して乗車。

 

 予定どおり14時54分に関ケ原駅に到着し、イベントスポットになっている関ケ原駅前交流館に立ち寄り、買い物袋を持っている政宗サンと秀吉サンのアバターをゲット。それから関ケ原古戦場記念館まで歩くのに邪魔だったので、5時には閉まると店のスタッフに言われましたが、記念館も5時までなのでキャリーバッグをロッカーに預けることにしました。ロッカーの扉にはそれぞれ異なる戦国武将の名が書かれていたので、井伊直政のロッカーを選びました。

関ケ原駅前交流館にいた石田三成サン。まあ、関ケ原ですから……。

 

 関ケ原古戦場記念館の有料スペースは現在事前予約制で、旅行前にホームページから予約サイトに飛んだら、9時30分から15時30分まで1日30分ごとの全13回に区分され、1回の定員が9名とのことで、旅行中の日程はまったく空きがありませんでした。けれどもホームページをよく読むと、グラウンドヴィジョンとかシアター映像が見られないだけみたいなので行くことにし、運がよければキャンセルがあるのではないかと思い、最終回の15時30分のキャンセルを期待して20分には着くようにしました。予約していても10分前までに受付しないとキャンセルになるとのことだったので。その旨を入館と同時に声をかけてきたスタッフに話したところ、残念ながらキャンセルはないとのことでしたが、2階の展示室や5階の展望室は当日券を買えば見られると言うので、チケットを買って入りました。

 

 展示は関ヶ原の戦いについての説明なので、展示品はいろいろあるのですが、ほとんどが複製でした。戦の流れや、どういったものだったのかを解説するために必要とはいえ、実物は各所蔵元の貴重な財産なので集められず、こういった形になったのでしょう。そんな中でおもしろかったのが、関ケ原はベルギーのワーテルローアメリカのゲティスバーグと古戦場協定を結んでいるという情報で、そんな繋がりもあるのだと思いました。まだまだ知らないことがたくさんあります。

岐阜関ケ原古戦場記念館

明智光秀が参戦していない関ケ原の古戦場跡にもあった「麒麟がくる」出演者のパネル

大河ドラマ斎藤義龍が着用した甲冑

 

 展示室に続いて展望室を見たあと1階に下りて有料スペースを出ると、イベントスポットなので、スマホアバターをゲット。当然のことながら、家康サンと三成サンのアバターでした。それから記念館を出て、裏手にある徳川家康最後陣地を見学。その後、記念館の隣にある別館のショップに行くと、御城印みたいな古戦場印があったので、一番基本的で唯一買える「関ケ原」を購入。その他の個別の古戦場印は実際の跡地に行って撮ってきた写真を見せないと購入できないシステムになっていました。

関ケ原古戦場を示す石碑。下には「徳川家康最後陣地」と刻まれています。

紅葉と三つ葉葵紋の幟旗

陣地跡に立っている石碑。刻まれている文字は「床几場 徳川家康進旗験馘處」。つまり、ここで首検めを行ったということです。

別館のショップにいた徳川家康サン。まあ、関ケ原ですから……。

関ケ原」の古戦場印

 

 古戦場印の他に栗きんとんきんつばという菓子を見つけたので、そちらを買ってショップを出ると、記念館を後にして関ケ原駅へ。途中、井伊直政松平忠吉陣所跡と東首塚があったので立ち寄りましたが、4時半には駅前交流館に戻ってきました。乗る予定の電車の時間までまだ15分ほどあったので店内を見てまわりましたが、記念館のショップと同じような品揃えだったので何も買わず。買わないのに店の中をウロウロしているのもいかがなものかと思ったので、ロッカーからキャリーバッグを取り出し、駅へと向かいました。

駅に向かう途中にあった井伊直政松平忠吉陣所跡の碑。

首塚。床几場で検め終わった首はここと西首塚に葬られたそうです。

首塚の境内の紅葉

 

 16時48分発の米原行き快速電車に乗り、米原駅播州赤穂行きの新快速に乗り換え、18時12分に京都駅に到着。551蓬莱で豚まんとシューマイを買い、さらに、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイを買ってから、八条口から歩いて3、4分のホテルにチェックインし、部屋で飲み食いしながら見ていたNHKニュース7が終わると、ホテルを出て二条城へと向かいました。二条城はよくイベントで夜間公開をしているので、何かやっていないかと思い調べたら、12月7日まで「アートアクアリウム城~京都・金魚の舞~」という催しをやっていたので。時間は17時から22時で、受付終了が9時半なので、7時半から出かけても十分間に合いました。

 

 京都駅から地下鉄で二条城前駅まで行き、地上に出ると、思っていたより入口の列に並んでいる人がいましたが、入場人数を制限しているだけで、実際はそれほど混んでいませんでした。二条城に行ける時間があるかわからなかったので前売券は買えなかったため当日券をあてにしていましたが、当日券はなくはないがコロナ対策で発行枚数を絞っているとのことだったので、待たされるか、あるいは入れないこともあるかもしれないと思っていました。が、問題なくチケットは買え、待ち時間もなく、すぐに入場することができました。

 

 この催しはアートアクアリウム美術館の巡回展で、美術館は東京の日本橋にあるので、金魚自体は見ようと思えばいつでも見られるのですが、あまり興味がなかったので行ったことはありませんでした。けれども今回は、二条城を背景にしたアクアリウムなら独特の雰囲気があって見ごたえがあるのではないかと思い、足を運びました。ハコモノ世界遺産では舞台が違います。館内で見るより断然よかったと思います。

アートアクアリウムその1

アートアクアリウムその2

アートアクアリウムその2の青バージョン

アートアクアリウムその2の緑バージョン

アートアクアリウムその3

アートアクアリウムその3の緑&青バージョン

アートアクアリウムの屏風。生きている金魚が絵を作っているので、屏風絵は一期一会で、刻々と表情が変わっていきます。

二条城ならではのアートアクアリウムその1

二条城ならではのアートアクアリウムその2

個性あふれる金魚の顔その1

個性あふれる金魚の顔その2

個性あふれる金魚の顔その3

 

 9時過ぎに会場を出て、二条城の東大手門に向かうと、途中にいくつかの出店があるのですが、その中に錦市場の「魚力」があり、ハモかつを売っていたので、がっつり夕飯を食べたあとでしたが、誘惑に負けて1本買って食べてしまいました。そして、この時間でもまだ二条城の大休憩所が開いていたので売店に行き、今まさにレジをしめようとしていたスタッフに、御城印が欲しいのだがもうダメかと訊いたら、大丈夫だと言うので購入。通常版と10000枚限定で無くなり次第終了の限定版があったので、もちろん限定版を買いました。二条城には何度も行っているので、御城印があることはもちろん知っていて、御朱印とは違うので今まで買わなかったのですが、2月に行った丸岡城から御城印を集めはじめたので、次に訪れたときには買おうと思っていました。そうしたら、ちょうど限定版が出ているときだったので、ラッキーでした。

二条城の御城印。通常版は三つ葉葵紋の朱印だけですが、限定版は菊紋の朱印が一緒に押されています。城内に現存する飾り金具に刻まれた家紋だそうです。まあ、維新後は元離宮ですから。

 

 二条城を出ると、地下鉄で京都駅に戻り、10時前にホテルに到着。これにて長い一日が終了です。

岐阜・京都神社遠征&明智光秀探訪12 その1~金神社、「麒麟がくる」岐阜大河ドラマ館、岐阜城

 2020年最後の旅となった12月の明智探訪は、岐阜→可児→関ケ原→京都→亀岡に行ってきました。JR西日本主催の「ちょこっと関西 歴史たび「明智光秀」特別企画」の一つで、亀岡市文化資料館で10月24日から12月13日まで特別展「丹波決戦と本能寺の変」を開催していたので。亀山城にもまだ行けていませんでしたし。で、亀岡の他にどこへ行こうか考えていたときに、ちょうど時期が重なる観光イベントと、それに関連した近畿日本ツーリストの宿泊プランがあったので、そちらに参加することにしました。

 

 移動時間や待ち時間の手持無沙汰を解消するために始めて今も続けているスマホゲームがいくつかあるのですが、そのうちの一つである「イケメン戦国」が、今度は岐阜市可児市関ケ原町とコラボする「イケメン戦国武将と巡る岐阜の旅」というのがそのイベントで、岐阜城に行くとゲームキャラクターの織田信長岐阜城を訪れるストーリーが、現在大河ドラマ館がある歴史博物館を訪れると同じくキャラクターの明智光秀と博物館を訪れるストーリーが読めるなど、武将ゆかりの地を訪れると、GPS機能を使って、そのスポットと連動したオリジナルストーリーを読めたりアバターがもらえたりします。たかが乙女ゲーのイベントと侮ってはいけません。主催は長良川温泉泊覧会実行委員会で、協力は岐阜観光コンベンション協会、関ケ原観光協会可児市大河ドラマ麒麟がくる」活用実行委員会、岐阜長良川温泉旅館協同組合等々――観光団体と旅行会社が仕掛ける本格的なイベントです。

 

 2019~2020年の冬にも本能寺や建勲神社太秦映画村を巻き込んだ京都コラボの観光イベントが開催され、その時に初めて本能寺に行く機会を得ました。今回は岐阜城も歴史博物館も10月に行ったばかりの場所ではありますが、イベントスポットの中に、昨年10月に開館した関ケ原古戦場記念館も入っていて、いずれ行くつもりだったので、ちょうどいい機会だと思いました。そしてさらに、京都の時はイベントの宿泊プランを設定している宿泊施設が一つしかなく選べなかったのでホテルは駅近くの定宿にしましたが、今回はいくつか選択肢があり、その中に万延元年(1860)創業の長良川温泉の老舗旅館で、私の行く先々に歌碑があるゆえ旅の師匠と仰いでいる俳聖・松尾芭蕉ゆかりの「十八楼」があったので、ぜひ泊まってみたいと思い、関ケ原町だけでなく、岐阜市も再訪することにしました。イベントの期間は12月1日から3月31日までですが、亀岡の特別展が主目的なので13日までに行く必要があり、なおかつコロナ感染が収束していない以上、何が起こるかわからないと思ったので、イベントが始まった最初の週末に予定を組んで行ってきました。実際、今もイベントは継続中ですが、危惧していたとおりGo Toトラベルは中止となり、緊急事態宣言も発出されたので、さっさと行っておいてよかったです。

 

 3日木曜の11時半まで仕事をし、品川発12時29分ののぞみに乗車。14時31分に名古屋駅に着いて、45分発の大垣行き新快速に乗り換え、15時4分に岐阜駅に到着。そして10月末に岐阜を訪れたときと同じ名鉄岐阜駅近くのホテルにチェックインして荷物を部屋に置くと、歩いて5分ほどのところにあるイベントスポットの一つ、金神社へと向かいました。

 

 金神社は13代成務天皇の時代に創建されたと伝わる古社で、主祭神は渟熨斗姫命。12代景行天皇の皇女であり、10月のプレミアムフライデーに訪れた伊奈波神社の祭神である五十瓊敷入彦命の妃でもあります。五十瓊敷入彦命が美濃で亡くなると、渟熨斗姫命は都を発ってこの国に移り住み、夫の霊を慰めつつ生涯を過ごしたとのこと。その間、地域の開拓に力を注ぎ、私財を投じて産業・農業の発展に寄与し、財をもたらしたことから、死後金大神として信仰されたそうです。そして成務天皇5年(135)に、国造である物部臣賀夫良命がこの地を国府に定めると、民が信仰する金大神を祀りました。それが当社の起源だそうです。他に渟熨斗姫命を主祭神として祀っているところを知らないので、当社が皇女の鎮座地ということになります。ということで、元々は国造が国府を置いた場所に祀った産土神の社なので、実際に皇女の宮があった場所なのか、神上がった場所なのか、葬られた場所なのかはわかりません。

 

 神社に到着し、インパクトのある金の鳥居をくぐると、まずはゲームのアプリを開いて、伊達政宗と訪れる金神社のストーリーをゲット。信長の岐阜城や光秀の歴史博物館と違って金神社が政宗のゆかりの地であるという話は知らないので、こちらの組み合わせは単に人気スポットに人気キャラクターを当て込んだだけだと思います(笑)。いくつか操作をしてストーリーが保存されて読めることを確認すると、お参りし、社務所に行って持参した朱印帳御朱印をいただきました。金神社でもプレミアムフライデー限定の金の御朱印がいただけるのですが、10月に来たときは余裕がなくて寄れませんでした。それから末社を見て境内を一周すると、神社を後にし、最寄りの徹明町バス停まで行ってバスに乗り、岐阜公園へと向かいました。

金神社の鳥居。昭和62年(1987)に建てられた特殊鋼製の鳥居ですが、錆が目立ちはじめたので、平成27年(2015)に塗り替えられたそうです。“金”神社とはいえ、何故この色にしたのか疑問。古くなったらどうなることやら……。また塗り替えることができればいいのですが、お金がかかることなので、そうたびたびはできないと思います。

本殿

賀夫良城。「賀夫良城神社」となっていますが、明らかに古墳なので、物部臣賀夫良命の葬地と思われます。奥津城という言葉があるように、そもそも「城」とは墓のこと。よって、賀夫良の城の上に建てられた神社だから、賀夫良城神社なのだと思います。

社務所の出入り口の横にいた伊達政宗サン

 

 岐阜公園・歴史博物館前バス停で下りると、4時半過ぎだったので、開店早々の早い時間なら入れるかと思い、公園内にある料亭の萬松館を覗いたのですが、残念ながら事前予約制だったので断念。あてが外れたので、歴史博物館の前にある光秀横丁で何か買ってホテルに戻ろうかと思ったのですが、持ち帰りができないみたいで、博物館が閉まる5時には光秀横丁も閉店するため食べる時間もなかったので、こちらもあてが外れて、もはや食事に適した店を探して歩きまわるのも億劫だったので、確実な線をねらって、バスでJR岐阜駅まで行き、前回見つけたアクティブgにある「くらうど」で夕食を摂ることにしました。食事後、電子クーポンとSuicaで支払って店を出ると、ホテルに戻り、その日は終了です。

中津川産更紗サーモンの刺身とレモンサワー。中津川で養殖されているトラウトサーモンです。

高山ラーメ

 

 翌朝は9時過ぎにホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらうと、JR岐阜駅前にある岐阜バスの案内所に行って、宿泊プランに付いていた引換券を渡し、一日乗車券を受け取りました。そのあと12、13番乗り場に行ってバスに乗り、またまた岐阜公園へ。岐阜公園・歴史博物館前バス停で下りて歴史博物館に行き、こちらの入場券の引換券も宿泊プランに付いていたので、チケット売り場の団体窓口で引き換えてから入場。この日12月4日金曜は先着150名がもらえる入館記念証が明智光秀と熙子のバージョンだったので、博物館見学はこの日の朝イチと決めていました。

 

 連絡先記入、検温のあと、入館記念証をもらい、博物館2階にある大河ドラマ館に入ると、前回来たときにはなかった石仏などの小道具が新たに展示されていました。室町将軍足利義昭の御所である二条城造営のシーンで石材として徴収され工事現場に転がされていて、染谷信長にペチペチとたたかれていたものです。他にも物語の進み具合に合わせて展示替えされていたので、リピートでも楽しめました。

入館記念証。他に、徳川家康斎藤道三織田信長羽柴秀吉バージョンがあり、日によってもらえるものが違います。

歴史博物館1階の壁には大きな陶板の美濃国絵図があるのですが、その一部。土岐氏の家名の由来となった地名がたくさん見受けられ、それぞれが本拠とした場所の位置関係がよくわかります。

美濃国絵図の隣にいた明智光秀サン。福知山城でも会いました。2020は明智イヤーですから。

帰蝶サンもいました。まあ、この方も美濃の出身ですから。帰蝶サンはゲーム内では男で、まだ事情は明らかにされていませんが、どうやら濃姫の双子の弟という設定のようで、双子は忌み嫌われて、弟のほうは存在を歴史から抹殺されたという筋書きではないかと推測しています。

 

 10時半に博物館を出ると、金華山ロープウェイ乗り場に行き、宿泊プランに付いていた引換券と乗車券を交換し、11時発に乗車。近ツーの宿泊プランには一日乗車券、大河ドラマ館と岐阜城の入場券、ロープウェイ乗車券などの特典が付いていてありがたかったのですが、「十八楼」に泊まるのは4日なので、使えるのは4日か5日だけ。それゆえ特典が使える場所にはその二日間のうちに行かねばならず、5日は可児市関ケ原町を訪れる予定だったので、岐阜市を観光できるのは二日のうち4日だけ。「十八楼」には2時にはチェックインできるので、夕方まで観光し滞在時間が短くなるのはもったいない気がしたので、昼までには大河ドラマ館と岐阜城の見学を終わらせたいと思い、3日に岐阜入りして前泊した次第です。

ロープウェイも「イケ戦」仕様。

右から織田信長サン、帰蝶サン、明智光秀サン、そして何故か三河出身の徳川家康サン。家康サンの隣にいて切れているのは石田三成サン。

 山頂駅に到着すると、まずは展望レストラン「ポンシェル」に行って、前回食べそびれた飛騨牛ハンバーグを食べました。

展望レストラン前にいた織田信長サンと徳川家康サン。前回飛騨牛ハンバーグライスの食券を払い戻して代わりにきしめんを注文した売店は工事中でした。

「ポンシェル」の飛騨牛ハンバーグライスと、カウンターテーブルから見る長良川

 食事後、岐阜城に行き、岐阜城の入場券も宿泊プランに付いていたので、そちらを受付で見せて入城。

岐阜城に向かう途中に見た岐阜市街。国道と並行して走る道路が、碁盤の目といわれる京都や大阪に通じ、改めて古い街であることを認識。地図を見ると、国道は金華山の脇を通っていますが、その他の道は金華山から発しているので、信長や道三がこの町を整備したときに作られた道ではないかと思いました。

岐阜城と紅葉その1

岐阜城と紅葉その2

岐阜城に向かう途中で見た紅葉

城内にいた織田信長サン

展示されていた地球儀の日本周辺部分。絵は稚拙ですが、わりと正確です。

天守最上階からの眺め(東)。冬は空気が澄んでいるので、秋に来たときよりもはっきりと見え、山がよくわかりました。ちなみに右から恵那山、笠置山御嶽山乗鞍岳御嶽山乗鞍岳は雪をかぶっていました。

天守最上階からの眺め(西)。中央は伊吹山

 

 天守から下りてくると、出入口の受付で、年齢を証明するものを忘れたらしく無料で入れると思っていたけど入れなくて文句を言っている高齢者がいました。岐阜城の入場料は200円なのですが。また、ロープウェイ乗り場に戻るときにも、「なんでエレベーターがないの。市に文句を言ってやる」と怒っている高齢者に会いました。レストランなどの店舗以外の場所にもトイレが設置されていて、おまけに喫煙所まであり、違和感を感じるほど至れり尽くせりで、十分に整備されていると個人的には思いましたが……。大阪城とかにはエレベーターがあるから、そう思うのでしょうか。本来城という建造物には存在しないものなのに。

 

 資料館に寄ったあと、山頂駅発12時30分のロープウェイで山麓駅に下り、前回は時間がなくて寄らなかった三重塔や信長の居館跡を見てから、バス停に戻ってバスに乗車。名鉄岐阜バス停で下りて、ホテルに預けた荷物を引き取ると、再び岐阜公園方面のバスに乗り、長良橋バス停で下車。そして長良橋通から階段を下りると、鵜飼観覧船乗り場の近くにあるイベントスポット、緑水庵川原町店に入って、コーヒーを飲みました。イベントに関連した特別メニューも提供されていたのですが、ここで食べ過ぎてしまうと夕食に響くので。

三重塔

岐阜公園の紅葉その1

岐阜公園の紅葉その2

岐阜城址についての説明板その1

岐阜城址についての説明板その2

織田信長居館跡

緑水庵川原町店にいた豊臣秀吉サン

 

 この宿泊プランは通常より1時間早い2時にチェックインできたので、2時過ぎには店を出て、ほぼ斜向かいに位置する「十八楼」へ。チェックイン後ロビーで待つように言われ、ウェルカムドリンクがあったので、オレンジジュースを飲んでいると、スタッフが来て部屋に案内してくれようとしましたが、まだドリンクが残っているのを見て「飲み終わってからご案内しますので、ゆっくり飲んでください」と言ってくれたので、飲み終わってから案内してもらいました。

「十八楼」の玄関

「十八楼」のロビーから見える長良川

案内された部屋。イベントのパネルがイーゼルのようなものに立てかけられていて、座卓の籠の中に宿泊プランの特典であるグッズが入っていました(笑)。

パネルはこんなカンジ。帰蝶サンは岐阜銘菓の鮎菓子を握っています。

 

 館内の説明を聞いたあと、淹れてもらった梅抹茶を飲みつつ、座卓に置かれていた鮎菓子を食べて一服すると、1階にある売店へ。今回の宿泊プランで付与されたクーポンが6,000円分あったので、宿泊施設限定のイベントオリジナルグッズや長良川温泉若女将会のオリジナル商品、お土産などを購入。そしてフロントに寄り、ルームサービスでフレシネのハーフボトルを頼んでから部屋に戻りました。館内の説明を受けたときにロビーのバーカウンターでシャンパーニュが飲めるか訊いたら、ルームサービスでスパークリングワインなら用意できるとのことだったので。何度も言いますが、昼間からアルコールを飲めるのが休暇の醍醐味です。

 

 ボトルが来ると、軽くグラス半分ほど飲んだところで、先に温泉に入ってきたほうがいいと思ったので、残りは冷蔵庫に入れて、大浴場に行きました。温泉は熱めの湯が好きで、できるかぎり源泉に近づきたい人間なのですが、ハーフボトルを空けたあとでは、さすがに厳しかったので。長良川温泉の泉質は単純鉄冷鉱泉だそうですが、湯が茶色かったので、驚きました。

 

 40分ほどで戻ってきて、暮れゆく長良川を眺めつつ残りをちびちびと飲んでいましたが、そうこうするうちに日が落ちてフレシネもなくなると、ロビーに行って、本棚に明智光秀関連の雑誌や書籍があり閲覧できたので、夕食の時間まで乱読して過ごしました。

夕暮れの長良川とフレシネ

日没後のロビー

ロビーにある松尾芭蕉「十八楼記」の碑文。「十八楼」は芭蕉翁の命名だそうです。左右にいる鳥は、役目を終えた鵜の剥製。「十八楼」は館内から直接鵜飼観覧船乗船場へ行けます。鵜飼は10月15日までなので、今回訪れたときにはシーズンオフでやっていませんでしたが。

 

 夕食は三つの時間から選べましたが、温泉に入ってハーフボトルを空ければ、それぐらいになるだろうと思い、一番遅い7時でお願いしました。5分前にはロビーを出て、夕食の場所であるレストラン「橘」へ。献立は下記のとおり。

 

 ・お通し 黒豆豆腐

 ・前菜  牛蒡甘辛煮 焼き栗

      茸法蓮草おひたし

      子持鮎甘露煮

      赤ピーマン手毬寿司

      揚げ銀杏串打ち

 ・口代り あん肝と焼き茄子のゼリー寄

 ・吸物  もずく真薯の

        かぶら摺り流し仕立て

 ・向付  本日のお造り盛り合わせ

 ・焼物  鰤の西京焼き 柿湯葉白和え

 ・強肴  飛騨牛ローストビーフ

 ・蓋物  南京とさつまいもの鬼まんじゅう

 ・焜炉  【十八楼名物】飛騨牛の牛鍋

 ・食事  鮎雑炊

      ※岐阜県特産米美濃ハツシモ使用

 ・香の物 飛騨・美濃伝統野菜

        飛騨紅かぶの赤かぶ漬け

      わさび昆布 セロリ浅漬け

 ・デザート グラスデザート

前菜

焼物

強肴

 

 コース料理を酒なしで食べるのは楽しみが半減するので、必ずアルコール類を頼むのですが、日本酒メニューは好きな純米吟醸や銘柄がなく、かといって、ワインも、すでにカヴァを飲んでいたので飲む気にならなかったため、燗酒を注文。飲みながらダラダラと食べていたので、食べ終わったときには入店時にはいた他の客が誰もいませんでした。

 

 9時前に部屋に戻り、この日は終了です。

明智光秀探訪 番外編~「麒麟がくる」展inKITTE

 昨日は仕事始めでしたが、4時半で終えて、丸の内のKITTEで開催されている「麒麟がくる」展に行ってきました。この催しについては知らなかったのですが、1月3日の大河ドラマの放送終了後にツイートを見ていたら、そんな情報を見つけたので。さっそくKITTEのホームページで確認すると12月30日~1月11までの日程で墨絵師の御歌頭さんが本展のために描き下ろした光秀絵も展示されるとのことだったので、緊急事態宣言のせいで見そびれて悔しい思いをすることがないように――とまたもや思って、早めに足を運びました。

 

 1階アクアリウムでの展示なので、数は多くありませんでしたが、大河ドラマ館でも見なかった足利義昭正親町天皇の衣装展示と、さらに、先月の放送で登場した小道具の蘭奢待まであったので、なかなか見ごたえがありました。

f:id:hanyu_ya:20210106224503j:plain展示会場の入口にあったNHKのキャラクター、どーもくん光秀バージョンのパネル

f:id:hanyu_ya:20210106224617j:plainKITTE描き下ろしの御歌頭作、明智光秀。本能寺、安土城郭資料館とも違う光秀です。

f:id:hanyu_ya:20210108113444j:plain御歌頭作、織田信長

f:id:hanyu_ya:20210107132653j:plain御歌頭作、帰蝶

f:id:hanyu_ya:20210107132746j:plain御歌頭作、細川ガラシャ

f:id:hanyu_ya:20210107133400j:plain御歌頭作、斎藤道三。展示物があって、正面から撮れませんでした。

f:id:hanyu_ya:20210106224852j:plain大河ドラマ内で使用された正親町天皇の衣装

f:id:hanyu_ya:20210106225003j:plain大河ドラマ内で使用された足利義昭の衣装

f:id:hanyu_ya:20210106225046j:plain大河ドラマ内で使用された蘭奢待と甲冑。向かって左は明智秀満、右は羽柴秀吉が着用。モニター画面は光秀の妻である妻木熙子役の木村文乃さん。1月3日に放送された熙子が亡くなる場面の映像が流れていました

 

 加えて、ビル内の飲食店では、光秀ゆかりの土地の食材を使用した特別メニューを出しているところが何軒かあったので、丹波牛のピッツァを提供している「ピッツェリアエトラットリアダ・ボッチャーノ」に行ってみました。しかし売り切れとのことだったので、ハッピーアワー料金のスプマンテと水牛のモッツアレラを使ったマルゲリータを食べて帰ってきました

f:id:hanyu_ya:20210106230509j:plain東京駅と直通で繋がる地下1階にある総合観光情報センター「東京シティアイ」にも御歌頭さんの絵がありました。光秀と熙子と思われます。

 

 ついに、明日二度目の緊急事態宣言が1都3県に発せられることになりました。毎年1月の3連休には年1のスキーに行っているのですが、今冬は年末に行くことにしたので、伊東にあるクラシックホテル――川奈ホテルに行く予定だったのですが、年明けに知事たちが政府に要請した段階で宣言も時間の問題だろうと思ったので、年末の富良野スキーに続いてキャンセルしました。

 

 ……ということで、数か月前から入っていた休日の遠出の予定は先月第一週に行った遠征を最後にことごとく御破算になり、高齢の親元には近寄らず、仕事がある日は電車の時差利用を心がけ、遅く行って早く帰り、週に1~2日は商談やミーティングのない日を作って、できるかぎり在宅ワークもし、自分がやれる範囲の必要と思われる感染予防対策はしているので、「これ以上どうしろと言うんじゃい」というのが正直な気持ちです。

 

 けれども、昨日のピッツェリアにも新年会と思しき危機感のない女子会6人組がいたので、こういう輩に医療崩壊が間近に迫っている(所によっては始まっている)現状に即した行動を伴わせるためには、もう宣言を出すしかないと思います。この時の店内の客は一人客の私とその6人組、他にはカップルの計3組。客が減って売上が厳しい店側としては断れず受け入れざるを得ないと思うので、客側が思慮分別のある行動をしなければならず、それができれば緊急事態宣言など出す必要はないと思うのですが、できない人がけっこういるみたいなので。はっきり言って政治家も愚かですが、国民も愚かです。禁止や許可を誰かに明確に決めてもらわないといい悪いを判断できない、いい悪いを自分で決めて自分の意志で主体性を持って行動できない人が多いように思えます。自分で決断できない政治家と国民――残念ですが、それが今の日本の実情です。単に、行動に責任を持ちたくなくて狡猾に身を処しているのかもしれませんが。

 

 川奈ホテルに一緒に行く予定だった友人は、先月横浜で食事をしたときにこう言っていました――「日本は先進国じゃないから」と。近ごろ私もそう思います。そんな国の的外れな政治に振り回されず、コロナ禍の状況下にあっても、今後も悔いのない有意義な一日一日を送るべく努めたいと思います。

福井寺社遠征&明智光秀探訪11 その2~一乗谷朝倉氏遺跡、特別公開展「本能寺の変と朝倉将棋」in一乗谷朝倉氏遺跡資料館、柴田神社(北ノ庄城跡)

 珍しく二日続けて興味のある番組が放送され、何時間かテレビの前に陣取ることになったので、横目に見ながら福井遠征記の続きを書きました。時間がもったいなくてテレビだけ見るということができない人間なので。たいてい食事をしたり新聞を読んだり(拾い読み)メールやネット情報をチェックしたりしています。――なのですが、昨日の長谷川博己さんの「ファミリーヒストリー」も照ノ富士関の「逆転人生」も、今日の吉田都さんの「プロフェッショナル」も文句なしにおもしろくて、時折手が止まっていました。さすがNHK。ドラマ以外も見甲斐があります。

 

 さて、遠征最終日の15日は一乗谷に行くだけだったので、9時40分にホテルをチェックアウト。それからフロントで荷物を預かってもらおうとしたのですが、「お預かりしていません」と断られたので、駅に行ってコインロッカーを探して入れました。感染予防対策の一環なのかもしれませんが、こんなことは初めてで、たとえコロナのせいであったとしても、チェックイン前チェックアウト後の荷物の預かりは基本的なサービスで、ないとたいそう不便なので、以後福井でこのホテルを利用することはないと思いました。全国チェーンなので他の地方にもあり、以前金沢や名古屋で泊まったときには、そんなことはなかったと記憶しているのですが。

f:id:hanyu_ya:20210105091550j:plain福井で発見された恐竜――フクイラプトルとフクイサウルスのトリックアート。なんと福井駅の駅ビルの壁に描かれています。駅の正面にあたる西口には恐竜がいっぱいいて、時折吠えているものもいます。

 

 ――ということで、朝からやや不快な気分で観光案内所へ行き、900円で一乗谷朝倉氏遺跡資料館から一乗谷遺跡内が乗り放題になる朝倉氏遺跡フリーバスチケットを購入。前日に永平寺までのバスチケットと一緒に買おうと思ったのですが、使用する当日しか販売できないと言われて買えなかったので。フリーパスは日付印を押してもらったり、ビンゴのように窓の形になっている数字を折り込んだり、スクラッチになっていて日付の数字を削ったりするものが多く、当日しか買えないというのも初めてだったので、その時にも少々イラっとしましたが、渡されたチケットを見たらレシートのような印字の紙だったので、支払いをするときにしか有効年月日の日付が入れられないのだろうと思いました。

 

 永平寺行きのバスは特急で、途中一乗谷の中にあるバス停に何か所か停まると永平寺まで停まらないのですが、前日永平寺に行く途中で見た一乗谷が思っていた以上の人出で、特急バスは混むような予感がしたため、それより20分早い10時発の浄教寺行きの路線バスで行くことにしました。一乗谷までの所要時間は特急と5分ほどしか変わらないので。特急バスの乗り場は福井駅東口の2番乗り場でしたが、浄教寺行きのバスは西口の5番乗り場。駅を越えた反対側で、バス停に5分前にいても間違えていたら確実に乗り遅れるので、観光案内所で事前に訊いておいてよかったと思いました。

 

 問題なく座れる混み具合のバスに乗り、28分には復元町並バス停に到着。一乗谷城の御城印は復元町並南口の入場券売り場の隣にある窓口で販売していることをネットでチェック済みだったので、まずはそれを買いに行きました。購入後、復元町並の見学は後回しにし、十五代室町将軍足利義昭の御所があった安養寺跡に行くためバス停に戻り、42分発の「朝倉ゆめまる号」に乗車。遺跡と周辺を往復する無料シャトルバスで、安養寺跡バス停にはこのバスしか行かなかったので。バス停は復元町並がある西側にしかないため、そちらで待っていたのですが、安養寺跡方面行きの「ゆめまる号」が停まるのは車線の向こうの東側なので、事前に反対側にいて、バス停も何もないので、バスが来たら乗車の意思表示をする必要があります。まるでギリシャのようです。まあ、ここも遺跡ですし。

f:id:hanyu_ya:20210105091856j:plain一乗谷城の御城印。アマビエバージョンもあったので、2枚買いました。

f:id:hanyu_ya:20210105092224j:plain御城印を販売する窓口の横にもあった「明智光秀 雌伏の地」の看板。一乗谷が❺で、明智神社が❸、称念寺が❷でした。❶と❹はどこなのかわかりません(笑)。調べたら美濃街道、岡太神社・大瀧神社、三田村氏庭園とのことでした。場所も、光秀とどんなゆかりがあるのかも知らないところですが。

 

 「ゆめまる号」のドライバーに「安養寺に行くの? 誰もいないよ」と言われ、無料シャトルバスなのに自分の他に誰も乗らず、また誰も乗っていなかったので、なかばそうかもしれないと思いつつ「まあ一応、足利将軍の御所跡なので……」と応じると、次のバス停なので2分ほどで到着。遺跡に着いてみると一人の先客がいて、すぐに慌ててバス停に小走りで行き、ここが終点のため同じ道を戻っていく「ゆめまる号」に乗っていきました。

f:id:hanyu_ya:20210105193009j:plain安養寺跡。はためく幟旗には「明智光秀 雌伏の地」と書かれています。

f:id:hanyu_ya:20210105092408j:plain前の写真の向かって左にある木。なんの木かわかりませんが、とてもきれいでした。

f:id:hanyu_ya:20210105092444j:plain安養寺跡の説明板

 

 いま行ったばかりで、次の「ゆめまる号」は11時16分発だったので、遺跡を見たあとは歩いて復元町並まで戻ることにしました。車で走って距離感はつかめ、15分も歩けば着くと思ったので。木々が色づいた道中の風景がとてもきれいで、これはこれでよいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20210105190101j:plain安養寺跡から復元町並に向かう途中の風景

f:id:hanyu_ya:20210105190149j:plain上城戸を越えたあたりで遭遇した見事な一本イチョウ

f:id:hanyu_ya:20210105190231j:plain脇の小道を通り過ぎるときに下からパシャリ。

 

 復元町並まで戻ると、天気がよくて風景がきれいで、たいそう気持ちがよかったので、先に遺跡巡りをすることにしました。一乗谷の東側の遺跡には国の特別名勝に指定されている四つの庭園跡があります。現在特別名勝は36件ありますが、一乗谷は四つで1件の指定。ちなみに特別史跡は63件あります。

f:id:hanyu_ya:20210105190416j:plain諏訪館跡に向かう途中で眺める復元町並

f:id:hanyu_ya:20210105190506j:plain朝倉義景の妻、小少将が居住したと伝わる諏訪館跡庭園

f:id:hanyu_ya:20210105192543j:plain諏訪館跡庭園の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105192630j:plain英林塚に向かう途中の紅葉

f:id:hanyu_ya:20210105193145j:plain一乗谷初代城主、朝倉家七代当主孝景の墓。孝景の法名「英林宗雄大居士」にちなんで英林塚と呼ばれています。

f:id:hanyu_ya:20210105192720j:plain南陽寺跡庭園。南陽寺は朝倉氏の子女が入る禅宗の尼寺だったそうです。

f:id:hanyu_ya:20210105193233j:plain南陽寺跡庭園の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105193315j:plain朝倉館跡に向かう途中の木

f:id:hanyu_ya:20210105193609j:plain朝倉館の唐門

f:id:hanyu_ya:20210105193804j:plain一乗谷朝倉氏庭園の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105193859j:plain朝倉館跡

f:id:hanyu_ya:20210105195058j:plain朝倉館跡の説明板

f:id:hanyu_ya:20210105195138j:plain湯殿跡庭園に行く途中にあったビューポイントから眺める朝倉館跡と説明板

f:id:hanyu_ya:20210105195302j:plain湯殿跡庭園

f:id:hanyu_ya:20210105195357j:plain湯殿跡庭園の説明板

 

 四つの特別名勝を見て復元町並の南口に戻ってくると、時刻は11時50分で、昼食は一乗谷レストラントに行こうと思っていたのですが、復元町並バス停を13時11分に出発するバスに乗らないと資料館の講座に間に合わないため、そこまで行っている時間もゆっくり食べる時間もありませんでした。ならば12時を過ぎて混んでくる前に食事をしてしまおうと思い、無料休憩所の一角にある「越前朝倉そば」へ。かけ、ざる、おろし、山菜おろしの蕎麦とうどんしかなかったので、山菜おろしそばを注文し、食事後、復元町並を見学。

f:id:hanyu_ya:20210105222602j:plain「越前朝倉そば」の山菜おろしそば。「朝倉」が付いても越前そばに変わりはないので、ぶっかけです。

f:id:hanyu_ya:20210105195613j:plain復元町並スペース内にある武家屋敷跡その1

f:id:hanyu_ya:20210105195701j:plain復元町並スペース内にある武家屋敷跡その2

f:id:hanyu_ya:20210105195740j:plain武家屋敷についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210105195820j:plain復元町並

f:id:hanyu_ya:20210105195916j:plain武家屋敷跡の紅葉

f:id:hanyu_ya:20210105200010j:plain復元された武家屋敷内の展示。一番展示物が多い建物で、他はこんなにありません。

f:id:hanyu_ya:20210105200053j:plain福井県観光連盟のキャラクター、明智光秀のパネル

 

 1時前には北口から出て、遺跡を左手に見ながら、復元町並バス停の一つ手前の一乗谷レストラント前バス停まで歩き、13時13分発のバスに乗車。

f:id:hanyu_ya:20210105222728j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その1

f:id:hanyu_ya:20210105222819j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その2。左に見える四角いものは井戸跡。朝倉遺跡は井戸跡が多く、復元された家も一つ一つに井戸があった想定で作られていました。

f:id:hanyu_ya:20210105222910j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その3

f:id:hanyu_ya:20210105222957j:plain復元町並北口から一乗谷レストラント前バス停に行くまでのあいだに広がる遺跡の秋の景その4

f:id:hanyu_ya:20210105223051j:plain紅葉ズームバージョン

 

 朝倉資料館前バス停で降りて、1時20分には一乗谷朝倉氏遺跡資料館に到着しました。2時から始まる講座の会場を確認したあと、時間まで「麒麟がくる」展と特別公開展「本能寺の変と朝倉将棋」を見学。

f:id:hanyu_ya:20210105223234j:plain麒麟がくる」展で展示されていた、ドラマで使用された明智光秀の衣装。実際に使用されたものではなく、同等品だと思いますが。

f:id:hanyu_ya:20210105200252j:plain同じく朝倉義景の衣装。なんといっても朝倉氏遺跡資料館の展示ですから。

 

 本展覧会は将棋、闘茶、セイソ散という三つのテーマで構成され、本能寺外では初公開となる本能寺宛ての朝倉義景書状や、朝倉遺跡から発掘された将棋の駒が特別公開されていました。遺跡から出土している駒は182枚に及び、そのうち121枚が国の重要文化財に指定されています。その中には現在の駒種には見られない「酔象」という駒もあり、そちらも展示されていました。ちなみに、朝倉遺跡からの出土品は2343点が重要文化財に指定されているそうで、まさに日本のポンペイといってよいと思います。

f:id:hanyu_ya:20210105223435j:plain特別公開展で展示されていた遺跡出土品の将棋の駒

 

 5分前に講座の会場に入り、受付をしてレジュメをもらい、指定されたパイプ椅子に座って受講開始。講師は石川美咲氏で、当資料館の学芸員ですが、『針薬方』に「越州朝倉家之薬也」と書かれている「セヰソ散」――すなわち朝倉家の薬であるセイソ散を通して医者としての明智光秀を調べている研究者で、新聞や雑誌記事、テレビ番組でも見かける方でした。それゆえ話を聴いてみたいと思い、受講を申し込みました。ちなみに『針薬方』は、先日の記事でも書きましたが、熊本藩主細川家の家老筋である米田家伝来の文書で、永禄9年(1566)に米田貞能が明智光秀の口伝を書写したと記されているので、光秀関連の古文書で現在一番古いとされている史料です。

f:id:hanyu_ya:20210105223721j:plain講座はオープニングだけ撮影が許可されました。

 

 前半は特別公開展の展示解説、後半がレジュメに基づいた講義で、セイソ散の原料についてと、一乗谷で原料を揃えることができたのか――を含めて、朝倉氏の城下で実際に作れるものかなどの考察を講義してくれました。特別公開展でも展示されていましたが、朝倉遺跡からは薬研なども出土しているので、医者がいたことは確かであり、また孝景の時代に日本第二の印刷医書が出版されるなど、医学書の書写――つまり医術の伝授もさかんだったので、作れるだけの素地はあっただろうとのこと。その他、光秀との交流が認められる医者についてや、「傷を医者に見せろ」「薬を送る」といった内容が記された光秀の書状が紹介され、それらは光秀が医術に通じていた傍証の一端となるのではないかとのことでした。石川氏は、どこでどうやって誰から光秀は医術を学んだのかと疑問を投げかけていましたが、まさにおっしゃるとおりで、医術に限らず、光秀の高い教養のルーツは謎としかいいようがありません。医術伝授がさかんとはいえ、生国を追われて家財もなくほぼ身一つで家族とやってきたよそ者で、門前の寺子屋で食い扶持を稼いでいるような一介の浪人が、その機会を簡単に得られるものでしょうか。個人的にはよほど幸運でないと無理だと思うので、連歌茶の湯とはまた別の、医者関係のネットワークを探れば、そこからも光秀の出自に辿り着くヒントが得られるような気がしました。

 

 3時半に講座が終わり、館内に福井新聞で連載していた石川氏の明智光秀に関するコラムがパネル展示されていたので、バス待ちのあいだ読み、4時5分前に資料館を出て、15時59分発のバスに乗車。16時15分に福井駅に着くと、社務所が開いている時間に間に合いそうだったので、北ノ庄城本丸跡に松平春嶽と旧福井藩士らが築城主の柴田勝家を祀った柴田神社へと向かいました。福井駅から近いので、何年も前、式内社足羽神社を訪れたときにも寄ったのですが、ブームの今なら御朱印だけでなく御城印があるのではないかと思い、行ってみました。

 

 10分ほどで到着し、お参り後に社務所を覗くと、思ったとおり勝家の絵が描かれた通常の2倍サイズの紙の立派な御城印があったので購入。その後城址公園を見学し、南側の城の橋通りに出ようとすると、以前にはなかった資料館があったので、見てみることに。資料館というよりも、参拝者や見学者のためのトイレもある無料休憩所という感じでした。

f:id:hanyu_ya:20210105224245j:plain柴田神社と北の庄城址公園。繁華街の中にあります。

f:id:hanyu_ya:20210105224343j:plain北ノ庄城の御城印。柴田勝家というと、一般的にはこういうイメージだと思います。

 

 柴田神社を後にすると福井駅に戻り、5時15分前だったので、前日と同じ「福福茶屋」に行って、早めの夕食を摂ることにしました。帰りの新幹線は金沢発19時18分のかがやきで、JR東日本えきねっとトクだ値で買った切符で、エクスプレス予約と違って変更ができなかったため、18時47分に金沢駅に到着する特急電車をe5489で予約していて、出発時刻まで1時間以上あったので。前日食べた越前せいこがに丼はそれだけで満腹になり、他の物が食べられなかったので、二度目は身だしを注文。それと、あとは寝て帰ってもよかったので、いくつかの酒肴と、越前の地酒――北の庄の純米吟醸を頼みました。

f:id:hanyu_ya:20210105224609j:plain越前せいこがにの身だしと北の庄

f:id:hanyu_ya:20210105224712j:plain永平寺ごま豆腐

f:id:hanyu_ya:20210105224804j:plain九頭竜サクラマスとふくいサーモンの食べくらべ

f:id:hanyu_ya:20210105224922j:plainむつの照り焼き

 

 5時45には店を出て駅に行き、券売機で特急券を発券後、ロッカーから荷物を取り出して、18時発の特急しらさぎ11号に乗車。47分に金沢駅に到着し、今回は駅弁もタカラ缶チューハイもいらなかったので、エヴィアンと、いつも買って帰る北陸限定のアルフォート五郎島金時と白えびビーバーを買って、新幹線に乗車。これにて遠征終了です。

福井寺社遠征&明智光秀探訪11 その1~明智神社、永平寺、養浩館庭園ライトアップ

 昨日は三日ぶりに外出して最寄りのコンビニに行って帰ってきたあと、箱根駅伝の4区と5区をテレビ観戦。夕方からは「麒麟がくる」の再放送を、7時からはニュース7を見て、そのまま「ライジン若冲」に突入。伊藤若冲が主役で、動植綵絵が取り上げられるとのことだったので、若冲スキーとしては見逃すわけにはいきません。若冲と、彼のパトロン相国寺の禅僧であり漢詩人でもある大典顕常のダブル主役で、円山応挙池大雅、売茶翁こと高遊外がメインで登場する、なんともマニアックな内容でしたが、独特の不思議な空気感を醸し出す出演者の演技をはじめ、脚本も演出も映像も秀逸で、画面は終始美しく、それでいてコメディ要素もあって笑える、なかなか衝撃的なドラマでした。動植綵絵の他、近年発見された「蕪に双鶏図」も登場しましたし。クリスマスに放送された「光秀のスマホ」に続くNHKの攻めっぷりが小気味よく、エールを送る気持ちで、昨年請求書が届いたあと放ったらかしにしていた受信料の支払い手続きをしてしまいました(笑)。話は飛びますが、本日の復路の駒澤大学の逆転劇は見事でした。アンカーの走りが凄かったですね。素人目で見ても創価大学のアンカーとは全然走りが違いましたし。箱根駅伝のあとは「麒麟がくる」まで見たいテレビ番組もないので、11月の福井遠征記を書きたいと思います。

 

 朝倉氏の城下町があった一乗谷は、国の特別史跡であり特別名勝でもあるので、以前から行きたいと思っていたのですが、明智光秀とゆかりのある場所なので、どうせなら大河ドラマの年に行こうと思い、長らく保留にしていました。そして2020年になり、訪れるなら遺跡は野外なので桜の季節がいいのではないかと思い、周辺情報を調べたら、3月20日から5月6日まで福井市立郷土歴史博物館で「明智光秀と越前―雌伏のとき―」という特別展を開催するので、4月に行こうと思っていました。2月、3月は京都に行くことになっていたので。……なのですが、緊急事態宣言が発せられて出かけられず。特別展も会期途中の4月3日で終了してしまいました。

 

 で、改めていつ行こうかと思い、桜がダメなら紅葉ということで、9月に入って一乗谷朝倉氏遺跡資料館のホームページを見たら、11月30日まで「麒麟がくる」展、11月14日から12月13日まで「本能寺の変と朝倉将棋~出土品に見る中世から近世への転換点~」という特別公開展を開催することが判明。ならば11月の3連休がベストかと思いましたが、さらに詳しいイベント情報を見て、15日に「医療人・明智光秀~セイソ散の発見~」という学芸員による講座があることを知ったので、11月13日から15日の二泊三日で日程を組みました。講座は往復ハガキによる事前申込制で、40人の定員を超えた場合は抽選とのこと。11月2日が申込締切日だったので当落がわかるのは一週間前ぐらいでしたが、それから日程を変更するとホテルのキャンセル料がかかるので、外れても中旬に行くことにしました。紅葉は下旬のほうがいいような気がしましたが、紅葉はあくまでもついでで、主目的ではないので。

 

 当選したので、考えていたとおりの旅程で福井へ。13日の3時半で仕事を切り上げ、16時50分のかがやきに乗車。18時54分に金沢駅に到着し、19時8分発の特急サンダーバード46号に乗り換え。19時51分に福井駅に到着し、駅近くのホテルにチェックインして、初日は終わりです。

 

 翌14日は、まず明智神社へと向かいました。明智光秀の坐像を祀り、「あけっつぁま」と呼ばれている小さな神社です。一乗谷から山を一つ越えた福井市の東大味町にあるのですが、公共交通機関ではアクセスが難しく、バスのように時間決めで1日5、6本運行されている予約制の乗合タクシー文殊山号」ぐらいしか手段がありません。路線バス代わりで地域住民の足を兼ねているためか、区間均一で100円という破格の運賃設定なので、5、6本でもありがたいことこの上ないですが。

 

 最終日の15日は14時から15時半まで一乗谷朝倉氏遺跡資料館の講座に参加し、終了後は金沢経由で神奈川まで帰らなければならないので、一乗谷は講座が始まる前に行こうと思い、であれば、永平寺に行くのなら14日でないと難しく、同じ日に明智神社と永平寺の両方に行く方法を考えたら、おのずと乗る時刻は決まったので、福井鉄道福武線の江端駅を9時47分に出発する「文殊山号」を予約。1便の予約は前日までだったので、新幹線に乗る前に予約専用ダイヤルに電話をかけて申し込みました。

 

 当日は8時45分にホテルを出て、まずは永平寺に行くバスの情報を得るために、JR福井駅西口(正面口)の前にある観光案内所へと向かいました。福井駅から永平寺一乗谷方面に行くバスや電車がすべて1枚にまとめられていて、しかも上下線の時刻が載っている便利な時刻表をもらうと、帰りの福井駅行きバスの最終は15時35分と予想外に早い時間だったので、その後に公共交通機関で戻ってくる方法はないかと訊ねたら、永平寺口駅までバスで行って、そこから電車を使うとのこと。それで戻ってくる可能性が高かったため、行きのバスチケットだけを購入し、9時5分発の福武線に乗車。1時間に2本ぐらいのローカル線で、次の電車では間に合わないので乗りましたが、29分には江端駅に到着し、「文殊山号」の出発時刻まで20分弱待つことになるので、駅前にコンビニでもあればいいと思っていたのですが、着いたら何もなく、けれどもタクシーが1台すでに待っていました。

 

 乗っている客は誰もおらず、江端駅から乗ったのも私一人で、途中のバス停に停まることもなく、江端駅バス停の発車時刻である9時47分には目的地の東大味集落生活改善センターのバス停に着いていました。斜向かいの駐車場に設置されていた案内板の地図に従って歩くと、3〜4分で明智神社に到着。

f:id:hanyu_ya:20210103182712j:plain駐車場にあった東大味町旧跡マップ

f:id:hanyu_ya:20210103183040j:plain明智神社正面

f:id:hanyu_ya:20210103183120j:plain明智神社背面。後ろにある桔梗紋ののれんが掛かっている建物は資料館。

f:id:hanyu_ya:20210103183211j:plain資料館と幟旗。建物に掛かっていた古い札は「東大味歴史文化資料館」でしたが、入口前の新しい立札は「東大味歴史文化明智光秀資料館」。確かに、明智光秀の資料館でした。

f:id:hanyu_ya:20210103182942j:plain境内には称念寺でも見た「明智光秀 雌伏の地」の看板がありました。

 

 資料館でもらったパンフレットによると、明智光秀は永禄5年(1562)から9年(1567)まで東大味の土居之内に住んでいて、のちに柴田勝家と弟の勝定が主君織田信長の命を受けて一向一揆掃討のため越前に侵攻したときに、東大味は集落内の西蓮寺宛てに安堵状が出されて戦禍を免れたが、勝家兄弟とは縁もゆかりもない土地なので、住人たちはきっと光秀がかつて住んでいた集落を気づかって依頼したのだろうと感謝し、光秀の死後も「今もこの地で生きていられるのは明智様のおかげ」と遺徳を偲んで坐像を作り祀ったそうです。しかし世間的には光秀は謀反人であるため、慈眼寺のくろみつ像同様、公にはできなかったので、光秀の邸跡の土居之内に住む3軒の農家によって密かに守られてきましたが、明治に至って坐像を御神体として祀る祠を作ったとのこと。ということで、それが明智神社の起源のようです。なお。光秀の三女の玉は永徳6年(1563)の生まれなので、東大味の土居之内が細川ガラシャの生誕地ともいわれています。

f:id:hanyu_ya:20210103191515j:plainガラシャのゆかりを示す石碑。まだ新しいです。

 

 帰りの乗合タクシーは一番早いのが11時42分発なので時間は十分にありましたが、先にやることをやっておこうと思い、資料館の見学は後に回して、神社から歩いて10分ほどのところにある「山本食料品店」に行くことにしました。ここで明智神社の御朱印と御守りが手に入るので。回り道にはなりますが、方向的には同じなので、西蓮寺にも寄って行くことにしました。非公開みたいで、拝観はできませんでしたが。

f:id:hanyu_ya:20210103183443j:plain西蓮寺山門。寺には今でも柴田勝家と勝定の安堵状が残っていて、勝家の坐像が安置されているそうです。

f:id:hanyu_ya:20210103191422j:plain明智神社の御朱印

 

 帰りは最短距離の朝倉街道を通って神社に戻ってくると、資料館の展示を見学。壁のパネルを読んだあと、自分で電源を入れて3本のタイトルを自由に再生できる映像モニターがあったので、設置されていたベンチに座り、「山本食料品店」の自販機で買ってきたペットボトルのコーヒーを飲みながら、「東大味に残る伝承」「明智神社法要」「光秀と一乗谷・東大味」を順に視聴。「あけっつぁま」を守ってきた3軒の農家の子孫の方の話なども聞けて、おもしろかったです。

f:id:hanyu_ya:20210103183711j:plain資料館のパネルその1

f:id:hanyu_ya:20210103190013j:plain資料館のパネルその2

f:id:hanyu_ya:20210103190119j:plain資料館のパネルその3

f:id:hanyu_ya:20210103191342j:plain資料館のパネルその4

f:id:hanyu_ya:20210103191615j:plain資料館のパネルその5

f:id:hanyu_ya:20210103191738j:plain御祭神「あけっつぁま」の写真。「あけっつぁま」は「明智様」が口語的に転化した呼び名で、加藤神社の祭神である加藤清正が親しみを込めて「せいしょこさん」と呼ばれているのと同じようなものです。

f:id:hanyu_ya:20210103191834j:plainズームするとこんなカンジの「あけっつぁま」。くろみつ像に似ている感じがします。単に黒いからかもしれませんが。

 

 全部見終わると11時20分になろうかという時刻だったので、資料館を出て、土居之内を半周してからバス停へ。すると、行きと同じタクシーがすでに待っていました。帰りも客は一人で、やはりどこにも停まらず。時刻表によると江端駅到着時刻は12時12分となっていましたが、11時50分には着いたので、予定より1本早い12時1分発の福武線に乗れ、26分には福井駅に到着。

 

 ……ところが、永平寺行きのバスは20分に出たばかりで、次の出発時刻は1時間後の13時20分。1時間近くあったので、ならば「これは行けそうだ」と思い、アクセス情報で駅から徒歩15分ほどとなっていた郷土歴史博物館に行くことにしました。展示を見るのが目的ではなく、春の特別展の図録を買うためだったので、往復の時間があれば十分でした。図録は通販対応もしているのですが、福井を訪れる予定があったので、時間があれば寄って購入し、なければ帰ってから通販で申し込めばいいと思っていました。

 

 今は福井県庁がある福井城址の堀脇を通って10分ほど歩くと到着し、入口を入って左手にあるチケット売り場で購入。見本が並べてあるシェルフを見たら和宮に関する展覧会の図録もあったので、一緒に買いました。そして、博物館と駅のあいだにホテルがあり、寄る時間があったので、部屋に2冊の図録を置いてから、駅の反対側にある永平寺行きバスの乗り場へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20210103191943j:plain郷土歴史博物館で購入した2冊の図録。左はどこかで見たようなタイトルだと思いました。

 

 13時20分発のバスに乗り、14時に永平寺バス停に到着。着いたら寺に行く前に昼食を摂ろうと思い、永平寺といえば蕎麦と豆腐だろうと思ったので、バスの乗車中に蕎麦屋を調べて、アクセスの良さと電子クーポン使用可を基準に何軒かに絞り込みました。あとは店のメニューを見て決めようと思っていたら、バスから降りたとたん割引券をもらい、店名を見たら候補の一つ「一休」だったので、迷うことなくバス停前にあるその店に入ることに。割引券の効果か、けっこう混んでいて時間がかかりそうだったので、永平寺そばと、蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを注文し、飲みながら参拝経路を検討しました。

f:id:hanyu_ya:20210103192234j:plain永平寺そば亭「一休」の永平寺そば。胡麻豆腐付きです。盛り沢山で画面に入らず写真が切れていますが、左にあるのが蕎麦焼酎の蕎麦湯割り。

 

 食事後、クーポン2,000円分を使って支払いをし、店を出ると、食事処を探す必要がなくなったので、永平寺参道を通って寺に向かいました。

f:id:hanyu_ya:20210103192359j:plain永平寺参道の入口にある寺号標。狙いどおり、紅葉がきれいでした。

f:id:hanyu_ya:20210103192632j:plain宗祖道元の歌碑と紅葉

f:id:hanyu_ya:20210103192750j:plain道元の歌碑。歌は「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」。永平寺の冬は「すずし」というレベルではないと思いますが、詩的と語呂的に「さむし」ではまずかったのでしょう。

f:id:hanyu_ya:20210103192930j:plain収蔵庫の瑠璃聖宝閣と紅葉。燃えるような赤です。

f:id:hanyu_ya:20210103193030j:plain別の角度から。こちらから見るとオレンジ色。光の加減で紅葉はいろいろな表情を見せてくれます。

f:id:hanyu_ya:20210103193121j:plain永平寺全景図

f:id:hanyu_ya:20210103193217j:plain納経塔の報恩塔と一葉観音像とカエル(置物)

 

 通用門の受付で拝観券を買い、検温後、拝観の玄関口になっている吉祥閣で御朱印をいただいたあと、順路に従って、まずは隣の傘松閣から拝観。昭和5年(1930)に建てられた、19棟の重要文化財建造物がある境内の中では比較的新しい建物でしたが、伊東深水川合玉堂も参加したという天井画が圧巻でした。

f:id:hanyu_ya:20210103193350j:plain傘松閣の天井画。現在の傘松閣は平成6年(1994)に改築された建物ですが、絵天井は昔の物をそのまま使ったそうです。部屋に入ってすぐに撮影したのですが、部屋の奥の上座から見るのが正位置なので、絵が逆さになってしまったことに、あとから気づきました。

 

 日本三大禅宗の一つで、道元が開いた曹洞宗大本山である永平寺は、日本を代表する禅寺なので、ずいぶん前からいずれ訪れるつもりでいたのですが、行くなら一乗谷とセットだと思っていたので、今回が初めての訪問。規模が大きいことは想像していましたが、禅宗の七堂伽藍が伝統的な形できちんと残っている、こんな寺は初めてだったので驚きました。都から離れた越前国の、さらに山深いところにあったので、数々の戦禍を免れることができたのでしょう。平地にある京都の妙心寺とは異なり、一直線に造られる山門、仏殿、法堂が山の斜面に建てられているため、禅宗において一番重要な法堂が一番上となり、修行の場である七つの建物はすべて回廊で繋がっています。いわく七堂伽藍とはこういうものかと思い、まるで見本のようでした。妙心寺は建物同士が離れていて、外を歩かなければならない配置だったので。その回廊を若い修行中と思われる雲水が頻繁に行き交い、仏殿や法堂の前を通るときには足を止めて相対し一礼をしていく……拝観券売り場から吉祥閣に入ったときには「なんか観光名所化しているなぁ」と思いましたが、次第に物見遊山で来ている自分の気が引けるような、確かに祈りの場でした。

f:id:hanyu_ya:20210103193534j:plain仏殿

f:id:hanyu_ya:20210103193643j:plain中雀門から見下ろす山門

f:id:hanyu_ya:20210103193933j:plain法堂から見る大庫院。紅葉と伽藍の組み合わせが本当にきれいで、心が洗われ、何枚も写真を撮ってしまいました。

f:id:hanyu_ya:20210103193740j:plainちょっと引きで。

f:id:hanyu_ya:20210103193849j:plainかなりズームで。

f:id:hanyu_ya:20210103194041j:plain僧堂の門(多分)

 

 15時35分発の福井駅行き最終バスに間に合わない場合、公共交通機関を利用して福井駅に戻る手段は、永平寺口駅まで出てローカル電車のえちぜん鉄道勝山永平寺線で帰る方法しかなく、次の永平寺口駅行きのバスは16時31分発だったので、4時前には永平寺を後にして、今度は門前通り経由でバス停へ。興味を引かれて立ち寄る店はなく、20分前にはバス停に戻ってきたので、バス停から道路を渡らずに行ける店で一番近く、昼食の候補にも挙げていた食事処兼土産物屋の「井の上」に行って、土産物を物色することにしました。けれども、そこでも特に欲しい物はなかったので、ごまとうふソフトを買って、寒かったので店内で食べることにし、食べ終わると、バスと電車の乗り換え時間が5分ほどしかなかったので、バス代の支払い時間を短縮するため、バスチケットを買ってバス停に戻りました。時間どおりに来たバスに乗り、45分に到着。あえて前の席に座っていたので一番先に降りて切符を買い、50分発の福井駅行き電車に無事乗車。バス停が駅からそれほど遠くなかったので、バスから乗り換えた人はみな間に合ったようですが。

 

 5時12分に福井駅に到着し、郷土歴史博物館の受付で図録を買ったときに、隣の養浩館庭園のライトアップについての案内が掲示されていて、この日5時から夜間公開をすること知ったので、そのまま向かおうと思ったのですが、日が暮れてから一気に気温が下がり、寒いと思ってスマホで確認すると日中より5度以上低い12度だったので、ホテルに寄って1枚着込んでから行きました。養浩館庭園の入園料は220円なのですが、その日は無料開放されていました。

 

 受付でもらったパンフレットによると、養浩館庭園は福井藩松平家の別邸だった御泉水屋敷の跡で、明治になり福井城は政府の所有となりましたが、別邸は松平家に残されて、松平春嶽が「養浩館」と名付けたとのこと。孟子の言葉「浩然の気を養う」が由来だそうです。回遊式林泉庭園だそうですが、夜間のためか庭は立入禁止のところが多く、あまり見られなかったので、ライトアップされた庭の紅葉よりも、数寄屋造りの屋敷から眺めるライトアップされた庭園がよかったです。紅葉の色づき具合はよくわかりませんでしたが。

f:id:hanyu_ya:20210103194219j:plainライトアップされた庭園の紅葉

f:id:hanyu_ya:20210103194346j:plain屋敷の湯殿。妙心寺明智風呂と同じ構造の蒸し風呂です。

f:id:hanyu_ya:20210103194443j:plain屋敷の窓越しに見るライトアップされた庭園その1

f:id:hanyu_ya:20210103194554j:plain窓を避けるとこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20210103194640j:plain屋敷の窓越しに見るライトアップされた庭園その2

f:id:hanyu_ya:20210103194736j:plain窓を避けるとこんなカンジ

f:id:hanyu_ya:20210103194840j:plain御月見ノ間から見る庭園

f:id:hanyu_ya:20210103194917j:plain御月見ノ間の室内。螺鈿細工のコーナー棚なんて初めて見ました。

 

 40分ほどで養浩館庭園を出て、行きと同じく福井城址を通り抜けて、7時前には福井駅に戻り、夕飯を食べようと思って店を探しました。この季節の福井といえば、なんといっても越前がに。最初は駅構内に回転寿司屋があったので入ったのですが、予想外に混んでいて待っている客も何組かいたのであきらめ、駅を出ました。そして駅前にあるパピリンという建物の店舗案内を見ていると、福井市観光物産館があることがわかり、物産店の他に「福福茶屋」という食事処もあるみたいだったので、行ってみることに。これが大正解で、越前がに1杯を使った冬季限定の「越前せいこがに丼」というメニューがあったので注文。それと、蕎麦焼酎があったのですが、越前そばのメニューがあるのに蕎麦湯割りはなかったので、オーダーを取りに来たスタッフに「できなければお湯割りでいいけど、できれば蕎麦湯割りにしてほしい」と言うと、「よろしければ、蕎麦湯を別にお持ちします」と言うので、蕎麦焼酎のストレートを注文。自分で割って飲むことにしました。

f:id:hanyu_ya:20210103195132j:plain「福福茶屋」の越前せいこがに丼。「せいこがに」とは福井で水揚げされるメスのズワイガニで、いわゆる金沢の香箱がにのこと。オスと違って、11月の解禁日から12月いっぱいしか食べられません。越前がには超ブランド蟹なので、産地を証明する黄色のタグが付いていて、そちらが一緒に乗っかってきます。

 

 大満足してホテルに戻り、この日はこれにて日程終了です。